中國, 韓.中關係

中国は歴史から学んでいない 

이강기 2018. 4. 19. 20:41

中国は歴史から学んでいない 


楊海英(文化人類学者、静岡大学教授)

文化人類学者 静岡大学の楊海英教授文化人類学者 静岡大学の楊海英教授

 巨大なうねり見せた「1968」


 今年は1968年からちょうど50年の節目となる。この「1968」に注目すると、世界史の巨大なうねりが見えてくる。


 「私には夢がある」というセリフを残し、人種差別の撤廃を求めたアメリカの黒人公民権運動の指導者、キング牧師が暗殺されたのは同年4月4日である。既に1年前から米軍のベトナムからの撤退と黒人解放運動が結合したリベラリズム運動が高まりを見せており、キング牧師の暗殺は火に油を注ぐ結末をもたらした。やがてロバート・ケネディ上院議員も銃弾に倒れ、都市暴動と大学紛争がこの1年間のアメリカを象徴する出来事となった。



 視点を合衆国から海外へと転じると、米軍の圧倒的な力をもってしても、北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線軍を壊滅できなかったことが目立つ。メディアが伝えるベトナム民間人と米軍兵士の犠牲は、世界規模で反戦・平和運動に発展していった。


 フランスでは「パリ五月革命」が発生した。フランス全学連(UNEF)の学生たちと全国高等教育職員組合(SNESup)の知識人が無期限ストライキを宣言し、労働者との連携を強めていった。哲学者のサルトルも街頭に立ってビラを配り、ソ連を批判しながらドゴール政権を政治的危機に追い込んだ。


 第三世界にとっても、「1968」は存亡をかけた戦いの年だった。弱小ベトナムは決して大国アメリカに屈服しなかったし、アメリカの目と鼻の先にあるキューバも頑として抵抗を続け、フィデル・カストロ議長は「1968年は英雄的なゲリラの年だ」と位置付けた。「ソ連の弟分」である東ヨーロッパ諸国もモスクワからの干渉を拒絶し始めたため、ソ連は8月21日に軍隊を派遣して弾圧し、「チェコ事件」が発生した。

 以上が、中国を除いた世界史年表における「1968」である。



世界を動乱に導いた毛沢東


 1968年を動乱に導いたのは中国であった。53年にスターリンが死去したのを受けて、毛沢東は共産主義陣営のボスになろうと野心を膨らませた。「北京こそが世界革命のセンター」だと、中国政府も人民もそう信じ込んだ。


 毛はチベット人やウイグル人、モンゴル人に対して過酷な抑圧政策をとるとともに、63年8月8日に「アメリカの黒人の反人種差別の正義なる闘争を支援する」と発表。キング牧師死去後の68年4月16日には「アメリカの白人労働者と進歩的人士が黒人と団結することを支持する」と声明を出し、アメリカ国内の分断を図った。

 一方、ベトナムに対しては、ソ連への対抗心から人的物的支援を惜しまず、影響力を誇示しようと懸命だった。フランスに対しても謀略的に動いた。北京に招待されたサルトルはすぐに「汚い、現実的な中国はどうでもいい」と悟ったものの、中国を称賛することでソ連を批判した。北京はサルトルを「進歩的なブルジョア知識人」だと持ち上げ、彼の口からソ連批判の言葉が出たのを喜んだ。西洋の左派陣営に影響力を持つフランスの知識層を自陣に引き留める意義を、毛は重視したのだ。


 日本は当初、「明治百年祭」を粛々として進めようとしたが、その計画は日米安保条約反対、米軍基地反対、第7艦隊の寄港反対などといった市民運動に押さえ込まれた。その代わり「日中国交回復」を求めるスローガンが次第に強まってくる。これもまた、文化大革命中の北京からの陰なる力がさまざまなルートで日本国内に輸入されていたからである。


個人への権力集中が再現した


 中国は単に世界各国へ毛沢東思想を輸出したのではない。「造反有理」と扇動されて立ち上がった青少年たちは紅衛兵と称していた。彼らは上からの教唆で造反したとはいえ、実際は社会主義独裁体制と共産党員の腐敗に不満を抱いていた。毛は彼らの若さと未熟さをうまく利用し、政敵の劉少奇とトウ小平らを一掃した。


 しかし、紅衛兵の一部、それも共産党高官の子弟ではなく一般庶民の子供たちはパリ・コミューン型の民主政治の実施を求めていた。庶民の子弟からなる紅衛兵を異端だと見た毛は彼らを農山村へと追放した。かくして、1700万人もの青少年たちが都市部から追放された。彼らの一部は下放先から国境を越えてビルマの共産ゲリラ部隊に加わり、文字通り、「世界革命の実現」への闘争をジャングルの中で演じた。


 1968年をピークとする文革は、中国だけでなく世界に悪(あ)しき影響を残して幕を閉じた。中国は過去を清算するために81年に「歴史的決議」を採択し、個人崇拝に通じる可能性を排除した。しかし、高官の子弟からなる紅衛兵の一部が権力の座に返り咲くと、文化財の破壊や大量虐殺の責任を庶民の子弟になすりつけた。そして50年過ぎた今日、文革の“落とし子”である習近平氏個人への権力集中が再び実現したのだ。結局、中国は「1968」から何も学んでいなかった証左である