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「古事記」は歌劇である

이강기 2015. 9. 23. 22:14

「古事記」は歌劇である

 

2012.4.12 03:00 (1/3ページ)月刊正論

 

 唐風文化を志向した大友皇子を倒した大海人皇子(天武天皇)が、天照大御神から自身に至るまで一筋に連なる皇統の正統性の証明とともに、和語と和歌の独自性の自覚とその継承を企図して編纂されたのが「古事記」である。そしてそれは原作=天武天皇、脚本・演出=稗田阿礼の「歌劇」として鑑賞すべきものであった。(月刊正論5月号

 

 作家の長部日出雄さんがこのほど、『歌劇「古事記」講義』を書き上げた(未出版)。この論考は「古事記論」と「古事記神代篇」の映画台本からなる。まず「古事記論」で長部さんは、(1)『古事記』は歌劇の台本として書かれた(2)稗田阿礼は女性である(3)原作者は天武天皇である――という三つの説を唱え、「十年後には定説になる」と言い切る。そして『古事記』は目で読むものではなく耳で聞くものであると信じる長部さんは、大胆にも自らの手で「神代篇」を映画台本化してみせた。いまなぜ『古事記』、そして天武天皇なのか? 長部さんに真意を聞いた。

唐風と国風の戦いだった壬申の乱

 ――壬申の乱から始めましょうか。左翼史観全盛の時代に編集された『角川第二版日本史辞典』を引くとこうあります。《672(天武1〈壬申の年〉)6月、天智天皇の子大友皇子と天皇の実弟大海人皇子のあいだの皇位継承権をめぐる約1か月に及ぶ内乱。吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、天智天皇の死後、伊賀・伊勢を経て美濃にはいり、東国を押え、次いで別働隊は倭古京を占拠、近江勢多で大友皇子の軍を大破し、皇子を自害させ、翌年正月即位して天武天皇となった。以降、律令制的国家体制の導入によって、天皇への権力集中がはかられ、人民支配が強化された》。即物的で素っ気ない記述ですね。

 

ところが長部さんは「中国から流入してくる文化と日本に昔からある文化との戦い」と位置づけられています。要するに日本の中国化を恐れた大海人皇子が決起して勝利を収めた。

 長部 戦前には壬申の乱を唐風と国風の争いと見る学者もいました。ところが、戦後の歴史学は唯物史観に染まってしまい、単なる権力闘争というとらえ方をするようになってしまった。あれは明らかに唐風と国風の戦いです。大友皇子は近江京で唐風の宮殿を営むなど朝廷の唐風化を進めていました。このままでは日本は唐に支配される一地方になってしまうという危機感が大海人皇子を立たせたのです。それは、皇子が天武天皇となってされたことを見ればよく理解できるはずです。

 ――国風文化の興隆ですね。

 長部 そうです。もし大友皇子が勝っていたら、近江京と官庁の公用語は漢語となり、わが国は中国の冊封体制の中に容易に組み込まれていったでしょう。

 ――現代の話ですが、どこかの国では、小学生に英語を義務づけ、社内の公用語を英語にする会社が増えていますね。

 長部 ねえ。圧倒的な漢語文化の流入とその影響によって、文字を持たない古語と古歌は消えてしまいかねない、そこで天武天皇は古くから伝わる神話や歌をよくする語り部(歌い手)を諸国から朝廷に結集しました。これによって共通語としての大和言葉が形成され、それが全国に広がっていった。そして朝廷の修史事業である『日本書紀』とは別に『古事記』の編纂を思い立った。

 

私は天武天皇の最大の業績は『古事記』によって大和言葉と漢字を融合して日本語を確立したということだと思います。大和言葉を漢字でどう書き表すかについては、推古天皇のころから試行錯誤が繰り返されており、天武天皇はこうした先人の業績を踏まえたうえで、ご自分の考えを稗田阿礼に伝えたのです。その方針がしっかり定まっていたからこそ、太安万侶はわずか四カ月で『古事記』を撰録できたのです。

 ――先の日本史辞典で天武天皇を引いてみると《(前略)大海人皇子は東国を基盤にこの内乱に勝ち、翌年飛鳥浄御原宮で即位。天武治世15年間に飛鳥浄御原律令の制定、国史の選修、八色姓(やくさのかばね)の制定、爵位60階の制定などで律令体制が形成強化され、天皇・皇室権力の制度化、および諸皇子を中心とする皇親政治が実施された。この方針は皇后(持統天皇)にひきつがれていった》とあるだけで、『古事記』についてはまったく触れられていません。

 長部 唯物史観は『古事記』を荒唐無稽な作り話として無視したのです。

『古事記』の真実

 ――さて、長部さんは『古事記』は歌劇として書かれたと主張されています。

 長部 ええ。私は自分の説が十年後には定説となると信じています。そもそも『古事記』のさまざまな物語は、日本人がまだ文字を持っていない時代に生まれ、「声」で伝えられてきたものです。天武天皇はこれを耳で聞いて覚え、自分の頭の中で一つの作品に仕上げた。天武天皇はこれを文字化させたわけですが、それは目で読ませるためではなく「声」を再現する歌劇の台本として構想したと考えるのが妥当だと私は考えます。

 ――なるほど。

 長部 付け加えるなら、当時、文字の読める人がどれだけいたか。ほとんどいないでしょう。(作家・長部日出雄)続きは正論5月号でお読みください

 ■長部日出雄(おさべ・ひでお) 昭和9(1934)年、青森県弘前市生れ。早稲田大学第一文学部中退。週刊誌記者などを経て作家に。昭和48年、『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』で直木賞を受賞。54年、『鬼が来た-棟方志功伝』で芸術選奨文部大臣賞、61年、『見知らぬ戦場』で新田次郎賞、平成14年に『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』で大佛次郎賞と和辻哲郎文化賞、紫綬褒章。