山口県萩市にある松下村塾の塾舎(出所:Wikipedia


(花園 祐:中国在住ジャーナリスト)

 幕末の明治維新において、長州藩は薩摩藩らとともに、尊王攘夷運動の高まりから維新政府樹立に至るまでの間、新政府勢力において主導的な役割を果たしました。時代が移った明治時代においても両藩の出身者は「薩長閥」などと呼ばれ、新政府の主要メンバー地位を独占するなど日本の歴史に大きな影響を及ぼしました。


 その後、薩摩藩出身者は徐々に勢力を弱めていきますが、長州藩出身者は陸軍を中心に強い影響力を保持し続けました。彼らは「長州閥」と呼ばれ、大正時代に至るまで日本の一大エリート勢力としてその名を残すことになります。


 ただそうして隆盛を誇った長州閥も、大正から昭和へと至る時代に、突如として姿を消すこととなりました。


 そこで今回から夏の歴史集中連載として、日本の戦前におけるエリート集団「長州閥」の栄光と衰退について、3週連続でお届けします。初回の今回は、長州閥のルーツについて幕末の時代を見ていきます。

松下村塾に集った初期メンバー


 長州閥のルーツは言うまでもなく長州藩出身者で間違いありませんが、さらに限定するとしたら、吉田松陰が指導を行っていた「松下村塾」出身者へと至ることができます。


 密航未遂(ペリーが来航した際の黒船に乗船して密航しようとした事件)の罪で謹慎を受けた吉田松陰は、郷里の長州藩内で親類とともに松下村塾を開きます。この松下村塾は長州藩の藩校・明倫館とは異なり、出身身分の区別なく門戸を叩いた者をすべて塾生として受け入れ、平等に指導を行っていたことで有名です。こうした塾生受入れの寛容さもあって、伊藤博文や山縣有朋(やまがた・ありとも)といった、当時としては非常に低い身分の出身者であっても指導を受けられました。


かねてから藩内で名声の高かった吉田松陰の主催する塾とあって、藩内からは多くの人間が集まりました。中でも久坂玄瑞と高杉晋作の2人は、その非凡さもあって松下村塾のリーダー格となっていき、吉田松陰の死後も元塾生らを束ねながら尊王攘夷運動を展開していきます。


 なお、維新三傑の1人に名を連ねる桂小五郎(後に木戸孝允に改名)は、松下村塾の塾生ではありませんでしたが、吉田松蔭が明倫館で指導を行っていた頃に彼の指導を受けており、広義で言えば松蔭門下と呼ぶことができます。


高杉晋作のクーデターに塾生結集

 幕末の長州藩では、攘夷派と佐幕派が何度も激しく衝突しながらも、最終的には高杉晋作を中心とする攘夷派が、「功山寺挙兵」(1865年)という藩内クーデターによって幕府恭順派を排除し、藩の主導権を握るようになります。


 このクーデターで高杉の呼びかけに真っ先に応じたのは、他でもない、奇兵隊の支隊である力士隊を率いていた伊藤博文でした。この伊藤に続く形で、当時、奇兵隊本隊を掌握していた山縣有朋も、最初は参加を渋ったものの最終的には合流し、ともにクーデターを成功へ導いています。


 伊藤も山縣も、高杉とは松下村塾で席を連ねた塾生同士であり、個人的にも関係の深い間柄でありました。これ以前の「御殿場英国公使館焼き討ち事件」(1863年)の際にも、伊藤は高杉に従っており、後年、この時に真っ先に高杉晋作の元へ馳せ参じたことを自慢げに語っています。



 そもそも奇兵隊自体が高杉の発案により結成された組織であり、発足当初から彼が強い影響力をもっていました。山縣も、その高杉に見出されたことで奇兵隊の軍監(副官に相当)に任命されています。


 伊藤も山縣も、本来ならば歴史の表舞台に出てこられるはずのない、当時としては低い身分の出身者でした。しかし、松下村塾で得た高杉との知己によって、出世の糸口を掴んだわけです。


戊辰戦争を経てさらに勢力拡大

 その後、薩長と徳川幕府の対立が本格化して戊辰戦争へ突入すると、長州藩は薩摩藩とともに新政府軍の主力を担うことになります。この時、新政府軍諸隊の指揮官には多くの長州藩出身者が採用されました。たとえば松下村塾出身者の品川弥二郎(しながわ・やじろう)や山田顕義(やまだ・あきよし)のほか、後の明治期に活躍することとなる乃木希典(のぎ・まれすけ)や児玉源太郎(こだま・げんたろう)も参加しています。


 戊辰戦争で功績を得たこれらの長州藩出身者は、明治政府内でも相応の地位が与えられ、日本全体の内政や軍事へと直接携わるようになっていきます。


 このように、明治期における長州閥のルーツをたどると、「松下村塾 → 奇兵隊 → 戊辰戦争参加者」といった順番で、そのメンバー規模や権力が拡大していることがわかります。こうして世に出たメンバーがまず中心となり、明治以降に他の長州藩出身者も要職に引き上げていく形で、明治時代初期に長州閥の原型が成立するに至ったと筆者は解釈しています。



一枚岩ではなかった側面も

 ただこうして明治政府とともに成立した長州閥ですが、明治時代初期においては必ずしも一枚岩ではなかったという側面も見られます。


 明治政府の発足当初は、征韓論争をはじめ、その政策や方針を巡り、袂を分かつほどの激論がいくつか起きました。この激論の末に下野した人物も少なくありません。


 たとえば松下村塾出身者でもある前原一誠は、1876年、故郷の山口県で反乱(萩の乱)を起こし、捕縛後に処刑されています。


 また、長州藩出身の重鎮である木戸孝允も1875年の台湾出兵に異議を唱え、一時下野しています。木戸孝允はこの下野前後に、伊藤博文など他の長州藩出身者が、薩摩藩出身の大久保利通らに追従している現状について嘆息を洩らしたとも言われています。


 このようにいくつか衝突がありつつも、幕末での活躍を足がかりに国政に関わるようになった長州藩出身者は、その後、明治政府内で大きな影響力を発揮するようになります。次回は、その影響力により最盛期を迎えた明治期の長州閥について見ていきます。

◎次回は7月29日(月)に公開します。


もっと知りたい!続けて読む
高杉晋作大ショック! 上海で一体何を見たのか
上海を訪れたことは高杉にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。第一に間違いなく言えるのは、軍備、特に兵器への関心を高めたことです。