日本, 韓.日 關係

竹島 食い違う見解

이강기 2015. 9. 23. 23:10

竹島 食い違う見解

 

朝日新聞

 

 竹島(韓国名・独島=トクト)は、日本が国有化した尖閣諸島とは違って、韓国が実効支配している。ロンドン五輪のサッカー男子日韓戦では、韓国選手が「独島は我が領土」と書いたプラカードを掲げて物議を醸した。この小さな島を巡って、なぜ日韓の主張はすれ違うのか。(武田肇、広島敦史、箱田哲也)※肩書は当時 

竹島

 

12世紀
朝鮮半島最古の歴史書「三国史記」に「于山国」の記述「于山国」の記述(韓国側は「于山国」は竹島を含む地域と主張)

古文書に出てくる「于山島」などの例

 『三国史記』(1145年)

 「十三年夏六月 于山国帰服……于山国在溟州正東海島 或名欝陵島」

 訳: 512年に于山国が(新羅に)服属し……于山国は溟州(現在の韓国江原道江陵市)のちょうど東の海の島にあり、別名は鬱陵島

 『世宗実録』地理志(1454年)

 「于山武陵二島在県正東海中 二島相去不遠 風日清明則可望見 新羅時称于山国 一云鬱陵島」

 訳: 于山、武陵の二島は(蔚珍)県の真東の海の中にある 二島は互いにそれほど遠くなく 天候が良ければ眺められる 新羅時代には于山国や鬱陵島と称していた

15~16世紀
朝鮮王朝時代の官選文献「『世宗実録』地理志」や「新増東国輿地勝覧」に「于山島」の記述「于山島」の記述(韓国側は「于山島」は竹島を指すと主張)

古文書に出てくる「于山島」などの例

 『三国史記』(1145年)

 「十三年夏六月 于山国帰服……于山国在溟州正東海島 或名欝陵島」

 訳: 512年に于山国が(新羅に)服属し……于山国は溟州(現在の韓国江原道江陵市)のちょうど東の海の島にあり、別名は鬱陵島

 『世宗実録』地理志(1454年)

 「于山武陵二島在県正東海中 二島相去不遠 風日清明則可望見 新羅時称于山国 一云鬱陵島」

 訳: 于山、武陵の二島は(蔚珍)県の真東の海の中にある 二島は互いにそれほど遠くなく 天候が良ければ眺められる 新羅時代には于山国や鬱陵島と称していた

1618年または1625年
江戸幕府が鳥取藩の大谷、村川両家に鬱陵島への渡海を許可。両家は竹島を中継地に鬱陵島周辺でアワビ・アシカなどを捕獲(日本側は、竹島の領有権確立の根拠と主張)
1696年
幕府が鬱陵島を朝鮮領と認め、日本人の渡海を禁止
1849年
フランスの捕鯨船が竹島を発見し、リアンクール岩礁と名づける。竹島が第三国に知られるようになる
 

 

1868年1月
明治政府成立
1877年3月
明治政府の太政官が「竹島外一島の件は日本と関係がない」と指令「竹島外一島の件は日本と関係がない」と指令

太政官指令(1877年)

 「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」

 訳:竹島外一島の件は日本と関係がないと心得るべし

 ※韓国は「竹島外一島」が鬱陵島と竹島を指すと主張

1897年10月
朝鮮王朝を継承した大韓帝国が成立
1900年10月
大韓帝国、鬱陵島の郡守の管轄区域に「石島」を含むとした勅令41号鬱陵島の郡守の管轄区域に「石島」を含むとした勅令41号を頒布・施行(韓国側は「石島」は竹島を指すと主張)

大韓帝国の勅令41号(1900年)

 訳:鬱陵島を欝島に改称し、島監を郡守に改正した件……区域は鬱陵全島と竹嶼石島を管轄すること

 ※「竹嶼」は鬱陵島近くの小島を指す説が有力。「石島」を韓国は竹島と主張

1904年2月
日露戦争始まる。日韓議定書が結ばれ、日本が朝鮮半島での軍事行動の自由を確保
1904年8月
第1次日韓協約。日本が韓国の外交・財政に関与
1904年9月
日本の軍艦「新高」の航海日誌に「竹島を韓国人らは独島と書き」の記述
1905年1月
日本政府が竹島の領土編入を閣議決定竹島の領土編入を閣議決定。2月に島根県が告示

閣議決定(1905年1月28日)

 「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク……明治三十六年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレハ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属トシ」

 訳:(竹島は)他国が占領したと認めるべき形跡がなく……明治36年(1903年)以来、中井養三郎という者がこの島に移住し、漁業に従事していることは関係書類から明らかで、国際法上占領の事実があると認め、日本の所属とし

1905年4月
日本、韓国の保護国化方針を閣議決定
1905年5月
日本海海戦で日本海軍が勝利
1905年9月
ポーツマス条約。ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認める
1905年11月
第2次日韓協約。日本は韓国の外交権を奪い、保護国に
1906年3月
竹島の日本編入を知った鬱陵島の郡守が、江原道観察使に「本郡所属独島……」で始まる報告書を提出。観察使は大韓帝国政府に報告
1910年8月
韓国併合条約。日本は朝鮮半島を植民地化
1914年6月
サラエボ事件。第1次世界大戦勃発
1919年3月
朝鮮半島全土で「3・1独立運動」
1941年12月
太平洋戦争勃発
1943年11月
ルーズベルト米大統領やチャーチル英首相、中華民国の蔣介石主席がカイロで会談し、「(日本が)第1次世界大戦開始後、奪取、または占領したる太平洋における一切の島嶼(とうしょ)を剥奪(はくだつ)する」とのカイロ宣言をまとめる
 

戦後

 

1945年8月
カイロ宣言の履行を求めるポツダム宣言受諾。日本敗戦
1946年1月
連合国軍総司令部(GHQ)が日本政府に、竹島での行政権停止を指令(SCAPIN677号)
1946年6月
GHQが日本の船舶の竹島への接近禁止を指令。日本漁船の活動を規制する「マッカーサー・ライン」を設定。(SCAPIN1033号)
1948年8月
大韓民国が成立
1948年9月
朝鮮民主主義人民共和国が成立
1950年6月
朝鮮戦争始まる
1951年9月
サンフランシスコ講和条約サンフランシスコ講和条約調印。日本が放棄する領土として竹島は明記されず

サンフランシスコ講和条約第2条(a)

「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」

1951年10月
日韓国交正常化交渉始まる
1952年1月
韓国の李承晩大統領が「海洋主権宣言」で朝鮮半島周辺の公海を線引きし、竹島を韓国領に取り込む(李承晩ライン)
1952年4月
サンフランシスコ講和条約発効、日本主権を回復。「マッカーサー・ライン」廃止
1953年7月
日本が竹島領有の国際法的・歴史的根拠を示す見解文書を韓国に提出。正当性をめぐる日韓の応酬が始まる
1953年7月
朝鮮戦争、休戦協定に署名
1953年10月
日韓会談で日本側首席代表が植民地支配の正当化と受け取られる発言をしたことを契機に、交渉が4年余り中断
1954年6月
韓国が竹島に武装要員を常駐
1954年9月
日本、竹島領有権問題の国際司法裁判所(ICJ)付託を初めて提案、韓国は10月に拒否
1961年5月
朴正熙氏らによる軍事クーデター。朴氏は63年10月に大統領就任
1962年3月
日本、竹島領有権問題のICJ付託を再提案、韓国は拒否

現在まで

1965年6月
日韓基本条約調印、国交正常化。「紛争解決交換公文紛争解決交換公文」に合意。日韓漁業協定の調印で「李承晩ライン」は廃止

日韓紛争解決交換公文(1965年6月22日)

「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかった場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によって解決を図るものとする」

1977年7月
日本が漁業水域暫定措置法と領海法の海洋2法施行
1978年4月
韓国が竹島に12カイリの領海を宣言。9月、領海法により正式実施
1995年8月
戦後50年。村山談話を発表
1996年1月
韓国が国連海洋法条約を批准。日本は6月に批准
1997年11月
韓国が竹島に接岸施設を建設
1998年11月
日韓が新漁業協定に署名。竹島を含む日本海を両国漁船が共同操業するとした「暫定水域」を設置
1998年12月
韓国が竹島に有人灯台を設置
2005年3月
島根県議会が2月22日を「竹島の日」とする条例を可決、韓国は強く反発
2005年3月
韓国が竹島への一般客の観光を解禁
2008年7月
文部科学省が、中学校の新学習指導要領解説書に初めて竹島について記述。韓国側は反発し、駐日大使が一時帰国
2008年7月
韓国の韓昇洙首相が現職の首相として初めて竹島に上陸
2012年8月10日
李明博大統領が竹島に上陸
2012年8月21日
日本が3度目のICJへの共同提訴を韓国に提案、韓国は30日に拒否

韓国「6世紀から統治」

 竹島は、日本海に浮かぶ絶海の孤島だ。四方は文字通りの断崖絶壁で、飲料水の確保は難しい。漁民が暮らす隠岐諸島や韓国の鬱陵島(ウルルンド)からも遠く、昔から人々の定住を拒んできた。

 その島がいずれに属するかをめぐる日韓政府の論争は、国境線の概念が希薄だった近世以前までさかのぼる。

 朝鮮王朝の文献や地図にたびたび登場する「于山島(ウサンド)資料1」。韓国政府はこの島が竹島であり、古くは新羅時代の6世紀から統治してきたとしている。

古文書に出てくる「于山島」などの例

 『三国史記』(1145年)

 「十三年夏六月 于山国帰服……于山国在溟州正東海島 或名欝陵島」

 訳: 512年に于山国が(新羅に)服属し……于山国は溟州(現在の韓国江原道江陵市)のちょうど東の海の島にあり、別名は鬱陵島

 『世宗実録』地理志(1454年)

 「于山武陵二島在県正東海中 二島相去不遠 風日清明則可望見 新羅時称于山国 一云鬱陵島」

 訳: 于山、武陵の二島は(蔚珍)県の真東の海の中にある 二島は互いにそれほど遠くなく 天候が良ければ眺められる 新羅時代には于山国や鬱陵島と称していた

 しかし、多数の島民がいるといった記述や、鬱陵島の西側に描かれた地図があり、明らかに竹島の特徴や地理と異なる史料も少なくない。日本政府は「于山島とは、鬱陵島または実在しない島を指す」と断じている。

日本「17世紀から領有」

 日本側はどうか。野田佳彦首相が8月の会見で言及した「遅くとも17世紀半ばには領有権を確立した」とするのが公式見解だ。江戸幕府から鬱陵島への渡海免許を受けた鳥取藩の町人が、途中にある竹島を航行の目標に使っていたことを主な根拠にしている。

 朝鮮王朝は当時、鬱陵島に人がいれば海賊の倭寇(わこう)が攻めてくるおそれがあると考え、島民を本土に移住させる「空島政策」をとっていた。幕府の公認を受けた大谷、村川の両家は、鬱陵島に交代で渡ってアワビやアシカをとり、アワビは将軍家にも献上していたが、韓国はこれを「無人の島を利用した不法操業」ととらえている。

「倭寇図巻」(東京大史料編纂所蔵) 「倭寇図巻」(東京大史料編纂所蔵)

 反論として日本は、海外への渡航を禁じた1635年の鎖国令の後も、鬱陵島や竹島への渡海は禁じておらず、外国領との認識はなかったとしている。

 鬱陵島の帰属問題は、17世紀末の両国の交渉で決着を見る。交渉は、大谷家が鬱陵島で朝鮮人の安龍福らと遭遇したことがきっかけで始まった。

 大谷家は安龍福を本土に連れ帰り、幕府に朝鮮人の鬱陵島への渡航を禁じてもらおうとした。だが、朝鮮側が応じなかったため、幕府は1696年、隣国との友好関係を尊重し、鬱陵島を朝鮮領と認め、日本人の渡航を禁じた。

 この禁止令に竹島が含まれるのか否かで、日韓は真っ向から対立する。

 幕府は前年、鳥取藩から「竹島は藩領に属さない」との回答資料2を得ていた。これらをもとに韓国側は、禁止令に竹島も含まれていたとし、韓国領と確認されたと主張。日本側は、禁止令が竹島に触れていないことなどから、渡海は禁じられておらず、幕府が竹島を領土と考えていたのは明らかだとしている。

鳥取藩の答弁書(1695年12月25日)

 「竹島は因幡伯耆附属にては無御座候……竹島松島其外両国江附属之島無御座候」

 訳: 鬱陵島は鳥取藩に属する島ではございません……鬱陵島と竹島およびそのほか鳥取藩に属する島はございません

 ※当時、鬱陵島は竹島、竹島は松島と呼ばれていた

 禁止令後に再来日した安龍福の証言資料3をめぐっても争いがある。日本と同じく鎖国下の朝鮮に戻った安は、国外に渡航したかどで逮捕された。韓国では、竹島が朝鮮領であることを日本側に認めさせたとして英雄視されているが、日本は「帰国後の取り調べでの供述がもとになっていて、矛盾が多く信用できない」としている。

安龍福の証言例

 『粛宗実録』(1728年)

 「松島即子山島 此亦我国地……以鬱陵子山等島 定以朝鮮地界 至有関白書契」

 訳: 松島はすなわち子山島で、これもまた我が国の地だ……鬱陵、子山などの島を朝鮮の土地と定めた関白(幕府将軍)の書き付けがある

 ※「子山島」は于山島のことで竹島を指すと韓国は主張

漁業資源は豊富 地下資源はない

 竹島は、島根県・隠岐諸島の北西約157キロの日本海にある。韓国からは鬱陵島の南東約92キロに位置。江戸時代には「松島」と呼ばれ、1905年の島根県編入時に竹島と命名された。韓国では独島といい、第三国ではリアンクール岩礁と呼ばれることがある。日本では島根県隠岐の島町に属し、韓国では慶尚北道鬱陵郡に属している。

 高さ168メートルの西島(男島)、98メートルの東島(女島)の二つの小島と、周辺の数十の岩礁からなる。総面積は0.21平方キロで、東京ドーム約5個分の広さ。二つの島は海面からそびえたつ火山島で、飲料水に乏しく常住には適さない。

 周辺海域は漁業資源が豊富だが、地下資源はないとされる。韓国は宿舎や灯台、ヘリポートなどを設置し、武装警備隊員を配置している。日本からの交通手段はない。

1905年 島根県への編入決定

 1868年、江戸幕府に代わって成立した明治政府は「富国強兵」を掲げ、近代化を目指した。その36年後に起きた日露戦争(1904~05年)は、朝鮮半島の主導権をめぐる対立から始まった戦争だった。

 明治政府は1905年1月、日本海に浮かぶ無人島に「竹島」と名づけ、島根県に編入する閣議決定資料4をした。まさに日露戦争の主戦場が日本海に移ろうとしていた時期だった。

閣議決定(1905年1月28日)

 「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク……明治三十六年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレハ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属トシ」

 訳:(竹島は)他国が占領したと認めるべき形跡がなく……明治36年(1903年)以来、中井養三郎という者がこの島に移住し、漁業に従事していることは関係書類から明らかで、国際法上占領の事実があると認め、日本の所属とし

 閣議決定書によると、編入のきっかけは、竹島でアシカ猟を手がけていた島根県・隠岐の実業家中井養三郎が、事業の安定を求めて、竹島の領土編入と貸し下げを求めた請願だった。

 明治政府は1877年、日本海の土地を調べるなかで「竹島は日本と関係ない」と読める太政官指令資料5を出していた。上京した中井は当初、内務省に「韓国領の疑いがある岩礁を手に入れれば、諸外国から韓国への野心を疑われる」と受理を拒まれた。しかし、続いて訪れた外務省では一転、「領土編入は急務」とされた。

太政官指令(1877年)

 「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」

 訳:竹島外一島の件は日本と関係がないと心得るべし

 ※韓国は「竹島外一島」が鬱陵島と竹島を指すと主張

 編入後、アシカ猟は島根県の許可制となり、1941年に中止されるまで続いた。

1936年、竹島周辺で漁をする日本人の漁師たち=個人蔵 1936年、竹島周辺で漁をする日本人の漁師たち=個人蔵

韓国「併合されて抗議できず」

 だが、韓国側は、一民間人の願いをくんだ編入という見方は、表層的だと主張する。

 編入前年の1904年、大韓帝国(朝鮮王朝が改称)は日露戦争で国土の一部が戦場となった。日本との間で、日本軍の行動の自由を認める「日韓議定書」に調印。日本が推薦する財政、外交顧問を受け入れる「第1次日韓協約」も結んでいた。

 閣議決定から4カ月後、日本は日本海海戦で勝利を収め、朝鮮半島での優越権を認めたポーツマス条約に道を開いた。

 こうした経過から、韓国にとって竹島編入は、朝鮮支配を目的とした日露戦争の「軍事的必要性」によるもので、韓国併合へのステップと映る。「独島は植民地化の最初の犠牲」と位置づけるゆえんだ。

 その根拠として、編入時に日本の外務省幹部が「竹島にやぐらを建てて無線か電線を通せば、敵艦の監視上、非常に有利だ」と述べた記録を挙げる。

 明治政府の竹島編入は「無主地先占」という考えに基づく。どの国にも属さない土地(無主地)を先に支配することで自国領とする、国際法が認めた領土取得の方法だ。日本政府は竹島の編入を「近世に確立した領有権を、近代国家として再確認したもの」と主張する。

 この点についても、韓国はそもそも竹島は「無主地」ではなかったとして反発する。

 重要な史実としているのが、大韓帝国が1900年、「石島」を鬱陵島の郡守の管轄地域に含むと命じた勅令資料6だ。石島と独島(竹島)は発音が似ているとして同一視。「明らかに韓国領だったのだから、日本の先占は違法で無効」という理屈を導く。日本政府は「石島」が竹島を指すとは認めていない。

大韓帝国の勅令41号(1900年)

 訳:鬱陵島を欝島に改称し、島監を郡守に改正した件……区域は鬱陵全島と竹嶼(ちくしょ)石島を管轄すること

 ※「竹嶼」は鬱陵島近くの小島を指す説が有力。「石島」を韓国は竹島と主張

 竹島の編入後まもなく、日本は「第2次日韓協約」で大韓帝国の外交権を奪い、5年後の1910年、併合条約で主権を奪った。「独島の侵略を抗議したくてもできなかった」。韓国は併合条約も違法だとする。

 一方、竹島は、韓国併合後も島根県から朝鮮総督府の管轄には移されることはなかった。日本側は一貫して、編入と植民地化は全く関係がないとする。「日本が領有権を主張することは、植民地支配の正当化にあたる」と繰り返す韓国。「歴史認識の文脈で論じるべき問題ではない」(野田首相)と反論する日本。見解はすれ違うままだ。

1951年「日本が放棄する島名」になし

 1945年8月の日本の敗戦は、竹島の帰属に大きな影響を与えることになった。

 日本が受諾したポツダム宣言は、戦後の日本の領土について、本州、北海道、九州、四国のほか「われらの決定する諸小島に局限される」と規定していた。いずれの国が竹島の領有権を持つか、連合国の意思にゆだねられることになった。

 翌46年、連合国軍総司令部(GHQ)は日本政府に対する覚書で、竹島での行政権停止を命じ、日本から切り離した。続いて、竹島に日本の船舶が近づくことも禁じた。一方でこの処置を「ポツダム宣言にある諸小島の最終決定に関する政策と解釈してはならない」とも明記していた。

 占領政策と並行し、連合国は日本の領土を確定する講和条約の草案作成に着手した。

 米国務省は、当初作成した複数の草案で、竹島は韓国領に含むとしていた。だが、49年12月付の草案で、竹島は日本領に含むと修正した。

 背景には、東京に派遣されていたシーボルトGHQ外交局長の本国への勧告があったとされる。日本政府はシーボルトに「代弁者」の役割を期待し、領土問題の主張をまとめた報告書を届けていた。さらに50年8月以降、草案にはいずれの国に属すか記されなくなった。

 51年9月、日本が米サンフランシスコで調印した講和条約の条文資料7には、日本が放棄する島名として竹島の記載はなかった。日本は、この条文によって竹島は日本の領土と承認されたと受け止めた。

サンフランシスコ講和条約第2条(a)

「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」

 李承晩(イスンマン)大統領が突然、朝鮮半島周辺の公海上に韓国以外の漁船を排除する「李承晩ライン」を引き、竹島を取り込んだのは52年1月、条約発効まで3カ月というタイミングだった。

李ライン問題で巡視船「さつま」に乗り、日本漁船に接げんして漁船員に話しかける赤城農相=1964年4月、日本海 李ライン問題で巡視船「さつま」に乗り、日本漁船に接げんして漁船員に話しかける赤城農相=1964年4月、日本海

 韓国はその半年前、ひそかに米国に、講和条約で竹島を韓国領に含むように働きかけたが、拒否されていた資料8。「李ライン」は、竹島をめぐる日韓の対立を初めて表面化させた。

李ライン問題で韓国に抑留された日本人漁船員を乗せ、長崎へ向かう韓国軍艦。艦首には機関銃 李ライン問題で韓国に抑留された日本人漁船員を乗せ、長崎へ向かう韓国軍艦。艦首には機関銃

ラスク米国務次官補が駐米韓国大使にあてた書簡(1951年8月)

「ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、われわれの情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年ごろから日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある」

 日本は「領土権の侵害」として口上書で抗議した。これに対し、韓国は正当性を強調。のちに講和条約について、竹島を日本から分離したGHQの覚書(46年)の方針を引き継いでおり、竹島を韓国領として認めたものだと主張した。

 その後しばらくは、島根県職員らが竹島に上陸し、領土標柱を設置するなど、日本側も抵抗を試みた。だが、54年6月、韓国が沿岸警備隊の駐留部隊を派遣したことで潮目は変わった。同8月には海上保安庁の巡視船が銃撃を受ける事件が発生。韓国は灯台や監視所を構築した。

日本と韓国が竹島(独島)の領有権を争い始めてまもない1953年6月、島根県と海上保安庁の職員が竹島に上陸し、同県に帰属するとする標柱を立てた。韓国はその翌年、武装した要員を常駐させた=竹島、島根県提供 日本と韓国が竹島(独島)の領有権を争い始めてまもない1953年6月、島根県と海上保安庁の職員が竹島に上陸し、同県に帰属するとする標柱を立てた。韓国はその翌年、武装した要員を常駐させた=竹島、島根県提供

 竹島をめぐる紛争は日本国内で大きく報じられ、国会では強硬論が相次いだ。下田武三・外務省条約局長は「外交交渉でらちが明かないから実力行使で威嚇して日本領と認めさせることは、憲法9条で禁ぜられている」と答弁した。

 54年9月、日本は国際司法裁判所(ICJ)に「竹島領有権紛争」を付託することを初めて提案。だが、韓国は拒否。「竹島は議論の余地なく韓国領土の一部だ」と強く反発した。

1965年 条約での決着避ける

 日韓国交正常化の交渉は、講和条約調印後に米国のあっせんで始まった1951年の予備会談から妥結まで、足かけ14年に及んだ。竹島問題は、その土壇場までトゲとなった。

 両国は53~62年、互いの法的・歴史的根拠を主張する見解書面を往復させた。竹島編入を「火事場泥棒のようなやり方で、主権を無視して秘密裏に行ったもの」と植民地支配と絡める韓国。「事実に反する独断」とし、韓国併合とは何ら関係がないと主張する日本。立ち位置の違いは、この時から際だっていた。

 ただ、53年10月、日韓会談で久保田貫一郎首席代表が「日本の韓国統治はプラスの点もあった」と発言するなど、当時日本側は植民地支配が韓国に傷を与えたという意識が希薄だった。

 日本は62年、日韓外相会談でICJでの決着を再提案したが、韓国は再び拒絶。外務省の交渉記録には韓国高官が「竹島問題の二つのタブーは、竹島の字句を条約面に出すこととICJだ」と述べたとある。韓国側は竹島問題を議題にすることにも難色を示した。

 「竹島問題の解決なくして国交正常化なし」としていた佐藤栄作首相は65年3月、「三懸案」と呼ばれた請求権・漁業・在日韓国人の法的地位に関する協定にめどがつくと、姿勢を変化させた。韓国側に「現在決まらないとしても、いかなる方向にもっていくかさえはっきりすればよい」と発言し、軟化を示唆した。

 日韓基本条約の調印は65年6月22日。両国が選択したのは、どちらとも決着をつけない処理だった。条約とともに交わした「紛争解決交換公文資料9」について、日本側は「竹島問題」を指すと解釈し、韓国側は竹島を含まない一般的な紛争と解釈する――。いわば玉虫色の棚上げだった。

日韓紛争解決交換公文(1965年6月22日)

「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかった場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によって解決を図るものとする」

 国交正常化後も、日本は毎年、韓国に「不法占拠」を抗議する口上書を送り続けた。ただ、外務省条約局長を務めた東郷和彦氏は「日韓の主要議題としては提起してこなかった」と言う。長い間、竹島問題は両国関係を揺さぶる問題に発展しない代わりに進展もしなかった。

 その意味で98年の新漁業協定の調印は前向きの変化に見えた。竹島の領有問題を棚上げしながらも、国連海洋法条約の趣旨を踏まえ、竹島を含む日本海の水域を両国漁民が操業する共同管理の「暫定水域」とすると合意。だが、実際には日本側が望む漁業はできず、地元漁民はむしろ不満を募らせた。

2005年 「竹島の日」韓国反発

 島根県議会が2005年3月、「竹島の日」条例を成立させたのは、こうした不満や、国の取り組み姿勢への県民の不信感が背景にあった。

 100年前に竹島の編入を告示した2月22日を「竹島の日」とする3カ条の条文は、韓国側に想定外といえるすさまじい反発を引き起こした。盧武鉉(ノムヒョン)大統領は「独島は、歴史の清算と完全な主権の確立を象徴する」と断じ、実効支配を強化。反日感情が高まる中、両国の交流は一時まひ状態になった。

竹島(独島)で武装して任務につく韓国の警備隊員=2006年5月、ロイター 竹島(独島)で武装して任務につく韓国の警備隊員=2006年5月、ロイター

 日本側の取り組み姿勢も変化した。文部科学省は08年、中学校の学習指導要領の解説書に初めて、竹島が日本の領土であると理解を深めさせるとの記述を盛り込んだ。韓国の世論は沸騰し、両国の応酬は悪循環に陥った。

竹島(独島)に上陸し、コンクリート製の韓国国旗の前で説明を受ける李明博大統領(左から3人目)=2012年8月10日、東亜日報提供 竹島(独島)に上陸し、コンクリート製の韓国国旗の前で説明を受ける李明博大統領(左から3人目)=2012年8月10日、東亜日報提供

 12年8月、李明博(イミョンバク)大統領が竹島に上陸すると、日本が対抗策として持ち出したのは、かつて韓国側がタブーとまで表現したICJでの決着だった。日韓国交正常化時の「棚上げ」を経て、日本が50年間封印してきたカードを切った瞬間だった。

日韓政治家間で「密約」?
国交正常化交渉中「解決せざるをもって解決」

 日韓国交正常化交渉で竹島問題が難問となる中、「竹島爆破案」が飛び出したことがあった。

 「竹島は無価値な島で、大きさも日比谷公園程度。爆発でもしてなくせば問題がなくなる」

 韓国政府が公開した韓日会談文書には、1962年9月に東京で開かれた第6次会談の予備折衝で伊関佑二郎・外務省アジア局長がこう発言したと記録されている。

 2カ月後には、韓国代表の金鍾泌(キムジョンピル)・中央情報部長が大平正芳外相との会談後、記者会見で「独島(竹島)から金が出るものでもない」「爆破をしてしまおう」と言ったと明かした。米国の外交文書によると、朴正熙大統領も65年に訪米した際、ラスク国務長官の前で爆破案に言及したとされる。

 交渉の最終局面でも意見が全く折り合わない中で「解決せざるをもって、解決したとみなす」とする「密約」を日韓の政治家が交わしたとする説もある。

 中曽根康弘元首相ら当時の関係者をインタビューし、著作「竹島密約」をまとめたロー・ダニエル氏によると(1)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれに反論することに異論はない(2)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の増設を行わない――といった内容だったという。

 ただ、密約文書は韓国側の関係者が焼却処分したとされる。日本の外務省は「このような合意が行われた事実はない」と否定する。

ソウルに体験館 小中高校に「独島部」
韓国の領土教育

 ソウル中心部、韓国政府の傘下機関、東北アジア歴史財団が入るビルに2012年9月、「独島体験館」が開設された。

 韓国の主張に沿った島をめぐる歴史資料のほか、首都にいても気軽に独島を感じられるようにと、実際の120分の1の大型模型や特殊なメガネをかけて島を立体的に体感できる施設を備える。

 財団関係者によると、平日は150人程度が足を運ぶ。観覧者の中心は、子どもや家族連れという。

 韓国政府は、竹島に関する教育を年々強めている。

 竹島教育を担当するのは韓国政府の教育科学技術省にある東北アジア歴史対策チームだ。担当者は「毎年のように日本が不当な領有権主張を強めているため、特にこの数年は青少年への教育を一層強化している」と話す。

 その一つが「独島を守る拠点学校」の指定だ。教育当局が2年前から始めた取り組みで、指定を受けた小中高校では島に関するクラブを設置して研究を深めるほか、子どもたちは「独島探訪」として2泊3日の旅行に出る。同省によると、12年度は65校が指定され、東京韓国学校など、初めて国外の学校も含まれた。

 また、12年の夏は、昔の官吏登用試験にならい中高生を対象に「独島科挙大会」を開いた。全国から約3千人が参加。島に関する知識を競い合い、大臣賞などを受賞した。

 教員の養成にも力を入れ、11年開発された竹島教育のためのオンラインプログラムで知識を蓄えるという。

 子どもたちだけでなく、韓国社会全体でも竹島に関する関心は強まっているとされ、島を直接訪れる人々も増え続けている。

 韓国政府は従来、竹島への上陸には事前に許可を得なければいけないとしていたが、島根県で「竹島の日」が制定された2005年から、申告さえすれば誰でも行けるように緩和した。

 地元自治体の独島管理事務所によると、06年に8万人足らずだった竹島訪問者は年々増加し、11年は約18万人に。12年は初めて20万人を超え、10月25日現在で約20万2千人となっている。

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日韓の主張

名古屋大教授 池内敏氏

双方の主張に疑問点

名古屋大教授 池内敏氏

 近世日朝関係史が専門。史料の実証研究の立場から竹島をめぐる日韓の主張を検証。韓国・檀国大東洋学研究所特別研究員の経験もある。53歳。(2012年11月1日現在)

 歴史的にも、国際法的にも、明らかに我が国固有の領土。日韓政府は竹島(独島)について互いにこう言い張り、一歩も譲らない。だが、それぞれの主張には見逃せない弱点がある。

 韓国側は、古文献や地図に現れる「于山島」が竹島を指し、千年をはるかに超える領有意識があったとする。だが子細にみると、とうてい竹島と解せないものを数多く指摘できる。于山島を無条件に竹島と置きかえる主張は成り立たない。

 また、日本編入に先立つ1900年、当時の大韓帝国が勅令で「石島」を鬱陵島の郡守の管轄下に置いたことについて、石島は竹島だと断定し、領有意思の証拠とする主張も同意しがたい。「石島=竹島」と直接的に裏づける史料は今のところ存在しないからだ。

 日本側の主張にも疑問が浮かぶ。江戸時代初期、鳥取藩の町人が幕府の許可のもと、竹島を中継地に鬱陵島周辺で漁業をした史実から「遅くとも17世紀に領有権を確立」とする見解がその一つだ。鳥取藩はその後、幕府の照会に2度、「竹島(当時の名称は松島)は藩に属さない」と回答している。それを踏まえて幕府が出した鬱陵島渡海禁止令は、竹島を含めて日本領土外と見なしたと解釈するのが自然だ。

 明治期を見ても、1877年に明治政府の太政官が地籍調査に関して出した「竹島外一島は本邦に関係なし」とした指令▽竹島編入に慎重だった内務省の姿勢など、日本の領有意思に疑いを挟む史料が存在する。「1905年の編入は、近世の領有意思の再確認」と主張するのは無理がある。

 結局、現段階の史料研究の到達点では、日本編入時に竹島がいずれかの国に属していたという決定的論証はない。その限りでは、「無主の島」を取得したという日本の主張は、当時の国際法に照らして形式上は有効となりうる。

 だが、慎重な判断を要すべき史実もある。

 韓国では近年、日本が領土編入する直前の1900年前後に、鬱陵島の朝鮮人が竹島周辺で漁をしていた史実の発掘が精力的になされている。「独島」という呼び方は、その頃の記録に初めて現れている。日本編入の契機となった隠岐の実業家の建議の背景には、朝鮮人漁民との競合があった可能性を想定する必要があるかもしれない。

 さらに、日本編入の翌年にその事実を知った大韓帝国の大臣らが「独島が日本の領土というのは全く根拠のない話」と述べ、調査を命じた公文書が存在する。それ以上の記録は見つかっていないが、大臣らの対応ぶりから、日本の編入手続きの前に、韓国が竹島を自国領とみなしていた可能性は捨てきれない。

 だとすれば、日本に抗議しなかったのはなぜか。植民地化に向かう動きと関係していたのか、別の事情があったのか。当時の大韓帝国の判断構造を解明する必要がある。

 このように1905年の日本の編入手続きは、微妙な課題を含む。にもかかわらず、政府が「無主地先占による編入だ」と開き直っていてもよいのだろうか。論拠に疑いのある見解を教育現場に持ち込むことも問題だ。むろん、それは韓国側にも言えることだ。

竹島をめぐる参考文献

書籍(日本で出版されたもの)

「日本の領土問題-北方四島、竹島、尖閣諸島」 (角川oneテーマ21) 保阪正康、東郷和彦著
「竹島は日韓どちらのものか」 (文春新書) 下條正男著
「歴史でたどる領土問題の真実 中韓露にどこまで言えるのか」 (朝日新書) 保阪正康著
「日本の国境問題――尖閣・竹島・北方領土」 (ちくま新書) 孫崎亨著
「領土問題をどう解決するか 対立から対話へ」 (平凡社新書) 和田春樹著
「ニッポンの国境」 (光文社新書) 西牟田靖著
「領土ナショナリズムの誕生」 (ミネルヴァ書房) 玄大松著
「竹島密約」 (草思社) ロー・ダニエル著
「史的検証 竹島・独島」 (岩波書店) 内藤正中、金柄烈著
「竹島の歴史地理学的研究」 (古今書院) 川上健三著
「検証 日韓会談」 (岩波新書) 高崎宗司著
「韓国併合」 (岩波書店) 海野福寿著
「分断後の韓国政治 1945-1986」 (木鐸社) 尹景徹著

論文

「竹島領有権問題の経緯」 (『調査と情報』701号) 塚本孝
「『竹島/独島=固有の領土』論の陥穽」 (『ラチオ』2号) 池内敏
「竹島/独島論争とは何か-和解へ向けた知恵の創出のために」 (「歴史評論 2011年5月号」) 池内敏

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