日本, 韓.日 關係

日露戰爭への道

이강기 2015. 9. 24. 21:52

 

 

日露戰爭への道

 

1.帝国主義の成立とロシアの東方進出

 1870年代より、欧米諸国では技術革新や重化学工業中心の経済再編と独占資本の形成が進みました。資本の投下先や原材料の供給地、製品の輸出市場を求めて、欧米諸国は植民地獲得競争に乗り出します。こうした動きは日本を含めた東アジアにも波及してきました。
 ロシアでは、1890年代になると、蔵相
ヴィッテの経済政策に立脚して工業が急速に発展します。1891年に建設が開始されたシベリア鉄道は、ヨーロッパからアジアにまたがる広大なロシアの国土の東西を結び、急速な工業発展と商品市場としての植民地獲得の基盤となっただけでなく、極東への軍事的進出に大きな役割を果たしました。

 

 

 

 

2.日清戦争と東アジア国際社会の変容

【上段左から】
軍令部長 元帥子爵 伊東祐亨
参謀総長 元帥侯爵 山縣有朋
【下段左から】
軍令次長 海軍中将 伊集院五郎
海軍次官 海軍中将 齋藤實 
陸軍次官 陸軍少将 石本新六
参謀次長 陸軍少将 長岡外史
▲日露戦争当時の将軍たちの肖像写真(防衛省防衛研究所所蔵)

 当時李朝の支配下にあった朝鮮は、清朝中国に服属していました。その朝鮮で、明治27年(1894年)、農民の大規模な反乱が起きます(甲午農民戦争)。この反乱を鎮圧するために、李朝政府は清に派兵を要請し、それに対抗して日本も出兵します。反乱は鎮圧されましたが、これをきっかけとして日本と清の間に日清戦争が起こります。日清戦争は清の朝鮮に対する支配権をめぐる戦争でした。同じ年にイギリスと条約改正を達成したことが日本に戦争遂行を促しました。日本陸軍は朝鮮各地で清軍を破り、海軍も黄海海戦で清の北洋艦隊を破り、満州(現在の中国東北地方)の遼東半島を占領して、勝利します。
 明治28年(1895年)4月に日本と清の間に日清講和条約(下関条約)が結ばれます。これによって、(1)清国は朝鮮の独立を認めること、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲ること、(3)賠償金2億両(約3億円)を日本に支払うことなどが約されました。しかし、満州への支配力を強め、朝鮮をも影響下に置こうとしていたロシアは、講和成立直後に、フランス、ドイツを誘って、遼東半島の返還を日本に迫りました(三国干渉)。日本政府は三国の連合には対抗できないと、勧告を受け入れます。日本の政府と国民はロシアへの敵意を強め、軍事的な対抗策を余儀なくされます。
 日本に敗北した清は、日本に対抗するためにロシアに接近し、明治29年(1896年)、「露清密約」を結びます。これによってロシアは満州での鉄道敷設権を手に入れ、シベリアより満州を通ってウラジオストックに至る中東鉄道(東清鉄道とも呼ばれます)の建設を開始、極東支配の基礎を固めようとします。

 

 

3.日清戦争から日露戦争へ

▲ロシアの要人たち
【右から】        
極東総督アレクセーエフ海軍大将   大蔵大臣ヴィッテ   ヒルコフ公爵
外務大臣ラムズドルフ伯爵    内務大臣プレーヴェ   陸軍大臣サハロフ中将
海軍大臣アヴェラン   駐日公使ローゼン男爵   駐清公使レッサー
(防衛省防衛研究所所蔵)

 これを見た朝鮮では、国王高宗の妃であった閔妃の一族がロシアに接近して、日本の勢力を排除しようとします。 これに危機感を持った日本公使三浦梧楼らは、閔妃と対立関係にあった大院君(朝鮮国王の父)を擁立するクーデターを企図し、日本軍人・警察官・民間日本人壮士や日本人に訓練された朝鮮人訓練隊を王宮に乱入させて、閔妃を殺害しました。このため朝鮮はロシアにさらに接近するようになります。
 日本は、ロシアと山県=ロバノフ協定(1896年)、西=ローゼン協定(1898年)を結び、朝鮮において日露が政治的に対等であることを確認し、対立を避けます。この間、明治30年(1897年)に朝鮮は大韓帝国と改称し、朝鮮国王も大韓皇帝となります。
 そして、明治31年(1898年)になると、日清戦争によって弱体化した清に対し、列強による勢力範囲の分割が本格化します。まずドイツが山東半島の膠州湾を、ついでイギリスが九龍半島と威海衛(威海)を、翌年フランスが広州湾を租借します。 そして、ロシアもまたこの時期に旅順大連租借し、 中東鉄道から分岐して、遼東半島の南端にある旅順大連に至る南支線の敷設権を獲得します。さらに、時期を同じくしてアメリカもハワイを併合し、米西戦争によってスペインからフィリピンを獲得しました。

4.満州と朝鮮をめぐる日露の対立と開戦

【写真中央】
桂太郎総理大臣
【上段左から】
陸軍大臣 寺内正毅
海軍大臣 山本権兵衛
農商務大臣 清浦奎吾
司法大臣 波多野敬直
【下段左から】
逓信大臣 大浦兼武
大蔵大臣 曾禰荒助
外務大臣 小村寿太郎
文部大臣 久保田譲
▲第1次桂内閣閣僚の肖像(防衛省防衛研究所所蔵)

 列強の中国分割の動きに対して、清では、明治33年(1900年)に入ると、「扶清滅洋」を唱える義和団が蜂起し、北京の列国公使館を包囲しました。イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、日本など8カ国は、日本軍を主力とする連合軍を組織して、これを鎮圧しました(北清事変)。
 事変後もロシアは満州の要地を占領し続け、支配権を握ろうとします。このようなロシアの政策は、日本の対外政策と鋭く対立し、日本の安全保障上の大きな脅威となるだけでなく、欧米各国の利害とも対立しました。日本政府はイギリスと提携してロシアの南下政策を防止し、イギリスも極東政策上、日本と提携することを有利として、明治35年(1902年)1月、日英同盟が成立します。
 しかし、ロシアの姿勢はその後も変わらず、フランス、ドイツの支持を受けて、満州の兵力をさらに増強し、その勢力は朝鮮にも及びます。明治36年(1903年)、ロシアが韓国北部に軍事基地を造り始めたと報じられると、日本の国内には開戦論が強まります。日本政府は、朝鮮・満州における勢力範囲をめぐってロシアと交渉を続けるかたわら、開戦の準備を進めます。そして、明治37年(1904年)2月、日本政府は御前会議で開戦を決定し、陸海で先制攻撃をしかけた後、宣戦を布告しました。

 こうして日露戦争が勃発しましたが、実際に戦場となったのは、陸上では満州と朝鮮半島でした。後述するように、日本とロシアの両軍に多くの犠牲者が出ましたが、戦場となった地域では、住民が両軍による徴発や労役、土地収用の影響を受け、戦闘に巻き込まれ、被害を受けました。

陸海の諸戦闘

1.序盤

 明治37年(1904年)2月8日、日本艦隊は、朝鮮半島西部の仁川港のロシア艦隊を攻撃すると同時に、遼東半島南端にある旅順港においてもロシア艦隊への奇襲攻撃を行いました。 またその一方で、日本陸軍の先遣部隊が仁川に上陸しました。翌9日にも、引き続き日本艦隊は旅順港外のロシア艦隊を砲撃し、「仁川沖海戦」ではロシアの軍艦を撃破しました。

▲連合艦隊司令長官東郷平八郎大将他
(財団法人三笠保存会所蔵)
  前列中央:東郷司令長官
  右端:秋山真之作戦参謀
 そして2月10日、日露両国は相互に宣戦布告を行いました。こうして「日露戦争」が始まりました。

 宣戦布告に先立つ2月4日、既に日本では御前会議でロシアとの開戦が決定されており、6日には政府がロシアに対し国交の断絶を通告していました。2月8日から9日にかけての日本艦隊による攻撃は、宣戦布告の前に行われたことになりますが、当時の国際法では戦争を開始する前に宣戦布告を行うことを義務とする明確な決まりごとはありませんでした。とはいえ、なぜ日本はこうした手段をとったのでしょうか。それには、日本とロシア両国の軍事的な事情が大きく関わっていました。

 明治維新以降の日本では、20世紀に入る頃まで、政治、経済、軍事をはじめとする様々な分野に欧米の技術や制度が導入されつつあり、やがては国民国家の形成というかたちに実を結ぶ社会改革が進行していました。「富国強兵」の政策のもとで、憲法の制定、議会の設置、といった国家の仕組みの欧米化、製糸や紡績などの軽工業と、鉄鋼業などの重工業の拡充、そして陸海の軍隊の整備が進められていきます。しかしながら、1880年代に近代工業化が始まった日本の国力では、18世紀に産業革命が始まっていたイギリスをはじめとする欧米列強との間で長期の戦争になった場合、勝利を収めるにはじゅうぶんではないと考えられていました。

 そこで、ロシアが戦争準備を整える前に戦争を仕掛け、朝鮮や満州(現在の中国東北部)周辺でロシア軍を撃破していった後、戦いを長引かせることなく有利な条件で講和を行う、という方針のもとで、日本は開戦に踏み切ることにしました。

 一方のロシアでは、15~16世紀以来続いていたツァーリ(皇帝)を頂点とする専制政治に対し、20世紀初頭には、これを廃して憲法と議会に基づく体制に改めようという国民的運動が高まってきていました。こうした状況のもと、ロシア軍は、日本と清(中国)に面した東側と、ドイツ、オーストリア、トルコに面した西側の両面に備えながら、さらにその広大な領土内の治安の維持にも力を注がなければなりませんでした。とはいえ、ロシアの財力や軍事力は日本に勝るものであったので、日本との間に長期の戦争が起こった場合には、西側を守る軍隊をそちらに振り分けることができれば、ロシアは有利に戦争を進めることが可能でした。

 このような両国の軍事的な事情をめぐる駆け引きが、日露戦争における様々な戦闘と密接に関係しています。

 明治37年(1904年)2月23日に軍事的圧力を背景に韓国との間で「日韓議定書」を結んだ日本は、軍隊をさらに北上させ、満州に向かわせます。4月29日から5月初頭にかけて、日本軍は朝鮮半島と現中国領との国境を流れる鴨緑江を渡り、その川沿いを守っていたロシア軍を「鴨緑江の戦い」で撃破しました。その一方で、別の部隊が遼東半島に上陸し、5月に「南山の戦い」で遼東半島最狭部を守るロシア軍を、6月には「得利寺の戦い」で旅順を救援するために南下してきたロシア軍を破っていきます。 こうして日本軍は、旅順要塞に籠もるロシア軍と、遼東方面に集中しつつあるロシア軍の双方に迫りました。

 海上においても、日本艦隊はロシア艦隊との間で戦闘を繰り返します。まず、2月から5月にかけて、旅順口に対する攻撃が8回にわたって行われ、これと併せて3回の「旅順口閉塞作戦」が実行されました。ロシアの第一太平洋艦隊主力(旅順艦隊)が拠点とする旅順港は、入口(旅順口)が非常に狭まった湾内にあったので、港湾の入口の浅い海底に船を沈めることによって、ロシアの軍艦の出入りを妨げようというのがこの作戦でした。しかし、いずれも失敗に終わります。同じ頃、ロシアはウラジオストック軍港から艦隊(ウラジオストック艦隊)を出撃させ、陸軍兵士を運ぶ日本の商船を次々に攻撃していました。これを阻止するために日本は新たな艦隊を派遣しましたが、ウラジオストック艦隊は神出鬼没であり、決定的な攻撃を行うことができませんでした。 8月になり、ようやく日本艦隊は「黄海海戦」「蔚山沖海戦」でロシア艦隊を破りますが、多くのロシア艦船が守りの堅い旅順港に逃げ込みました。このままでは、ロシア艦隊によって再び日本の船が襲われたり、ともすると日本の本土が攻撃されたりする恐れがあるため、日本は旅順港の攻略を急ぎます。旅順の攻撃については、3月の段階から、港とこれを守る旅順要塞を陸軍の部隊によって陸上から攻撃する方針への転換が決められ、5月にはこの攻撃を担当する第三軍が編成されてはいましたが、この作戦は準備がじゅうぶんなものではありませんでした。

2.中盤

 明治37年(1904年)8月中旬、旅順港一帯に対する日本陸軍の総攻撃、「第1回旅順総攻撃」が開始されます。日本の攻撃部隊が約5万人であったのに対して、ロシアの旅順守備部隊は約4万人でした。日本軍は1万人以上の死傷者を出し、激しい砲撃によって多数の砲弾を消費しましたが、旅順要塞を陥落させることはできませんでした。 同じ頃、遼東半島中部の遼陽における「遼陽会戦」でも、約13万人の日本軍と約22万人のロシア軍が衝突します。
▲王家甸南西くぼ地にある
28センチ榴弾砲の試射
(防衛省防衛研究所所蔵)
旅順攻撃に戦力の一部を割いた日本軍は、数に勝るロシア軍に対して苦戦を余儀なくされ、2万人もの死傷者を出します。一方のロシア軍も同じく約2万人の被害を受け、北の奉天へと撤退しました。 日本軍は、ロシア軍の拠点であった遼陽を占領することはできたものの、ロシア軍の主力部隊は逃すかたちとなりました。こうして、翌年の1月に至るまで、日本陸軍は遼東方面と旅順方面の2か所に兵力を分散して戦う「二正面作戦」の態勢を強いられることとなり、人的・物的に消耗を重ねながらロシア軍と一進一退の攻防を続けていきました。

 その頃ロシア帝国内では、自国の軍隊の相次ぐ敗北を告げるニュースによって、国民が動揺し始めていました。7月には、国民に対する弾圧の姿勢をとっていたプレーヴェ内務大臣が革命グループによって爆殺されるなど、憲法の制定や言論、信仰、集会の自由などを訴える動きが強まってきます。このような状況下で、ツァーリ政府はヴィッテを再び登用して、日本との間の講和交渉に臨むことを決めました。

 一方の日本国内では、連戦連勝の報道によって国民の戦争熱が高まる一方で、戦場の苦しい実情は、情報統制がしかれたこともあり一般市民にはなかなか伝わりませんでした。しかし、旅順攻略などの激しい戦闘で多くの犠牲が出ると、勝利と戦死者の増大という矛盾に対して、国民の世論は軍部にさらなる勝利を求めて過熱を見せるようになります。また、政府は、通常の歳入だけでは戦費をまかないきれないために借金によってこれを補うしかなく、特にアメリカやイギリスの市場に向けた国債の発行額は大きく膨らみました。こうした状況のため、国民の声に応えて戦争に勝つために兵を募り兵器を生産すればするほど、国家の借金が増えてゆくことになります。つまり、日本はロシアに対して決定的な打撃を与えることのできないままに、加熱する世論と増大する借金を背負いながら戦争を続けなければなりませんでした。

 このように、明治37年(1904年)の秋頃からの日本とロシアはそれぞれ、戦争を終えるべき理由と、戦争を続けるべき理由という、相反する2つの論理を抱えるに至っていました。

 10月、奉天付近の約22万人のロシア軍が攻撃に転じて南下し、遼陽付近を守る約12万人の日本軍と沙河で衝突して「沙河会戦」が起こりますが、退けられます。一方の旅順では日本軍が「第2回旅順総攻撃」を開始します。前回の強襲攻撃とは異なり、旅順要塞の拠点を少しずつ攻略する方針をとった日本軍は、約4千人の死傷者を出しながらも要塞の包囲網を狭めました。 11月になると、日本軍は「第3回旅順総攻撃」を行い、またもや多くの兵士の命を犠牲にしながら、旅順要塞を攻略するために必要な地点を押さえることに成功しました。年が明けて明治38年(1905年)1月2日、ついに旅順要塞は開城し、半年に及んだ旅順攻防戦は日本軍の勝利に終わりました。

 明治38年(1905年)1月22日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで、戦争の中止や民主化を求めた市民のデモに軍隊が発砲するという「「血の日曜日」事件」が起き、これをきっかけとして労働者による抗議のストライキがロシア全土に広がりました。このように国内が大きく動揺している状況下で、ロシア軍は1月末に奉天西方の黒溝台で日本軍に対する攻撃を行いますが、ここではそれぞれ約1万人の死者を出しながら戦闘がこう着状態に入ります。こうした事態に対して、日本軍では、旅順攻撃を終えた部隊を北上させ、奉天付近のロシア軍を全力で撃滅しようという計画が進められていました。

 2月末、日本陸軍の大部隊が奉天付近のロシア軍に対する攻撃を開始し、「奉天会戦」が始まります。この戦闘は、日本軍約24万人、ロシア軍約36万人が参加する大きなものでした。日本軍は「遼陽会戦」の時と同じように、ロシア軍に対して数で劣りながらも攻めに徹し、ロシア軍の陣地を突破するために多くの犠牲を払うことになります。最終的に、日本軍は約7万人の死傷者を出しながら奉天の占領に成功したものの攻撃力を保つことができなくなり、ロシア軍も死傷者約9万人という損害を受けながらも壊滅することなく北に向かって退却しました。この戦闘は、日本には兵力と戦費の両面で大きな消耗を、ロシアには、敗退の報が伝わったことによる国内のさらなる動揺と治安の悪化をもたらしました。 戦闘が終了した4月には、前年の10月にバルト海を出撃した第二太平洋艦隊がフランス領インドシナ(ベトナム)に到達して、おくれて出撃した第三太平洋艦隊と合流しており(これをあわせて「バルチック艦隊」とも呼ばれます)、その一方で、日本政府は4月21日の閣議によりロシアとの講和の条件を決定し、終戦のための交渉を開始しようとしていました

 
 
▲ロシア帝国皇帝ニコライ2世
 (財団法人三笠保存会所蔵

 

3.終盤

▲「オスラビア沈没」 (財団法人三笠保存会所蔵)

 明治38年(1905年)5月27日、ついに日本近海へとたどり着いたロシアのバルチック艦隊と日本艦隊の主力部隊は、対馬沖における「日本海海戦」で激突します。この戦いで、日本艦隊はロシア艦隊の大半の艦船を撃沈あるいは大破させて勝利しました。また7月7日には陸軍の部隊が海軍の援護のもとでロシア領サハリン島(樺太)南部への上陸を行い、島の全土を占領しました。

 6月に入り、日本から講和の斡旋を求められていたアメリカのルーズヴェルト大統領は、日本海海戦での日本の勝利に対する評価も踏まえ、日露両国に対して講和の勧告を行いました。そして、ロシアがついに講和のテーブルにつくことになり、8月10日、日露両国代表がアメリカのポーツマスに集い、講和会議が開始されました。この時、交渉の焦点となったのは、陸海の様々な戦闘において優位を保ってきた日本に対し、ロシアがどこまで敗北を認め、賠償金の支払いや領土の譲渡に応じるかということでした。これは非常に難しい議論となりましたが、両国ともに戦争の終結を急がねばならなかったため、最終的にはアメリカの説得に応じるかたちで講和の条件が合意されました。

 明治38年(1905年)9月5日、日本とロシアの代表の間で「日露講和条約(ポーツマス条約)」が締結されました。条約の内容は、ロシアは日本に対して一切の賠償金を支払わず、領土については、日本軍が占領していたサハリン島のうち南半分を日本の領土とし、ロシアが有していた中国東北部の権益は日本に譲渡される、というものでした。

 このような条約内容での合意に至った交渉の経緯は、8月末には日本国内でも報道されていました。死傷者総数20万人以上という犠牲と、重税や生活の切り詰めによって約20億円(当時の国家予算は7億円)もの戦費を負担するという金銭的な犠牲を払ってきた多くの国民は、戦勝による見返りを期待していました。しかし、伝えられた交渉の内容は、これを大きく裏切るものだったのです。こうして、東京では講和に反対する市民によって「日比谷焼打事件」と呼ばれる暴動が引き起こされました。講和条約の調印は、まさにこの事件と同じ日に行われたのでした。

 10月15日、日本の明治天皇と、ロシアの皇帝ニコライ2世は共に「日露講和条約」を批准し、ここに国際法上で正式に日露戦争が終結しました。

 

講和とその影響

 明治38年(1905年)10月、講和が批准され日露戦争は終わります。この戦争の影響は、日本のみならず、東アジアひいては世界全体に及ぶものでした。

1.ロシアにおける影響

▲ロシアの要人たち
【右から】    
キリル・ヴラディミロヴィチ海軍中佐   アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
皇太后マリア・フョードロヴナ   皇帝ニコライ2世
皇后アレキサンドラ・フョードロヴナ   海軍総督アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公
モスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公    
(防衛省防衛研究所所蔵)
  ロシアでは、日本との戦争を終結させた後に、今度は国内の革命的な情勢を沈静化させなければなりませんでした。ツァーリ政府は、1905年10月に勅令を発し、普通選挙に立脚した立法議会の開催を約束し、人身の不可侵・良心・言論・集会・結社の自由を認めました。1906年4月にはドゥーマ(国会)が開催されますが、土地改革問題で紛糾したため、ツァーリ(皇帝)によってすぐに解散させられました。その後ストルイピン内閣が発足し、混乱した社会を立て直すべく改革に着手しました。しかし、既得権益を侵害することに対しては非常に大きな抵抗が起こり、ストルイピンは改革を貫徹することなく1911年に銃弾に倒れました。すでに加速した革命の車輪に歯止めをかけることが出来ないまま、ロシアは第一次世界大戦(1914~1919年)に突入していきます。

 

 地図上の各"できごと"をクリックすると、解説ぺージへジャンプします。

南山の戦い奉天会戦遼陽会戦鴨緑江の戦い第1次旅順総攻撃第2次旅順総攻撃第3次旅順総攻撃蔚山沖海戦黄海海戦旅順港奇襲攻撃第2次旅順口閉塞作戦日本海海戦(1)日本海海戦(2)第1次旅順口閉塞作戦第3次旅順口閉塞作戦得利寺の戦い 沙河会戦 樺太作戦仁川沖海戦

 

2.日清戦争と東アジア国際社会の変容

【上段左から】
軍令部長 元帥子爵 伊東祐亨
参謀総長 元帥侯爵 山縣有朋
【下段左から】
軍令次長 海軍中将 伊集院五郎
海軍次官 海軍中将 齋藤實 
陸軍次官 陸軍少将 石本新六
参謀次長 陸軍少将 長岡外史
▲日露戦争当時の将軍たちの肖像写真(防衛省防衛研究所所蔵)
 当時李朝の支配下にあった朝鮮は、清朝中国に服属していました。その朝鮮で、明治27年(1894年)、農民の大規模な反乱が起きます(甲午農民戦争)。この反乱を鎮圧するために、李朝政府は清に派兵を要請し、それに対抗して日本も出兵します。反乱は鎮圧されましたが、これをきっかけとして日本と清の間に日清戦争が起こります。日清戦争は清の朝鮮に対する支配権をめぐる戦争でした。同じ年にイギリスと条約改正を達成したことが日本に戦争遂行を促しました。日本陸軍は朝鮮各地で清軍を破り、海軍も黄海海戦で清の北洋艦隊を破り、満州(現在の中国東北地方)の遼東半島を占領して、勝利します。
 明治28年(1895年)4月に日本と清の間に
日清講和条約(下関条約)が結ばれます。これによって、(1)清国は朝鮮の独立を認めること、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲ること、(3)賠償金2億両(約3億円)を日本に支払うことなどが約されました。しかし、満州への支配力を強め、朝鮮をも影響下に置こうとしていたロシアは、講和成立直後に、フランス、ドイツを誘って、遼東半島の返還を日本に迫りました(三国干渉)。日本政府は三国の連合には対抗できないと、勧告を受け入れます。日本の政府と国民はロシアへの敵意を強め、軍事的な対抗策を余儀なくされます。
 日本に敗北した清は、日本に対抗するためにロシアに接近し、明治29年(1896年)、「
露清密約」を結びます。これによってロシアは満州での鉄道敷設権を手に入れ、シベリアより満州を通ってウラジオストックに至る中東鉄道(東清鉄道とも呼ばれます)の建設を開始、極東支配の基礎を固めようとします。

日露戦争への道

3.日清戦争から日露戦争へ

▲ロシアの要人たち
【右から】        
極東総督アレクセーエフ海軍大将   大蔵大臣ヴィッテ   ヒルコフ公爵
外務大臣ラムズドルフ伯爵    内務大臣プレーヴェ   陸軍大臣サハロフ中将
海軍大臣アヴェラン   駐日公使ローゼン男爵   駐清公使レッサー
(防衛省防衛研究所所蔵)

 これを見た朝鮮では、国王高宗の妃であった閔妃の一族がロシアに接近して、日本の勢力を排除しようとします。 これに危機感を持った日本公使三浦梧楼らは、閔妃と対立関係にあった大院君(朝鮮国王の父)を擁立するクーデターを企図し、日本軍人・警察官・民間日本人壮士や日本人に訓練された朝鮮人訓練隊を王宮に乱入させて、閔妃を殺害しました。このため朝鮮はロシアにさらに接近するようになります。
 日本は、ロシアと
山県=ロバノフ協定(1896年)、西=ローゼン協定(1898年)を結び、朝鮮において日露が政治的に対等であることを確認し、対立を避けます。この間、明治30年(1897年)に朝鮮は大韓帝国と改称し、朝鮮国王も大韓皇帝となります。
 そして、明治31年(1898年)になると、
日清戦争によって弱体化した清に対し、列強による勢力範囲の分割が本格化します。まずドイツが山東半島の膠州湾を、ついでイギリスが九龍半島と威海衛(威海)を、翌年フランスが広州湾を租借します。 そして、ロシアもまたこの時期に旅順大連租借し、 中東鉄道から分岐して、遼東半島の南端にある旅順大連に至る南支線の敷設権を獲得します。さらに、時期を同じくしてアメリカもハワイを併合し、米西戦争によってスペインからフィリピンを獲得しました。

4.満州と朝鮮をめぐる日露の対立と開戦

【写真中央】
桂太郎総理大臣
【上段左から】
陸軍大臣 寺内正毅
海軍大臣 山本権兵衛
農商務大臣 清浦奎吾
司法大臣 波多野敬直
【下段左から】
逓信大臣 大浦兼武
大蔵大臣 曾禰荒助
外務大臣 小村寿太郎
文部大臣 久保田譲
▲第1次桂内閣閣僚の肖像(防衛省防衛研究所所蔵)

 列強の中国分割の動きに対して、清では、明治33年(1900年)に入ると、「扶清滅洋」を唱える義和団が蜂起し、北京の列国公使館を包囲しました。イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、日本など8カ国は、日本軍を主力とする連合軍を組織して、これを鎮圧しました(北清事変)。
 事変後もロシアは満州の要地を占領し続け、支配権を握ろうとします。このようなロシアの政策は、日本の対外政策と鋭く対立し、日本の安全保障上の大きな脅威となるだけでなく、欧米各国の利害とも対立しました。日本政府はイギリスと提携してロシアの南下政策を防止し、イギリスも極東政策上、日本と提携することを有利として、明治35年(1902年)1月、
日英同盟が成立します。
 しかし、ロシアの姿勢はその後も変わらず、フランス、ドイツの支持を受けて、満州の兵力をさらに増強し、その勢力は朝鮮にも及びます。明治36年(1903年)、ロシアが韓国北部に軍事基地を造り始めたと報じられると、日本の国内には開戦論が強まります。日本政府は、朝鮮・満州における勢力範囲をめぐってロシアと交渉を続けるかたわら、開戦の準備を進めます。そして、明治37年(1904年)2月、日本政府は
御前会議で開戦を決定し、陸海で先制攻撃をしかけた後、宣戦を布告しました。

 こうして日露戦争が勃発しましたが、実際に戦場となったのは、陸上では満州と朝鮮半島でした。後述するように、日本とロシアの両軍に多くの犠牲者が出ましたが、戦場となった地域では、住民が両軍による徴発や労役、土地収用の影響を受け、戦闘に巻き込まれ、被害を受けました。

陸海の諸戦闘

1.序盤

 明治37年(1904年)2月8日、日本艦隊は、朝鮮半島西部の仁川港のロシア艦隊を攻撃すると同時に、遼東半島南端にある旅順港においてもロシア艦隊への奇襲攻撃を行いました。 またその一方で、日本陸軍の先遣部隊が仁川に上陸しました。翌9日にも、引き続き日本艦隊は旅順港外のロシア艦隊を砲撃し、「仁川沖海戦」ではロシアの軍艦を撃破しました。

▲連合艦隊司令長官東郷平八郎大将他
(財団法人三笠保存会所蔵)
  前列中央:東郷司令長官
  右端:秋山真之作戦参謀
 そして2月10日、日露両国は相互に宣戦布告を行いました。こうして「日露戦争」が始まりました。

 宣戦布告に先立つ2月4日、既に日本では御前会議でロシアとの開戦が決定されており、6日には政府がロシアに対し国交の断絶を通告していました。2月8日から9日にかけての日本艦隊による攻撃は、宣戦布告の前に行われたことになりますが、当時の国際法では戦争を開始する前に宣戦布告を行うことを義務とする明確な決まりごとはありませんでした。とはいえ、なぜ日本はこうした手段をとったのでしょうか。それには、日本とロシア両国の軍事的な事情が大きく関わっていました。

 明治維新以降の日本では、20世紀に入る頃まで、政治、経済、軍事をはじめとする様々な分野に欧米の技術や制度が導入されつつあり、やがては国民国家の形成というかたちに実を結ぶ社会改革が進行していました。「富国強兵」の政策のもとで、憲法の制定、議会の設置、といった国家の仕組みの欧米化、製糸や紡績などの軽工業と、鉄鋼業などの重工業の拡充、そして陸海の軍隊の整備が進められていきます。しかしながら、1880年代に近代工業化が始まった日本の国力では、18世紀に産業革命が始まっていたイギリスをはじめとする欧米列強との間で長期の戦争になった場合、勝利を収めるにはじゅうぶんではないと考えられていました。

 そこで、ロシアが戦争準備を整える前に戦争を仕掛け、朝鮮や満州(現在の中国東北部)周辺でロシア軍を撃破していった後、戦いを長引かせることなく有利な条件で講和を行う、という方針のもとで、日本は開戦に踏み切ることにしました。

 一方のロシアでは、15~16世紀以来続いていたツァーリ(皇帝)を頂点とする専制政治に対し、20世紀初頭には、これを廃して憲法と議会に基づく体制に改めようという国民的運動が高まってきていました。こうした状況のもと、ロシア軍は、日本と清(中国)に面した東側と、ドイツ、オーストリア、トルコに面した西側の両面に備えながら、さらにその広大な領土内の治安の維持にも力を注がなければなりませんでした。とはいえ、ロシアの財力や軍事力は日本に勝るものであったので、日本との間に長期の戦争が起こった場合には、西側を守る軍隊をそちらに振り分けることができれば、ロシアは有利に戦争を進めることが可能でした。

 このような両国の軍事的な事情をめぐる駆け引きが、日露戦争における様々な戦闘と密接に関係しています。

 明治37年(1904年)2月23日に軍事的圧力を背景に韓国との間で「日韓議定書」を結んだ日本は、軍隊をさらに北上させ、満州に向かわせます。4月29日から5月初頭にかけて、日本軍は朝鮮半島と現中国領との国境を流れる鴨緑江を渡り、その川沿いを守っていたロシア軍を「鴨緑江の戦い」で撃破しました。その一方で、別の部隊が遼東半島に上陸し、5月に「南山の戦い」で遼東半島最狭部を守るロシア軍を、6月には「得利寺の戦い」で旅順を救援するために南下してきたロシア軍を破っていきます。 こうして日本軍は、旅順要塞に籠もるロシア軍と、遼東方面に集中しつつあるロシア軍の双方に迫りました。

 海上においても、日本艦隊はロシア艦隊との間で戦闘を繰り返します。まず、2月から5月にかけて、旅順口に対する攻撃が8回にわたって行われ、これと併せて3回の「旅順口閉塞作戦」が実行されました。ロシアの第一太平洋艦隊主力(旅順艦隊)が拠点とする旅順港は、入口(旅順口)が非常に狭まった湾内にあったので、港湾の入口の浅い海底に船を沈めることによって、ロシアの軍艦の出入りを妨げようというのがこの作戦でした。しかし、いずれも失敗に終わります。同じ頃、ロシアはウラジオストック軍港から艦隊(ウラジオストック艦隊)を出撃させ、陸軍兵士を運ぶ日本の商船を次々に攻撃していました。これを阻止するために日本は新たな艦隊を派遣しましたが、ウラジオストック艦隊は神出鬼没であり、決定的な攻撃を行うことができませんでした。 8月になり、ようやく日本艦隊は「黄海海戦」「蔚山沖海戦」でロシア艦隊を破りますが、多くのロシア艦船が守りの堅い旅順港に逃げ込みました。このままでは、ロシア艦隊によって再び日本の船が襲われたり、ともすると日本の本土が攻撃されたりする恐れがあるため、日本は旅順港の攻略を急ぎます。旅順の攻撃については、3月の段階から、港とこれを守る旅順要塞を陸軍の部隊によって陸上から攻撃する方針への転換が決められ、5月にはこの攻撃を担当する第三軍が編成されてはいましたが、この作戦は準備がじゅうぶんなものではありませんでした。

2.中盤

 明治37年(1904年)8月中旬、旅順港一帯に対する日本陸軍の総攻撃、「第1回旅順総攻撃」が開始されます。日本の攻撃部隊が約5万人であったのに対して、ロシアの旅順守備部隊は約4万人でした。日本軍は1万人以上の死傷者を出し、激しい砲撃によって多数の砲弾を消費しましたが、旅順要塞を陥落させることはできませんでした。 同じ頃、遼東半島中部の遼陽における「遼陽会戦」でも、約13万人の日本軍と約22万人のロシア軍が衝突します。
▲王家甸南西くぼ地にある
28センチ榴弾砲の試射
(防衛省防衛研究所所蔵)
旅順攻撃に戦力の一部を割いた日本軍は、数に勝るロシア軍に対して苦戦を余儀なくされ、2万人もの死傷者を出します。一方のロシア軍も同じく約2万人の被害を受け、北の奉天へと撤退しました。 日本軍は、ロシア軍の拠点であった遼陽を占領することはできたものの、ロシア軍の主力部隊は逃すかたちとなりました。こうして、翌年の1月に至るまで、日本陸軍は遼東方面と旅順方面の2か所に兵力を分散して戦う「二正面作戦」の態勢を強いられることとなり、人的・物的に消耗を重ねながらロシア軍と一進一退の攻防を続けていきました。

 その頃ロシア帝国内では、自国の軍隊の相次ぐ敗北を告げるニュースによって、国民が動揺し始めていました。7月には、国民に対する弾圧の姿勢をとっていたプレーヴェ内務大臣が革命グループによって爆殺されるなど、憲法の制定や言論、信仰、集会の自由などを訴える動きが強まってきます。このような状況下で、ツァーリ政府はヴィッテを再び登用して、日本との間の講和交渉に臨むことを決めました。

 一方の日本国内では、連戦連勝の報道によって国民の戦争熱が高まる一方で、戦場の苦しい実情は、情報統制がしかれたこともあり一般市民にはなかなか伝わりませんでした。しかし、旅順攻略などの激しい戦闘で多くの犠牲が出ると、勝利と戦死者の増大という矛盾に対して、国民の世論は軍部にさらなる勝利を求めて過熱を見せるようになります。また、政府は、通常の歳入だけでは戦費をまかないきれないために借金によってこれを補うしかなく、特にアメリカやイギリスの市場に向けた国債の発行額は大きく膨らみました。こうした状況のため、国民の声に応えて戦争に勝つために兵を募り兵器を生産すればするほど、国家の借金が増えてゆくことになります。つまり、日本はロシアに対して決定的な打撃を与えることのできないままに、加熱する世論と増大する借金を背負いながら戦争を続けなければなりませんでした。

 このように、明治37年(1904年)の秋頃からの日本とロシアはそれぞれ、戦争を終えるべき理由と、戦争を続けるべき理由という、相反する2つの論理を抱えるに至っていました。

 10月、奉天付近の約22万人のロシア軍が攻撃に転じて南下し、遼陽付近を守る約12万人の日本軍と沙河で衝突して「沙河会戦」が起こりますが、退けられます。一方の旅順では日本軍が「第2回旅順総攻撃」を開始します。前回の強襲攻撃とは異なり、旅順要塞の拠点を少しずつ攻略する方針をとった日本軍は、約4千人の死傷者を出しながらも要塞の包囲網を狭めました。 11月になると、日本軍は「第3回旅順総攻撃」を行い、またもや多くの兵士の命を犠牲にしながら、旅順要塞を攻略するために必要な地点を押さえることに成功しました。年が明けて明治38年(1905年)1月2日、ついに旅順要塞は開城し、半年に及んだ旅順攻防戦は日本軍の勝利に終わりました。

 明治38年(1905年)1月22日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで、戦争の中止や民主化を求めた市民のデモに軍隊が発砲するという「「血の日曜日」事件」が起き、これをきっかけとして労働者による抗議のストライキがロシア全土に広がりました。このように国内が大きく動揺している状況下で、ロシア軍は1月末に奉天西方の黒溝台で日本軍に対する攻撃を行いますが、ここではそれぞれ約1万人の死者を出しながら戦闘がこう着状態に入ります。こうした事態に対して、日本軍では、旅順攻撃を終えた部隊を北上させ、奉天付近のロシア軍を全力で撃滅しようという計画が進められていました。

 2月末、日本陸軍の大部隊が奉天付近のロシア軍に対する攻撃を開始し、「奉天会戦」が始まります。この戦闘は、日本軍約24万人、ロシア軍約36万人が参加する大きなものでした。日本軍は「遼陽会戦」の時と同じように、ロシア軍に対して数で劣りながらも攻めに徹し、ロシア軍の陣地を突破するために多くの犠牲を払うことになります。最終的に、日本軍は約7万人の死傷者を出しながら奉天の占領に成功したものの攻撃力を保つことができなくなり、ロシア軍も死傷者約9万人という損害を受けながらも壊滅することなく北に向かって退却しました。この戦闘は、日本には兵力と戦費の両面で大きな消耗を、ロシアには、敗退の報が伝わったことによる国内のさらなる動揺と治安の悪化をもたらしました。 戦闘が終了した4月には、前年の10月にバルト海を出撃した第二太平洋艦隊がフランス領インドシナ(ベトナム)に到達して、おくれて出撃した第三太平洋艦隊と合流しており(これをあわせて「バルチック艦隊」とも呼ばれます)、その一方で、日本政府は4月21日の閣議によりロシアとの講和の条件を決定し、終戦のための交渉を開始しようとしていました

3.終盤

▲「オスラビア沈没」 (財団法人三笠保存会所蔵)

 明治38年(1905年)5月27日、ついに日本近海へとたどり着いたロシアのバルチック艦隊と日本艦隊の主力部隊は、対馬沖における「日本海海戦」で激突します。この戦いで、日本艦隊はロシア艦隊の大半の艦船を撃沈あるいは大破させて勝利しました。また7月7日には陸軍の部隊が海軍の援護のもとでロシア領サハリン島(樺太)南部への上陸を行い、島の全土を占領しました。

 6月に入り、日本から講和の斡旋を求められていたアメリカのルーズヴェルト大統領は、日本海海戦での日本の勝利に対する評価も踏まえ、日露両国に対して講和の勧告を行いました。そして、ロシアがついに講和のテーブルにつくことになり、8月10日、日露両国代表がアメリカのポーツマスに集い、講和会議が開始されました。この時、交渉の焦点となったのは、陸海の様々な戦闘において優位を保ってきた日本に対し、ロシアがどこまで敗北を認め、賠償金の支払いや領土の譲渡に応じるかということでした。これは非常に難しい議論となりましたが、両国ともに戦争の終結を急がねばならなかったため、最終的にはアメリカの説得に応じるかたちで講和の条件が合意されました。

 明治38年(1905年)9月5日、日本とロシアの代表の間で「日露講和条約(ポーツマス条約)」が締結されました。条約の内容は、ロシアは日本に対して一切の賠償金を支払わず、領土については、日本軍が占領していたサハリン島のうち南半分を日本の領土とし、ロシアが有していた中国東北部の権益は日本に譲渡される、というものでした。

 このような条約内容での合意に至った交渉の経緯は、8月末には日本国内でも報道されていました。死傷者総数20万人以上という犠牲と、重税や生活の切り詰めによって約20億円(当時の国家予算は7億円)もの戦費を負担するという金銭的な犠牲を払ってきた多くの国民は、戦勝による見返りを期待していました。しかし、伝えられた交渉の内容は、これを大きく裏切るものだったのです。こうして、東京では講和に反対する市民によって「日比谷焼打事件」と呼ばれる暴動が引き起こされました。講和条約の調印は、まさにこの事件と同じ日に行われたのでした。

 10月15日、日本の明治天皇と、ロシアの皇帝ニコライ2世は共に「日露講和条約」を批准し、ここに国際法上で正式に日露戦争が終結しました。

2.東アジアにおける影響

 明治新体制を発足させてから40年も経ない日本が、ヨーロッパの大国ロシアを破ったことは、国際社会における大きな事件でした。つまり、欧米諸国に学んだ改革を巧みに実行すれば、非ヨーロッパの国でもヨーロッパ諸国に戦争を挑み勝つことができるという事実が明確に示されたのです。

 この勝利によって日本は東アジアにおける強国として台頭することになります。
▲四平街停車場における
日露両国の鉄道引渡及撤兵協商委員
(防衛省防衛研究所所蔵)

 日露戦争後の明治39年(1906年)に、旅順に関東都督府が設置され、 旅順大連を含む遼東半島の一部(関東州)や南満州における日本の権益の保護・監督にあたりました。 ついで日露講和条約で得た旧東清鉄道の長春-旅順間の鉄道と、沿線の鉱山・製鉄業などを経営するために、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立され、満州への経済的進出の拠点となりました。

 このような日本の満州への勢力拡大は、かねてより満州の「門戸開放」を唱えていたアメリカの反発を招き、さらにアメリカの満州鉄道中立化案などを拒んだこともあって、日米関係は悪化します。他方でロシアとの協調が進み、明治40年(1907年)以後、4回にわたって日露協約を結び、満州とモンゴルにおける両国の勢力範囲を取り決めました。

 また、日露戦争の結果、日本による韓国の保護国化が欧米列強から認められます。これらの列強の支持を背景に、日本は明治38年(1905年)に第二次日韓協約を結び、韓国の外交権を奪い、漢城(現ソウル)に統監府をおきます。これに対し、韓国は、明治40年(1907年)にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に皇帝の密使を送って、韓国の独立擁護を国際世論に訴えかけましたが、受け入れられませんでした(ハーグ密使事件)。日本はこの事件をきっかけに、第三次日韓協約を結んで、韓国の内政権を奪い、ついで韓国軍も解散しました。これに反対して、義兵運動と呼ばれる反日武装反乱が各地に広がりますが、日本はこれを鎮圧します。そして、明治43年(1910年)に韓国併合条約を成立させ、韓国を朝鮮と改め植民地としました。首都の漢城は京城に改められ、ここに置かれた朝鮮総督府によって、朝鮮が統治されることになりました。

3.日本における影響

 日露戦争は、日本がそれまで体験してきたどの戦争と比べても、その規模と性質は大きく異なっていました。戦闘に参加した日本の軍人と軍属の総数は、戦地と後方勤務の双方をあわせて108万人を超えていました。このうち戦死者・戦傷者は、それぞれ約8万4千人、14万3千人となっていました。日清戦争時の戦死者と比較すると、およそ10倍の死者が出たことになります。
▲東京市における凱旋式
(防衛省防衛研究所所蔵)

 戦争遂行に要した多額の戦費(約20億円、今のお金で約2兆6000億円に相当)はほとんど国内外からの借金(公債)によってまかなわれたので、当時の日本の財政(1905年度の政府歳入:約4億円)を考慮すれば非常に重い負担となりました。日本政府は戦時中からすでに所得税等を上げ、タバコ(1904年)・塩(1905年)などを専売制(政府が特定の品物を一括して販売する制度)にして歳入増加を図っていましたが、この増税政策は戦後にも引き継がれます。そして塩・タバコの専売制はその後も存続し、ごく最近まで行われていました(タバコの専売制の廃止は1985年、塩は1997年)。この財政難は、第一次世界大戦によって好景気がもたらされるまで続きました。

 このことは、日本の政治においても新たな展開をもたらすことになります。時間は少し遡りますが、戦争前の明治33年(1900年)の山県内閣の際に衆議院選挙法が改正され、直接国税を10円以上納めた国民が選挙権を持つことができるようになり、有権者の数は76万人となりました。しかし、日露戦争によって民衆が多くの税金を納めるようになった結果、明治41年(1908年)の選挙では、選挙法自体の変更はなかったにもかかわらず、その数が158万人へと増加します。こうした状況によって、有権者の層が変わり、新たな階層が日本の政治に参加することになります。

 そして、日露戦争後、約10万人の犠牲者と約20億円の金を支出して満州の権益を獲得したのだというフレーズが繰り返され、後々にまで日本の対外政策に大きな影響を与えることになりました。

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※原則としてその戦いが始まった
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