先史時代東北アジア諸民族の文物交流 ―とくに弥生文化の形成をめぐって― 九州大学名誉教授 西谷 正 はじめに 弥生文化を特徴づける稲作は、紀元前500~400年のころまでに、北九州の一角ではすでに始まっていた。佐賀県の菜畑遺跡では、縄文時代晩期後半の層位において、水田跡・畦畔・木製農具・炭化米を検出した。そこでは炭化米のほかに、アワ・アズキ・オオムギが出土していることから、水稲耕作以外に畑作も行われていたことが推測された。 紀元前400300年ごろ、つまり弥生時代に入ると、北部九州の各地で点々と本格的な農耕村落が出現するようになる。そのころ稲作技術が定着化し、それまでの狩猟・漁労を主要な生業とする社会から、農業社会が成立したのである。この時期の代表的な遺跡は、福岡県の板付遺跡である。竪穴式住居や墳墓からなる集落は、比高が23メートルの台地上に立地し、環濠を伴っている。そして周囲の低地には、水路や井堰などの灌漑施設を備えた水田が広がっている。北部九州の板付Ⅰ式土器も含めて、いわゆる遠賀川式土器ともとばれる段階、すなわち前期のうちに、稲作技術は東北地方まで波及した。 紀元前100年を前後するころ、換言すれば、前期末から中期初めのころ、弥生文化のもう一つの大きな特色である青銅器が本格化する。 ついで紀元前後、つまり中期後半ごろになると、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡を筆頭とする、およそ25ヘクタールという大規模な集落が出現するようになる。それと同時に、やはり吉野ヶ里遺跡や大阪府の加美遺跡で知られるような、長さ20数メートルという巨大な墳丘墓が築造される。 このような顕著な現象は、北部九州と近畿地方を二つの頂点として現れる。しかも墳墓の副装品には、とくに北部九州において、銅鏡など中国(漢)の文物が顕著である。一方では、この時期の日本列島が倭という呼称で中国の正史に初めて登場し、百余国や奴国王の存在が記載されていることも知られるとおりである。それらの事実は、中期後半のころ、西日本の各地に地域的な国や国王が出現していたことを思わせる。 このような社会状況は、後期の紀元12世紀へと継続し、いっそう発展していった。中国史書に記される「魏志倭人伝」によると、3世紀前半には、邪馬台国を頂点とする統一国家への歩みが踏み出されていたことがうかがえる。考古学的にいえば、近畿地方の奈良盆地の東南部に、奈良県の巻向遺跡にみるような大規模集落が存在しており、なおかつその周辺には、出現期の前方後円墳が相次いで築造されている。纒向石塚や箸墓古墳(奈良県)に象徴される大規模な前方後円墳は、北部九州から関東にまたがる広範な地域に分布する、同時期の前方後円墳のなかでは最大規模であり、奈良盆地周辺が日本列島内でも中枢的な地域であったことを思わせる。 1. 日本における稲作開始期の韓国と中国 日本列島で初めて稲作が開始された紀元前500400年のころ、韓半島では無文土器時代の文化が、中国では東周時代の文化が展開していた。韓国の無文土器の時代でも前期のころは、有孔列点文土器に代表される無文土器や、中国の竜山文化の系譜を引く各種の磨製石器が盛行していた。この時期は、すでに農業社会に入っていたが、農耕文化の実態は、地域によってかなり様相を異にしていた。そのもっとも大きな地域性は、生態系の相違を反映しており。韓国北部における雑穀栽培と、南部における水稲耕作が挙げられる。とはいえ、朝鮮南部においても、雑穀の調理具としての鞍形磨臼が広く分布している。 事実、内陸部に位置する京畿道驪州郡占東面の欣岩里遺跡では、イネ․オオムギとともに、アワ․モロコシキビなどの植物遺体が検出される。これを合わせて考えると、韓国南部において、水稲耕作と雑穀の畑作が混合した農業経済の存在がうかがえる。農業技術については、収穫具としての石包丁を除くとほとんどわかっていない。しかし、木工用の各種の磨製石斧の存在から、木製農具が想定される。朝鮮では、水田遺構は検出されていないが、ともに低湿地の調査が進むと、木器や水田跡は必ず発見されるであろう。 墓制をみると、支石墓が特徴であるが、やはり大きくいって、韓国北部のテーブル形と南部の基盤形という地位色が認められる。ちなみに、佐賀県菜畑遺跡の周辺は、基盤形支石墓の集中分布地の一つにあたる。さらに、福岡県の長行遺跡で出土した縄文時代晩期後半の土器にみられる有孔列点文は、韓国南部の無文土器を想起させる。このように比較してくると、北部九州で始まった日本最初の農耕文化は、韓国南部に直接の起源を求めることができよう。 ところで、日本における稲作技術体系の始まりは、韓国の無文土器の移植によるといっても過言ではない状況を示している。それではどうして、そのような状況が現出したのであろうか。無文土器が一つの体系として伝來している背後には、その文化をもたらした渡來人の存在を想定しなければならない。しかし、同時代の人骨資料が日本․韓国の両者で不足している現状では、渡來人の問題は重要な仮説として、今後に残された課題である。それはともかく、一つの文化が移植されるには、それ相当の理由が韓国側になければならない。筆者は、その理由を韓国の無文土器時代社会における内部矛盾に求めたい。具体的には、石鏃․石剣などの磨製石器による武器の発達は、社会状況の緊迫をうかがわせる。その根底には、農業共同体における土地や水をめぐる争亂を考えたい。ただ、忠清南道扶余郡草村面の松菊里遺跡でみるように、石鏃や石剣とともに遼寧式銅剣が出土しているが、そのような青銅器文化の荷担者の南下が、在地社会の人々を押し出したという考え方も興味深い。 さて、遼寧式銅剣を含んで、青銅器時代にあった中国大陸では、東周が成立していた。東周は紀元前403年を境に、春秋と戦国に分けられる。韓国に隣接する中国東北地方の北部は、韓国と同じように、磨製石器を主要な利器とし、アワが中心の雑穀栽培を主生業とする農業社会が展開していた。しかしながら、中国の東北地方でも南部地域は、中原(中国文化の発源地である黄河中流域)の影響を受け、東周の青銅器文化が浸透した。とくに戦国時代には、一部で鋳造による鉄器の製作開始がみられるようになっていた。わけても鉄製農具の普及は、農業生産力を大きく高めていった。 鉄器の製造はまた、商工業を発達させ、都市を繁栄に導いた。その結果。青銅製の貨幣も流通するようになった。社会構成史上からは、韓国․日本の原始共同体社会に対して、春秋時代を通じて、封建制度に基礎をおいた政治、社会の秩序が崩壊しつつあった。戦国時代にはいると、周の王室の権威は完全に失墜し、代わって諸侯が勢力を伸張していった。その結果、秦․楚․燕․斉․韓․魏․趙の七国が有力となり、互いに抗争を繰り返した。これらのうち、東北地方の南部には燕国が台頭していった。燕国で流通していた貨幣の明刀銭は、鋳造鉄器や灰陶とともに、韓国北部の清川河流域辺りまで分布しており、この地域への燕国の進出をうかがわせる。このことは、韓国における鉄器の使用開始に大きなインパクトを与えたことになる。 2. 稲作定着期の日本と韓国 弥生時代に入った北部九州における最大の特色は,環濠集落の出現であろう。玄海灘に面した北部九州の沿岸部では、板付Ⅰ式土器の段階から環濠を伴う集落、もしくは貯蔵穴群が点々と出現している。それらの立地や規模をみると、環濠集落には、稲作の定着に伴う本格的な農村の姿がある。 さて、このころの韓国や中国の現状は、以前と基本的には変わっていない。ただ、日本で突如として出現する環濠集落についていえば、ほかの弥生文化を構成する緒要素のコンテキストからみて、当然のこととして、韓国南部に存在しなければならないと考えてきた。はたして1990年の春に、韓国東南部で初めて環濠集落が発見された。慶尚南道蔚州郡熊村面の検丹遺跡において竪穴式住居群を取り囲むようにして、長徑118.8メートル、短徑70メートルの平面楕円形の環濠が認められたのである。 ところで中国では、環濠集落として早くから知られていたものに、陝西省西安市の半坡遺跡や同臨潼県の姜寨遺跡がある。ともに新石器時代仰韶文化に属し、紀元前47004500年ごろの遺跡である。それに対して、山西省夏県の東下馮遺跡における内․外二重にめぐらした平面台形の環濠は、二里頭文化期におけ相当するので、紀元前16001300年にあたる。ところが、検丹里遺跡は、紀元前400300年ごろのものと思われるので、中国と韓国の環濠集落の間には現在の資料によるかぎり、年代的に大きな隔たりがある。しかしながら、仰韶文化から竜山文化への継承性、そして中国東北地方における竜山文化の伝統性などを考慮すると、中国東北地方から韓国北部にかけての、いわゆる大陸系磨製石器群の荷担者の集落形態として、環濠集落の存在を想定できよう。ちなみに、揚子江流域の、江蘇省武進県の淹城遺跡において、春秋後期ないしは戦国時代の、二重の環濠の存在が報告されている。ところが共伴遺物からみると、韓国や日本の環濠集落の直接の源流にはならない。 3. 青銅器文化の展開 日本における青銅器の出現は、前期初頭に始まる。すなわち、福岡県の今川遺跡において、二次加工品とはいえ、有茎両翼式の銅鏃が見つかっている。今川遺跡ではまた、やはり二次加工された銅鑿が表面採集されている。銅鏃の類例は、今川遺跡とは玄海灘を挟んで対岸にあたる、韓国の慶尚南道金海郡茂渓里の石室墓の出土品にみられる。そして銅鑿は、韓国中部西海岸に近い、松菊里遺跡の石棺墓の出土例があり、しかもいわゆる遼寧式銅剣と共伴している。つまり日本最古の青銅器は中国東北地方の遼寧省を中心に分布する遼寧式銅剣の系譜を引いていることがわかる。 この青銅文化は、銅剣のみならず、銅矛や銅斧․銅刀子․銅錐․銅釣針․銅釦などを伴っている。そして朝鮮では、それらの青銅器もしくは鋳型が、いわゆる大陸系の、磨製石器を主体とする無文土器時代の前半期に出現している。このような遼寧式青銅器文化が基礎となって、やがて韓国独自の細形の銅剣․銅矛․銅戈に象徴される青銅器文化が本格化する。 このようないわば韓国式青銅器文化は、前述のとおり、前期末ごろから北部九州を中心として、本格的に展開するわけである。その青銅器群は、これまで一般には、製品の優秀性から舶載品とされることが多かった。ところが最近になって、吉野ヶ里遺跡で、最古式の細形銅矛の鋳型が採取されたのである。この鋳型の型式は、かつて福岡県の板付田端遺跡で、前期末型式の甕棺墓の副装品として出土した、細形銅剣を伴う銅矛型式に一致する。このことから、前期末における銅矛の鋳造開始の可能性が高まってきた。少し時代が下がって、中期前半になると、佐賀県の鍋島本村南遺跡において銅矛鋳型が出土しており、中期前半までに、青銅性利器が国産化されていたことは確実視できよう。 同じころの青銅器として、利器以外では小銅鐸がある。舶載の小銅鐸は、弥生時代の終末期になって廃棄され、埋没した例として、大分県の別府遺跡で知られる。小銅鐸そのものはないが、その模造品と思われる土製品は、中期前半から中ごろの実例が若干知られる。また、小銅鐸に近い型式の鋳型が中期後半以前のものとして、福岡県の大谷遺跡出出土していることもよく知られている。韓国では、前述の青銅製利器群と小銅鐸が共伴するので、前期末から中期前半に小銅鐸が存在していたことが十分考えられる。ちなみに、韓国における小銅鐸は、「魏志馬韓伝」の記載から類推すると、中国で銅鐸といわれているものに類似する、宗教儀礼つまり毎年春․秋の二回にわたって行なわれる農耕祭祀の、重要な樂器であったと思われる。 農耕祭祀の樂器といえば、すでに前期に陶塤が知られる。これまでのところ、韓国における陶塤の出土例は知られないが、中国では新石器時代以來、全国的に分布している。弥生時代に入って新たな稲作が定着化するとともに、当然それに伴う農耕儀礼が始まっていたと考えるべきであるが、樂器一つをとっても、陶塤から小銅鐸を使っての儀礼へと発展したことがうかがえよう。 ここで興味深いのは、前期末から青銅器が本格化するころ、北部九州を中心に、西日本の各地で韓国系の無文土器が出土することである。ことに、前述の鍋島本村南遺跡では、同じ遺跡内から銅戈鋳型と無文土器が出土しており、日本における青銅器鋳造開始と、韓国の無文土器文化の密接な関連を示してくれる。 そのような青銅器文化波及の背景を考えるとき參考になるのは『史記』朝鮮の条からうかがえるように、漢代に入った紀元前190年代における、中国東北地方からの衛満の亡命による衛氏朝鮮国の成立であろう。そのころ朝鮮にはすでに準王がいたため、準王はさらに南下するようになる。そうした韓国西北部に起こった政変は、南部社会に混亂をもたらし、その地域の青銅器文化を、さらに日本へ伝來させる契機となったのではなかろうか。 ところで、中期の前半に、もう一つ特徴的な青銅器がある。それは銅鉋で、北部九州を中心に若干例の分布をみるが、同じころの韓国で実例はもとより鋳型も出土しているので、韓国からの舶載品と思われる。銅鉋は、元來、中国の南部地方を中心に、春秋から戦国にかけてみられるものである。同じころのもう一つの青銅器としては、やはり中国南部地方を中心に、分布する桃氏剣があり、韓国の西南部や北部九州で若干例が知られる。このように中国の戦国時代、いわゆる遼寧式銅剣に代表される北方系の青銅器文化とは別に、南方系の青銅器文化が韓国に入っており、その余波が北部九州まで及んでいることになる。 4. 東アジアの国々 紀元前後、中期後半ごろになると、弥生文化に大きな変化が現われる。その最大の特色は、沖縄地方や東北地方以北を除く、日本列島の広範な地域で大規模な集落が出現し、また、北九州や近畿など一部の地域で、大形の墳丘墓が築造されることにある。大規模集落の周辺には、さらに中․小集落が存在しており、おそらくそれらの集落は、農業共同体としての地域的な政治集団を形成していたと推測される。このような集団の首長層が、ステイタスシンボルにふさわしい大形墳丘墓を築造したと考えるべきであろう。 ここで注目されるのは、首長墓と想定される墳墓には、中国の漢代の文物が少なからず含まれていることである。たとえば、福岡県の三雲南小路遺跡第一号甕棺墓では、銅剣․銅矛․銅戈とともに、前漢鏡30面とガラス製壁8個体、金銅製四葉座金具8個体分などが共伴した。また墳墓構造の一部において、前述の加美遺跡で検出された墳丘墓の内部主体の一つは、二重木棺を使用していた。いかにも中国風というべきであろう。さらに、『後漢書』建武中元2年(57)に、倭の奴国が奉貢朝貢したのに対して、ときの光武帝が印綬を賜わったという記事がある。これは福岡県志賀島出土の「漢委奴国王」と刻んだ金印と合わせ考えると、その当時の日本と中国の関係をよく物語っている。つまり、このような考古資料と文献資料からみて、漢帝国が当時、倭とよんだ日本列島に形成されていた奴国の国王に対して、冊封体制の椊内に編入しようとしたことがうかがえるわけである。 紀元前後の中国では、漢帝国が対外政策の一翼として、倭を視野に入れていた。まず内政面では、中原を中心に郡県制度を、そして遠隔地には封建制度を併用するという郡国制度を施行して、中国内部の中央と地方の支配を貫徹しようとする一方、さらにその周辺地域を藩屏として属国視しようとした。そのような政策の背景には、長城以北の北方遊牧民族、すなわち匈奴の南下に対して備えるため、西は中央アジアから東は韓国․日本、そして、南はベトナムといった周辺緒地域を直接․間接の藩屏にしようという意図があった。 東北アジアの場合、韓半島の北部までは、樂浪郡をはじめとする、いわゆる4郡を設置して植民地化した。韓半島南部から日本列島にかけては、封国として位置づけた。一方『漢書』の「地理志」が、百余国のうちいくつかは朝貢したと記載するとおり、日本列島内部では、ことに西日本を中心に相次いで形成過程にあった各地の地域集団が、集団相互間の牽制策から、競って漢帝国に朝貢したようである。 5. 邪馬台国の時代 以上にみたような社会状況は後期後半、つまり紀元23世紀の時代へと続いていった。中国大陸では、3世紀初頭の後漢の末期における群雄割拠の混亂のなかから、まず曹丕によって華北に魏(220265年)が建国され、相次いで江南に孫権の呉(222280年)、さらに四川に劉備の蜀(221263年)が建国され、ふたたび覇権をめぐって抗争の三国時代を迎えていた。一方、韓半島では北半部に高句麗が成長し、南半部は韓とよばれる諸国があった。韓では、馬韓50余国․辯韓12国․辰韓12国の国々の動きが、より大きな国家形成に向かって活発化していた。そして倭とよばれていた日本列島では、西日本を中心として、北九州から関東に及ぶ広範な地域で、邪馬台国を頂点とする多くの国々が、やはり統一国家の形成を目指し、相互の間で再編成が進行していた。 このようにみてくると、終末期にあたる3世紀前半は、東アジアの各地が古代国家形成の過程にあり、内政と外交の両面でめまぐるしく動いていた時代といえる。 さて、華北に勢力をはっていた魏は、北方系の匈奴․羯․鮮卑などの異民族に対する警戒とともに、魏と対立する漢人の呉や蜀への牽制の意味からも、東方の背後にある韓国や日本を引き続き重視した。そのため、韓国に対しては、西北部において、前漢以来の楽浪郡と、後漢末に楽浪郡から分割された帯方郡を引き継ぎ経営して、植民地支配を行なった。そして、韓国南部の韓や日本の倭に対しては、前漢以來行なわれてきた朝貢関係を持続して、冊封体制下に組み入れた。したがって、魏の外交はいわば遠交近攻の策であったといえよう。一方、韓や倭に形成されていた国々は、緒国家間での優位性確保の一つの手段として、魏の外交政策にあわせるかたちで朝貢を行なった。ことに、日本における邪馬台国による魏への遣使朝貢は、狗奴国対策として有効な手段であったようである。 おわりに 以上のように振り返ってくると、弥生時代は日本における農業社会の成立と発展、そしてその結果としての古代国家形成への胎動の歴史過程であったといえる。しかもその間、日本は韓国や中国との国際化の過程を経験した。その意味において、弥生時代社会の理解のためには、東アジア史の視点が不可欠のものとなってこよう。 | ||
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