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習近平国家主席 大衆の熱狂なき個人崇拝とその原点

이강기 2020. 7. 23. 20:33

習近平国家主席 大衆の熱狂なき個人崇拝とその原点

柴田哲雄 愛知学院大学准教授

朝日新聞

2020年07月23日

 

個人崇拝文化大革命毛沢東紅衛兵習近平

 

 

 

北京でアフリカ諸国の首脳とのオンライン会議に参加した習近平国家主席=2020年6月17日、新華社

 

 かつて一人の勇気ある女性が、罪のない人々を何百万も何千万も死に追いやった独裁者を批判した。当然のことながら、その女性は当局に逮捕され、ありとある拷問を加えられた。それでもその女性は屈服することなく、独裁者を批判してやまなかった。当局は、死刑判決を下したが、執行に当たって、その女性がいまわの際に独裁者を批判する言葉を口にできないようにするために、事前に喉をかき切ることさえした。それから数十年の歳月が流れ、ついに昨年9月、その女性は母国の政府代表から「最も素晴らしい闘争者」として顕彰されるに至った。

 

 読者はきっとこの話の舞台はドイツであり、その女性が批判した独裁者はヒトラーで、彼女を顕彰したのはシュタインマイヤー大統領、もしくはメルケル首相だと思うだろう。実はこの話はドイツではなく、中国が舞台なのである。

相矛盾するメッセージ

 その勇気ある女性の名は張志新(1930‐75年)という。張志新は元来、地方政府の要職者で、愛すべき夫と子どもがいた。しかし毛沢東の権威が絶頂に達した「プロレタリア文化大革命(文革)」の最中の69年に、張志新は失脚中だったとはいえ、家庭だけでなく、自らの生命さえ犠牲にして、毛への個人崇拝などを敢然と批判する。その張志新を「最も素晴らしい闘争者」の一人として顕彰したのは、誰あろう、習近平国家主席だったのである。

 

 一方、習近平は、張志新を顕彰してまもなく、国慶節(10月1日)を祝う軍事パレードに臨んだが、それに先立って、毛沢東記念堂に安置されている毛の遺体に対して拝礼を行った。現在の中国共産党は党規で個人崇拝を禁止していることもあって、これまで国慶節で国家主席がそのような行動をとったことはなかった。それだけに、異例の行動だと言ってよいだろう。

 

 習近平は昨年の国慶節の前後、毛沢東への個人崇拝を敢然と批判して刑死した女性を称えた一方で、自らは毛への個人崇拝を復活させるような振る舞いを見せた。要するに、習近平は相矛盾するメッセージを送っているわけだが、私たちはこれをどのように理解すればよいのだろうか? 無論のこと、習近平が後者の方に圧倒的な比重を置いているのはまちがいない。毛沢東への個人崇拝の復活は、習近平が近年目論んできた自らへの個人崇拝の道を切り開くものだからである。

 

 一方、習近平による自らへの個人崇拝の推進は、習の本来の支持層からも大きな反発を呼んできた。そうした反発のうち、最近、特に注目を集めているのが、習近平の盟友とも言うべき王岐山の幼なじみの著名な企業家・任志強による批判である。任志強は、名指ししないまでも、習近平を「衣服を剥ぎ取られてもまだ皇帝として振る舞おうとする道化者(一位剥光衣服堅持当皇帝的小醜)」とこき下ろしたのである(現在、任志強は当局によって拘束されている)。習近平はそうした本来の支持層からの反発を和らげるためにも、毛沢東への個人崇拝を批判した張志新をあえて顕彰したのだろう。その上で、習近平は次のようなメッセージを伝えようとしたのかもしれない。たとえ習近平は自らへの個人崇拝を推し進めても、毛沢東のように誤った個人崇拝にはしないと。

 

 では、誤った個人崇拝とは何か? 結論を先取りして言うと、誤った個人崇拝とは、大衆の熱狂を伴うそれである。

 

「大民主」と「批闘」

中国各地から寝具持参で北京に集まった紅衛兵

 

 毛沢東への個人崇拝は、毛の晩年に繰り広げられた「文革」で最高潮に達した。毛沢東の死後、中国共産党は、晩年の毛を全面的に批判する決議を採択している。しかし習近平は、中国共産党の公式の歴史観に対して、地方政府在任中から言外に異を唱えており、国家主席に就任すると、公然と否定的な見解を示すようになった。

 

 もっとも、習近平は「文革」の全ての要素を肯定しているわけではなく、個人崇拝に大衆の熱狂を付随させた「大民主」を徹底的に批判している。毛沢東はまれに見る独裁者だったが、他方で理想主義者でもあり、大衆自らが主体性を発揮して、大衆自らを治めるという究極の民主主義=「大民主」を理想としていた。毛沢東は、建国後の中国共産党幹部が一党独裁体制の下で、「赤い貴族」と化し大衆の上に君臨していった状況に我慢がならなかったのである。大衆の多くは、そのような党幹部の支配をいまいましく思っていたこともあり、その支配からの解放を謳う毛沢東の「大民主」を歓迎し、ひいては毛への熱狂的な個人崇拝の機運に突き動かされるようになった。毛沢東は大学生や中高生を「紅衛兵」に仕立てて、「大民主」の先鋒にした。

 

 「紅衛兵」は、「大民主」を実現するためには、大衆を不当に支配する党幹部やその子女に反省を迫る必要があると考えた。しかし反省を迫る行為、すなわち「批闘(批判闘争の略語)」はしばしば暴力を伴う迫害と化した。「文革」期の中国で大規模に実施された「批闘」とは、ブラック企業でしばしば見られるような、ノルマ未達の社員を、全社員の目の前で土下座させて、罵声を浴びせたり、足蹴にしたりするような行為を、さらに大規模かつ残酷にしたようなものだと考えてよい。ブラック企業で、酷い目にあった社員の多くが鬱を患い、時に命を絶ったりしているが、「文革」当時も「批闘」に耐え切れずに、自死する幹部やその子女は後を絶たなかった。

 

 「批闘」のターゲットになったのは、毛沢東に反対するナンバー2の劉少奇国家主席や、その側近で毛の死後に改革開放に踏み切った鄧小平総書記らである。習近平の父親の習仲勲副総理も、1962年に言いがかりをつけられ、「文革」の開始時にはすでに失脚していたが、「紅衛兵」により劉少奇や鄧小平の一味と見なされて迫害されるようになった。習近平も、「文革」が始まった当時まだ13歳だったが、父親に連座して「紅衛兵」から迫害を受けた。習近平によれば、迫害は以下のようだったという。

 

 実際のところ、私は一般人よりもはるかに苦しみを味わってきた。「文化大革命」の間、私は4度も監獄に入れられ、「反動学生」とされ、大小合わせて十数回も「批闘」に引き出された。ひもじい思いをして乞食になり、監獄に入れられている時には体中がシラミだらけになった。

 

 繰り返すが、13歳だった習近平が被ったこうした迫害は「大民主」という名の下で行われたのである。

 

 一方、民主化運動に携わる著名な知識人のなかには、「大民主」を民主主義の原体験として高く評価する者もいる。たとえば海外民主化運動のリーダーの一人である胡平は、四川省で「紅衛兵」として活動していた時分を回想して、「遠くの君主に服従することは、すなわち自由を意味した」と述べている。要するに、「毛主席万歳!」と口にさえしていれば、今日私たちが手にしているような言論の自由や結社の自由などを、享受することができたというのである。何も「紅衛兵」の全てが迫害や暴力に走っていたわけではない。胡平のように迫害や暴力とは無縁で、それまでの一党独裁体制の下では想像もできなかったような自由を経験することにより、欧米流の民主主義に目覚め、民主化運動に携わるようになった「紅衛兵」も少なくなかったのである。

 

 もっとも習近平は、胡平のような「紅衛兵」も、自らを迫害した「紅衛兵」と一緒くたにしている。1989年に民主化運動が空前の盛り上がりを見せた際にも、習近平は民主化運動に「大民主」の影を見出し、デモを繰り広げていた学生を、自らを迫害した「紅衛兵」と重ねて見ていた。習近平は昨今の香港市民のデモに対しても、「大民主」の影を見出して、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や周庭(アグネス・チョウ)らの若者に、自らを迫害した「紅衛兵」を重ねていることだろう。

 

「下放」

 習近平が「文革」の諸要素のなかでも、特に高く評価しているのは、自らも体験した「下放」である。「下放」は本来、都会で「赤い貴族」と化していた党幹部やその子女に、貧しい農民の暮らしや仕事を経験させることによって、大衆に同化させ、自らの世界観を改造させることを目的にしていた。後になると、党幹部やその子女だけでなく、彼らを迫害していた「紅衛兵」も「下放」を強いられた。

 

 「下放」を強いられた人々の大多数は、「文革」を呪詛するようになり、ひいては晩年の毛沢東を全面的に批判するに至った。習近平も「下放」の当初は、過酷な暮らしや仕事に音を上げていた。しかし習近平は、次第に毛沢東が「下放」に込めた意図を理解して、黄土高原の大衆に同化し、ついには自ら「黄土大地の子」と称するようにさえなった。習近平が28歳の時に、北京の要職者の秘書という恵まれた境遇を捨てて、河北省の片田舎への赴任を志願したのは、再び大衆に同化するためだったという。要するに、習近平は自発的に「下放」を実践できる稀有な党幹部に成長したと自負していたのである。

 

習近平は国家主席に就任すると、満を持したように、党幹部に対して大衆に同化せよと説くようになった。習近平は、毛沢東と異なり、「権貴階層」と化した党幹部やその子女に「下放」こそ強いたりしないものの、周知のように、王岐山とともに反腐敗闘争を発動して、大衆を食い物にする党幹部を次々に失脚に追い込んでいる。

 

 習近平に言わせれば、毛沢東は農村での革命闘争を通して、大衆に同化し、大衆の意志を体現したからこそ、大衆の間で個人崇拝の対象となるに至った。ならば、習近平も「下放」を通して、大衆に同化し、大衆の意志を体現してきたからには、大衆に自らへの個人崇拝を要求しても当然ではないのか、ということになるだろう。

 

習近平の危うさ

 習近平は、民主化要求などの大衆の自発的な意志の表出を抑圧するかたわら、大衆の意志なるものを体現してきたと一方的に自認して、大衆の熱狂なき個人崇拝を確立しようと腐心している。譬えるのならば、子どもに自らの気持ちを口外することを禁じながら、子どもの気持ちを勝手に推し量って、あれこれ子どもの世話を焼き、あまつさえ子どもに崇拝まで要求する親のようなものであろう。

 

 果たしてそのようなことが長期的に可能なのだろうか? 毛沢東への大衆の熱狂を伴う個人崇拝は、「紅衛兵」の暴走により中国全土を混乱の渦に巻き込んだ。習近平への大衆の熱狂なき個人崇拝もまた、習が大衆の意志を読み誤れば、中国に大きな混乱を招くことになるのではないだろうか。

 

筆者

柴田哲雄(しばた・てつお) 愛知学院大学准教授

1969年、名古屋市生まれ。中国留学を経て、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。2002年以来、愛知学院大学教養部に奉職。博士(人間・環境学)を取得し、コロンビア大学東アジア研究所客員研究員を務める。主著に、汪兆銘政権とヴィシー政府を比較研究した『協力・抵抗・沈黙』(成文堂)。中国の亡命団体に関して初めて本格的に論じた『中国民主化・民族運動の現在』(集広舎)。習仲勲・習近平父子の生い立ちから現在に至るまでの思想形成を追究した『習近平の政治思想形成』(彩流社)。原発事故の被災地にゆかりのある「抵抗者」を発掘した『フクシマ・抵抗者たちの近現代史』(彩流社)。汪兆銘と胡耀邦の伝記を通して、中国の上からの民主化の試みと挫折について論じた『汪兆銘と胡耀邦』(彩流社)。

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