演藝, 팻션

ソビエトの記憶を刻んたロシアという新しいモート

이강기 2017. 7. 27. 20:57

FASHION

ソビエトの記憶を刻んだ
ロシアという新しいモート


朝日新聞, July, 25, 2017


                                            

 バルト海に面したロシア領の州都、カリーニングラードの青少年地域文化センターに、青白い顔をしたティーンのモデルたちが集まっている。ここでファッションショーが催されるのだ。エディターやバイヤーは150人前後揃い、40脚ほどのベルベット張りのくたびれた椅子に座っている人以外、大半は立ち見席にいる。32歳のメンズウェアデザイナー、ゴーシャ・ラブチンスキーの2017-’18年秋冬のショーを見ようと、彼らは世界各地からやってきたのだ。


若いメンズモデルたちはキュッキュッというスニーカーの音を立てながら、シンプルな白いカーテンの奥から現れ、錆びかけた鏡が脇に一列に並んだ、細長い寄木張りの床を歩いていく。ミリタリー調の肩章つきシャツ、ネービー風ピーコート、ボックスシルエットのシャツとタイピンで留めたネクタイ、キリル文字で飾った複数のスポーツウェアが登場したこのコレクションは、街の印象と同じくらいに簡素だ。


ちなみに、観客のほとんどは、2017年1月のメンズ・コレクションが開催されたばかりのロンドンから9時間のフライトを経てここに来ていた。そしてその大半は、ミラノ・メンズ・コレクションの皮切りとなる「エルメネジルド・ゼニア」のショーを見るために、翌日にはカリーニングラードの小さな空港を発つ。その後モスクワを経由して、ようやくミラノにたどり着く予定だ。




東欧から吹く風
イラストレーター、ピエール・ル・タンが描く、

さまざまな表情のロシアン・ファッション。

このスタイルの先駆けとなった、

1909年のエキゾティックなバレエ・リュスのコスチュームは、

現在もなお、ジャンバティスタ・ヴァリ、

ヴァレンティノといったヨーロッパのメゾンを魅了してやまない



 冬のただ中に、彼らがここまでしてショーにやってきたのはなぜか。理由は明白だ。ラブチンスキーが今モード界で最も注目されるデザイナーのひとりだから。そして、ロシアが与えるモード界へのインパクトが、20世期初頭の芸術プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフによるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)が巻き起こした旋風に匹敵するほど強大だからだ。バレエ・リュスは、バレエの振り付けや構成に、長きにわたり影響を及ぼしただけでなく、戦前のモードにも空前のインパクトを与え、そのコスチュームはクチュール界にそのまま現れた。どんなファッション史の本であれ、ざっと目を通せばその影響力の大きさがよくわかるだろう。





 1909年にパリで旗揚げしたディアギレフの一団は、パステルカラーや、エドワード王時代のアールヌーヴォーの流麗なライン、大胆な色使いが特徴の衣装をまとって舞台に現れた。バレエ・リュスの舞台装置と衣装を手がけた人物として有名な、ベラルーシ生まれのレオン・バクストは、20世紀初期を代表するデザイナー、ポール・ポワレに影響を与え、ポワレはバクストに触発されたテーマや装飾モチーフの服をデザインした。


バクストが、ロシアの伝統刺しゅうを鮮やかな配色で彩り、民族衣装「サラファン(肩紐つきワンピース)」をチュニックに替えてパンツと組み合わせたなら、ポワレはさらに手を加え、1912年に裾にワイヤを入れた「ランプシェード」や「ミナレット(寺院の尖塔)」というスカートを編み出した。原色使い、ハーレムパンツ、ホブルスカート(裾幅が極端に狭いスカート)、オリエンタルなターバン、ファーやフォークロア調の刺しゅうで縁取りしたコサックコートなどが特徴的なポワレのデザイン革命は、実際のところバレエ・リュスに由来した“表層的な革命”にすぎなかったが、多くの追従者にインスピレーションを与えた。



ディアギレフのバレエ団が1929年に解散したのちも、その影響は後年まで残り、それから約50年後、つまり70年代末にイヴ・サンローランは「ロシア・コレクション」を発表した。1976年のこのクチュール・コレクションには、タッセルつきブーツ、スラブ風の刺しゅう、目を奪うような「パパーハ(コーカサス地方の毛皮の帽子)」が登場したが、これらは実際ロシアのものではなかった。


サンローランがテーマにしたのは“空想上のロシア”だったからだ。同じようにバレエ・リュスも理想のロシアを描いた。ディアギレフは、革命の瀬戸際にあったロシアの現実より、帝政時代の豊かさや美化した農民生活(と農奴の身分)を描き、当時の厳しい現実から目を背けたのだ。また、バレエ・リュスの結成直後に、図らずもロシアで政治的騒乱が勃発したため、彼らはロシア国内での興行が実現できなかった。1909年と1976年のファッションでロシアが象徴したもの、それはただ単に“異郷”だった。過去と、異国の地への憧憬の象徴にすぎなかったのだ。





空想の翼を広げて
1976年のイヴ・サンローランの「ロシア・コレクション」と、

現在活躍するモスクワのデザイナー、

ウリヤナ・セルギエンコやヴィカ・ガジンスカヤの優美なドレス。

ロシアの民族服や王室の衣装は、

ファッションの世界でつねに理想化されて美しく描かれている。



 カリーニングラード市で見たゴーシャ・ラブチンスキーのコレクションは、一見してそれとはまるで違うものだった。確かにロシア的なのだが、どこまでも現実的で夢や理想など投影されていない。ラブチンスキーは、丸刈りで顔は青白く、愛嬌のある笑顔を見せなければフーリガンと見間違えそうな風貌のデザイナーだ。彼はよく、デムナ・ヴァザリア、ロッタ・ヴォルコヴァとひとまとめに扱われる。


ヴァザリアは「ヴェトモン」のデザイナーで、2015年には誰もが羨望する「バレンシアガ」のクリエイティブ・ディレクターにも就任した。ヴォルコヴァは2017-’18年秋冬のショーで「ヴェトモン」と「バレンシアガ」のほか、イギリスの「マルベリー」やイタリアの「エミリオ・プッチ」などのスタイリングを手がけたスタイリストだ。3人は新しいロシアン・スタイルの魅力を発信し、“新時代のバレエ”つまり、東欧と西欧の美意識を融合したムーブメントを繰り広げている。



 


 1991年12月25日に崩壊したソ連の、厳しい制約や奇妙さをテーマにしたラブチンスキーのショーには、欧米のスポーツウェアをコピーしたような服が登場する。次の秋冬向けに発表されたポリエステルのブライトカラーのTシャツには、「футбол(サッカー)」という言葉がプリントされていた。これはアディダスとのコラボレーションアイテムだが、アディダスの3本ラインとキリル文字の組み合わせが、ニューヨークのチャイナタウンでよく目を引く模造品のように見える。


彼は先シーズンも似たようなアイデアを試した。コラボレーターである「カッパ」や「フィラ」のブランド名の下に、彼自身の名前を特殊で装飾的なキリル文字で刻んだのだ。ロシア語を知らないと意味はわからないが、そのひっくり返したような書体のかたまりが何を示すのかはわかる。そこには“よくわからないからこその魅力”があるのだろう。


いま、多くの新世代のデザイナーたちがコレクションに投影するのは、過去のロシアのまばゆい幻影ではなく、ソビエトの時代のリアルな記憶そのものだ。ロシア史を紐解きながら、その現代ファッションへの影響を探る後編。






 一方、デムナ・ヴァザリアはキリル文字を使わない。だが彼の美学にはやはりソビエト的な感性が宿っている。オーバーサイズの服と縮んだような服のちぐはぐな重ね着、フェイクレザーやラメといった癖のある素材、奇妙に崩れたプロポーション......彼のワードローブが連想させるのは、あか抜けない時代遅れの、共産政権末期に支給された服なのだ。ヴァザリアによると、当時、リーバイスのジーンズは密輸するか、あるいは執拗に値段交渉をしなければ入手できない垂涎のアイテムだったらしい。





ソビエトという記憶

ジャン=ポール・ゴルチエの1986年のコレクションと、

現在注目されるデザイナー、ゴーシャ・ラブチンスキーと、

「ヴェトモン」と「バレンシアガ」を 率いる

デムナ・ヴァザリアが提案するクリエーション。

新しいロシアン・スタイルは、旧ソビエト時代の配給服という、

リアルな過去の記憶をもとに生まれた




 彼の故郷は黒海沿岸のジョージアだ。ラブチンスキーはモスクワ出身、ヴォルコヴァは中国とロシアの国境近くのウラジオストクで育った。ヴォルコヴァのスタイリングを見れば、彼女とヴァザリア、ラブチンスキーの3人の美学がいかに似通っているかよくわかるだろう。グランジ的なストリートウェア、合成繊維、大胆な原色使いという彼女のスタイリングのテーマは、3人がともに子ども時代から身につけてきた服装に由来しているのだ。それは、奇抜で冴えないものを好む風変わりな趣味の、いかにも東欧的な、ファッション性が高いとはいえない(少なくとも最近まではそうみなされてきた)スタイルである。


だが、これこそが今ショーのあちこちで見られる、新しいロシアン・スタイルなのだ。だからこそヴォルコヴァは、広告キャンペーンにランウェイ、雑誌のフォトストーリーまで引っ張りだこで、ラブチンスキーの服は世界140軒以上の店で扱われ、ヴァザリアはバレンシアガのクリエイティブ・ディレクターの座に就いたのだろう。



 この新しいトレンドに影響を受けた同じ系統のブランド(ヨーロッパの有名メゾンとモスクワ発の似たようないくつかの新ブランド)は、オーバーサイズで派手な色使いの、どこかアグレッシブなロシア風スタイルを提案している。多くのファッション誌もこのテーマに夢中だ。


「ロシアン・スタイルは大ブーム、ものすごい人気ね」とヴォルコヴァは言う。「私たちは子どものときからこのスタイルを見て育ったの。でも今は見方が変わって、新しさを感じるわ」。3人がともに描くもの、それは典型的なロシアでも、意識的に作り出したものでもない。1990年代に十代だった彼らは、当時肌でじかに感じた何かを表現しているのだ。


70年代に「スタジオ54(ニューヨークの伝説的ディスコ)」に通ったトム・フォードが、当時身につけていたグラマラスなスタイルを後年に蘇らせたのと同じく、彼らは自分たちが経験した現実をファッションに映し出そうとしている。


 だが、だからといってロシアの幻想的イメージや、バレエ・リュスの伝説がモード界から消え去ったわけではない。ラブチンスキーのメインオフィスは、スターリン時代の超高層建築物を背にしたバリカドナヤ駅の近くにあるが、そこから15分ほど歩けばウリヤナ・セルギエンコのブティックにたどり着く。37歳のセルギエンコはモスクワ出身のデザイナーで、ビスチェ、ジプシー風のティアードスカート、数々のイブニングドレスといった、ドレッシーな(でも時折飾り立てすぎた)オートクチュール・コレクションをパリで発表している。マトリョーシカのようにスカーレットレッドの口紅をくっきりと塗って、バブーシュカ風にスカーフで髪を覆ったセルギエンコの外見とそのコレクションは、ラブチンスキーの世界と数百万マイルの距離を隔てた対極にある。







ロシアの保険会社社長で億万長者のダニル・ハチャトゥーロフの前妻だった彼女は、自らがオートクチュールの顧客でもある。そんな彼女のクリエーションは、ロシアの歴史にどっぷり浸かったデザインと、時代の流れに即して積極的に伝統技術を採り入れている点が特徴だ。アトリエでは100名ほどの職人たちが、刺しゅう、ビーズ装飾、スモック刺しゅうなどを手がけている。もともとこういった装飾は、彼女の故郷で旧ソ連領だったカザフスタンを含む、東欧諸国の民族衣装に用いられているものだ。


また、ティアードスカートやコルセットでウエストを絞ったロシアの伝統服に加えて、彼女はロシア王室の肖像画に見られるような、パールで飾った大きなトサカ型の奇妙な髪飾り〝ココシュニック〞もデザインしている。ラブチンスキーとヴァザリアの服がプロレタリアート(無産階級)的ならば、セルギエンコは農民と王妃の装いを奇妙に織り交ぜた服を作っているといえるだろう。


言い換えれば、“スタイルはペザント(農民)風だけれど値段は王室向けの服”であり、そんな彼女のメゾンに通う顧客の多くはロシアの有名人たちである。セルギエンコをはじめ、ヴァレンティノやジャン=ポール・ゴルチエといったメゾンは、ロシアの輝かしい過去をテーマに、帝政ロシアの皇后を彷彿させるスタイルを何度も提案してきた。


確かにこれは、ディアギレフ時代からモード界に繰り返し影響を与えてきた、ロシアのひとつの側面である。そしてこの側面をもとに、ハイネックとロングスリーブのシルエットがどこかロシアの農民風なのに、ファーの縁取りとふんだんなビーズで飾り立てているために、オリガルヒ(ソ連崩壊後に生まれたロシアの新興財閥)にしか手が届かない、そんなドレスの一連が作られてきたのである。



それなら、その対極にあるヴェトモンやラブチンスキーのスポーツウェアに宿る、新しいロシアの美意識とはいったい何なのだろう。ロシアの若者たちは結局、前述のカテゴリーと同様に、受け継がれた伝統を彼らなりに守りたいのだろうか。たとえその伝統に独自の民族文化や、帝政ロシア皇后風の壮麗さが欠けているにしても。あるいは、過ぎ去ったばかりの過去への愛着を表しているのだろうか。「ヨーロッパの人が言う“東欧風スタイル”って、最近できたんじゃなく、90年代に築かれたものなんだよ」とヴァザリアは言う。「90年代はすごくノスタルジックな時代さ。僕やゴーシャが採り入れているその時代の要素は、東欧の人が見ても懐かしさを感じるんじゃないかな。それは今のロシアじゃないんだ。今のロシアはすっかり変わってしまって面白くないから。これから10年くらいたてば、また違ってくるのかもしれないけど」



 



 ロシア本国とは陸続きでない飛び地にあり、かつてドイツ領だったカリーニングラードは、どこから見てもまさにロシア的な街だ。空港には、スターリンの肖像写真に不気味なほどよく似た、ウラジーミル・プーチンのテクニカラー(1916年開発のカラー映像彩色技術)のポートレートが飾られている。カリーニングラードにはモスクワのような魅力も、サンクトペテルブルクのような美しい趣と歴史もない。第二次世界大戦後にソ連領となるまで、ドイツ語で「ケーニヒスベルク」と呼ばれていた過去を彷彿させる数軒の19世紀の建造物とルネサンス様式の華麗な建物以外、ほとんどの建物は個性もなく、どこかみすぼらしい印象である。ラブチンスキーはこの街を「ヨーロッパの中にあるロシアの小片」と呼ぶ。これは彼自身にぴったりあてはまる表現かもしれない。彼のコレクションの、ヨーロッパ、アジア、アメリカ向けの卸売り業務は、パリのコム デ ギャルソンが取り仕切っているからだ。



 ラブチンスキーは、影響されたものもインスピレーションも“ロシアン・スタイル”も語らない。老舗クチュールメゾンがファッション性の高さを示す印としてブランド名に添える“PARIS”のように、彼がデビュー・コレクションでブランドロゴの下に加えた“Россия(ロシア)”が示すものとも違う。彼のファッションには、大胆な、ありのままのロシアがあるだけだ。つまり、彼は自分が作り出す服を、純粋で混じり気のないロシアの国そのものだと捉えているのかもしれない。彼の服は正真正銘、ロシアそのものだと。彼自身と、そして今の人々が求めているのは、まさにこういうファッションなのだろう。何の特徴もないように見えて、実はロシアの現実、つまり今と過去とおそらく未来をも映し出していて、だからやはり注目に値する服——彼らはきっとそんな服を希求しているのだ。



 と、述べてみたものの、実はこんな分析など表層的な言葉のあやにすぎないのかもしれない。