清義明(フリーライター)
美輪明宏が、ある日、何かの用事で都庁に出掛けた折、その当時都知事だった石原慎太郎と出くわしたときのエピソードがある。
部下に囲まれて現れた石原は、美輪を見つけると近づいてきて、喰(く)ってかかるように
「三島(由紀夫)を殺したのはオマエだ」と絡んできたという。
美輪はこれに動じず、「ああそうよ、次はアナタを呪(のろ)い殺してあげるわ」と言い返した由。なかなか圧巻な話である。
三島由紀夫と石原慎太郎が、戦後文学の異端児として盟友であり、同時に、鼻先三寸で切っ先を合わせあうようなライバル関係でもあったことはよく知られている。ともに戦後民主主義に対する「価値紊乱(びんらん)者」としてその存在を誇示し、作品が放つ熱量と衝撃波を追い風にして、映画や週刊誌といった当時の最先端メディアを巧みに利用した。そして、両者は競い合うようにして政治の世界に足を踏み入れた。
一方、美輪も価値紊乱者であった。美少年のバイセクシャルな歌手として、夜の銀座に名を轟(とどろ)かせ、また同性愛者ということも公言していた。やはり自身が同性愛者であることをほのめかすように『仮面の告白』や『禁色』といった小説を発表して話題をさらっていた三島は、美輪にぞっこんとなって、当時の「ゲイボーイ」の美少年が集まるクラブで逢瀬(おうせ)を楽しんだという。
このクラブのバーテンダーだった、まだ世に出る前の野坂昭如は、当時の三島を「末成(うらな)りの瓢箪(ひょうたん)」「額ばかり目立つ虚弱児そのもの」だったと回顧している(野坂はこのクラブで客からの男色の誘いを断りながら、10日勤めて辞めている。後年、野坂もまた、この期に三島、石原と続く、戦後民主主義の価値紊乱者の一人として人気作家となり、メディアのトリックスターとして君臨し、そして後には政治の世界に足を踏み入れることになる)。
石原が「三島を殺したのはオマエだ」というのは、それなりに当たっているのかもしれない。その一つは、三島の虚弱体質にあからさまな嘲笑を浴びせていたことだ。
あるとき、三島とダンスをしようとクラブのフロアで体を絡めた際、三島の腰に手をまわした美輪は、豪勢なスーツの下に貧弱な体が包まれていることを大げさに言い立てて、「スーツの中のどこに三島さんはいるの?」と笑ったそうだ。三島はそれでショックを受けたようだ。そのままクラブから帰ってしまい、しばらく美輪のもとに現れなかったという。
三島由紀夫の評論や回想録で異彩を放つものに、石原慎太郎の『三島由紀夫の日蝕』(新潮社 1991年)がある。
雑誌「新潮」に初出掲載時、サブタイトルには「その栄光と陶酔の虚構」とつけられていた。これが発表されたのは出版に先立つ1990年。三島の没後20年の三島の特集号で、今から30年前の話となる。
三島は本人いわく、昭和32年の頃から内なる芸術至上主義と決別したという。ボディービルで鍛錬した肉体を誇示するようにしながら、文武両道を称揚し、ボクシングや剣道や居合抜きなどを始めたのはこの頃だ。そして、周りには自分のことを知りたいなら、そのときの経験を記した自伝的評論『太陽と鉄』を読めと自薦していたという。
肉体による自意識の超克を楽観的に夢想し、そこに生の謳歌(おうか)を語る形而上学的かつ難解な論理が続く『太陽と鉄』に、私は初めて読んだときから困惑し続けている。貧弱な肉体を意識していた三島が、あるときにこれを自ら意識的にコントロールすることに舵(かじ)を切って、己の文学の足場を移動したということは確かに分かる。しかし、逆に何も変わっていないのではないかという疑問も私にはある。壮麗な論理に見えて、実は陳腐な独りよがりを言っているだけなのではないか。
そこを痛烈についたのが石原である。『三島由紀夫の日蝕』で、石原はその『太陽と鉄』を「大仰な嘘」「うさん臭い自己告白」「怪しげなアッピール」と徹底的に揶揄(やゆ)し否定した。理由はある。それは石原が三島の肉体オンチぶりを間近に見てきたからだ。
三島のボクシングのスパーリングでは、子供のようなストレートしか打てず、フックを打つようにアドバイスしても、「フックはまだ習っていない」と弱音を吐かれ、コーチはため息をつく。プールでクロールを習ってもうまく泳げない。
剣道では「面」の掛け声と動作がちぐはぐで、竹刀を振り下ろし続けるうちに、声と動作がますますずれていく。三島本人は剣道五段を自称していたが、これはよくある有名人へのサービス認定の段位で、せいぜい二級か三級程度の実力。どういうわけか、三島は手首をうまく返り返すことができないため、もともと剣道には向かないのだ。さらに真剣を使う居合抜きまで習うが、得意になって披露しようとすれば、振り上げた刃が鴨居(かもい)に突き刺さってしまい、慌てて抜こうとして力加減を間違い、自慢の銘刀の刃先をこぼれさせてしまう。
肉体と官能の優位性と暴走、その残酷さと対峙することを己の文学のテーマとしてきた石原慎太郎は、その作品の値打ちを裏書きするように、自らがスポーツマンであることを誇ってやまなかった。だから、三島の『太陽と鉄』の「陶酔」が「虚構」であると容赦なく言い放つのは当然のことなのだろう。
三島はボディービルで肉体を鍛えあげた。しかし、石原はボディービル自体を、何かの目的がない観賞だけのためにあるものとして、素晴らしい身体とは何かの行為を目的として鍛錬されるもので、ことさら誇るためのものではないという。その肉体はいわば虚構ということだ。そして、それは三島の死にしてもそうだった。徹頭徹尾、ナルシシズムが根底にある意識的なもので、目的性とは遊離して発現したのがあの事件だった。
市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に三島の私兵集団である「楯の会」のメンバーとともに乱入し、将官を拘束したうえで、三島と一人の若者が割腹自殺を遂げた1970年の事件は、本来、何か得体のしれない思想に取りつかれた狂人の愚行に過ぎず、週刊誌…現在ならばネットの記事で数日ばかり注目されて、それから何事もなかったかのように忘れさられていく類いのものだ。背後に大きな政治勢力もなく、被害も結果的にはさしたるものはなく、首謀者はその場で自殺するという自己完結した事件である。
この事件が複雑であり、またいまだに語り継がれるのは、彼が当時、当代随一の作家であり、そしてこの凶行に至るまで、壮麗な迷宮のような文学作品をいくつも残し続け、それが結果的に犯行声明となる仕掛けが施されているからだ。
あの事件からおよそ50年経過した今、私はこの事件を全くのペテンで、ナルシシズムに彩られた「手の込んだ自殺」として受け取るのが、差しあたり正しいと思う。
戦争中の死が身近に迫った世界の荒廃に、退廃と夭折(ようせつ)の美学を見いだした戦中派の青年は、戦後に絶望し続けてきたという。しかし、その戦中派の青年すらも、その疎外と孤独を逆転させ、虚構を作り出してきたのではないか。そしてそれを楽しんできたのも本人なのではないか。
三島の生涯は、反動的で人にさげすまれ、軽蔑される存在を一貫して目指していた。三島が作品の中で描き、自らも没入していった被虐趣味と性的倒錯と死。それが忌まわしいものだからこそ崇高な価値を帯びるという逆説を三島は体現し続けてきた。背徳者として後ろ指をさされることを三島は選び、それを演じ続けていた。
三島の出世作『仮面の告白』の主人公の「私」は、殺される王子を夢見、女流奇術師のいで立ちをマネしてはしゃぎ、矢が突き刺さった青年の半死の裸体を見て自慰を始める。
そして三島の最後は「おもちゃの兵隊」と揶揄(やゆ)された、西武百貨店でデザイナーに特注した豪華な軍服に身を包み、自らの私兵集団の王子として、自分の体に刃を突きたてた。こうして、三島の生涯は完璧に作品に一致することになる。現実と虚構が重なり、そして一体のものとて錯視できる。三島が目論んだものはこれなのだ。
だから、天皇論や右翼的な思想なぞはそのために必要とされる舞台回しで、メルヘンにしかすぎない。『太陽と鉄』以上に、虚構が破綻し、支離滅裂とも言える天皇崇拝のステートメントである『文化防衛論』は、現代の右翼勢力でも取り扱いに困惑し、棚上げせざるを得ない状態になっている。石原が嘲笑した、三島の剣道の掛け声のようなものだ。その思想を語れば語るほど現実から三島は乖離していった。
その三島のふるまいを滑稽だと笑うこともできる。虚構だということもできる。しかし、滑稽や虚構は、それだからこそ崇拝されるということもある。それを三島は正しく計算していた。
三島事件は、芸術としてつくられた事件で、「文学的な政治」の極地であった。私たちは、ここから政治的な何かを受け取る必要もない。人生そのものを作品としてしまった壮大なトリックにただ圧倒されればよい。三島の芸当を模倣してはいけないし、それに続くものもいないだろう。ただその孤独の異様さに崇高の念を抱くだけでよいのである。
追記:「三島を殺したのはオマエだ」と石原慎太郎が喰ってかかったのは、美輪明宏が肉体的虚弱をからかって、後の異様な肉体ナルシシズムへの道を開いたことと、もう一つある。それは、ある時美輪が三島に霊がついていると脅したことだ。その霊の顔が見えるという美輪に、三島はどんな顔だと尋ねると、軍服を着ているという。それを美輪は、天皇に弓引いた逆賊とされ刑死した2・26事件の首謀者の一人、磯部浅一と告げた。三島事件の前年のことである。(文中敬称略)