フランスの画家ミシェル・セールが描いた18世紀にフランスを恐怖に陥れた黒死病の様子(Wikipediaより)


「パンデミック」とは、ある感染症が世界中に広がることを言います。歴史上、最も名高いパンデミックとは、おそらく1348年からヨーロッパで流行し、ヨーロッパの人口の3分の1が死に絶えたと言われる「黒死病(Black Death)」ではないでしょうか(現在では、死亡率はもっと高かったと考えられています)。


 パンデミックという現象は、人々の往来が激しくなるからこそ発生します。連載の第41回目でも述べましたが、かつてモンゴル帝国によってユーラシア大陸が平和になった時期がありました。いわゆる「タタールの平和」と呼ばれるこの時代、それまでにないほど遠い地域との交易が進展しました。つまりヒトの往来が非常に活発になったのです。しかしこれは、同時に病原菌やウイルスも急速に広範囲に伝播する結果を生んでしまいました。


「黒死病」というのはペストであったとされています。そして現在の中国・雲南省に侵入したモンゴル軍が、現地のペスト菌に感染した齧歯類(主にクマネズミとされている)と、その齧歯類に寄生するノミを他の地域に持ち出すこととなってしまい、ついにはヨーロッパ全土に黒死病が蔓延することになってしまったという説が主流です。ヨーロッパに広がる過程では、活発な交易を支える商業ルートが災いしてしまったと考えるのが自然でしょう。ちなみに「黒死病」という病名は、皮膚が内出血によって紫黒色になることから名付けられました。病態も急激に悪化するので、当時の人々を恐怖で震え上がらせたに違いありません。


 最近では、黒死病はペストではなく出血熱ウイルスではなかったかという説も唱えられ論争になっていますが、いずれにしてもタタールの平和によってヨーロッパに商業ルートを伝って移動したと考えるべきだと思います。モンゴル帝国によるユーラシア大陸の制覇がなければ、黒死病によるパンデミックはなかったのかも知れません。


人口過多のヨーロッパ

 14世紀中ごろにヨーロッパで黒死病が大流行するおよそ200年前の12世紀には、地中海貿易の中心は、ムスリム商人が支配した北アフリカやイベリア半島から、イタリアに移行してきた時代でした。主としてムスリム商人が東南アジアからエジプトのアレクサンドリアに運んできた香辛料を、イタリア商人が大量に買い取り、イタリア半島を経由してヨーロッパ各地に流通させるようになってきたのが大きな理由です。


「レバント(東方)貿易」と呼ばれるこの貿易活動以外にも、毛織物産業の発展、銀行など金融業の整備などもあり、イタリアはヨーロッパで経済的にもっとも発展した地域でした。



またイタリアだけでなくヨーロッパ全体で、農業技術が改善され、たくさんの食料、とくに穀物が生産されるようになります。耕地を三分して作物を替えることによって地味の低下を避ける三圃制農法の普及などで、食料の生産量は増えました(それ以前には耕作地と休耕地を一年ごとに入れ替える二圃制農法が主流でした)。

 しかし食料生産の増加は、ヨーロッパに大きな問題をもたらすことになりました。ヨーロッパで疫病が発生しやすくなったということです。交易が増加すると、ヒトの移動が増えます。ヒトからヒトへと、さらにはヒトとともに移動する齧歯類やノミ、ダニなどからさまざまな病気がヨーロッパに輸入されることになりました。それだけではありません。人口が多くなるということは、人々が密集するようになり、病原菌やウイルスに簡単に感染するようになり、病気が広まる可能性が高くなるのです。


 中世のヨーロッパ都市には、周囲に城壁がありました。それは都市と他地域を区別するためだったのですが、いったん病原菌やウイルスが侵入すると、病気が蔓延することになりかねません。また当時の都市は、現代のように下水道が発達しているわけではありませんから、衛生環境も決して良好なものではありませんでした。そのため感染症が発生しやすく、平均寿命も決して長くなりませんでした。近代になるまで、都市は農村よりも死亡率が高く、農村からの農民の流入が絶えず必要とされたのです。


 こうした環境が、イタリアを経由して入ってきたペスト菌が、ヨーロッパ中でパンデミックを生じさせる前提条件となっていたのです。


ペスト菌の感染ルート

 黒海に面するクリミア半島に位置する貿易都市に、カッファがあります。イタリア人はここを、貿易の拠点としていました。カッファは、アレチネズミ、ジリスなどの病原菌をもつ動物がいる南ロシアに隣接していました。

【地図1】黒死病の展開(出典:D. Cesana, O.J. Benedictow, and R. Bianucci,“The origin and early spread of the Black Death in Italy: first evidence of plague victims from 14th-century Liguria (northern Italy)”『Anthropological Science, Vol. 125(1)』p.17の地図を元に作成)©アクアスピリット
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 1346年4月、ロシアのジョチ・ウルス(いわゆる「キプチャク・ハン国」)でペストが発生しました。それが、カッファに伝染したのです。ただ、1347年の冬は大変寒く、ペストの流行はそこでいったん収束しました。



しかし、翌年の春が始まった頃、イタリアのジェノヴァとヴェネツィアのガレー船(地中海で使われていた人力でオールを漕いで進む船)が、カッファを出航した時、悲劇が始まります。彼らが使用していたガレー船は、1347年初めにビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルで、すでにペスト菌をもつ齧歯類(あるいはその齧歯類に寄生していたダニ)を載せていたと考えられています。

 

 ヴェネツィアのガレー船は、クレタ島に到着し、ここに黒死病をもたらします。しかし、ヴェネツィア人がペストに気づいたのは1348年のことでした。


 一方、ジェノヴァの2隻のガレー船はシチリア島北東部にあるメッシアに到着します。さらに途中でサルデーニャ島とコルシカ島に立ち寄り、この二島に黒死病をもたらしました。


 ジェノヴァのガレー船は、1347年7月後半ジェノヴァに到着します。その途中で、マルセイユに立ち寄り、そこに黒死病をもたらしたようです。同年11月、他地域よりも早く黒死病の患者がこの都市で確認されています。


ペストの広がり

 黒死病の本格的な流行は、1348年から始まりました。【地図1】にあるように、ヨーロッパ各地に伝染していきます。ヨーロッパではすでに商業ネットワークが広がっていました。この時代のヨーロッパの商業ネットワークは、こんにちのそれと比較するとはるかに小さいのですが、感染症をヨーロッパの隅々にまで運ぶ程度には、十分発達していたのです。商業が発達するほど、病気も広まりやすくなるのです。


 ただし【地図1】をよく見ると、スカンディナヴィア半島やロシアの一部に黒死病が広まっていない地域があることは、ヨーロッパ内部で、まだ商業ネットワークに組み込まれていない地域があったことがうかがえます。


 14世紀には地中海においてはイタリア諸都市が、北ヨーロッパにおいてはハンザ同盟の諸都市が商業を発展させていました。そしてこの2つの商業圏がアルプスを越えて取引することで、ヨーロッパの経済圏が一体化していきました。この2つの商業圏の結びつきが無ければ、もしかしたら黒死病はクリミア半島の一部、あるいはクリミア半島とイタリア北部だけで済んだかも知れませんが、残念ながらヨーロッパ全体に災厄をもたらすことになってしまいました。


 このパンデミックは、商人が移動することで広がりました。黒死病の広がりに必要だった時間は、比較的な長かったことが、【地図1】から読み取れます。最初に黒死病が発生してから、7年をかけてヨーロッパ全土に広がっています。これは、当時の交通状況の現れです。


 流通網が発展すればするほど、感染症拡大の速度は速くなります。昨年12月に中国・武漢市で初めて感染者が確認された新型コロナウイルスは、今年の2月末には南極大陸を除く全大陸に拡散していますが、もちろんそれは現在の交通と物流のネットワークが発達し、ヒトとモノが激しく、スピーディに動いているからにほかなりません。


ところで、イタリアに関する死亡率は、おおよそ60%であったと推測されています。女性と子どもの方が、死亡率が高かったと言われています。イギリスやフランスの死亡率もこれと同じ程度ではなかったかと推測されています。ジェノヴァの人口は、6万人から2万4000人にまで低下したと考えられます。

 

 さらにまた推測されるのは、農村部よりも都市部の方が死亡率が高かったので、死亡率が60%という数値は、実際のパーセンテージよりも高いのではないかということです。まず第一に、都市の人口の方が計算しやすいということがあります。


 それ以外の理由として、都市に住む人々が都市から逃れ、農村に移動したことがあります。都市からいなくなった人がいたのですから、都市の人口そのものが減少します。彼らは、より空気がきれいで、人口密度が低い農村に移動し、黒死病から逃れようとしました。防疫学が発展していないこの当時、黒死病にならないための最良の方法が、農村への移動だったのです。


黒死病の影響

 ボッカッチョの『デカメロン』は、この黒死病の大流行によって生まれた作品です。この物語は、黒死病が猖獗を極めたフィレンツェから郊外に逃れた10人の男女が、退屈しのぎに披露した自分たちの恋愛談をまとめた、という体裁の作品です。実際に当時、黒死病から逃れるために、都市から郊外に逃れた人々が多数いました。ということは、同時にそうした人たちから郊外にペスト菌がもたらされたケースもあったに違いありません。


 黒死病の経験は、ヨーロッパの人々の精神に大きな影響を与えました。これ以降、封建社会の呪縛から解き放された人々が増加するようになったとされます。もちろん、世の中はまだまだ封建社会でしたが、黒死病は、新しい精神が生み出される契機となったのです。


 この疫病により、都市部でたくさんの人々が亡くなりました。40度もの高熱を発し、呼吸困難になり、数日間で死亡したのです。黒死病の猛威は、信心深い人にも、そうでない人にも同じように襲ったのです。この恐ろしい病から逃れるため、郊外に飛び出していく人もいましたが、真っ先に逃げ出した人の中には高位聖職者もいたようです。こうなると、人々の間で、キリスト教に対する信仰心が揺るぎだします。


 また、人口が大きく減少したため、労働者が少なくなり、労働者の賃金は上昇することになりました。人々を農奴として土地に縛り付けておくことはできず、自分の土地をもつ農民が出てくる基盤が形成されました。

 黒死病の大流行が終わると、精神的にも経済的にも、ヨーロッパは新しい世界となりました。ローマ教皇庁の権威は以前よりもずいぶん低くなります。人々は古い絆から取り放された世界で、新しい思想をもちはじめました。それは、ルネサンスを生み出し、やがて近代社会誕生へと至る道筋を切り開いたのです。


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戦争がつくった近代国家と近代財政


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