日本, 韓.日 關係

岩倉使節團 개괄

이강기 2015. 9. 23. 22:06

岩倉使節團


1.岩倉使節團とは
    岩倉使節?は、明治新政府によって派遣された大規模な公式の使節團です。政府で重要な位置を占める人?が?加するこの初の使節?の派遣は、明治維新によって新しい時代を切り拓きつつあった?時の日本にとって、?づくりをかけた大きな試みでした。
使節?は、明治4年11月12日(西?1871年12月23日)に?浜を出航しました。太平洋を渡って米?に半年以上?在して後、大西洋を越え、同年7月13日(西?では8月17日)に?州に入りました。そして、英?に約4ヶ月間?在したのをはじめとして、?州の??を1年近くにわたって?訪しました。明治6年(1873年)7月20日に??マルセイユ港を?った使節?は、スエズ運河?由でインド洋をまわり、明治6年(1873年)9月13日に?浜に?り着きました。この時、10ヶ月半という?初の予定を大きく超過して、出?から約1年10ヶ月という月日が?っていました。

[資料解?] 「原本大使全書」?頭
[資料解?] 使節の成果(大使全書 ?頭[無題])


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2.使節團の構成員
   使節?の中心となっていたのは、特命全?大使の岩倉具視(右大臣、公家出身)、副使の木?孝允(?議、長州藩出身)、大久保利通(大?卿、薩摩藩出身)、伊藤博文(工部大輔、長州藩出身)、山口?芳(外務少輔、肥前藩出身)で、一般にこの大使?副使を?せて「使節」と呼びました。
   これ以外に、一等書記官の福地源一?(外務大記、?幕臣)、二等書記官の林董三?(董)(外務七等出仕、?幕臣)をはじめとする、一等から四等に分けられた書記官たち、後に『米?回??記』を著す久米邦武(?少外史、肥前藩出身)、?海忠勝(神奈川?大?事、長州藩出身)らの大使?行、田中光?(?籍頭、土佐藩出身)、佐?木高行(司法大輔、土佐藩出身)らの理事官とその?行員たちを加え、全46名によって使節?は構成されていました。これに18名の??者がともない、さらに、出?時には、若き女子5名を含む43名の留?生も率いられていたので、?初は?勢108名の集?だったことになります。

[資料解?] 使節?の構成員(大使全書 8?16?)


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3.使節團の目的
   岩倉使節?が目的としていたことは、大きく2つ?げることができます。
   1つは、不平等?約の改正に向けた予備交?です。幕末期に?米諸?と結ばれた不平等?約を改正し、?立した一?家として各?と平等なかたちでの?際?係を築くことは、明治新政府の重要課題でした。しかし?際には、使節?は最初の米?との交?の段階で?質的な改正交?は不可能と?づき、以降に訪れた?州諸?では、改正の希望を?えるに留めなければなりませんでした。
   使節?のもう1つの目的は、?米各?の?家制度、産業技術、?統文化などを視察することでした。新しい?づくりに挑んでいた明治新政府にとって、近代的な産業や、政治制度、司法制度、社?制度など、他?の優れた点を?んでそれを自?に採り入れることもまた、大?重要な課題でした。また、同行した留?生たちも各?に留まって勉?に?み、後に??して活躍することが望まれていました。使節?はまさに、「智識を世界に求め」たのです。

[資料解?] 使節の?括(大使全書 ?頭[無題])


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4.使節團の時代
 日本の情勢
   使節?を送り出した?時の日本では、新政府が、版籍奉還?藩置?といった中央への?力集中を目指した政治制度改革をはじめとして、??、法律、社?などあらゆる面で文明開化の政策を進めていました。しかし、こうした政策に?して不?をもつ士族は多く、民衆も血?一揆や新政反?一揆などのかたちをとって反?や抵抗を見せました。一方で、政府?部においても、めざすべき?家のあり方についての考えや出身藩の違いによる意見の隔たりが存在していました。
   このような情勢の中で、政府の有力者である岩倉具視、木?孝允、大久保利通らが?米を?訪し各?を視察したことによって、ヨ?ロッパの?家をモデルとした?づくりの方向性に具?的なイメ?ジがもたらされました。その一方で、長期にわたり日本を離れた使節と留守政府との間の隔たりは大きくなり、それが岩倉らの??後、西?隆盛の朝鮮への派遣をめぐる意見の?立として表面化し、ついに明治6年の政?を迎えることになりました。

[資料解?] 使節と留守政府との約定(大臣?議及各省卿大輔約定書)
[資料解?] 使節と留守政府との約定(?米派出大使御用留三)
[資料解?] 「約定書」正本
[資料解?] 「約定書」草稿
[年表] 日本の情勢 年表

 世界の動き
■アジアの情勢
   19世紀のアジアは、?米列?の進出に直面していました。インド?東南アジア地域では、シャム(タイ)を除く各地が列?の植民地にされていきます。また、?はイギリスとのアヘン??に敗北。その?後?理としての南京?約をはじめとして、列?と不平等?約を締結するなど、東アジアにおいてもそれまで長年にわたって維持されてきた?制が?らぎ始めていました。

[年表] アジア年表


■米?の情勢
   使節?訪問?時のアメリカ合衆?は、南北??が終わり、再び一つにまとまって?展の道を?んでいました。南北??は、奴隷??に支えられる大農園??を??基盤としていた南部の諸州が、工業化を進めていた北部の諸州と奴隷制の是非をめぐって?立し、合衆?を?退したことから起こりました。開?直後から、合衆?大統領リンカ?ンは?人奴隷の解放を進めていきました。5年に及んだ??は大きな損害をもたらしましたが、その一方で軍需によって工業が?達し、?後は急速な???展が?現していました。

[年表] アメリカ合衆?年表



■?州の情勢
   使節?が訪れる少し前まで、ヨ?ロッパでは革命や??が相次ぎ、??が目まぐるしくかたちを?える時代が?いていました。ドイツがひとつの大きな?としてまとまったのも、使節?が訪れるわずか2年ほど前だったことが、下の年表からもわかります。日本は、同じように新しい?づくりを進めていたドイツから多くを?ぼうとしました。また、イギリス、フランスといった産業的に大きな?展を遂げていた??は、その力をもってアジアやアフリカなどの??な地域に?く進出しはじめていました。

[年表] ヨ?ロッパ年表


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この項で紹介する人?です。年??官名は岩倉使節?出??時のもの。
■大使?副使
岩倉具視木?孝允大久保利通伊藤博文山口?芳
■そのほか(五十音順)
板垣退助井上馨大?重信?田?隆後藤象二?西?隆盛佐?木高行三??美副島種臣フルベッキ
明治天皇山?有朋
(以上17名)


人物?? ◎岩倉具視(いわくらともみ)右大臣 47歲
文政8年9月15日(1825年10月26日)~明治16年(1883年)7月20日

   藤原氏の末流、堀河康親(ほりかわやすちか)の次男として生まれ、村上源氏の流れをくむ岩倉家の養子になりました。幕末期には朝廷における討幕運動の中心を?い、明治維新政府の???議定などを?任しました。明治4年(1871年)に特命全?大使として?米諸?に派遣され、約2年後に??、??の安定を優先する立場から西?隆盛らのいわゆる征韓論を阻止しました。明治14年(1881年)には、プロイセン?にならった憲法制定を?く井上毅(いのうえこわし)執筆の意見書を提出し、イギリス流の政?政治を?く大?重信に?抗しました。


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人物?? ◎木戶孝允(きどたかよし)參 39歲
天保3年6月26日(1832年7月23日)~明治10年(1877年)5月26日

   長州藩の出身です。若くして桂小五?の名で活躍、慶?2年(1866年)に西?隆盛らと薩長連合(薩摩藩長州藩の連合)を密約し、倒幕を推進します。維新後は、五箇?の誓文の作成や版籍奉還??藩置?など一連の改革に重要な役割を果たします。岩倉使節には副使として?加しました。?米からの??直後に、憲法制定を提案し、いわゆる征韓論に反?します。明治7年(1874年)台?出兵に抗議して下野、翌年、立憲制導入を?件に復?しました。


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人物?? ◎大久保利通(おおくぼとしみち)大藏卿 42세
文政13年8月10日(1830年9月26日)~明治11年(1878年)5月14日

   薩摩藩の出身です。西?隆盛らとともに討幕運動を推進し、慶?3年12月(1868年1月)に岩倉具視らとはかり王政復古の政?を?現しました。明治維新政府の?議?大?卿などをつとめ、版籍奉還??藩置?など一連の改革にあたります。岩倉使節には副使として?加しました。??後は西?隆盛らのいわゆる征韓論に反?し、明治6年の政?を主導して、政府の中心として殖産興業などに活躍しました。明治11年(1878年)不平士族によって暗殺されました。


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人物?? ◎伊藤博文(いとうひろぶみ)工部大輔 31歲
天保12年9月2日(1841年10月16日)~明治42年(1909年)10月26日

   長州藩周防の農村に生まれ、後に下級武士の身分を得ます。吉田松陰に?んで尊皇攘夷運動に身を投じますが、イギリスに留?して開?論に?じます。明治政府の要職をしめ、岩倉使節に副使として?加しました。??後は、?閣制度の確立につとめ、明治18年(1885年)初代の?閣?理大臣に就任します。プロイセン?にならった憲法を起草、大日本帝?憲法制定の中心となりました。明治38年(1905年)韓?統監となり、4年後にハルビンで韓?人に暗殺されました。


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人物?? ◎山口尙芳(やまぐちますか)外務少輔 33歲天保10年5月11日(1839年6月21日)~明治27年(1894年)6月12日
   佐賀藩の出身です。長崎でオランダ語を、ついで英語を?びます。薩長同盟に?力し、明治政府の外?事務局御用掛をはじめとして東京府知事などの要職をへて、外務少輔のとき岩倉使節に副使として加わります。??後は??の安定を優先する立場から西?隆盛らのいわゆる征韓論に反?しました。のち貴族院議員に任命されます。名は「なおよし」とも?みます。


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人物?? ◎板垣退助(いたがきたいすけ)參 35歲
天保8年4月17日(1837年5月21日)~大正8年(1919)7月16日

   土佐藩の出身です。幕末期に討幕運動を推進し、?津攻略などに?事しました。明治4年(1871年)に?議となりましたが、明治6年の政?に敗れ下野します。明治7年(1874年)に民選議院設立の意見書を提出し、高知に立志社を設立して自由民?運動を推し進めました。


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人物?? ◎井上馨(いのうえかおる)大藏大輔 37歲
天保6年11月28日(1836年1月16日)~大正4年(1915年)9月4日

   長州藩の出身です。幕末期に伊藤博文らとイギリスに渡り、??後、討幕運動に?事しました。明治政府では造幣頭や大?大輔などを?任します。明治6年(1873年)に?職し、?業界に身を投じます。明治8年(1875年)に政府に復?し、外務卿?外相として?約改正交?のために?化政策を推進しましたが(鹿鳴館時代)、失敗して?職しました。


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人物?? ◎大?重信(おおくましげのぶ)參 34歲
天保9年2月16日(1838年2月16日)~大正11年(1922年)1月10日

   佐賀藩の出身です。明治政府では?議?大?卿などを?任しました。岩倉使節の外遊中には「留守政府」を?い、??問題の?理にあたって重要な役割を果たしました。明治14年(1881年)に伊藤博文らの薩摩と長州の勢力と?立し下野します。翌年、立憲改進?を結成し、東京?門?校(いまの早?田大?)を創立しました。後に日本で初の政??閣を組織します。


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人物?? ◎黑田淸隆(くろだきよたか)開拓次官 32歲
天保11年11月16日(1840年12月9日)~明治33年(1900年)

   薩摩藩の出身です。戊辰??で活躍し、五稜郭開城に際して?本武揚(えのもとたけあき)を助命しました。明治政府では、開拓次官、後に?議兼開拓長官として北海道開?に力を?くしました。明治21年(1888年)に首相となり、大?重信外相とともに?約改正を試みますが失敗します。


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人物?? ◎後藤象二郞(ごとうしょうじろう)左院議長 34歲
天保9年3月19日(1838年4月13日)~明治30年(1897年)8月4日

   土佐藩の出身です。慶?3年(1867年)に坂本龍馬の意見に?同して、大政奉還を推進します。明治政府では??兼外?官事務掛となり、以後工部大輔や?議などを?任しました。明治6年の政?に敗れて下野し、板垣退助らとともに民選議院設立の意見書に署名します。その後自由?の結成に加わり、明治22年(1887年)に大同?結運動を展開しました。


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人物?? ◎西鄕隆盛(さいごうたかもり)參 45歲
文政10年12月7日(1828年1月23日)~明治10年(1877年)9月24日

   薩摩藩の出身です。薩長同盟などで反幕府勢力の結集をはかり、明治維新政府の設立に大きな功績をあげます。明治4年(1871年)に?議となり、?藩置?にたずさわりました。岩倉使節の外遊中は、「留守政府」の責任者の一人となります。明治6年の政?に敗れ、板垣退助?江藤新平らととともに下野します。明治10年(1877年)に西南??をおこしましたが、敗れて自決しました。


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人物?? ◎佐佐木高行(ささきたかゆき)司法大輔 42歲
天保元年10月12日(1830年11月26日)~明治43(1910年)3月2日

   土佐藩の出身です。坂本龍馬の海援隊と?わりを持ち、大政奉還運動に?加しました。岩倉使節?には、司法大輔として?加します。??後は、大判官などを?任し、その間、東宮名宮(後の大正天皇)の?育主任を務めます。彼の日記『保古飛呂比(ほごひろひ)』は、岩倉使節の?態を知る上での貴重な史料です。


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人物?? ◎三?實美(さんじょうさねとみ)太政大臣 35歲
天保8年2月7日(1837年3月13日)~明治24年(1891年)2月18日

   ?大臣三??万(さんじょうさねつむ)の四男として生まれました。幕末期には、尊皇攘夷運動に?事しました。明治維新政府では、議定?大納言?右大臣などを?て、明治4年(1871年)に太政大臣となります。その後も華族のまとめ役として活動しました。


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人物?? ◎副島種臣(そえじまたねおみ)外務卿 44歲
文政11年9月9日(1828年10月17日)~明治24年(1891年)2月18日

   佐賀藩の出身です。幕末期は、尊皇攘夷運動に?事しました。明治維新政府では、?議や外務卿などを?任します。岩倉使節?の外遊中は、琉球所?問題やマリア=ル?ス?事件などの重要な問題の解決にあたりました。岩倉使節の??後、明治6年の政?に敗れて下野します。


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人物?? ◎フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)42歲
天保元年(1830年)1月30日~明治31年(1898年)3月10日

   アメリカのオランダ改革派??の宣?師です。安政6年(1859年)長崎に訪れ、後の明治政府の高官となる多くの人材を育てました。この時の門下生には、大?重信?伊藤博文?大久保利通などがいました。明治2年(1869年)大?重信に?して?米への使節?派遣を提案し、これが後の岩倉使節の原案となります。この意見書は、「ブリ?フ?スケッチ」と呼ばれ、アメリカのニュ?ジャ?ジ?州ニュ?ブルンスヴィック改革??ガ?ドナ??A?セイジ?書館に所?されています。


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人物?? ◎明治天皇(めいじてんのう)20歲
嘉永5年(1852年)9月22日~大正元年(1912年)7月30日

   孝明天皇の第二皇子として生まれました。名は睦仁(むつひと)。孝明天皇の急死をうけて、慶?3年正月9日(1867年2月13日)天皇となり、同年12月9日(1868年1月3日)「王政復古の大?令」を?して新政府を樹立しました。慶?4年3月「五箇?の御誓文」を誓約し、9月明治に改元、10月に江?城を皇居とします。近代?家建設が進むなかで、ヨ?ロッパの君主をモデルとした?育を受けました。明治22年(1889年)大日本帝?憲法を?布、?の元首で統治?の??者と定められました。


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人物?? ◎山0有朋(やまがたありとも)兵部大輔 34歲
天保9年4月22日(1838年5月15日)~大正11年(1922年)2月1日

   長州藩の出身です。松下村塾に?び、戊辰??では?謀を務めました。明治2年(1869年)に?米を訪問し、その軍事制度を視察しました。??後は、陸軍改革に?事し、?兵令の制定に大きな役割を果たします。西南??後、?謀本部を創設し初代本部長に就任します。その後、二度にわたって?閣を組織しました。