ミャンマーで投獄された脱北者の私が自由を取り戻すまで
嘘で塗り固められた金正日の回顧録を信じる韓国人に唖然
JB Press
2021.5.22(土)
ミャンマーの首都ヤンゴンにあるインセイン刑務所から釈放される政治犯(写真:AP/アフロ)
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かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮に渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏の手記の3回目。念願の脱北を果たした李泰炅氏だが、タイに向かう途中のミャンマー国境で拘束されてしまう。
※1回目「『地上の楽園』北朝鮮に渡った在日朝鮮人が語る辛苦」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64819)
※2回目「脱北した在日朝鮮人医師が体験した脱出劇のリアル」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65006)
(李 泰炅:北送在日同胞協会会長)
私は中国の延吉(ヨンギル)から汽車に乗った。北京に到着後、アン・チャンスという朝鮮族のブローカーに会い、1000ドルを先払いすると、小さな部屋に通された。そこで出発まで1カ月半も待たされる。その後、延吉からミャンマーの検問所にたどり着くまで、4人のブローカーの手を経たことになる。
ミャンマーは135の少数民族からなる国だ。私を案内してくれたブローカーも、私を捕まえた警察官も、それぞれ異なる民族だったように思う。私の額に銃口を当てた警察官は巨大なゴリラのようだった。検問所では冷たい手錠をはめられた。感電したかのように体がぶるぶる震えた。27年もの間、脱北を夢見ながらあらゆる苦難に耐えてきたのに、その夢が壊れた瞬間だった。
検問所で体を縛られてから刑務所に入るまで、捕まったという実感が湧かなかった。刑務所に入って3日間、一睡もできず、何も食べられなかった。眠りたくなかったし、食欲もなかった。夜になると、妻と娘が面会に来てくれる夢や幻覚を見て、つかの間だが心が癒された。
北朝鮮に送還されると警察官に宣告された。生きている意味がもうなかった。青いペンキが塗られたコンクリートの壁に頭を打ちつけた。痛い。軽くぶつけただけなのに、死ぬほど痛い。さらに強く打ちつけた。そして、もっと強く・・・。目の前に星が飛ぶ。大きなハンマーで叩かれたかのように、頭の中で音が響いた。
苦労して生きてきた56年間が惜しく、連子窓の中に閉じ込められている自分が情けなかった。悔しかった。しかし我に返り、生き残らなければと思った。「自殺」はやはり、誰にでもできることではないようだ。
幸いなことに、私は裁判を受けることができた。しかし難民として認めてはもらえず、不法入国罪で3年の刑を言い渡された。「私は阿片の密輸業者でもないし、殺人犯でもないし、強盗でもない。生まれ育った日本に帰りたいだけの亡命者だ。国際法でも亡命者は助けることになっている」と主張したが、ミャンマーも自由と人権が保障される国ではなかった。
ミャンマーのインセイン刑務所で味わった屈辱
刑を宣告されて行った先は、ミャンマー北部にある刑務所だった。やせ衰えた私の体はシラミに襲われた。夜になると、2分ごとに真竹の筒で激しく叩く音がして眠れない。
しかし3日も経つと、睡眠不足だった私にはその音が子守歌に聞こえてきた。眠らなければ死んでしまうから。食事は1日2回。稲わらの混ざった南京米が一握り、見たことのない野菜の入った酸っぱいスープ、塩の塊が入った漬物3グラムだけだった。
つらかったのは、それだけではない。ミャンマー語も文字も分からないからコミュニケーションが取れないのだ。
ある日、井戸の近くで洗濯をしていたら、いきなり首筋を叩かれた。焼きごてで焼かれたかのように痛かった。叩いた人は「洗濯禁止」と書かれた札を指さしながら首を横に振ったが、私にはふにゃふにゃした模様にしか見えない。私は黙って立ち上がり、その場を立ち去るしかなかった。
56歳にもなって、ミャンマー人の囚人に叩かれるとは無念だった。悔しかった。悲しかった。死にたかった。それでも耐えなければならない。というより、耐えるしかなかった。
忍耐の1年が過ぎると、日本と韓国の大使館関係者が会いにやってきた。私はその面談で目的地を日本から韓国に変更した。その時点で韓国は多くの脱北者を受け入れていたからだ。
韓国大使館の要請により、私はヤンゴン郊外に位置するインセイン刑務所に移送された。理由はよく分からないが、恐らく首都に近い刑務所だからだろう。14世紀、米国に売り飛ばされた黒人奴隷みたいだ、と思った。
青い囚人服のシャツ、サロンスカートのようなミャンマーの伝統衣装「ロンジ―」を履き、足首には丸鋼の足かせがはめられていた。両足の足かせは1メートルの丸鋼でつながれている。その丸鋼を、手錠された両手で握り、短い歩幅で歩かなければならない。
両手と両足を縛られたまま、ヤンゴンまで飛行機に乗った。生まれて初めての飛行機。本来なら感慨深い初フライトだが、私は囚人の立場だ。手足を鉄で縛られた自分があまりにも惨めで、死んでしまいたくなった。
三重の壁に囲まれた刑務所に入ると、やっと足かせと手錠を外してもらえた。非人間的な刑務所として悪名高いインセイン円形刑務所で、私は殺人犯や麻薬中毒者と同じ扱いを受けながら、2年6カ月を過ごすことになる。やつれた体に寄生するシラミ、顔を這うゴキブリ、悪臭を漂わせながら人間の体に噛み付く南京虫、たった一握りの南京米、叩かれた時に焼きごてを押しつけられたかのような首の痛み・・・。これらのすべてに耐えながら。
その間も「北朝鮮送り」という言葉が頭を離れず、私は魂の抜けた虫けらのようになった。悲惨な毎日だったが、しっかりしなくてはと思った。「生き残らなければならない。南京米を食べて、体を鍛えて、チャンスが来たら逃げよう」という目標を持った。
悪名高いインセイン刑務所(写真:AP/アフロ)
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2年6カ月ぶりに感じた羞恥心
2009年3月6日。「不法入国罪」を宣告された3年の刑が終わると、韓国大使館の関係者が訪ねてきた。それまでの数回にわたる面談で、「故郷に帰ってきた帰郷者として私を受け入れてほしい」と数十回、お願いしていたが、何の返事もなかった。ところが、その日は確信に満ちた口振りで言われた。「急いで準備して韓国に行きましょう」。このひと言で、北極の氷が溶けるように不安も消えていった。
すぐに空港に向かった。途中、車の中から街を眺めた。アスファルトの敷かれていない土埃の立つ道、真っ黒に焼けた顔、大声で物を売る女性たち。すべてが活気にあふれ、何もかもが美しく見えた。刑務所に入る時と出る時とでは、こんなにも違うものなのか。
予約されていた飛行機のチケットを手に、領事に案内されて機内に入った。2度目のフライトだった。最初は囚人として、次は自由の身で。
出所した時の私は、囚人の友人がくれた色褪せたストライプ模様のシャツを着て、脱北してきた時の日本製のズボンと、領事が買ってきてくれた青い運動靴を履いていた。短く刈られた髪の毛には白髪が交ざっていた。飛行機の隣の座席には30代初めくらいの女性が座っていた。私はみすぼらしい自分の姿が恥ずかしかった。2年6カ月ぶりに感じる羞恥心だった。人間が恥ずかしいと思うのは、生きているという証拠だ。
韓国の仁川空港に着くと、「審問センター」に向かった。ここでスパイではないか身元を確認される。その1カ月後、韓国に定着するための教育を受ける機関「ハナ院」に送られた。3カ月間、韓国の歴史や生活方式などを学ぶのだ。ここでも朝晩の点検、日課に沿った学習と運動時間、休憩時間があった。
北朝鮮の人民学校、軍生活、大学生活はもちろん、病院に勤めていた時もミャンマーの刑務所にいた時も、韓国の審問センターとハナ院でも、朝晩の点検は続いた。朝会と点検は統制の手段である。
ハナ院では、ユニホームと生活必需品が渡された。食事は食べ放題で、1人あたり10万ウォンの生活費が支給される。ここでも私たちは鉄条網の中で生活しなければならなかったが、売店ではタバコと生活必需品を購入できた。北朝鮮での生活、ミャンマーの刑務所では「不便だ」とか「足りない」などと感じたが、ハナ院での生活は豊かに感じた。
脱北者向けの定着支援センター、ハナ院でトレーニングを受ける脱北者(写真:ロイター/アフロ)
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46年ぶりに訪れた故郷の下関
北朝鮮にいた頃、噂で聞いていた韓国の経済発展と福祉を目にし、衝撃を受けた。ハナ院を出る時は定着金が支給され、6カ月間は基礎生活受給(生活保護費)をもらうことができた。家も支給された。36歳以下であれば、大学に通う学費も支援してもらえる。私は大学には行けないものの、国費でパソコンスクールや、職業相談員と療養保護士の養成学校に通うことができた。
北朝鮮では医師だったから医療界に就職したかったが、すべて断られた。北朝鮮は理論と医療経験を元に患者を治療するが、韓国は最新の医療設備を元に治療するシステムだ。学歴は認めてもらったが、資格は認めてもらえなかった。だから韓国では医師として働くことはできない。
資本主義社会では、短時間で最高の能率を上げられる専門家が求められる。58歳という年齢で就職するのは難しかった。私にできるのは3Kの業種しかなかった。日雇いで道路の修理をしてみたが、1日働くと3日寝込んでしまう。年老いた今は、基礎生活受給者(生活保護者)となり、一市民として生活している。
住む家があり、24時間、自由に使える水道もあり、ガスレンジ、電子レンジ、洗濯機、炊飯器もあり、楽な生活を送っている。私にとってここは天国だ。
あくせく働きながら生きていた時は体が痛くなることはなかったのに、生活に余裕ができるとあちこちが痛くなってくるから不思議なものだ。でも、病院はデジタル化されていて、看護師も医師も親切だ。治療も無料、薬も無料。北朝鮮は「無償治療」「無料教育」であり、韓国は「腐って病んだ資本主義」と聞いていたが、いざ来てみると、韓国こそあらゆる福祉施設が整った天国だった。
韓国に来て、私は真っ先にパスポートを作った。世界を自由に行き来できる権利があるのなら、故郷を訪れたいと思ったのだ。最初に行ったのは私の故郷、下関だった。福岡から湯布院温泉に行き、門司港を経て「唐戸市場」や下関駅に行った。46年ぶりに故郷の家を探すには基準点が必要だ。私にとってその基準点は関釜連絡船の船着き場だった。
数十年経っても海だけは変わらない、と思っていたが違った。故郷の家のすぐ前に船着き場があったが、それがなくなっていたのだ。ショックだった。「10年経てば川も山も変わる」という言葉があるが、「海が変わる」とは言わない。なのに、海もなくなり、船着き場もなくなっていた。いろいろな人に尋ね回ったところ、海を埋めて、4キロ離れた場所にトンネルを作ったと聞いた。
母と姉も一緒に来られたら、どれだけよかっただろうか。海まで変わってしまった母国。日本の過去と今の現実を姉と母に見せてあげたかった。子供の頃は大きくて長く見えたトンネルも、年取ってから見ると何もかもが小さかった。町も小さく、売店も小さく、ホテルの部屋も小さかった。しかし、日本は親切と思いやりにあふれていた。道を聞けば、誰もが足を止めて道を案内してくれた。
私は46年ぶりに故郷の空気を吸い込み、母の友人に会った。なんとなく亡くなった母が生き返ったような気がして嬉しかった。私は嬉しさと名残惜しさを残し、韓国に帰ってきた。
「反米」の北朝鮮と「反日」の韓国
韓国での生活は、北朝鮮とは比較にならないほど幸せだった。しかし数年経つと、光と影が見え始め、矛盾を感じ始めた。政治には門外漢である私にすら、あれこれと問題が見えたのだ。
2019年7月4日、日本大使館の前で「自営業者総連合会」の会員10人あまりが記者会見を開き、日本製品の不買運動を呼びかけた。「三菱」「ホンダ」「ユニクロ」などのブランドの名前が貼られた段ボールを作り、日本製品の不買を叫びながら力強く踏みつぶしている。私にはそれほどまでの反日行為が理解できなかった。理性と感情を切り離すべきではないのか。これが真の愛国だというのか。
「挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会、現在の正議連)」の代表ユン・ミヒャンは、1416回にわたって「日本軍性奴隷制問題解決のための定期水曜デモ」を行った。そうやって韓国民の心に「反日感情」を植え付けていったのである。
これらの行動を目にしながら、独裁国家の北朝鮮と、民主主義の韓国における「反日と親日」を比較するようになった。
北朝鮮では「金日成は抗日遊撃隊の隊長」という歴史を作り、金氏王朝の業績を称えるのに利用した。これは金日成を唯一神に仕立て上げる土台となった。一方、北朝鮮では自動車、自転車、カメラなど、日本製は高価だという認識があり、富の象徴として通用している。「日本製品不買運動」で日本製品を踏みつぶすパフォーマンスなど想像もできない。
金氏王朝が憎んでいるのは米国だ。朝鮮戦争に参戦した米国と16カ国の国連軍のせいで、朝鮮半島の武力による統一は失敗に終わった。北朝鮮では「米国帝国主義は永遠の仇」と言われている。北朝鮮では「苦難の行軍」も300万人の餓死者が出たのも、米国帝国主義のせいであり、平和統一をできないのも米国帝国主義のせいと言われている。
一方、韓国では反日こそが愛国者として認められる。北朝鮮では常に反米、韓国では常に反日なのである。北朝鮮は武力統一のため反米を提唱し、韓国は反日という過去に向かって叫んでいる。政治のことはよく分からないが、過去にとらわれた反日よりも、現在と未来に向けての協力関係こそ、韓国にとって賢明な戦略ではないかと思う。
北朝鮮で金氏王朝に対する不平不満を言ったら、すぐさま政治犯収容所行きになる。しかし、韓国では大統領を侮辱しても表現の自由とされ、捕まることはない。
朝鮮戦争も天安(チョナン)艦沈没事件(2010年、北朝鮮人民軍の魚雷により韓国海軍哨戒艦「天安」号が沈没した事件)は北朝鮮の仕業ではないという保守派の主張も、金正恩を偉人と崇める青年団体「偉人を迎える歓迎団」がソウルの光化門広場で記者会見をするのも自由だ。
韓国をさまよう共産主義の亡霊
今年4月、金日成の回顧録『世紀とともに』が韓国で出版され、書店やネット書店で売られ始めた。とても正常とは思えない。金日成の革命の歴史は全部うそだということを、北朝鮮という統制された国で暮らしている人民ですら知っているのに、韓国民はそれを信じている。韓国を共産化しようとする数多くの亡霊がさまよっているのだ。
おかしな自由が横行するこの国に向かって、私は真実を言いたいと思った。そこで作ったのが「北送在日同胞協会」だ。「北送在日同胞」に対する差別と監視、弾圧を全世界に知らせ、北朝鮮にまだ残っている在日同胞たちの「自由な往来」と自由意志による「帰郷」ができるよう、日々務めている。
私は自由民主主義の日本で8年、世界最悪の経済と独裁体制下にある金氏王朝の国で46年暮らし、再び自由民主主義の国である韓国に戻ってきた。だから脱北者ではなく「帰郷者」である。「北朝鮮は地上の楽園」といううそにだまされて地獄へ行ってきたのだ。
日本では、人道的見地から北朝鮮に自分の意思で送られた「帰国者」、北朝鮮では祖国に帰還した「帰国者」と呼ばれている。私たちの祖国は北朝鮮ではない。「北送在日同胞」である私たちは、北朝鮮と朝鮮総連の徹底した「地上の楽園説」にだまされて「北送」された。差別と弾圧を受けながらも故郷に帰ることができず、抑留されているのである。だから「誘拐抑留者」と呼ぶべきだ。
私は数多くの苦難の中、あらゆる苦しみを味わいながら流浪の人生を歩んできた。北朝鮮にはまだ、格子のない牢獄で監視と弾圧を受けている「北送在日同胞」が大勢いる。自由と人権が保障された幸せな毎日を送れるようになることを願ってやまない。
ジェットコースターのような私のストーリーには理解できない点もたくさんあると思うが、私が体験した真実であることだけは分かってほしい。
3つの国を放浪した流浪の人生で何を学んだのか、と誰かに聞かれたことがある。私はためらわずに即答した。
日本では人間が守るべき初歩的な人間性を学んだ。北朝鮮では生き残ること、強くなること、耐え忍ぶことを学んだ。韓国では、政治家と商売人にだまされてはならないことを学んだ──と。(翻訳:金光英実)
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