日韓関係(4)世代間断絶 リーダーが示した決断
2014.2.1 12:25 産經新聞
1965年の日韓基本条約締結で、朴正煕(パク・チョンヒ)・軍事政権は日本から多額の経済支援を引き出し、経済成長に道を開いた。強い反日感情が渦巻いていた中、「国益」を第一に考えた末の決断だった。その後、両国政府は協調を保つが、韓国政権内の知日派の後退に伴い、徐々に亀裂が生じていく。60年前後から日韓関係の推移を最前線で見てきた元外交官らの体験から現在の日韓関係を展望する。
■「評価は後世に」 「100年交渉」。51年から断続的に続けられてきた国交正常化に向けた日韓会談は、妥結の困難さからこう称された。 日本の外務省職員として59年から交渉に携わった町田貢(みつぐ)(78)は「韓国側代表団は日本人と区別がつかないほど日本語がうまく、日本に何を要求し、何を要求すべきでないか知り抜いていた」と振り返る。 報道陣が入る会談冒頭は、町田と後に韓国外相となる孔魯明(コン・ノミョン)(81)が通訳したが、記者が退室したとたん、日本語で丁々発止やり合った。大学で日本語を習得した若い書記官らはメモが追いつかないほどだったという。だが、それほど日本を理解しながら韓国側は日本に謝罪と補償を求め、引くことはなかった。 町田は、李承晩(イ・スンマン)政権の反日政策もあり「国民にはものすごい反日感情が渦巻き、韓国側は妥協できなかった」とし、政権エリートは「知日」、国民は「反日」と“断層”があったと解説する。 それをクーデターで政権を奪取した朴正煕が、現在の価値で3兆~4兆円ともいわれる5億ドルの経済支援と引き換えに交渉妥結へと舵(かじ)を切った。孔は交渉が佳境を迎えた64年6月、ソウルの官庁街が妥結に反対するデモ学生らで黒々と埋め尽くされた光景が目に焼き付いている。それとともに65年の交渉の締めくくりに外務省職員らを前に朴が告げた言葉も鮮明に覚えている。 「国民が反対しても国益のためには正常化は成し遂げなければならない。評価は後世の歴史家に任せよう」。悲壮ともいえる覚悟が朴らにはあった。独裁に批判はあっても、日韓国交正常化と、朴が道筋を付けた「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる経済成長路線を否定する声は現在の韓国にない。
■「松の廊下」の日本人 国交正常化で、総領事館を開設するため、町田は南部の釜山(プサン)に赴任するが、今では想像できないほどの激しい反日感情に直面する。 総領事館まで車で通勤中、高校生らに日本人をさげすむ「倭奴(ウェノム)、倭奴」という言葉ではやし立てられた。バスの車内で日本語を話すと、「さっさと日本に帰れ」とにらまれた。食堂では日本人と分かると、皿やはしが飛んできた。ドロドロに汚れた雑巾がテーブルに投げつけられたときは、さすがに立ち上がって周囲をにらみつけた。 「町田君、ここは松の廊下だ、松の廊下だ」と上司が引き留めた。吉良上野介(こうずけのすけ)を切り付け、切腹した浅野内匠頭(たくみのかみ)同様、日本人が手を出せば、最悪の事態が予想されたからだ。 ソウル大使館に勤務していた74年8月には、国交断絶が憂慮されたほどの激しい反日デモに巻き込まれる。在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)が韓国国民から慕われた朴の夫人、陸英修(ユク・ヨンス)を射殺する事件が起きたのだ。使われた拳銃は日本の派出所から盗まれたものだったが、日本側が「日本は盗難被害者で、責任はない」と応じたことに韓国世論が激高。デモ隊が連日、大使館を包囲し、館内になだれ込んだ。 町田は暴徒と化したデモ隊に鉄パイプや棒で殴打された。「死者が出ないと収まらないのか。私が最初の犠牲者になるのか」。そんな思いが脳裏をよぎったという。 韓国国民の反日感情の高まりにもかかわらず、両国政府は協調を保った。だが、2003年に「日本語を知らない」大統領、盧武鉉(ノ・ムヒョン)が登場したことで亀裂は決定的となる。町田は「盧は日本に思い入れがない分、コンプレックスもない。世代間の断絶とともに、日本の地位の地盤沈下があった」と指摘する。 国交正常化交渉を研究してきた韓国人学者、ロー・ダニエル(59)は「戦後、新しい国造りに邁進(まいしん)した日韓の政治エリートが共有した価値観と文化が、次の世代に否定される『精神の喪失』がある」と分析する。
■空気変えたスピーチ 盧登場以前にも、不協和音は顕在化し始めていた。朴正煕暗殺事件後に1980年から大統領として政権を受け継いだ全斗煥(チョン・ドゥファン)(83)の時代には、韓国側は100億ドル(約1兆円)の資金提供を一方的に要求することさえあった。 全政権側は日本に「日韓会談に反対し、デモをした世代が政府の中枢を担うようになった」と説明し、「日韓癒着」の打破を訴えた。82年には、文部省(現文部科学省)が歴史教科書の「侵略」を「進出」と書き改めさせたとの日本メディアの誤報をきっかけに韓国世論が沸騰した。 この難局の最中に首相に就任したのが中曽根康弘(95)だ。中曽根は訪米に先駆け訪韓を計画。首相就任直後、町田は北東アジア課長だった小倉和夫(75)に「訪韓での演出を考えてくれないか」と耳打ちされた。町田は韓国語でのスピーチを提案する。中曽根は以前から独学で韓国語を学んでいた。 「ヨロブン、アンニョンハシムニカ(皆さま、こんばんは)」。83年1月、訪韓時の晩餐(ばんさん)会で中曽根はこう切り出し、スピーチの最後も韓国語で締めくくった。 中曽根は後のインタビューで「会場がどよめき、涙ぐむ人が多かった」と振り返っている。感激した全が2次会に誘い、カラオケまで披露。帰国時にはソウル中心街に初めて多数の日の丸がはためき、中曽根は「両国民の心を引き離していた氷が一気に溶けた」と感じた。 小倉は「気持ちだけでなく、東アジアの安全保障にはまず日韓が共通の立場に立つ必要があるという明確な戦略があった。心と戦略という頭が一致していた」と強調する。一方で冷え込んだ現在の日韓関係についてはこう憂える。「心と頭の両方が離れてしまっている」 リーダーの言葉が国家間の関係を変える力を持つことを行動で示した中曽根は、韓国でいまなお最も尊敬される日本人政治家であり続けている。=敬称略(桜井紀雄) =次回からは「連合」 | ||
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