2月19日、総選挙への立候補を表明した太永浩・元北朝鮮駐英大使(写真:ロイター/アフロ)

(朴 承珉:在ソウルジャーナリスト)



「平壌出身の新人、太永浩候補52.3%、当選4回目の共に民主党候補36.8%」


「遊説場では、黒いスーツを着た警護員約20人が厳重な警備をした」


 4月15日に投票が行われる韓国の国会議員総選挙。ある“注目候補”を巡って、こんな報道が最近メディアを賑わせている。2016年8月に韓国に亡命した太永浩(テ・ヨンホ)元・駐英北朝鮮大使館公使その人である。


 太氏は、ソウルでも屈伸のビジネス街、最高の金持ちの町の一つの新都心「江南(カンナム)甲」から立候補したのだ。



大量の保守票が見込める江南の選挙区

 太氏が中央選挙管理委員会に登録した名前は、「太救民(テ・グミン)」だ。北朝鮮によるテロの可能性に備え、韓国で戸籍を登録する際に登録した名前だ。北朝鮮住民を救わなければならないという考えから「救民」(グミン)としたのだという。 


 ただ、知名度で言えば改名前の名前である「太永浩」に分がある。だからその認知度を活用するため、太候補はピンクの選挙ユニフォームに「テ・グミン」と「テ・ヨンホ」の2つの名前を同時に付けて選挙運動をしている。


 太氏が出馬した、江南区は1992年以来28年間、一度も進歩(革新)系の候補が当選したことがないほど保守性向が強い地域だ。それだけに、保守系政党で最大野党の未来統合党から選挙に立った太氏は、この政党に最高の待遇で迎え入れられたと言えよう。


参考までに、この江南甲以外の注目選挙区を紹介しよう。 

 

 江南甲と並んで首都圏の激戦区の一つとなっているのが、2022年の大統領選挙の前哨戦と呼ばれる、与党・共に民主党の李洛淵(イ・ナギョン)候補と最大野党の未来統合党の黄教安(ファン・ギョアン)候補が争う鍾路区(チョンノグ)だ。両候補は、次期大統領候補の支持率1位と2位で、今回の選挙でも激しく競い合っている。


 広津区(クァンジン)も最大級の注目を浴びている選挙区だ。公共放送局KBSの元女性アナウンサーで、青瓦台(大統領府)報道官を経験した、民主党の高旼廷(コ・ミンジョン)候補と、未来統合党の次期大統領選候補の一人と名乗る呉世勲(オ・セフン)前ソウル市長が真っ向から対決しているからだ。


革新系の重鎮をリード

 さて、太永浩氏の選挙に話を戻そう。太氏の最大のライバル候補は、共に民主党の候補で、過去に別の選挙区から4回当選を果たしている重鎮・金星坤(キム・ソンゴン)元議員だ(注・韓国では国会解散がないため当選4回でも、16年の国会議員の経歴を持つことから「重鎮」と呼ばれる)。


 先にも触れたが、江南甲は30年近く進歩系(革新系)政党の候補が当選できないほど保守性向が強い地域だ。それだけに共に民主党は経験十分な金氏をぶつけてきたのだろう。しかし太氏は現在、厚い保守層からの支持に加え、太氏本人の大衆的認知度にも支えられ、進歩系の金氏を大きくリードしている。


 9日、通信社ニューシスが世論調査機関リアルメーターに依頼し、ソウル市江南甲選挙区に住む満18歳以上の男女512人を対象に6~7日に世論調査を実施した。それによると、太候補は52.3%、金候補は36.8%の支持率。その差は15.5ポイントで、誤差範囲(±4.3%)をはるかに超え、太候補リードという結果になった。


 3月30日、中央日報の依頼で実施したイプソスの世論調査の結果でも、太氏42.6%、金33.7%で太氏の支持率が高かった。


選挙戦をかなり優位に展開していると言えるが、気が抜ける状態ではない。 

 

 例えば、太氏が野外遊説をする時は、1時間前から私服を着た警護員約20人が物々しい警備をしている。というのも、親北朝鮮左派の「韓国大学生進歩連合」(大進連)が以前から決死隊を作って太氏へのテロを公言していたうえ、北朝鮮がスパイを送り込んでいる可能性もあるからだ。大進連は、昨年10月、ソウルにある米大使公邸の敷地に侵入してデモを行い、警察が出動する騒動を起こしている。そうした万が一に備えた警備なのだ。実際、2018年11月には大進連が、「太永浩逮捕組」を結成し脅迫したため、太氏の講演が中止されたこともあった。


相手候補からのネガキャンを返り討ちに

 そうしたテロの懸念もゼロではないものの、選挙活動中の太氏は精力的に動き回っている。


 遊説や選挙活動する際に太氏は、ジーンズとスラックスを1日ずつ交互に履いている。それには理由がある。太氏がスラックスを履いて選挙活動していたところ、ある有権者から「若者に近づくためにはジーンズを履かなければならない」と言われ、すぐにジーンズを購入した。ところが、別の住民からは「江南の人々はプライドが高く、ジーンズよりは品格のあるスラックスを好む」と聞かされた。こうしたことがあり、交互に履くようにしているのだという。


 現在、地域住民から連絡を受けた太氏が、その住民の元を直接訪れて苦情を聞く活動は、「太デリバリー」として有名になっている。


 何としてもこの選挙区で議席を獲得したい対立陣営も必死だ。太氏に対するネガティブキャンペーンも積極的に仕掛けている。


 選挙区のライバル・民主党の金候補は、イギリス大衆紙『ミラー』の2006年の記事を引用しながら、太氏の息子が「北朝鮮最高」という意味のIDを使った、と太氏を攻撃した。


 2016年8月の『ミラー』によると、太永浩氏の次男が、シューティングゲーム『カウンターストライク』に一年間で費やしたゲーム時間は累積で約360時間に達したのだという。さらにこの「熱烈なゲーマー(avid gamer)」は、ゲームIDに「北朝鮮が最高のコリア」(North Korea is Best Korea)という意味の「NKBK」を使ったと報じていた。


 金氏はこの報道をほじくり返したわけだ。そして「太氏の息子が『北朝鮮が最高のコリア』を意味する『NKBK』をIDに使った」との批判を展開したのだが、すかさず太氏に反論されてしまった。


「2016年の記事を引用して、当時、高校生だった子どものゲームIDまで、ネガティブに利用する民主党候補の姿を見ると失望を超えて惨憺たる気持ちになります」


「ところが、金星坤候補、探す番地を間違えて、かなり間違えられたようです」


「『North Korea is Best Korea(NKBK)』は、北朝鮮問題に関心がある人なら誰でも知っている西欧で北朝鮮をあざ笑って使う一種の反語法です。当時、北朝鮮の抑圧から自由を渇望した息子が大胆に使ったゲームのIDでした」


「江南の品格ある選挙を毀損するレベルの低いネガティブキャンペーンです。私の2人の息子は大韓民国の国民であることを誰よりも誇らしく思う平凡な青年として生きています」

 このネガティブキャンペーンは、完全に失敗に終わった。


「チョ・グクを生かすか、経済を生かすか」

 現在、両政党の選挙用のキャッチフレーズを見ると、与党・共に民主党は、「総選挙勝利が、すなわちコロナ勝利」と、新型コロナウイルスへの対処がうまかったとしてアピール材料に使っている。


 青瓦台(大統領府)は、新型コロナウイルス事態以後、外国首脳との20回目の通話をしたとし、8日にも「相手国の首脳の要請による電話があった」と明らかにし、各国が韓国の防疫支援を要請してきたと伝えた。連日、文大統領の「コロナリーダーシップ」を広報し、これを学ぶという外国首脳の発言内容を紹介しているのだ。


この選挙戦には、現在裁判中の曺国(チョ・グク)前法務長官も“加わった”。チョ・グク前長官は、フェイスブックにメディアのコラムを引用し、「コロナショックも韓国がもう一度飛躍する機会になる可能性がある」とし、「(こうした主張を)『国ポン』(グクポン。国家+ヒロポンの合成語で、極端な民族主義または自国優越主義を嘲笑する言葉)というのなら、その『国ポン』の呼称は喜んで甘受する」と述べた。

 

 この総選挙で、与党・共に民主党が勝利を収めれば、チョ・グク氏を起訴した韓国検察を骨抜きにすることも可能になる。だから最大野党未来統合党は、「チョ・グク(前法務長官)を生かすか。経済を生かす(蘇らせる)か」を選挙スローガンに掲げ、有権者に訴えている。


急ごしらえの「親北」市民団体からも攻撃

 太氏の遊説の様子を見ると、非常に腰が低いのが分かる。漢江(ハンガン)公園を往来する市民に向かって演説するときには、最初に腰を90度に折って挨拶した。「ちょっとご挨拶します。以北(北朝鮮)からまいりました」。市民たちが「分かっています。当然分かります。頑張って下さい」と叫ぶと、太氏は2度、3度頭を下げて答礼した。警護員たちは太候補の周囲を一刻も離れなかったが、太候補は自由に遊説した。


街頭で選挙活動をする太永浩氏


 太氏は、文在寅政府の対北朝鮮政策について、以前から「今の対北朝鮮政策はとても屈従的」だと言ってきた。「国会に入れば統一という大きな流れを作ることができる統一哲学を立てるための立法活動に乗り出す」と約束した。


 だが、その北朝鮮にとって、太氏は裏切り者に他ならない。決して国会議員になどなってほしくはない存在なのだ。


 だから太氏が未来統合党に迎え入れられるとすぐ、北朝鮮の対外宣伝媒体の『メアリ』(山びこ)には、『対決狂信者のごみ迎えのゲーム』というタイトルの文章を掲載した。太氏を「我が共和国で国家資金横領罪、未成年強姦罪など、あらゆる汚い犯罪を犯し、法の厳しい審判を避けて逃げた天下の俗物、到底人間の部類に入れないごみ」と罵倒する内容だった。


 さらにこの記事を受け、にわか造りの左派市民団体『ロウソク国会作り4.15総選挙市民ネットワーク』なる団体が、3月25日、ソウル市内の警察庁前で記者会見を開き、「未来統合党の太永浩国会議員候補を告発する」と明らかにした。そして「未成年性犯罪の疑惑が提起された以上、これを調査して真実を明らかにしなければならない」と主張したのだ。


 同団体はまた、2017年に平壌出版社が発行した本を引用して、太候補の麻薬疑惑を提起した。読者はもうお気づきだと思うが、これも太氏を落選させるための左派団体のネガティブキャンペーンの一環なのだ。


亡命者として初の選挙区選出国会議員となるか

 今回初めて選挙に臨む太候補だが、地域住民に直接会う対面活動に加え、フェイスブック、インスタグラムなどのSNSを活用した選挙運動も積極的に行っている(注・太氏が作ったカカオトークの記者たちのグループ部屋に、200人余りの記者たちが参加しており、太氏はここに毎日数件ずつ情報を発信している。筆者もこのカカオトークグループ部屋に入っている)。


 政界では「太候補が当選すれば、脱北者を江南の有権者が代表と認めたという点で『神話』になる」という話が出ている。北朝鮮の亡命者が国会議員になった例は過去にもある。2012年4月の国会議員総選挙で、趙明哲(チョ・ミョンチョル)元金日成総合大学助教授がセヌリ党から立候補し、比例代表で当選した。だが、地域区(選挙区)から出馬して当選した例はまだない。


 太氏がもし当選したら、北朝鮮の一般住民はどう受け止めるだろうか。大きなショックに見舞われるかもしれない。北朝鮮でも「江南」という地名はよく知られているという。韓国資本主義の心臓部と呼んでもいい地名だ。そこに住む裕福層を代表する議員が、自称「労働者天国」である北朝鮮からの亡命者ということになれば、こんな皮肉な結果はない。北の一般市民だけでなく、指導部も相当な衝撃を受けるはずだ。

 金一族の独裁政権に嫌気がさして亡命した太永浩氏が、国会議員となり北朝鮮問題に関する立法活動などに乗り出せば、「親北」である文在寅政権にとっても好ましくないことになるだろうし、金正恩委員長には目の上のこぶになろう。その意味では太永浩氏の当落は、北朝鮮ベッタリの文在寅外交に対する審判の結果でもある。