呉善花手記「皇室の永続性を支える日本文化の奥行き」
呉善花(評論家、拓殖大教授)
iRONNA
2019/10/23
(일본 우익계열 잡지에 실린 글이란 점을감안하고 읽어야 함 - 강기 생각)
御代替わりにあたり、皇室の持続について考えてみたい。
天皇が政治的な統治権力を行使できていたのは、長い歴史の中でわずかな期間でしかなかった。にもかかわらず、天皇は今日に至るまで、一貫して日本国の最高権威者としてあり続けてきた。なぜ、実質的な政治権力の掌握なしに、そのような権威の持続が可能となるのだろうか。
皇室の歴史的な持続について考えてみて、私の場合はまず、その時代感覚の鋭さに気づかされた。これは柔軟性といってもよいが、皇室は単に伝統を維持するだけではなく、国民生活の時代的な変化の相を巧みに掌握しながら、自らの装いを新たにしつつ推移してきたように思う。
時に臨み、成り行きの変化に応じ、どのように自らを処せばよいか、皇室はそこのところのセンスを何か本質的に抱え持っているように思える。
宗教の面でいえば、天皇はあるときは神道の国家祭主のようにあり、あるときは仏教王のようにあり、また神秘的な密教への傾斜を見せられた天皇もある。また、上皇陛下が皇太子時代に選ばれたお后(美智子上皇后陛下)は、キリスト教精神に基づく教育理念を持つ学校を出られていた。
時代感覚の鋭さでは、皇后についても天皇と同じことがいえる。国風(くにぶり)文化の隆盛とともに女性の手になる文学が登場するようになる平安中期の定子(ていし)皇后は、清少納言が一目置くほどのすぐれた知識と才能の持ち主で、ゆったりとした落ち着きを湛(たた)えた美人だったことが『枕草子』からうかがえる。美智子上皇后陛下のケースでも雅子皇后陛下のケースでも、それぞれの時代的な先端との絶妙な距離感を、皇室の「お后選び」の背景に感じとることができる。
中世の後醍醐(ごだいご)天皇は、当時流行の風俗や宗教を身近におかれていた。生け花の前身である立華(りっか)は、近世初期の上皇の御所(仙洞御所)で始められた。近代の明治天皇は軍服に身を包まれ、現代の上皇陛下は生物学の研究に熱心に取り組まれ、今上陛下は英国留学生時代より貧困問題や環境問題に連動する世界的な水問題に取り組まれてきた実績を持つ。いずれも、皇室の時代感覚の敏感さを物語るものといえるのではないだろうか。
笠置寺の後醍醐天皇行在所跡に立つ歌碑=京都府笠置町(恵守乾撮影)
ある時代の文化・社会・支配形態などに対応する皇室の臨機応変さは、長きにわたって天皇の権威を持続させてきた大きな要因として、けっして無視することはできないだろう。また、国民統合の象徴としての天皇が国民の圧倒的な支持を得ているのも、伝統の持続とともに、そうした時代に対する向き合い方の的確さがあってこそのことではないかと思う。
皇室の持続に時代感覚の鋭さが果たした役割は大きい。が、それ以上に、皇室は時代の異なりを超えていつの世にも日本人の心と共鳴する、ある種の決定的な精神性を抱え込んでいると思える。だからこそ、少なくとも千数百年にわたるだけの永続性を可能としてきたのではないか。たとえば『源氏物語』が、古代、中世、近世、近代、現代と、いつの世にも優れた文学として読み継がれてきたところにも、同様の要因が潜んでいるだろう。
そもそも民族(エスニシティ)の基本的な資質というものは、民族的な文化の統一性が形成された時点で形づくられ、以後の民族文化はそれを基盤にさまざまな展開を見せるようになっていったと理解される。それでは、日本の民族的な文化の統一性はいつ頃形成されたのか。
日本では1万数千年前に始まる縄文時代において、日本列島のほぼ全域にわたって同質の文化(縄文文化)が形成されていた。それに対して、大陸に漢民族の統一文化が形成されたのは紀元前後のことである。
別の言い方をすれば、日本文化の統一性は、南太平洋諸島的な自然信仰を持つ母系制社会を軸に縄文時代になされた。それに対して大陸文化の統一性は、農耕文明下の儒教的な父系制社会成立以降になされた。
そのため、日本列島では、大陸から儒教的な制度や習俗が入ってきても、民族の基本的な資質としての自然観や文化習俗が消し去られることがなかったのである。皇室の永続性についても同じことがいえるだろう。
私が皇室の融通無碍(ゆうずうむげ)とも言うべき時代への柔軟な対応ぶりを、その持続の大きな要因ではないかと考えるようになったのは、小説家の林房雄氏が「戦後にもなお天皇制が残ったのはなぜか」に触れて書かれた次の文章を読んだことがきっかけだった。
……日本人は天皇制の変形を気にしない。少なくとも二千年の長い歴史の各時代に天皇制は様々に変化し、しかも変わることなく存続したという事実を、日本人は知っている。マッカーサーは『回想録』の中で、『二千年の歴史と伝統と伝説の上に築かれた生活の倫理と慣習を、ほとんど一夜のうちにぶち砕いた』と自誇しているが、軍人ならでは口にできない単純言であり、大法螺である。
『大東亜戦争肯定論』番町書房、1964年 下線は編集部による、原本は傍点
林氏は、敗戦は明治維新以降の「武装せる天皇制」を終結させたが、天皇制そのものは存続した、そして「戦争が終れば、天皇は平和な祭司または族長にかえる。現代ではおそらく日本天皇制のみの持つ土俗学的法則がここに現れた」(下線は編集部による、原本は傍点)と述べている。
林氏は、天皇制を廃止するといえば、大多数の日本人は「否!」と答える、だから連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官、マッカーサーはそこを避けて通り、「厄介な『アジア的伝統』の武装を解除し、神格を剥奪するだけにとどめて、その他の部分はそのままにしておいた」のだと言うのである。
以上のことから林氏は、天皇制を敗戦後の日本に残したのは占領軍なのではなく、「日本国民の『民俗』と『存在様式』であった」と述べている。
1945年9月27日、連合国軍総司令部の
マッカーサー最高司令官(左)と
会見した昭和天皇=東京・赤坂の米国大使館
林氏が言う天皇制は明らかに政治的な権力支配のシステムとしての天皇制ではない。林氏は、天皇制の根本は政治的な権力や制度の思想にあるのではなく、日本人の伝統的な生活意識の基盤を形づくる民俗的な存在様式にあると考えている。そこに私は大きな共感を覚えた。
「日本人は天皇制の変形を気にしない」という言葉には大きなショックを受けたが、言われている意味はとてもよく理解できた。そして、この「日本人」を「皇室」に置き換えて読んでも、まったく差し支えないことを知ったのである。
林氏の言葉を借りれば、「天皇制は様々に変化し、しかも変わることなく存続した」が、その「変わることなく」というところが重要である。様々に変化してきたとはいえ、皇室は常に現在性(時代性)と歴史性(永続性)の二つが凝縮した場所としてあり続けてきた。だからこそ、時代を超えての存続を可能としたのだ。
では、皇室の永続性を支えているものは何か。
東洋の古代国家は農耕民を支配する国家だった。そのため、専制君主としての国王は農耕民共同体の首長的な性格を持っており、実際に国家的な農耕祭祀を執り行なう司祭の役割を果たしていた。しかし、日本の場合、天皇の性格はそれだけではない。天上の神々の子孫と伝えられる宗教的な性格を持っているのである。
天皇のような性格は、中国や朝鮮の専制君主にはないものだ。中国・朝鮮の専制君主は、あくまで天帝(天上の支配神)から地上の支配権を委任された人間であって、決して天上の神々の子孫とはみなされていなかった(天帝思想)。西洋の皇帝や王も同じことで、王権は神から授かったものとみなされていた(王権神授説)。古代朝鮮の高句麗・百済・新羅の三国時代には国王を日本のように「天孫」とする伝承があったが、その後は中国と同じ「天帝思想」へと変化していった。
天皇が天上の神々の子孫とされたことは、天皇が農耕司祭としての農耕王であるばかりでなく、同時に自然の山野河海を祀る司祭としての自然王でもあることを意味している。この点で天皇は、他国には例をみない特異な君主なのである。
私が思うには、自然王とともに山野河海を慕い思うところに、日本民族(エスニシティ)の基本的な資質があり、時代を超えて生き続ける皇室の永続的な性格もそこに発している。自然の恵みに依存して生きる人々が狩猟採集民だが、彼らは自然の恵みをそのまま得て生きているところから、今で言う感謝・報恩の証として、採集した植物や動物や魚介類の一部を神々に捧げた。これを贄(にえ)の進上という。
東洋の古代国家は、土地の産物・民の労力の一部を、各地の農耕民共同体の首長を通して、唯一の統治者(専制君主)へ貢納させた。これが事実上の税となる。
しかし、日本の古代国家ではそれだけではなく、海や山など(山野河海)に働く者たち(非農耕民共同体)が、贄を神々へ捧げるのと同じように、天皇に直接、食料となる山海の産物を贄・供物として進上したのである。これは農耕民に課された税とは別の性質のものである。
古くは日本国のことを、「天皇が統治される(しろしめす)国」という意味で「食(を)す国」といった。「食す」は「食う」の尊敬語で、同時に「治める」の尊敬語とされる。なぜ天皇が国を統治されることを「食す」といったのだろうか。
伊勢神宮内宮前に設けられた記帳所で順番を待つ大勢の人たち=2019年10月22日午後
主に漁労で生活した古代の海人たちは、収穫物としての魚介類の一部を贄として自然の神々に(神社などに祀った神々に)進上し、神々に食していただき、これを神々に対する服属の証とするのが習わしだった。後には天皇に進上する食物も贄と称され、天皇に贄を進上することで天皇への服属(直属)を示したのである。言うまでもなく、天皇を天上の神々の子孫とする信仰(自然王とする信仰)があるためである。
こうした信仰習俗が、やがて古代国家の制度的な規範となり、天皇がその進上された土地の食物を「食される」(土地の魂を身に着けられる)ことによって、その土地を「統治される」とみなすようになったのだと考えられる。
古代律令制下では、租・庸・調の税が各国に課せられていたが、これとは別に貢として贄の納付が定められていた国があり、これを御食国(みけつくに)と呼んだ。御食国の全貌は明らかではないが、沿岸地帯の若狭国、志摩国、淡路国などのほか、内陸地帯の信濃国、下野国などにもあったことが知られている。
日本に来た当初の私は、天皇を神々の子孫とする心性をなかなか理解することができなかった。それがなんとか分かると思えるようになったのは、ある人が「神社にお参りするのと同じことです」といった言葉がきっかけだった。
なるほど、神社で土地の神々にささげ物を供える習慣は現在もなおあり、最も簡易なささげ物が「お賽銭」に違いない。このとき私は、日本人の自然(あるいは自然の神々)に対する向き合い方と天皇に対する向き合い方は、基本的に同じものだと理解した。
私は林房雄氏の示唆を受け、また私自身の日本体験を通して、天皇が国民統合の象徴であり得ているのは、何よりも皇室が、日本人の民俗的な生活のあり方の中にその根を持っているからだと感じてきた。
どんな国でも民衆の生活のあり方は、時代とともに変化していきながらも、古くから人々の間に伝わる風俗や習慣や信仰などを、つまり民俗を保存している。日本の皇室はその保存されていく部分に根を持ち、国民生活の時代的な変化の相を見事に映し出しながら、今日に至るまで持続してきたように思う。
民族も文明も時代の中でさまざまな変化をとげていくけれども、なお容易に変わることのない個性—お国柄とか国民性というものがある。それは、ある時代に統一体として形成された文化の基層に根ざしたものであり、それがそれぞれの民族の心のあり方や行動のあり方を大きく方向づけているのではないだろうか。日本の皇室はそうした日本文化の基層に根を持っていて、だからこそ、現在にあって国民統合の象徴であり得ているのではないかと私には思われる。
いずれにしても、日本の皇室は日本人が日本人としてあり続けてきたことの内部に根を持っていることは疑いない。
太古の昔から、農耕をする者は土地の神に五穀を捧げ、漁労をする者は海の神に魚介類を捧げ、山野に狩猟をする者は山の神に獲物の肉を捧げた。そのようにして、自然の恵みに感謝する生活が人類には長い間続いた。そこでは、世界とは「自然の神々がいます大地=山野河海」にほかならなかった。
「即位礼正殿の儀」を終え、退出される天皇陛下。奥は皇嗣秋篠宮ご夫妻=2019年10月22日午後、宮殿・松の間(代表撮影)
そのように人間が自然に溶け込んで生きていた時代、人間は山野河海と分かち難く結びついて生きる生命体であったし、山野河海もまた人間と同じに意志を持って生きる生命体であった。山野河海と人間は、切っても切り離すことのできない一個の身体であった。
皇室が根付く日本文化の基層は、実にそこまでの奥行きを持っている。
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