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国家は誰を弔うべきか ドイツ国立追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ」を訪ねて

이강기 2020. 8. 27. 14:57

国家は誰を弔うべきか ドイツ国立追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ」を訪ねて

 

ナショナリズム ドイツとは何か/ベルリン⑥ 現代史凝縮の地

 

 

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

朝日新門 論座

2020年08月27日

 

 

 

 

ドイツの国立戦没者追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ」=2月、ベルリン。藤田撮影

 

 ベルリンにあるドイツの国立追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ(新衛兵所)」。ドイツのナショナリズムを考える今回の旅の目的地の一つだった。近代国家において戦没者をどう弔うかは、その国家と戦争の関わりを映す重いテーマだからだ。

 

 私がかつて訪れた米国のアーリントン国立墓地の起源は南北戦争に遡り、兵士ひとりひとりの白い墓石が緑の丘に延々と広がっていた。日本には戦後にできた国立千鳥ケ淵戦没者墓苑がある一方で、明治維新以来の戦没者を戦前から祀る靖国神社もあり、その「御祭神」に第二次大戦の指導者も含まれていることから、国民を代表する首相の参拝の是非をめぐりいまも議論が尽きない。

 

 ノイエ・ヴァッヘも、ドイツと戦争の関係をめぐりあり方が変転し、議論の末に再統一後の1993年、国立の「中央慰霊館」となった。慰霊の対象はドイツ国民を大きく超え、「戦争と暴力支配の犠牲者のために」とされた。その創設に深く関わった人物へのインタビューとあわせ、経緯をたどる。

 

 

死んだ息子を抱く母

 

 ベルリン滞在中の2月13日午前、ウンター・デン・リンデン通りにノイエ・ヴァッヘを訪ねた。この通りはベルリン中心部を西のブランデンブルク門から東の王宮まで貫き、プロイセン王国当時からの建築が並んで観光客も多い。

 

 ノイエ・ヴァッヘは東の王宮の手前にある。「新衛兵所」の呼び名は、かつて王宮を守る近衛兵の詰め所だったところから来ている。

 

 神殿風の太い柱の間を通り、石造りの建物の中へ。灰色を基調とした16メートル四方の床と、高さ7メートルの壁に囲まれた空間が広がり、床の中央にふたりを象るブロンズ像だけがあった。「哀れみ(死んだ息子を抱く母)」だ。

 

ドイツの国立追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ」にある「哀れみ」の像=2月、ベルリン。藤田撮影

 

 賑やかな表通りから立ち寄った観光客が20人ほど、みな遠巻きに沈黙し、この像を見つめていた。数輪の花が捧げられた手前の床に、”DEN OPFERN VON KREIG UND GEWALTHERRSCHAFT”(戦争と暴力支配の犠牲者のために)とあった。

 

 像の真上の天井中央に直径2メートルほどの穴があり、曇り空から弱い光が注いでいた。入り口の守衛の男性に聞くと、雨の日は降り込むが水は側溝へ流れるという。私が二日後の夕焼けの頃に再訪すると、迫る闇が像を包み込む全く違う光景があった。

昼と夕暮れ時に訪れた、ドイツの国立追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ」と「哀れみ」の像の=2月、ベルリン。藤田撮影

 

  この芸術的な国家の慰霊の場は誰を弔い、それはどのようにして決まったのだろう。ノイエ・ヴァッヘは隣の国立ドイツ歴史博物館が管理する。中央慰霊館ができた当時の初代館長、クリストフ・シュトルツルさん(76)に聞いた。

 

 シュトルツルさんは今はベルリンを離れ、南西へ200キロほどの古都ワイマールにあるフランツ・リスト音楽大学で学長をしている。数日後にシュトルツルさんをワイマールを訪ねた時の話を交え、書き進める。

 

 1993年にできたノイエ・ヴァッヘをすべての「戦争と暴力支配の犠牲者」に捧げたことについて、「友人コールが決めた」とシュトルツルさんは語る。

 

 西ドイツから統一ドイツへの移行期を含め、戦後ドイツの首相として最長の16年間を務めたヘルムート・コール(1930~2017)だ。

 

 

ドイツ近代史の迷路

 

 シュトルツルさんが振り返る。

 

 「国立の追悼施設をどうするかは、戦後の西ドイツで延々と議論されてきた。コールが踏み切ったが、その時も大変な議論になった。『ドイツ近代史の迷路に入り込まないように』と訴えた、孤独な、孤独な決断だった」

1990年、ドイツ再統一前のコール西独首相。ベルリン市街の展示より

 

 「ドイツ近代史の迷路」をもたらした最大の要因は、もちろんナチズムだ。時代を映してきたノイエ・ヴァッヘのありようを、戦争の20世紀からおさらいしておく。

 

 第一次大戦は、兵士たちの遺体が原形をとどめない空前の殺戮をもたらした。国家が戦死した自国兵をまとめて象徴的に弔うことにした「無名戦士の墓」が欧州を中心に広がる。ドイツのノイエ・ヴァッヘも1931年からそうした位置づけとなった。

 

 第二次大戦で敗れ東西に分断されたドイツで、ベルリンのノイエ・ヴァッヘは東側に含まれた。東ドイツ政府はノイエ・ヴァッヘについて、「無名戦士の墓」としての性格を残しつつ、ナチズムを打倒した共産主義という文脈から、強制収容所で迫害された政治犯も含む「ファシズムと軍国主義の犠牲者」を追悼する場とした。

 

 一方の西ドイツでは、新たに国立追悼施設を造るかどうかは中ぶらりんになった。ノイエ・ヴァッヘがベルリンの壁の向こう側になった分断を暫定的とみることに加え、そもそも国家として誰を弔うかの答えが出なかった。かつてドイツ社会全体を覆い、ホロコースト(大量虐殺)を犯したナチズムとの関係が「迷路」になった。

 

 欧州のナショナリズムを研究する歴史学者でもあるシュトルツルさんは語る。

国立ドイツ歴史博物館のシュトルツル元館長=2月、ドイツ・ワイマール。藤田撮影

 

 「1960年代まではナチス政権だけが悪かったという議論だった。しかし、ドイツ軍が前線で戦っていたから、ナチスのSS(親衛隊)が後方の強制収容所で大量虐殺を実行できたとも言える。しかも研究が進んで、戦争中、ドイツの東方ではドイツ軍とSSが渾然となっていたことがわかってきた。話を広げていくと、強制収容所へユダヤ人を運んだ鉄道関係者も虐殺者になるのかなどなど、きりがなかった」

 

 1990年の再統一を機に当時の首相コールは、再びドイツ全体の首都となったベルリンでノイエ・ヴァッヘを国立の追悼施設にしようと決意する。だがそれは、「ドイツ近代史の迷路」から抜けだし、統一ドイツの姿勢を国内外に示すものでなければならなかった。

 

 何を弔うのか、コールは国立ドイツ歴史博物館の館長だったシュトルツルさんと話し合った。そして、戦後の西ドイツの大統領が積み重ねてきた演説を吟味する中で、「戦争と暴力支配の犠牲者」という表現に至った。

 

 

「過去に目を閉ざす者は」

 

 そうした演説の中で最も知られるのは、1985年5月8日、西ドイツの首都ボンでの「欧州の戦争とナチスの圧政の終結四十周年式典」で大統領ヴァイツゼッカーが行ったものだろう。

 

 「ほとんどのドイツ人が国家の大義のためと信じて戦い苦しんだが、その努力は犯罪的な政権の非人道的な目標に資するものだった」とナチス時代を総括。「戦争と暴力支配によるすべての死者を追悼」するとした上で、「過去に目を閉ざす者は現在に盲目だ」と語った。

1994年、ドイツのワイツゼッカー前大統領=ベルリン。朝日新聞社

 

 ノイエ・ヴァッヘには、「死んだ息子を抱く母」の像の前の「戦争と暴力支配の犠牲者のために」の他に、もう一つ文章が刻まれている。入り口手前の右側の壁に金属板ではめ込まれ、追悼する「犠牲者」とはどのような存在かを列記している。

 

 そこに「ドイツ人」や「兵士」という言葉は一言もない。「戦争で苦しんだ各民族」という壮大な対象から始まり、「殺害された何百万ものユダヤ人」などホロコーストの犠牲者そのものが具体的に連なり、「良心を曲げるより死を受け入れた全ての人々」へとまた広がる。

 

 この文章もワイツゼッカー演説と言葉遣いが重なるが、実はシュトルツルさんが作ったのだという。「ナチス時代をどう見るか。今のドイツの教育のコンセプトにもなっているよ」

 

 様々な「犠牲者」に”WIR GEDENKEN”(我々は思いをいたす)という歯切れのよい言葉が連なるところが、私には格調高く思えた。だが、そこについては意外な説明だった。

ドイツの国立戦没者追悼施設「ノイエ・ヴァッヘ」外壁にある金属板の文章=2月、ベルリン。藤田撮影

 

 「像の前の文章の補足として急に作ることになったので、ワイツゼッカー演説から半分、他の大統領の演説からもパッチワークした。同じ言葉を繰り返して、かっこ悪いでしょう(笑)。コールや大統領、ユダヤ人団体の代表に根回しして何とかできた」

 

 この文章についてユダヤ人団体にも相談したのは、コールの考えからだった。ナチズムを生んだドイツの国立施設で、ホロコーストの犠牲者もあわせて追悼されることについて、ユダヤ人のわだかまりをできるだけ和らげ、ユダヤ人も訪れる施設になってほしいという思いだった。中央慰霊館としての開館式典には、ユダヤ人団体の代表も姿を見せたという。

 

 

歴代大統領と首相のコラージュ

 

 「コールはいつも、『首相の頃、ワイツゼッカーより少し前に同じような演説をしたのに、誰も褒めてくれない』と残念がっていた」とシュトルツルさんは笑う。「だからこの文章は、西ドイツの歴代の大統領と首相のコラージュなんだ」

 

 そう言われて文章を読み直すと、冷戦で対立を強いられた東側を吸収する形でドイツ再統一にこぎつけた西側の矜持がにじむ部分もあった。最後の「1945年以降の全体主義に逆らったために迫害された女性たちや男性たちに思いをいたす」だ。このくだりは、ナチズムに絞って「真実の直視を」と訴えたワイツゼッカー演説には見当たらない。

 

 「その全体主義というのは、スターリニズムだよ」とシュトルツルさん言った。

国立ドイツ歴史博物館のシュトルツル元館長=2月、ドイツ・ワイマール。藤田撮影

 

 「ドイツ降伏後のソ連による西方への領土拡張で、1千万以上のドイツ人が東欧から押し出された。共産主義の独裁は東ドイツの人々も迫害した。だからノイエ・ヴァッヘは、ナチズムの犠牲者もスターリニズムの犠牲者も弔っている」

 

 様々な思いが交錯した再統一直後のドイツで、「近代史の迷路」を抜けだそうとする国立追悼施設の建設計画は、連邦議会でも激しく議論された。それでもコールは自身が提案した翌年、中央慰霊館の開設に踏み切った。

 

 「なぜならそれは結局、コールの個人的な物語が動機だったから。私もコールから聞いて、反対論と戦ったんだ」とシュトルツルさんは語った。ノイエ・ヴァッヘの中央に据えられた「哀れみ」の像にまつわるその「個人的な物語」を、次回で紹介する。

 

※次回は9月3日に公開予定です。

【連載】ナショナリズム ドイツとは何か

【昨年の連載】ナショナリズム 日本とは何か