日朝間の最大の懸案である拉致問題。日本にとっては、拉致問題の解決がない限り北朝鮮との国交正常化もあり得ないが、20年以上前、日朝国交正常化が目前に迫ったときがあった。
◆予期せぬ金日成発言
平成2(1990)年9月26日。北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の元副総理・金丸信、社会党副委員長の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。
金丸、田辺の2人が日朝の友好を進めるため、双方に「連絡事務所」の設置を持ちかけると、金はこう返して2人を驚かせた。
「いや、そんなのをつくる必要ないでしょう。(日朝の)外交関係をつくればいいんですから。日本と仲良くしたい」
予期せぬ発言に動揺を隠せない金丸。田辺に「どうする」と目をやった。田辺も「いいんじゃないですか」と即答した。金丸は金に向かって「社会党もいいと言っている。私たち自民党も責任を持つ」と応じた。
この瞬間、北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった訪朝が、政府間の国交正常化を前提とした外交交渉に転換した。
55年体制以降、対北朝鮮外交は「万年野党」の社会党を中心に展開されてきた。だが、昭和58年に党書記長に就任した田辺は「野党外交では限界がある」と主張し、「万年与党」である自民党を引き込むことを画策する。
北朝鮮も、社会党との関係を維持するだけでは展望を開けないと考えていた。韓国は、平成2年9月末にソ連との国交を樹立。東アジアで孤立することを懸念した北朝鮮が、日本との国交正常化に活路を見いだそうとしている-。田辺は北朝鮮側の変化を感じていた。
田辺は、同じ国対族で親交の深かった金丸に声をかけた。北朝鮮が政権与党と接点を持ちたがっていることを紹介し、金丸にも注目していることを伝えた。
だが、金丸は田辺の依頼をいったん断る。東側陣営に冷淡で、外交にあまり縁がなかったことが理由だった。それでも、田辺は半年間にわたって金丸の説得を続け、金丸も最終的に訪朝を決断する。第18富士山丸問題が、訪朝によって解決できる可能性が高まっていた事情も後押しした。
◆5時間続いた密室会談
「俺が、風穴を開けたんだ!」。平成2年9月28日夜。金丸は帰国の途に就いた日本航空の特別機内で興奮気味に語ると、大きな拍手がわき起こった。
笹川平和財団会長の羽生次郎(68)は、その光景を今も鮮明に覚えている。羽生は当時、運輸省(現国土交通省)国際航空課長として訪朝団に加わり、日朝間の航空路開設交渉にあたった経験を持つ。羽生によると、世論やマスコミは訪朝団の功績を軒並みたたえ、国交正常化を支持する声が多かったという。
しかし、訪朝団は後に大きな批判にさらされることになる。9月28日に調印された自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同宣言の中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたからだ。
共同宣言は、金丸訪朝団事務総長の石井一(79)、同団事務局長の武村正義、社会党訪朝団副団長の久保亘らが中心となった起草委員会で議論された。
武村ら日本側は「交戦もしていない国の戦後賠償には応じられない」と突っぱねたが、北朝鮮はなかなか折れない。16時間にわたる協議の末、最後は金丸の鶴の一声で「償い」の文言を入れることが決まったのだった。
金丸は滞在中、金日成と2人だけで5時間近くも密室で会談している。ただ、日本側の通訳や外務省の随員が入っておらず、記録を残していないため、大きな問題となった。この密談の中で、金丸は数十億ドルの「戦後賠償」を約束したともいわれているが、「誤解だ。『償い』までは是認していない」と否定している。
石井は「金・金会談」の直後、金丸が「国交正常化の調印式を富士山のふもとで行う。金日成に山梨県まで来てもらうんだ」と言っていたことを記憶している。そして「金日成と接してファンになってしまったんだな…」と回想する。金丸の「人の良さ」があだとなった面は否定できない。
実際、訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字に金丸は感動した。
産経新聞政治部記者として訪朝団に同行取材した北村経夫(59)=現自民党参院議員=は金丸の様子について「北朝鮮の術中にはまっていた」と振り返る。そのうえで「最終的な北の狙いは戦後賠償だ。『償い』は今も尾を引いており、拉致問題にもつながっている。日本外交にとってマイナスだった」と断じる。
◆拉致は議題とならず
7月30日、前橋市で自身が運営する老人ホーム「恵風園」に、92歳になった田辺が姿を見せた。つえをついているが、滑舌は往事のまま。田辺は「金丸訪朝団で国交正常化に限りなく近づいたが、政府や外務省を巻き込めなかった。成功と失敗、相半ばだ」と総括した。
当時、拉致問題はまだ大きくクローズアップされていなかった。国家公安委員長の梶山静六は、昭和63年3月の参院予算委員会で、53年夏に日本海側で連続して発生したアベック行方不明事件について「拉致の疑いが濃厚」と初めて答弁していたが、金丸訪朝団では拉致が議題に上った形跡はない。
平成2年10月、船長の紅粉らが釈放され、国交正常化の機運はさらに高まっていく。国交正常化交渉は3年1月から始まり、4年11月まで計8回行われた。
だが、大韓航空機爆破事件の犯人、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員の教育係、李恩恵(リ・ウネ)(後に田口八重子さんと判明)に関する日本側の調査要求に北朝鮮が反発し、4年11月に交渉は一方的に中断された。その後、日朝の国交正常化交渉は動かないまま、12年4月まで途絶えることになる。=敬称略(山本雄史)
用語解説】金丸訪朝団 平成2年9月、自民党の金丸信元副総理、社会党の田辺誠副委員長らが第18富士山丸事件解決などのために訪朝した。自社両党と朝鮮労働党の3党は、戦後45年間、朝鮮人民が受けた損失について公式的に謝罪を行い十分に償うべきだと認める▽国交正常化のための政府間交渉を同年11月に開始する-などを盛り込んだ共同宣言で合意した。
日朝関係(2)核開発の脅威 ミサイル発射、日本を翻弄「半端じゃない切迫感だった」
平成3(1991)年1月から始まった日朝の国交正常化交渉は、4年11月に北朝鮮が一方的に交渉を中断する。この後、北朝鮮は核開発を本格化し、日本はこれまで経験したことのない非常事態に直面する。
◆「へ理屈」の天才
国交正常化交渉は、中断されるまで8回にわたった。だが、当初の期待感とは裏腹に、巨額の「戦後賠償」を求める北朝鮮と、応じられない日本との距離は回を重ねても縮まらなかった。
こうした中で、北朝鮮は日本が要求した大韓航空機爆破事件の犯人で金賢姫(キムヒョンヒ)元工作員の教育係、李恩恵(リウネ)に関する調査に反発。交渉は中断され、日朝関係は長い冬の時代に入る。
「北朝鮮は自分の都合や利益で、いったん約束したことでも理屈をつけてほごにしてくる。まさに『へ理屈』の天才だ」
5年5月、日朝国交正常化交渉政府代表に就任した外務官僚の遠藤哲也(79)=現日本国際問題研究所特別研究員=は、北朝鮮との外交交渉の難しさを体感した一人だ。
遠藤は膠着(こうちゃく)状態にあった日朝関係を何とか打開しようと、交渉相手に新任のあいさつ状を送るなどの努力を重ねたが、返事が来ることはなかった。水面下で審議官級、課長級の非公式接触も試みたが、北朝鮮は2年9月の金丸訪朝団のころとは違い、日本に触手を伸ばしてこなかった。
「李恩恵問題は表向きの理由ではないか。賠償(補償)が早急に得られそうもないとみたのだろう。北朝鮮は、日本の“親分”である米国を落とした方がいいと判断した」。自らの経験を踏まえ、遠藤は当時の北朝鮮の姿勢をそう解説する。
◆政府高官の“告発”
日朝関係が冷え込む中で、さらに両国関係を悪化させたのが北朝鮮の「核・ミサイル」開発だった。
5年6月上旬。事務方トップの石原信雄官房副長官は、北朝鮮が弾道ミサイル「ノドン1号」の発射実験を日本海で実施した情報があることを記者団に明かした。
射程は約1千キロ。北海道東部と関東東部以外の日本列島がほぼすべて射程圏内に入る計算だった。当時の自衛隊には弾道ミサイルを迎撃する能力はなく、事実とすれば日本の安全保障に深刻な影響を与える。
石原の発言は、「政府筋」の話として大きく報じられた。だが、政治家はその情報を公にしなかった。6月18日には宮沢喜一内閣不信任案が可決され、解散・総選挙へ突入していく。石原の“告発”は、国家の危機を前にしても政局に明け暮れる政治家への警告でもあったが、その後も政治の混迷は続くことになる。
同年8月、非自民の連立政権、細川護煕内閣が発足した。国民の期待は高かったが、7党1会派の「寄り合い所帯」はすぐにきしみ始め、翌6年4月に退陣。後継の羽田孜内閣も少数与党という波乱の船出となった。
そのさなか、北朝鮮は同年6月13日、国際原子力機関(IAEA)からの即時脱退を表明する。北朝鮮を強く非難した米国は、北朝鮮の軍事施設に対する「ピンポイント爆撃」を公然と議論するなど、北朝鮮の「核・ミサイル」問題をめぐる緊張はかつてないほど高まった。
「半端じゃない切迫感だった。米国は先制攻撃を辞さずという意識で、戦争が起こりうると想像せざるを得なかった…」
羽田内閣の官房長官だった熊谷弘(74)は生々しい言葉で回想する。わずか64日間の短命政権だったが、最も緊迫した時期に北朝鮮と向き合った。
周辺事態法など有事を想定した法整備は皆無に等しい時代。熊谷は「一刻も早く法整備をしないといけない」と焦り始めた。
危機管理に没頭していた石原は、連日関係省庁と協議を重ね、目前の危機の情報を集めていった。
米国と北朝鮮が交戦状態に入った場合、何が起こるのか。北朝鮮軍は38度線を越え、ソウルを砲撃し、釜山まで南進する-。官邸はさまざまなシミュレーションを繰り返した。その結果、時の日本政府には安全保障に対する備えが絶対的に不足していたことが明らかになる。
「北海道から戦車を持ってきたら道路交通法違反になるぞ」「米国の病院船が撃たれたらどうするのか」「日本海側をどうやって守るのか」…。平和ボケともいえるような議論が官邸で普通に行われていた。熊谷は「『そんなバカな話があるか』と言いながら激しい議論をした」と振り返る。
◆いったん収束するも…
ただ、結果的に議論の成果を生かす局面は訪れなかった。米国元大統領のカーターが同月15日に平壌に入り、北朝鮮主席の金日成(キムイルソン)と会談、これを受け金がIAEA査察団の残留などを表明したからだ。国際社会を揺るがせた北朝鮮の核危機はいったんは収束に向かった。
それから4年あまり。北朝鮮は沈黙を破る。10年8月31日。弾道ミサイル「テポドン1号」を発射したのだ。
テポドンは日本上空を超え、三陸沖に着弾したことが判明する。小渕恵三内閣の官房長官だった野中広務は31日夜、「同日午後0時過ぎに北朝鮮東部沿岸から発射された弾道ミサイルが、三陸沖の公海に弾着した可能性がある」とのコメントを発表したが、情報は集まっていなかった。
官房副長官だった新党大地代表の鈴木宗男(66)は、官邸で一報を聞いたが「当時、日本は自前の人工衛星も持っていなかったし、詳細はつかめていなかった。それほど緊張もしていなかった」と語る。首相の小渕ですら、記者に「事前に情報は入っていたのか」と聞かれ、「あれ、どうだったかな…」と答えたほどだった。当時、北朝鮮への関心が低かったことがうかがえる。
その後、国交正常化交渉は一時的に再開されたものの、核・ミサイル開発や拉致問題が重しとなり、前進しなかった。日朝関係は14年9月17日、首相の小泉純一郎による電撃訪朝まで動くことはなかった。=敬称略(山本雄史、沢田大典)
◇
【用語解説】北朝鮮の核危機
北朝鮮は1993(平成5)~94年、2002~03年の2度にわたり、核開発をめぐって国際社会を緊張させた。いずれも核拡散防止条約(NPT)からの脱退を表明するなどした。北朝鮮の核問題は現在、日本、米国などを交えた6カ国協議の場で取り上げられる。
日朝関係(3)小泉訪朝 「単身で敵地」拉致動く
日朝関係は平成14年、歴史的な節目を迎える。首相の小泉純一郎の訪朝だ。北朝鮮は拉致を正式に認め、日本側に謝罪。10月15日には拉致被害者5人の帰国という成果を得る。一方で、「8人死亡」という衝撃的な報告がもたらされ、拉致事件の全容解明には至らなかった。
悲壮な覚悟
13年4月に発足した小泉政権は同年夏の参院選で大勝し、政権基盤を着々と固めていた。
その陰で、外務省アジア大洋州局長の田中均は同年晩秋から極秘裏に北朝鮮と交渉を始めていた。窓口役となったのは、日本側が「ミスターX」と呼んだ人物。田中は最高指導者である総書記、金正日(キムジョンイル)に通じる人物と判断し、中国などで接触を重ねながら、拉致問題の解決、国交正常化に向けた準備交渉を進めた。
小泉の訪朝は、官房長官の福田康夫が14年8月30日、電撃的に発表した。この日以降、首相官邸では訪朝の準備が本格化する。
首席首相秘書官だった飯島勲(68)=現内閣官房参与=は、約120人の報道陣の取材を北朝鮮に認めさせるなど持ち前の辣腕(らつわん)をふるっていた。対照的に、警護官(SP)や同行の職員数は最小限に抑えた。「単身で敵地に乗り込んで話をつける」。小泉の悲壮な覚悟の表れだったという。
同行する政治家は官房副長官の安倍晋三(現首相)だけ。通訳を除き、その他は首相秘書官の別所浩郎、外務審議官の高野紀元(としゆき)、田中らわずか7人だった。
「握手するときは頭を下げてはいけないんだ。それが(映像に)映るとわびることになる。堂々としておけ」。飯島は金ら北朝鮮の要人と日本側の一行が握手する場面を想定し、同行が決まった首相秘書官らに日本人の癖である「おじぎ」をしないように忠告した。
衝撃的な情報
9月17日、平壌国際空港に着いた小泉は、首脳会談が行われる百花園迎賓館へ向かった。同館では首相、安倍、秘書官らの控室は別々に用意されていたが、飯島の判断で全員が小泉と同じ部屋で待機した。一体感を保つためだったという。
部屋に入ってまもなく、一行に衝撃的な情報がもたらされる。北朝鮮側が拉致被害者について「5人生存、8人死亡」と非公式に日本側に伝えてきたのだ。小泉はしばらく沈黙した後、絞り出すような声で「どういうことなんだ」「どのルートの情報なんだ」とつぶやいた。
小泉は午前の首脳会談の冒頭、無言を貫き、報道陣の退出後に「強く抗議する。家族の気持ちを思うといたたまれない」と金に迫った。
昼の休憩は、飯島が東京・銀座で調達したにぎり飯だったが、小泉はほとんど口にしなかった。随員の一人が控室のテレビの音を小さくしようとしたが、小泉が「そのままでいいんだ」と声を荒らげる場面もあった。テレビの音が大きければ盗聴されにくいことを小泉は知っていた。「終始冷静だった」(首相秘書官の一人)という小泉だが、神経は張り詰めていた。
この時点で、金は拉致自体を認めていない。「拉致したという白状、謝罪がない限り、日朝平壌宣言への調印は考え直すべきだ。認めなければ、席を立って帰国しましょう」。安倍が強い口調で小泉に迫る。小泉は最終的に安倍に同調し、日本政府の方針が定まった。
田中らは非公式の安否情報リストを入手し、分析を急いだ。リストには死亡日が記載されていたが、同じ日に亡くなるなど不自然な点が多かった。この重要情報は「未確認」を理由に日朝平壌宣言の署名直前まで小泉には伝えられず、後に外務省による「情報操作」と批判されることになる。
午後の首脳会談で、金は「妄動主義者と英雄主義者」がやったと拉致を認め、「おわびしたい。二度と許すことはない」と謝罪した。この言葉で小泉の強硬姿勢は薄れ、同宣言への署名を決断した。
思わずこぼれた涙
小泉訪朝から約1カ月後の10月15日。内閣官房参与だった中山恭子(74)=現参院議員=は午前7時過ぎ、拉致被害者5人の迎え役として全日空のチャーター機で平壌へ飛んだ。
中山の回想によると、外務省は当初5人については、北京経由の定期便で帰国させようとしていた。だが、中山が「政府が守れなかった人たちなんです。チャーター機でなければ迎えになど行けません」と強く反対。中山の意をくんだ安倍が外務省と交渉し、ようやくチャーター機の使用が決まったのだった。
中山は、空港の待合室で5人と面会する。5人は大きな声で「おはようございます」とあいさつした。中山は、はっきりとした発音の日本語を聞いて安心し、「日本の心を失っていないと直感した」と振り返る。
チャーター機に乗った5人は窓際に座った。日本海を渡り終えるとき、拉致被害者の一人、地村富貴恵が「あれ、若狭湾じゃない?」と声を上げた。5人は一斉に窓の外に視線を向け、食い入るように日本の陸地を見つめていた。
5人は北朝鮮で「日本に帰国したら国民から歓迎されない」とすり込まれていたという。だが、羽田空港に着くと、多くの人々が帰りを待っていた。戸惑う5人。地村はとっさに「みんな、がんばって降りましょう」と声をかけた。それが合図となり、5人はゆっくりとタラップを降りた。真下には肉親や友人が集まっていた。中山は、思わず涙がこぼれた地村を「大丈夫よ…」と励ました。
小泉は16年に再訪朝し、北朝鮮に残されたままだった拉致被害者の家族を帰国させることに成功した。しかし、拉致被害者全員の帰国を求める家族会の反発は強く、「日朝平壌宣言の履行を優先している」などと厳しい批判を浴びた。
この後、日本側は拉致被害者の再調査を強く求め続ける。これに対して北朝鮮は「拉致は解決済み」との立場を繰り返してきたが、今年5月に再調査を受け入れ、7月から再調査が始まった。
中山は「今度こそ、もっと大きなチャーター便で拉致被害者全員が乗って、何百人になるか分からないぐらいの大勢で日本の土を踏んでもらいたい」と訴える。再調査の結果は9月上旬にも示される。=敬称略、肩書は当時(山本雄史)
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【用語解説】日朝平壌宣言 平成14年9月17日、小泉純一郎首相と金正日総書記が平壌で署名した。拉致問題を「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」と表現し、北朝鮮は再発防止へ「適切な措置を取る」と約束した。国交正常化交渉の再開、「不幸な過去の清算」が明記され、日本は国交正常化後の経済協力を表明した。
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