「ケインズの伝記」を今こそ~「リベラルは経済政策に弱い」を乗り越えるために
アメリカの政界と学会におけるケインジアンがたどった道
朝日新聞
2020年08月19日
書評アマゾンHPより
The Price of Peace:
Money, Democracy, and the Life of John Maynard Keynes
Zachary D. Carter (著)
待望のケインズの伝記
本書は没後70年以上たった今日でも経済学に多大なる影響を与えている経済学者ジョン・メイナード・ケインズの伝記である。2020年5月に本書が出版されて以来、英語圏の各紙で高い評価を得てきた。
近年のケインズの伝記といえばロバート・スキデルスキーの三部作が最も有名であろうが、残念ながらこの三部作のうち第一部(裏切られた期待 1883~1920年)のみが翻訳出版されており、第二部(The Economist As Saviour, 1920-1937)と第三部(Fighting for Freedom, 1937-1946)は未翻訳である。
このため日本の経済学を専攻する学生や一般読者にとってケインズの経済学を理解する方法として歴史的背景やケインズ自身の個人的な理想、抱いていた政治哲学の思想などから理解するというアプローチが取りにくい事情があった。
ケインズの生涯を伝記を通じて知ることはケインズの思想を経済学の教科書以外から学ぶ格好の方法である。だからこそスキデルスキーの膨大な三部作が翻訳されてない現状では、あらたなケインズの伝記が待ち望まれていた。
著者のZachary D. Carter氏は米国HuffPostのシニアレポーターとして経済政策などを担当しているジャーナリストで本書が初の著書である。経済史の研究家であるスキデルスキーが歴史学的にも経済学的にも学術的なアプローチで伝記を書いているのに対して、あくまでも政治経済のジャーナリストとしてケインズの生涯を描いている。このため学術的資料として読みたい場合には物足りなさもあるかもしれないが、一方でアメリカの政界と学会におけるケインジアンがたどった道という興味深い視点はジャーナリストならではと思わせる。
ケインズ自身の考えを理解する
「ケインジアン」と名のつく派生の学派は少なくとも三つ存在している(ネオケインジアン、ニューケインジアン、ポストケインジアン)。しかしケインズ自身の考えと「ケインジアン」と名乗る学派の考えとには溝があると言われている。
ケインズ経済学といわれているものの多くが実際は「ケインジアン」と名乗る人たちがケインズの考えを彼ら・彼女らなりに理解・咀嚼しアレンジした理論であることが少なくない。
例えば経済学の教科書に必ず出てくるIS-LM曲線を使った分析もジョン・ヒックスが「一般理論」を自分なりに解釈してモデルにしたものだ。実際現在でも経済学を学んだ多くの人がIS-LM曲線を使った分析に従って「ケインズの考え」を理解したと思っているだろう。しかしこのIS-LM曲線の分析がケインズの本来描いていたマクロ経済の分析から乖離し、むしろケインズの考えを歪めているという批判もある。
近年(特に金融危機以降)に世界中でケインズが再び注目を浴びている。主流派経済学者の多くが「ケインジアン」と名のつく学派の理論に基づいた危機の処方箋を提示している。ケインズ自身が生涯を通じて提示した「道徳科学」としての経済学という考え方が現代社会に再び必要とされているという側面もあろう。
JMiks/Shutterstock.com
「不況の時に赤字国債を発行して財政出動をおこなう」というのはケインズの考えのほんの一部に過ぎない。資本主義の脆弱さへの危惧と社会における自由の大切さ、芸術や文化的生活を万人が共有できる社会の構築といった理想などケインズが思い描いていた社会があり、経済政策はその理想社会実現のための一つの道具に過ぎないのである。
このようなケインズの理想や社会哲学を理解するためには「ケインジアン」の経済学教科書を読んでいても埒があかない。現代の「経済学」自体が「道徳科学」から随分と乖離しているからである。
ケインジアンの歴史
本書はケインズの伝記として詳細な経済理論にはほとんど言及されずに一般の読者でもケインズの人物像、一般理論をはじめとするケインズによる著作が書かれた歴史背景、経済政策の立案に関与した実務家としてのケインズの功績といった「ケインズの伝記」に期待されるであろう歴史を網羅している。
逆に一般理論のその後の解釈、典型的にはヒックスによるIS-LMとしての解釈に関してケインズ自身が学問上どのように考えていたか等に関しては詳細には述べておらず、経済研究者等には物足りないと感じられるだろう。
一方で本書の大きな特徴はケインズの死後、アメリカにおいて「ケインジアン」が学問と政治の世界でどのように発展(そしてケインズ自身から乖離)したかの軌跡を丁寧に扱っている。このためニューディール以降のアメリカにおける経済政策のブレーンとしての確立された経済学とそれに対する政治的な動き(特に一時期ケインジアンがマッカーシズムの標的になったことなど)をしっかりと学ぶことができる。
これは現代にいたるまでアメリカのケインジアン、ネオリベラリズム、そしてオリジナルのケインズの考えなどがどのように各大統領と民主党・共和党両党に影響を及ぼしてきたかという日本人にはなかなか馴染みのない近代史を学べるという意味で非常に興味深い内容になっている。そして80年代のネオリベラリズムの繁栄などは米国以外に日本にもそのトレンドは及んでいることから、日本の戦後経済政策を理解する上でも非常にためになる内容である。
マクロ経済を学ぶ学生は是非とも読んでみるべき
本書はマクロ経済を学ぶ学生・研究者は是非とも翻訳を待たずに読んでみるべきである。ノーベル賞受賞者の著書などは素早く翻訳出版されるのだが、本書が日本ですぐに翻訳出版されるかは不明である。数年後には翻訳されるかもしれないが、それでは現役の学生にとっては遅すぎる。
もちろん本書は経済学の専門的な内容にまでは踏み込んでいないので、本書を読むことによりマクロ経済の知識がつくわけではないのだが、マクロ経済学を歴史的観点・政治哲学的観点から理解するために必要な「教養」を授けてはくれるであろう。
本書に限らずだが経済学史と経済史(特に一般理論が書かれた戦間期の歴史)を理解しておくことはマクロ経済を生身の人間が関わる学問として理解する上では非常に重要であり、血の通っていない数式のモデルだけを学ぶことは決して勧められることではない。
残念なことに本書においてMMTに関する言及はほとんどない。MMTに多大な影響を与えたジョーン・ロビンソンをはじめとするポストケインジアンに関する記述は当然あるのだが、読者は自分でMMTとポストケインジアンのつながりなどを理解してケインズとMMTを結ぶ糸を自ら構築しないといけない。これだけMMTが話題になっているのだからもう少しそことのリンクを描いても良かったのではないだろうか。
日本において政治的に「リベラル勢力」は苦戦している。野党の一部に「リベラル」を認識している勢力はあるが、どうしても「反権力」活動に力を入れ過ぎて「リベラリズム」をどのように実現するかという視点や政策構築が欠けている。自民党内のリベラル勢力も一時期から(おそらく「加藤の乱」以降)かなり弱くなってきている。
「リベラルな社会」を理想と考え、目の前の(日本のみならず各国における)保守主義の高まりに対してある種の危機意識を持っている与野党の政治家はケインズが目指した社会像とそのために構築された経済理論という一つのパッケージを是非とも理解していただきたい。そのために本書以外から学ぶことはもちろん可能なのだが、本書を読みケインズの生涯を知るのが一番手っ取り早いだろう。
野党のみならず、自民党内のポスト安倍を目指すリベラル勢力の中でも「理想の社会像」とそれを実現する経済政策というパッケージを提示できれば、「リベラルは経済政策に弱い」というような批判を受けることも少なくなるであろう。
The Price of Peace: Money, Democracy, and the Life of John Maynard Keynes
Zachary D. Carter (著)
出版社: Random House (2020/5/19)
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