「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠
伊藤雅文(歴史研究家)
iRONNA
2018.9.24
邪馬台国(やまたいこく)を論ずるにあたって、まず考えなければならないのは、「邪馬台国は文献上の存在である」ということである。空想上の存在という意味ではない。『三国志』の「魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」、いわゆる『魏志倭人伝』に、「倭の地に女王卑弥呼の都する邪馬台国がある」と記されていなければ、現代の私たちは「邪馬台国」「卑弥呼」の存在自体を知ることはなかった、という意味である。
そして、『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)は、邪馬台国に至る行程まで書き残してくれている。だから、私たちは邪馬台国の位置について考えることができるのだ。
昨今、邪馬台国畿内説を報ずる記事を目にする機会が増えた。特に、2009年の纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)における大型掘立柱建物跡の発掘により、その傾向が加速したと思われる。
「卑弥呼の宮殿か?」とセンセーショナルな発表、報道がなされたからである。そして、纒向の遺構・遺物の年代は邪馬台国の時代である3世紀初頭から中頃に比定されるようになる。従来は4世紀半ばであるとされていた古墳の発生時期も、今では3世紀半ばにまで遡(さかのぼ)り、箸墓古墳(奈良県桜井市)は卑弥呼の墓であるという見解まで現れた。「邪馬台国は畿内、纒向で決まり!」とばかりに、地元桜井市は毎年東京で邪馬台国、卑弥呼に関するフォーラムまで開催している。
しかし、筆者には、邪馬台国「畿内説」は考古学的成果ばかりが前面に打ち出されているように見えて仕方がない。冒頭に述べたように、邪馬台国は文献上の存在であり、行程も書き記されている。畿内の纒向を邪馬台国と断定するには、行程記述をどのように読み解けば、纒向にたどり着くかを明らかにする必要がある。しかし、この文献学的な検証が十分になされていないように思われるのだ。
3世紀前半、全国に多くの「クニ」が成立していたことは間違いない。各地で発掘される大規模な環濠集落などを見ると、邪馬台国に匹敵する強力な国が存在していた可能性も否定できない。
しかし、それらの国々は文献に書かれたり、伝承を経たりして後世に名を残すことはなかった。纒向もそういう国の一つではないのか。もし、纒向遺跡の年代が3世紀だとしても、『魏志倭人伝』の行程が纒向に行き着かないのであれば、そう考えるのが妥当ではないだろうか。
『魏志倭人伝』には倭の地のあり方に触れた三つの記述がある。
(1)帯方郡から邪馬台国への、様々な国々を経由していく行程記述である。連続説や放射説など様々な解釈法が存在するが、邪馬台国に至るまでの国と国との間の道里(および日数)が記されている(図1)。
図1:邪馬台国への行程記述(連続説と放射説)
(2)帯方郡から邪馬台国までの総距離に関する記述である。「自郡至女王国万二千余里」(帯方郡から女王国〈邪馬台国〉へは一万二千余里である)として「一万二千里余里」が明記されている。
(3)倭の地誌に関する記述のまとめとして表れる次の文章である。
「参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」。一般的には次のように訳されることが多い。「倭の地を参問するに、海中州島の上に遠くはなれて存在し、あるいは絶えあるいは連なり、一周五千余里ばかりである」(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝 後漢書倭伝 宋書倭国伝 隋書倭国伝』岩波文庫より)
さて、前段の記述のうち(3)についてここで考えてみたい。一般的な解釈によれば、倭地は「一周五千余里」だとされる。しかし、『魏志倭人伝』が語るように、狗邪韓国から倭の地が始まるとするとおかしなことになる。図1で明らかなように、狗邪韓国から対馬国、一大国経由で末盧国に渡るだけで「三千余里」を要する。ということは、この間を往復するだけでも「六千余里」が必要になる。つまり、倭地を「五千余里」でぐるっと囲むことなど不可能なのである。
そこで、ここの解釈として、九州説では九州島の任意の一地域、あるいは九州島全体を囲ってみたり、畿内説ではここは一里(435メートル)の尺度(いわゆる長里)が用いられているとして、近畿地方から九州地方をぐるっと囲んでしまったりという論がみられるのが現状である(図2)。
図2:「周旋可五千余里」の適用例 しかし、この記述の解釈には明らかな誤りがあったのである。それは「周旋」を「一周」や「周囲」など閉じた円のイメージでとらえたことによる。
筆者は著書『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)の中で、「周旋」について再検討を試みた。『三国志』で使用されているすべての「周旋」を検証した結果、「周旋」は主に「めぐり歩く」という意味で用いられており、「ぐるっと一周する」という意味で用いられている箇所は一つもないことが明らかになった。つまり、「周旋可五千余里」は、「一周すると五千余里ばかり」と読んではいけないということである。
では、「めぐり歩く」という曲がりくねった一本の線のイメージで解釈するとどうなるだろうか。一言でいうと、「倭地の訪問で五千余里をめぐり歩いた」と記しているのである。実に明快な記述である。
『魏志倭人伝』の記述が、来倭した郡使の報告書を基に書かれたとしたら、帯方郡を出た郡使の一行は、まず狗邪韓国に到着する。狗邪韓国は倭地であるとされる。つまり、ここが参問のスタート地点である。ここから最終目的地である邪馬台国までの行程が「五千余里」であると述べていたのだ。
では、その「五千余里」について見ていこう。図1の連続説に従って確認していくと、狗邪韓国から対馬国、一大国を経て末盧国に上陸するまでが「三千余里」、末盧国から伊都国、奴国経由で不彌国までが「七百里」。ここまでの合計が「三千七百余里」である。
ここから先、不彌国から投馬国へは「水行二十日」、投馬国から邪馬台国へは「水行十日陸行一月」と、里数表記ではなく日数表記となっている。しかし、帯方郡から邪馬台国への総距離が「一万二千余里」であり、帯方郡から不彌国までの合計距離が「一万七百余里」であるとすると、不彌国から邪馬台国までは「千三百余里」と考えられ、狗邪韓国から邪馬台国までは「五千余里」であるという答えが導き出される。
この「千三百余里」については様々な見解があると思われるので、ここでは断言を差し控える。しかし、帯方郡から邪馬台国への「一万二千余里」から、帯方郡から韓国を経て狗邪韓国に至るまでの「七千余里」を引いた「五千余里」を、倭地参問に要した里数であるとすることには、かなりの客観的合理性が認められると思われる。
そう考えると、この「五千余里」は、帯方郡から邪馬台国までの「一万二千余里」の行程に含まれるものであり、狗邪韓国を始点とするものであることは明白である。従来、「周旋」が「ぐるっと周囲を一周する」という概念で用いられていた場合の、倭の地を任意の地域に設定するやり方はもはや成り立たなくなる。
また、帯方郡から狗邪韓国への「七千余里」と狗邪韓国から邪馬台国への「五千余里」は、当然同じ尺度で表されていると考えなければならない。すると、「五千余里」のみが長里に基づくものであるという強引な解釈も必然的に排除されることになる。そして、この「周旋可五千余里」を図示したものが図3である。
図3:正しい「周旋可五千余里」 邪馬台国の位置は狗邪韓国を始点として、帯方郡から狗邪韓国までの距離(道里)の7分の5を進んだ地点ということになる。具体的には一里(70メートル)とすると、狗邪韓国があったとされる朝鮮半島南部の金海市から、道のりで350キロメートル強を超えない地点となる。
当然のことながら、北九州地域を経由しない直線距離でも600キロメートル以上離れている畿内に邪馬台国を設定するのは、まったく不可能であることが一目瞭然である。
図1で例示した『魏志倭人伝』の行程記述については、様々な解釈が存在し、それによって全国各地に邪馬台国比定地が存在することは承知している。しかし、「周旋」の解釈から邪馬台国の位置を求めるならば、「文献解釈上、邪馬台国畿内説は成立しない」と言わざるをえない。
では、『魏志倭人伝』の記述から求められる邪馬台国の位置はどこだろうか。筆者の唱える『魏志倭人伝』後世改ざん説(陳寿の撰述した原本では、不彌国→投馬国→邪馬台国の行程は「日数」ではなく、具体的な「里数」で記されていたと考える説)では、現在の博多駅南(福岡市博多区)に広がる比恵・那珂遺跡群に比定する不彌国から、南へ「千三百里」のところであると想定する。
この「千三百里」は、帯方郡から邪馬台国への総距離「一万二千余里」から、不彌国までの「一万七百里」を引いて求められる数字であり、周旋「五千余里」の場合でも狗邪韓国から不彌国までの「三千七百余里」を引いた数字である。
特に目新しい数字ではなく、近代の邪馬台国論争に火をつけた東京帝国大学(当時)の白鳥庫吉教授も、明治時代にこの数字を用いて熊本県の「菊池郡山門説」を唱えている。他にも、筑紫平野の各地比定説や宇佐説などでも根拠とされる場合が多い。
現在では、不彌国から投馬国への「水行二十日」、投馬国から邪馬台国への「水行十日」「陸行一月」という合計2カ月におよぶ日数表記との整合性をとるのが難しいためそれほど重要視されなくなっているが、文献に従えば至極妥当な数字なのである。つまり、『魏志倭人伝』の記述は「里数」上は破綻をきたしていない。「日数」表記が解釈を妨げているだけなのである。
また、『魏志倭人伝』は邪馬台国について「七万余戸」あったと述べる。奴国の「二万余戸」、投馬国の「五万余戸」と比べても相当に大きな大国である。この戸数の真偽については諸説あるが、国の官・副官体制を比べても、他国が官1人、副官1人体制(伊都国は副官2人)であるのに対し、邪馬台国には官および副官が4人もいる。
相応の大国であったことは間違いないだろう。すると、投馬国、邪馬台国の二国が山間の狭い地域にあったなどということは想定しがたい。必然的に連続する広い地域に存在したと考えざるをえない。
ここでは、「千三百里」を不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への行程にどのように割り振るのが適当か、その具体的な里数については触れない。しかし、福岡平野の大部分を「二万余戸」の奴国と想定して、御笠川下流域にあった不彌国から南に水行(御笠川を遡上後、宝満川、筑後川を下る)するとたどり着くのは広大な筑紫平野である。邪馬台国時代は縄文海進の影響で多くの面積が有明海の干潟であったと考えられているが、それでも「五万余戸」を擁する投馬国にふさわしい広がりを備えていたはずだ。
そして、そこから南へ水行、陸行すれば…。邪馬台国の「七万余戸」を養える地域は、熊本平野以外にあり得ないように思われる(図4:行程は筆者の見解による)。
図4:邪馬台国熊本説のイメージ しかし、熊本は従来から邪馬台国の南にあった狗奴国であると比定されることが多い。それは、狗奴国の官である狗古智卑狗を「くこちひく」と読み、「菊池彦」に通じるとして菊池郡のある熊本と関連づけたことによる。それが定着したことにより、熊本平野を邪馬台国だと素直に認められない状況に陥っていると思われる。
だが、このように『魏志倭人伝』の記述をたどると、最も可能性が高いのは邪馬台国「熊本説」だと思うのだが、いかがだろうか。
実際、熊本平野では邪馬台国の時代とされる弥生時代後期から終末期にかけての遺跡が数多く発掘されている。最も注目されるのは熊本平野北部、菊池川流域に営まれた方保田東原遺跡である。佐賀県の吉野ケ里遺跡に匹敵する規模の環濠集落であり、まだ一割程度の発掘にもかかわらず豊富な遺構・遺物が出土している。
ほかにも菊池川流域には、うてな遺跡、小野崎遺跡、諏訪原遺跡といった大規模な遺跡がある。また、白川流域には西弥護免遺跡、五丁中原遺跡、八島町遺跡、緑川流域には二子塚遺跡といった大規模な環濠集落が存在する。
そして、これら熊本平野の遺跡からは『魏志倭人伝』に書かれた「鉄鏃」(てつぞく)をはじめとする様々な鉄器や、「朱丹」と思われる赤色顔料(主にベンガラ)も出土する。倭の産物に触れた部分で「其山有丹(その山には丹〈ベンガラ〉があった)」というのは、阿蘇山のことであろうか。カルデラ内の遺跡からは大量のベンガラが出土している。
加えて、この地域一帯では独特のジョッキ型土器や免田式土器の普及・流行がみられる。さらに、遺跡間で同范鏡(どうはんきょう)の存在も指摘されるなど、熊本平野に拠点集落のネットワークが構築されていた可能性は大きい。まさにこの集合体こそが「七万余戸」を擁する邪馬台国だったのではないだろうか。
以上、文献解釈上、邪馬台国畿内説は成り立たず、熊本説を採るのが妥当なのではないかということについて考察してきた。だが、もし纒向が邪馬台国ではないとしても、筆者は纒向遺跡の存在価値は非常に大きいと考えている。
古墳時代の幕開けはまぎれもなくこの地であるし、ヤマト王権誕生の解明につながる多くのことを秘めた遺跡であることは間違いない。『日本書紀』でも、纒向の地に第十一代垂仁天皇の珠城宮、第十二代景行天皇の日代宮が築かれたとされている。
だからこそ余計に、日々地道に続けられている考古学の発掘・研究の成果を、邪馬台国との関連性を前提とすることなく、客観的に発表、報道してほしいと願っている。
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