日本海軍はなぜ大和を建造したのか
戸高一成・呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長[同館提供]【時事通信社】 2019年 08月29日(木)
2019年 08月29日(木)
「世界の最強軍艦」、構想の背後にある戦略
世界最大にして最強の戦艦とされる大和は、1934(昭和9)年10月に建造プロジェクトがスタートした。広島県呉市の呉海軍工廠で1937(昭和12)年11月に起工され、太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年12月に竣工(しゅんこう)。戦争中には期待されたような働きはできず、戦争末期の1945(昭和20)年4月に鹿児島県坊ノ岬沖で米軍機の猛攻を受けて沈没した。
大和の建造プロジェクトがスタートした当時、その12年前に締結されたワシントン海軍軍縮条約で、戦艦など主力艦の戦力には国際的な規制がかけられていた。大和は条約から脱退することを前提に構想されており、そのころの日本が持てる力をすべて注ぎ込んで建造された。
大和の建造をきっかけに、日本は際限なき軍備増強に走り、太平洋戦争になだれ込んだと説明されることも多いが、いったい日本海軍は何を考えて大和を建造したのか、そして大和を建造したことが、わが国の歴史にどんなインパクトを残したのか―。艦船研究者の戸高一成・呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長のご意見をうかがいながら考察してみよう。(時事通信出版局・武部隆)
海軍の仮想敵は当初から米国
日露戦争終結から2年後の1907(明治40)年、日本は国防に関する基本方針となる「帝国国防方針」を初めて策定した。この「方針」は、仮想敵国を定めた上で、その国と戦うための必要な陸海軍の兵力、有事の際の戦争遂行プランを盛り込んでいる。その中で、日本海軍が仮想敵国に据えたのは、太平洋のかなたにある米国だった。その後、「方針」は1936(昭和11)年まで3回改定されているが、海軍の一番の仮想敵国が米国であることは変わらなかった。
ワシントン軍縮条約で主力艦の戦力を米国の60%に制限されていた日本は、条約を破棄しても、その差をすぐに埋められるだけの国力はなかった。条約が失効すれば、米国も軍艦の建造を増強することは明らかで、工業力の差を考えれば、格差解消の可能性はなかったと言える。
戸高館長は「(大和建造の段階で)日本海軍に、海軍力を増強して米国に攻め込もうという発想はまったくなかった」と断言する。
「一発勝負」のコマだった戦艦大和
では、当時の海軍は米国との決戦にどのような戦略を描いていたのか。戸高館長は「マリアナ諸島から小笠原諸島に至る防衛ラインを敷いて、そこで敵の艦隊を迎え撃つというのが基本的な考え方。『専守防衛』とも言ってもいい」と分析する。
防衛ラインで敵艦隊を撃滅し、その後、講和に持ち込む―というのが日本海軍の抱いていた戦争計画のイメージで、要するに相手に先制パンチを浴びせて戦意喪失に追い込む一発勝負の発想しかなかった。
1914(大正3)年から始まった第1次世界大戦で、欧米諸国は国家の持てる力をすべて戦争に投入する総力戦を強いられ、それが長期化する中で、より消耗した側が敗戦国になるという体験をしている。日本は第1次世界大戦に参戦はしたものの、中国大陸のドイツ租借地攻略など限定的な戦闘を行っただけで、長期消耗戦がどんなものかを理解せず、大国を相手に宣戦布告すれば、総力戦、長期消耗戦にならざるを得ないことは、知識として知ってはいたにしても、十分理解していなかった。
戸高館長は「日本海軍が遠征的作戦を考えていなかったことは、太平洋戦争以前は、艦隊の長距離航行に必要な艦隊に同行する油槽船(タンカー)をほとんど建造しなかったことからも明らかだ」と指摘する。実は、日本海軍が世界最強の戦艦を必要としたのも、この「一発勝負」のコマにするためだった。
たった一度しかない決戦のチャンスで確実に勝つためには、他国の艦隊を一撃で撃破できる大型の主砲と敵艦隊に先んじることのできる機動性が必須。このため、大和の設計に当たっては、他国の主力艦を凌駕(りょうが)する巨砲と高速力が何よりも求められた。
戸高館長は「大和の設計は、一度の戦いに絶対勝たなければならないという考え方を前提にしている」と評価する。
「短期決戦」型戦艦を示すスペック
よく言えば「最強兵器」、別の言い方をすれば「決戦1回主義」の軍艦だった大和の設計思想を明らかに示すものの一つが、大和に備えられていた緊急注水システムの考え方だと戸高館長は指摘する。
大和は1945(昭和20)年4月の最後の出撃で米軍機の猛攻を受け、左舷に多数の魚雷が命中、艦内に海水が浸入して左側に大きく傾斜した。そのため、右舷側に自ら海水を注入し、バランスを取った。
合理的なようにも思えるが、浸水して船が傾いたら、主にポンプで排水を試みるのが普通の考え方のはず。船体がダメージを受けて浸水しているところにさらに注水すれば、沈没の可能性はむしろ高まる。
ただし、船体が傾くと、搭載している艦砲を撃てなくなってしまう。大和は沈没の可能性が高まっても、戦うことを何よりも優先する考え方で設計されていた。「損傷を最小限に抑えて戦場を離脱し、急いで修理して戦線に復帰する」という欧米のダメージコントロールの発想と、日本海軍の考え方は異なっていたのだ。
大和がどんな戦艦だったのかを、さらに見ていこう。竣工時点でのスペックは以下の通り。
・満載排水量 7万2809トン
・全長 263メートル
・全幅 38.9メートル
・最大速力 27.46ノット
・航続距離 7200カイリ
・主砲 45口径46センチ3連装砲塔:3基
・副砲 60口径15.5センチ3連装砲塔:4基
・乗組員 2500人
「排水量」とは、軍艦の大きさを示す指標で、その艦船全体の重量を表している。「満載排水量」は、艦船に燃料、水、弾薬、乗組員、食糧、艦載機などを容量いっぱいに搭載した状態の重さを意味する。海上自衛隊の戦闘艦艇で最大のいずも型護衛艦の満載排水量が2万6000トンであることを考えると、大和の巨大さが分かる。
最大速力の27.46ノットは時速50.9キロに相当する。満載排水量7万トンを超える巨艦でこのスピードを実現するには、船体の構造や推進機関のバランスを最適にする必要があった。
航続距離はキロメートルに換算すると1万3000キロを超え、日本とハワイ(直線距離で約6500キロ)を無給油で往復できる能力がある。ただし、この航続距離は16ノット程度の巡航速度で航行することを想定したカタログスペックで、最大速力を出せばこれよりもはるかに短くなる。日本海軍が油槽船をほとんど持っていなかったことを考えると、戸高館長が指摘する通り、大和が敵地に長駆侵攻する構想を前提に設計されたとは思えない。
海軍がこだわった巨砲
大和の主砲は45口径46センチ砲を3門まとめた3連装砲塔3基を装備していた。「46センチ」は、その砲から発射される砲弾の大きさを砲口の直径で示している。一方、「口径」は砲身の長さが砲口の直径の何倍に当たるかを表しており、数が大きいほど砲身はより長くなる。砲身が長ければ、同じ大きさの砲弾であっても、より遠くまで投射することができる。
大和の建造プロジェクトが始まった当時、日本海軍の主力艦だった戦艦長門の主砲は45口径41センチ砲で、最大射程距離は約3万メートルだった。これに対し、大和の45口径46センチ砲は約4万2000メートル先まで砲弾を撃ち込むことができた。
戸高館長は、日本海軍が巨砲とそれを載せる戦艦の速力にこだわったのは、日露戦争での成功体験が背景にあったと解説する。
「日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を壊滅させることができたのは、連合艦隊の戦隊速力の優越と大口径砲の破壊力にあったと日本海軍は分析し、それ以降は戦艦の高速化と主砲の大型化に力を注いだ」という。
また、仮想敵の米国と互角の艦隊を整備することが財政的に不可能なことも分かっていた。だが、射程距離が長い主砲を備える戦艦をそろえ、敵艦の砲弾が届かないアウトレンジから攻撃することで、艦隊決戦が起きる前に相手の戦力を徐々に削り取ることができる。米国が財政力と工業力を生かして強大な海軍を整備しても、アウトレンジからの攻撃で戦力を漸減しておけば、最後の一発勝負である艦隊決戦では互角以上の戦いができるという発想だった。
世界最大の戦艦を完成できた理由は
大和は建造プロジェクトのスタートから竣工まで7年にわたる期間を要したが、この当時、欧米諸国に比べて工業力が高いとは言えなかった日本が、世界最大の戦艦を完成させることができたのはなぜだろうか。
戸高館長は、その理由を「しいて先端的な技術を求めず、それまで積み上げてきた技術を安定的に構築したことにある」と分析する。
確かに、大和は世界最大の巨艦ではあった。だが、設計自体はオーソドックスで、既に稼働していた長門型戦艦の拡大型と評価することもできる。
「先端技術には予想しえないトラブルが潜んでいる。国家の存亡が懸かった決戦に際して、大和が動けないと言うことは、絶対にあってはならないことだった。確実性に重きを置いた設計こそ、大和が優れていたところだ」と戸高館長は解説する。
ただ、技術的に突出した部分がなくても、「世界最大」を机上のプランから実体として完成させるまでにはいくつもの高いハードルがある。戸高館長も「世界最大の戦艦を建造するに当たって、やさしい部分があるはずはないが、完成まで大きなトラブルもなく、驚異的な戦艦を建造しえた現場の建造能力は、世界的に突出していた」としている。
大和が竣工したのは1941(昭和16)年12月16日だ。その8日前の12月8日、日本海軍はハワイ・オアフ島の米海軍根拠地である真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。
真珠湾攻撃は、空母を中核とした機動部隊が米国の勢力圏内に侵入、空母から飛び立った艦上機による航空攻撃で敵艦隊を撃滅するという画期的な戦術で行われた。それまで、戦争の主役である戦艦を護衛する「補助的戦力」と見なされていた空母とその艦上機を、戦力の中核に据えた作戦は、米国はもちろん、各国の海軍関係者を驚かせた。
期待にこたえられなかった巨大戦艦
皮肉にも日本海軍が空母機動部隊の有用性を証明したことで、大和建造の目的であった戦艦同士の「艦隊決戦」が起きる可能性は緒戦の段階で著しく低下した。
日本海軍は大和型戦艦を4隻建造する計画を立てており、2番艦の武蔵は1938(昭和13)年3月に三菱重工業長崎造船所で起工され、1942(昭和17)年8月に竣工したものの、大和と同様、艦隊決戦に参加する機会は訪れなかった。3番艦の信濃は1940(昭和15)年に起工後、空母に設計変更、4番艦は建造そのものが中止になった。
大和型戦艦が当初の期待にこたえられなかったのは事実だが、それをもって無用の長物と決めつけるのは「後出しジャンケン」のような議論にすぎない。
大和は将来の海戦を勝ち抜くために日本海軍が要求した性能を実現していた。戸高館長も「竣工した当時でも、大和が軍事技術の世界的な水準から遅れていた部分は特にない」としている。
対空兵装が不十分だったとの意見もあるが、「戦艦は戦艦と戦うことを目的に建造されており、それを支援するため、戦艦を防空艦で囲んで守るだけでなく、後方に配置した空母の艦上機で制空権を確保することが前提だった。戦艦が対空兵器を積んで自らを守りながら戦うようなことは元来想定されていなかった」のが現実だ。
真珠湾攻撃で米国に先制パンチを与えることはできたが、日本海軍が想定していた艦隊決戦の機会は訪れず、出番のない大和と武蔵は温存された。両艦は戦争末期に戦場へ駆り出されたものの、そのころには戦艦を守る防空艦や空母の戦力は払底し、大和と武蔵は自分で自分を守るしかなかった。
戸高館長は、大和型戦艦が十分な働きができなかったのは、「巨大戦艦を有効に活用するだけの能力が日本海軍指導部になかったから」と指摘する。
ガダルカナル島攻防戦の際、日本海軍の山本五十六連合艦隊司令長官が敵飛行場を大和の艦砲で攻撃するよう主張したことは有名だが、戸高館長は「山本長官の主張通りに大和を出撃させれば、有効な働きをしたと思う。日本海軍の決戦志向は決戦前の損害を恐れて兵力温存に走り、決戦の機会を迎えることなく敗北したとみることができる」と評価している。
軍港・呉が培った技術力の結晶
大和が建造された呉海軍工廠は、1889(明治22)年に設置された海軍呉鎮守府の造船施設としてスタートした。1894~95(明治27~28)年の日清戦争や1904~05(明治37~38)年の日露戦争を経て施設の拡充が進み、当初は艦船の修理しかできなかった能力も順次増強され、1907(明治40)年には当時世界最大の戦艦だった「安芸」を進水させるまでになった。
また、造船施設だけでなく、軍艦に搭載する大砲や機銃、光学装置などを製造する兵器工場や火薬試験場なども併設され、横須賀工廠を上回る日本一の海軍工廠となった。呉の海軍施設で働く職工(技術系の労働者)は、日露戦争当時には3万人を超えた。
同時に都市としての呉も成熟し、1902(明治35)年には人口6万人を抱えて市制を施行、1909(明治42)年には人口が10万人を突破した。ワシントン軍縮条約による海軍力の制限に伴い、呉海軍工廠の規模も一時的に縮小されたが、海軍力の増強が本格化し、大和の建造プロジェクトがスタートすると、工廠の規模は再び拡大された。一時、1万7000人程度まで減っていた職工が、1936(昭和11)年には日露戦争当時と同じ3万人超まで増えていたことも工廠の活況を示している。呉市の人口も同年には24万人まで急増し、町のにぎわいも戻った。
大和の建造は、明治から呉海軍工廠が培ってきた造船技術と高い技能を持った労働者、海軍の仕事を請け負ってきた大小の民間事業者によって支えられていた。世界最大の戦艦を起工から4年で完成させることができた背景に、そうした技術と経験の集積があったことは間違いない。
戦後復興を支えた造船業
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月以降、呉市は繰り返し米軍の空襲を受けた。最も大きな損害を被ったのは、同年7月1日夜半から翌日未明にかけての焼夷弾攻撃で、市街は焼け野原となった。一連の空襲による死者は、民間人だけで死者1949人、負傷者2138人、約2万3000戸の住宅が全半焼し、罹災者は約13万人に上った。
これら空襲による軍施設の被害については記録が残っていないため、詳細はよく分からないが、呉海軍工廠の機能はほぼ喪失したとみられている。
戦時中、40万人を超えた呉市の人口は、同年8月の敗戦によって15万人まで激減した。しかし、呉市が復興するには旧軍施設の活用以外に方法はなく、同年中には民間企業が旧海軍呉工廠の施設を使って沈没艦船の引き揚げや解体、商船の修理などの業務を始めた。
巨大戦艦を建造するという「ものづくり」を通じて得られた現場の力は、戦後の驚異的な経済復興を支える原動力となった。1950(昭和25)年には、旧海軍施設を利用して平和産業を興す「旧軍港市転換法」が成立。その一方、同年に朝鮮戦争が始まったことで、軍需関連の船舶需要が急増し、旧軍施設を活用した造船関連産業が成長した。
敗戦直後、占領軍の命令によって設立された「播磨造船所呉船渠」が、1951(昭和26)年には世界有数の海運会社NBC配下の「NBC呉造船部」と、播磨造船の全額出資による「呉造船所」に分割され、それぞれが造船業に乗り出した。これらの造船産業には、旧日本海軍の造船技術者と海軍呉工廠で働いていた職工らが多く従事し、大和をはじめとした軍艦建造の経験と技術を生かし、次々と商用船舶を世界に送り出した。
高度成長期、日本の造船業には世界中から民間船舶の発注が殺到、1956(昭和31)年には造船工事量が英国を抜いて世界1位となった。特に呉の造船業はタンカーの建造を得意とし、1958(昭和33)年に世界初の10万トン級タンカー「ユニバースアポロ」を、1971(昭和46)年に当時の世界一のタンカーだった「日石丸」を進水させるなど、その技術力は常に世界をリードしていた。
現在、日本の造船業は往時の勢いを失ってはいるものの、呉市では基幹産業として地域の経済を支えている。そこには、大和を建造した呉海軍工廠の歴史が、深く刻まれていることは言うまでもない。
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