日本, 韓.日 關係

이와쿠라(岩倉) 使節團에 대한 모든 것

이강기 2015. 9. 11. 11:57
이와쿠라(岩倉) 使節團에 대한 모든 것    
 
使節団とは


1.岩倉使節團とは
    岩倉使節団は、明治新政府によって派遣された大規模な公式の使節團です。政府で重要な位置を占める人々が参加するこの初の使節団の派遣は、明治維新によって新しい時代を切り拓きつつあった当時の日本にとって、国づくりをかけた大きな試みでした。
使節団は、明治4年11月12日(西暦1871年12月23日)に横浜を出航しました。太平洋を渡って米国に半年以上滞在して後、大西洋を越え、同年7月13日(西暦では8月17日)に欧州に入りました。そして、英国に約4ヶ月間滞在したのをはじめとして、欧州の国々を1年近くにわたって歴訪しました。明治6年(1873年)7月20日に仏国マルセイユ港を発った使節団は、スエズ運河経由でインド洋をまわり、明治6年(1873年)9月13日に横浜に帰り着きました。この時、10ヶ月半という当初の予定を大きく超過して、出発から約1年10ヶ月という月日が経っていました。

[資料解説] 「原本大使全書」巻頭
[資料解説] 使節の成果(大使全書 巻頭[無題])

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2.使節団の構成員
   使節団の中心となっていたのは、特命全権大使の岩倉具視(右大臣、公家出身)、副使の木戸孝允(参議、長州藩出身)、大久保利通(大蔵卿、薩摩藩出身)、伊藤博文(工部大輔、長州藩出身)、山口尚芳(外務少輔、肥前藩出身)で、一般にこの大使・副使を併せて「使節」と呼びました。
   これ以外に、一等書記官の福地源一郎(外務大記、旧幕臣)、二等書記官の林董三郎(董)(外務七等出仕、旧幕臣)をはじめとする、一等から四等に分けられた書記官たち、後に『米欧回覧実記』を著す久米邦武(権少外史、肥前藩出身)、内海忠勝(神奈川県大参事、長州藩出身)らの大使随行、田中光顕(戸籍頭、土佐藩出身)、佐々木高行(司法大輔、土佐藩出身)らの理事官とその随行員たちを加え、全46名によって使節団は構成されていました。これに18名の随従者がともない、さらに、出発時には、若き女子5名を含む43名の留学生も率いられていたので、当初は総勢108名の集団だったことになります。

[資料解説] 使節団の構成員(大使全書 8号16号)

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3.使節団の目的
   岩倉使節団が目的としていたことは、大きく2つ挙げることができます。
   1つは、不平等条約の改正に向けた予備交渉です。幕末期に欧米諸国と結ばれた不平等条約を改正し、独立した一国家として各国と平等なかたちでの国際関係を築くことは、明治新政府の重要課題でした。しかし実際には、使節団は最初の米国との交渉の段階で実質的な改正交渉は不可能と気づき、以降に訪れた欧州諸国では、改正の希望を伝えるに留めなければなりませんでした。
   使節団のもう1つの目的は、欧米各国の国家制度、産業技術、伝統文化などを視察することでした。新しい国づくりに挑んでいた明治新政府にとって、近代的な産業や、政治制度、司法制度、社会制度など、他国の優れた点を学んでそれを自国に採り入れることもまた、大変重要な課題でした。また、同行した留学生たちも各国に留まって勉学に励み、後に帰国して活躍することが望まれていました。使節団はまさに、「智識を世界に求め」たのです。

[資料解説] 使節の総括(大使全書 巻頭[無題])

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4.使節団の時代
 日本の情勢
   使節団を送り出した当時の日本では、新政府が、版籍奉還廃藩置県といった中央への権力集中を目指した政治制度改革をはじめとして、経済、法律、社会などあらゆる面で文明開化の政策を進めていました。しかし、こうした政策に対して不満をもつ士族は多く、民衆も血税一揆や新政反対一揆などのかたちをとって反発や抵抗を見せました。一方で、政府内部においても、めざすべき国家のあり方についての考えや出身藩の違いによる意見の隔たりが存在していました。
   このような情勢の中で、政府の有力者である岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが欧米を歴訪し各国を視察したことによって、ヨーロッパの国家をモデルとした国づくりの方向性に具体的なイメージがもたらされました。その一方で、長期にわたり日本を離れた使節と留守政府との間の隔たりは大きくなり、それが岩倉らの帰国後、西郷隆盛の朝鮮への派遣をめぐる意見の対立として表面化し、ついに明治6年の政変を迎えることになりました。

[資料解説] 使節と留守政府との約定(大臣参議及各省卿大輔約定書)
[資料解説] 使節と留守政府との約定(欧米派出大使御用留三)
[資料解説] 「約定書」正本
[資料解説] 「約定書」草稿
[年表] 日本の情勢 年表

 世界の動き
■アジアの情勢
   19世紀のアジアは、欧米列強の進出に直面していました。インド・東南アジア地域では、シャム(タイ)を除く各地が列強の植民地にされていきます。また、
はイギリスとのアヘン戦争に敗北。その戦後処理としての南京条約をはじめとして、列強と不平等条約を締結するなど、東アジアにおいてもそれまで長年にわたって維持されてきた体制が揺らぎ始めていました。

[年表] アジア年表

■米国の情勢
   使節団訪問当時のアメリカ合衆国は、南北戦争が終わり、再び一つにまとまって発展の道を歩んでいました。南北戦争は、奴隷労働に支えられる大農園経営を経済基盤としていた南部の諸州が、工業化を進めていた北部の諸州と奴隷制の是非をめぐって対立し、合衆国を脱退したことから起こりました。開戦直後から、合衆国大統領リンカーンは黒人奴隷の解放を進めていきました。5年に及んだ戦争は大きな損害をもたらしましたが、その一方で軍需によって工業が発達し、戦後は急速な経済発展が実現していました。

[年表] アメリカ合衆国年表


■欧州の情勢
   使節団が訪れる少し前まで、ヨーロッパでは革命や戦争が相次ぎ、国々が目まぐるしくかたちを変える時代が続いていました。ドイツがひとつの大きな国としてまとまったのも、使節団が訪れるわずか2年ほど前だったことが、下の年表からもわかります。日本は、同じように新しい国づくりを進めていたドイツから多くを学ぼうとしました。また、イギリス、フランスといった産業的に大きな発展を遂げていた国々は、その力をもってアジアやアフリカなどの様々な地域に広く進出しはじめていました。

[年表] ヨーロッパ年表

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この項で紹介する人々です。年齢・官名は岩倉使節団出発当時のもの。
■大使・副使
岩倉具視木戸孝允大久保利通伊藤博文山口尚芳
■そのほか(五十音順)
板垣退助井上馨大隈重信黒田清隆後藤象二郎西郷隆盛佐々木高行三条実美副島種臣フルベッキ
明治天皇山県有朋
(以上17名)

人物写真 ◎岩倉具視(いわくらともみ)右大臣 47歳
文政8年9月15日(1825年10月26日)~明治16年(1883年)7月20日

   藤原氏の末流、堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として生まれ、村上源氏の流れをくむ岩倉家の養子になりました。幕末期には朝廷における討幕運動の中心を担い、明治維新政府の参与・議定などを歴任しました。明治4年(1871年)に特命全権大使として欧米諸国に派遣され、約2年後に帰国、国内の安定を優先する立場から西郷隆盛らのいわゆる征韓論を阻止しました。明治14年(1881年)には、プロイセン国にならった憲法制定を説く井上毅(いのうえこわし)執筆の意見書を提出し、イギリス流の政党政治を説く大隈重信に対抗しました。

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人物写真 ◎木戸孝允(きどたかよし)参議 39歳
天保3年6月26日(1832年7月23日)~明治10年(1877年)5月26日

   長州藩の出身です。若くして桂小五郎の名で活躍、慶応2年(1866年)に西郷隆盛らと薩長連合(薩摩藩長州藩の連合)を密約し、倒幕を推進します。維新後は、五箇条の誓文の作成や版籍奉還廃藩置県など一連の改革に重要な役割を果たします。岩倉使節には副使として参加しました。欧米からの帰国直後に、憲法制定を提案し、いわゆる征韓論に反対します。明治7年(1874年)台湾出兵に抗議して下野、翌年、立憲制導入を条件に復帰しました。

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人物写真 ◎大久保利通(おおくぼとしみち)大蔵卿 42歳
文政13年8月10日(1830年9月26日)~明治11年(1878年)5月14日

   薩摩藩の出身です。西郷隆盛らとともに討幕運動を推進し、慶応3年12月(1868年1月)に岩倉具視らとはかり王政復古の政変を実現しました。明治維新政府の参議・大蔵卿などをつとめ、版籍奉還廃藩置県など一連の改革にあたります。岩倉使節には副使として参加しました。帰国後は西郷隆盛らのいわゆる征韓論に反対し、明治6年の政変を主導して、政府の中心として殖産興業などに活躍しました。明治11年(1878年)不平士族によって暗殺されました。

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人物写真 ◎伊藤博文(いとうひろぶみ)工部大輔 31歳
天保12年9月2日(1841年10月16日)~明治42年(1909年)10月26日

   長州藩周防の農村に生まれ、後に下級武士の身分を得ます。吉田松陰に学んで尊皇攘夷運動に身を投じますが、イギリスに留学して開国論に転じます。明治政府の要職をしめ、岩倉使節に副使として参加しました。帰国後は、内閣制度の確立につとめ、明治18年(1885年)初代の内閣総理大臣に就任します。プロイセン国にならった憲法を起草、大日本帝国憲法制定の中心となりました。明治38年(1905年)韓国統監となり、4年後にハルビンで韓国人に暗殺されました。

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人物写真 ◎山口尚芳(やまぐちますか)外務少輔 33歳
天保10年5月11日(1839年6月21日)~明治27年(1894年)6月12日

   佐賀藩の出身です。長崎でオランダ語を、ついで英語を学びます。薩長同盟に尽力し、明治政府の外国事務局御用掛をはじめとして東京府知事などの要職をへて、外務少輔のとき岩倉使節に副使として加わります。帰国後は国内の安定を優先する立場から西郷隆盛らのいわゆる征韓論に反対しました。のち貴族院議員に任命されます。名は「なおよし」とも読みます。

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人物写真 ◎板垣退助(いたがきたいすけ)参議 35歳
天保8年4月17日(1837年5月21日)~大正8年(1919)7月16日

   土佐藩の出身です。幕末期に討幕運動を推進し、会津攻略などに従事しました。明治4年(1871年)に参議となりましたが、明治6年の政変に敗れ下野します。明治7年(1874年)に民選議院設立の意見書を提出し、高知に立志社を設立して自由民権運動を推し進めました。

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人物写真 ◎井上馨(いのうえかおる)大蔵大輔 37歳
天保6年11月28日(1836年1月16日)~大正4年(1915年)9月4日

   長州藩の出身です。幕末期に伊藤博文らとイギリスに渡り、帰国後、討幕運動に従事しました。明治政府では造幣頭や大蔵大輔などを歴任します。明治6年(1873年)に辞職し、実業界に身を投じます。明治8年(1875年)に政府に復帰し、外務卿・外相として条約改正交渉のために欧化政策を推進しましたが(鹿鳴館時代)、失敗して辞職しました。

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人物写真 ◎大隈重信(おおくましげのぶ)参議 34歳
天保9年2月16日(1838年2月16日)~大正11年(1922年)1月10日

   佐賀藩の出身です。明治政府では参議・大蔵卿などを歴任しました。岩倉使節の外遊中には「留守政府」を担い、国内問題の処理にあたって重要な役割を果たしました。明治14年(1881年)に伊藤博文らの薩摩と長州の勢力と対立し下野します。翌年、立憲改進党を結成し、東京専門学校(いまの早稲田大学)を創立しました。後に日本で初の政党内閣を組織します。

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人物写真 ◎黒田清隆(くろだきよたか)開拓次官 32歳
天保11年11月16日(1840年12月9日)~明治33年(1900年)

   薩摩藩の出身です。戊辰戦争で活躍し、五稜郭開城に際して榎本武揚(えのもとたけあき)を助命しました。明治政府では、開拓次官、後に参議兼開拓長官として北海道開発に力を尽くしました。明治21年(1888年)に首相となり、大隈重信外相とともに条約改正を試みますが失敗します。

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人物写真 ◎後藤象二郎(ごとうしょうじろう)左院議長 34歳
天保9年3月19日(1838年4月13日)~明治30年(1897年)8月4日

   土佐藩の出身です。慶応3年(1867年)に坂本龍馬の意見に賛同して、大政奉還を推進します。明治政府では参与兼外国官事務掛となり、以後工部大輔や参議などを歴任しました。明治6年の政変に敗れて下野し、板垣退助らとともに民選議院設立の意見書に署名します。その後自由党の結成に加わり、明治22年(1887年)に大同団結運動を展開しました。

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人物写真 ◎西郷隆盛(さいごうたかもり)参議 45歳
文政10年12月7日(1828年1月23日)~明治10年(1877年)9月24日

   薩摩藩の出身です。薩長同盟などで反幕府勢力の結集をはかり、明治維新政府の設立に大きな功績をあげます。明治4年(1871年)に参議となり、廃藩置県にたずさわりました。岩倉使節の外遊中は、「留守政府」の責任者の一人となります。明治6年の政変に敗れ、板垣退助・江藤新平らととともに下野します。明治10年(1877年)に西南戦争をおこしましたが、敗れて自決しました。

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人物写真 ◎佐々木高行(ささきたかゆき)司法大輔 42歳
天保元年10月12日(1830年11月26日)~明治43(1910年)3月2日

   土佐藩の出身です。坂本龍馬の海援隊と関わりを持ち、大政奉還運動に参加しました。岩倉使節団には、司法大輔として参加します。帰国後は、大判官などを歴任し、その間、東宮名宮(後の大正天皇)の教育主任を務めます。彼の日記『保古飛呂比(ほごひろひ)』は、岩倉使節の実態を知る上での貴重な史料です。

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人物写真 ◎三条実美(さんじょうさねとみ)太政大臣 35歳
天保8年2月7日(1837年3月13日)~明治24年(1891年)2月18日

   内大臣三条実万(さんじょうさねつむ)の四男として生まれました。幕末期には、尊皇攘夷運動に従事しました。明治維新政府では、議定・大納言・右大臣などを経て、明治4年(1871年)に太政大臣となります。その後も華族のまとめ役として活動しました。

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人物写真 ◎副島種臣(そえじまたねおみ)外務卿 44歳
文政11年9月9日(1828年10月17日)~明治24年(1891年)2月18日

   佐賀藩の出身です。幕末期は、尊皇攘夷運動に従事しました。明治維新政府では、参議や外務卿などを歴任します。岩倉使節団の外遊中は、琉球所属問題やマリア=ルース号事件などの重要な問題の解決にあたりました。岩倉使節の帰国後、明治6年の政変に敗れて下野します。

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人物写真 ◎フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)42歳
天保元年(1830年)1月30日~明治31年(1898年)3月10日

   アメリカのオランダ改革派教会の宣教師です。安政6年(1859年)長崎に訪れ、後の明治政府の高官となる多くの人材を育てました。この時の門下生には、大隈重信・伊藤博文・大久保利通などがいました。明治2年(1869年)大隈重信に対して欧米への使節団派遣を提案し、これが後の岩倉使節の原案となります。この意見書は、「ブリーフ・スケッチ」と呼ばれ、アメリカのニュージャージー州ニューブルンスヴィック改革教会ガードナー・A・セイジ図書館に所蔵されています。

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人物写真 ◎明治天皇(めいじてんのう)20歳
嘉永5年(1852年)9月22日~大正元年(1912年)7月30日

   孝明天皇の第二皇子として生まれました。名は睦仁(むつひと)。孝明天皇の急死をうけて、慶応3年正月9日(1867年2月13日)天皇となり、同年12月9日(1868年1月3日)「王政復古の大号令」を発して新政府を樹立しました。慶応4年3月「五箇条の御誓文」を誓約し、9月明治に改元、10月に江戸城を皇居とします。近代国家建設が進むなかで、ヨーロッパの君主をモデルとした教育を受けました。明治22年(1889年)大日本帝国憲法を発布、国の元首で統治権の総覧者と定められました。

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人物写真 ◎山県有朋(やまがたありとも)兵部大輔 34歳
天保9年4月22日(1838年5月15日)~大正11年(1922年)2月1日

   長州藩の出身です。松下村塾に学び、戊辰戦争では参謀を務めました。明治2年(1869年)に欧米を訪問し、その軍事制度を視察しました。帰国後は、陸軍改革に従事し、徴兵令の制定に大きな役割を果たします。西南戦争後、参謀本部を創設し初代本部長に就任します。その後、二度にわたって内閣を組織しました。