戸高一成(呉市海事歴史科学館館長)、石 平(拓殖大学客員教授)
日清戦争・百二十年目の真実
(Voice Voice 2014年6月号掲載) 2014年5月26日(月)配信
《『Voice』2014年6月号[特集:甦る戦争の記憶]より》
明治維新後、西洋文明の吸収に努めた日本は「眠れる獅子」清国と戦い、勝利する。
近代化の多くを負ったのが海軍だった。120年前の歴史から何を学ぶか。
日本の防衛戦争だった
石 今年は1894年の日清開戦(中国では甲午戦争)から120周年。干支も同じ甲午に当たることから、中国のネット上では「日本をやっつけろ」「今度は負けるな」といった勇ましい発言が目立ちます。実際、日清戦争の敗北は、近代史上最大の屈辱として中国人民に記憶されており、国防部の楊宇軍報道官は「決して歴史の悲劇を繰り返すことは許さない」とコメントしました。中国の歴史学者たちのあいだでは「なぜ日本に負けたのか」ということが延々と研究されてきたのですが、呉市海事歴史科学館(通称・大和ミュージアム、広島県)館長の戸高さんは海軍史研究の第一人者。その理由について、とことん議論したいと思います。
戸高 わざわざ当館までお越しいただき、ありがとうございます。石さんの勇姿はテレビなどでよく拝見していますが、お会いするのは今回が初めてですね。私も中国で日清戦争がどう捉えられてきたのか、たいへん興味があります。
石 中国での“盛り上がり”と比べると、日本での日清戦争に関する関心はいまひとつですね。戦後の風潮のなかで、戦争の歴史について語ること自体が一種のタブーとされてきたことも、関係しているのかもしれません。しかし、明治日本が清国との戦争に踏み切ったのは、民族の存亡をかけてのことだったのでしょう。
戸高 当時の世界はまさに弱肉強食。弱いところをみせると、あっという間に植民地にされる時代でした。現代のように国際連合のような組織があって、世界のなかで外交ができる時代ではなかったのです。
石 自分の国は自分で守るしかない。
かなり残酷な時代でした。
戸高 当時、アジアは欧米列強による切り分けがだいたい済んでいて、日本と一部の太平洋の島々が「最後の地」として残されていました。1886年、帆船で南洋を回った評論家・地理学者の志賀重昂が旅行記(『南洋時事』)を出すのですが、ヨーロッパの強国がアジアの国々の主権をどんどん奪っていく様子を書いています。そして次は日本が危ないと警告した。幸いなことに、日本は島国で地理的に独立を保つのに有利だった側面はありますが、目と鼻の先にある朝鮮半島が他国の勢力下に落ちる恐怖は大きかったでしょう。
石 日清戦争時、日本はすでにロシアをかなり警戒していたという説もありますね。
戸高 当時の朝鮮は清国に付いたり、ロシアに付いたり、ふらふらしていた。朝鮮がどちらに付いても、日本は不安だった。日清戦争で日本は「朝鮮の独立を守るため」という大義名分を掲げて戦いますが、すなわちそれは日本の防衛戦争だった。一種の予防戦争といえるもので、そういう現実のなかに日本人は生きていたわけです。
素直に西洋に学んだ日本海軍
石 日清戦争は豊島沖の海戦(1894年7月25日)から始まり、陸、海とも日本の連戦連勝。戦争は8カ月間という短期間のうちに日本勝利で終わり、翌95年4月、下関で講和条約が結ばれました。
戸高 なかでも、明治日本の実力を示すものとして諸外国に注目されたのが、黄海海戦(1894年9月17日)です。日本の連合艦隊は優勢な清国の北洋水師(艦隊)を撃破。日本は周辺海域の制海権を握り、やがて遼東半島・山東半島上陸が行なわれて旅順・威海衛が陥落し、勝利を決定的なものにした。日本の近代化の成功が国際社会、とくに欧米列強に認識されたのは、日清戦争における戦闘を通じてだといってよい。そして黄海海戦の勝利に象徴されるように、その大きな部分を海軍が負っていたのです。
石 清国も日本も、欧米列強の脅威というものに接し、軍艦の保有・整備、すなわち海軍力の増強に努めていた。それでも勝敗に差が出たのは、なぜでしょうか。
戸高 ひと言でいえば、近代化に対する両国の姿勢の差にあったと思います。1853年のペリー来航をきっかけとして、幕府は海防の重要性を強く認識。洋式軍艦を購入するとともに、諸藩に軍艦の建造を奨励するようになった。これが日本の海軍創設の出発点です。1863年の薩英戦争でイギリス艦隊と交戦した際には、海から来る艦隊はこちらも艦隊で防ぐしかないということを、攘夷の志士たちは身をもって学んだ。日本も洋式の海軍をつくるべきだ、そのためには開国しかないということを、素直に受け入れたのです。
石 ただ、同じ時期に清国も日本と同じような「近代的体験」をしていますね。アヘン戦争(1840~42年)やアロー戦争(1856~60年)で英仏に敗れ、清国は半植民地化の状態に陥る。これを機に始まったのがいわゆる「洋務運動」で、排外主義をやめて西洋の技術を導入しようとしました。
戸高 日本でいう「和魂洋才」のようなものですね。
石 そう。いわば「華魂洋才」です。日清戦争のころには、この洋務運動をもう30年間も続けていた。しかも、当時の清国は日本とは比較にならない大国ですから、「定遠」「鎮遠」のような巨艦をドイツから買い、軍備の面では日本を上回っていました。ところが日本といざ一戦を交えてみると、完敗してしまう。
戸高 清国はお金がありすぎて、軍艦購入の費用を西太后が頤和園(現在、北京市にある庭園公園)に流用してしまうなど、無駄遣いもありましたが、最新鋭の戦艦をすぐに買える国力があった。対する日本は財政が厳しく、一流の艦がなかなか手に入らない。清国の主力艦「定遠」「鎮遠」が排水量8000t級の巨艦であったのに対し、日本の主力艦「浪速」や「高千穂」は4000tでしかなかった。
もっとも、優れた軍艦があっても、それを使える人がいなければ無意味です。そこで明治の海軍は、人材の養成に非常に力を入れた。どんな方法だったかといえば、素直に西洋の知識に学ぶということです。日本の海軍の初期の教育は完全にイギリス式で、食事もすべて洋食。最初のうちはこんなもの食えるかと、支給されたパンを捨ててしまう水兵もいたらしい(笑)。しかし、とにかく一度は「先生」の言うとおりにしようと、ヨーロッパの海軍の伝統に学んだ。海軍の分野にとどまらず、明治日本には国家全体としてそうした姿勢があった。
石 つまり、そうした近代化に対する姿勢の差が清王朝と明治日本の明暗を分けたと。
戸高 清王朝には「いまさら西洋に頭を下げられるか」という意識があったのかもしれませんね。
石 清国からすれば、自分たちこそが文明の中心であり、アヘン戦争やアロー戦争で負けたのは、武器の差によるものだ。武器さえ西洋から買えば、あとは恐れるものは何もないと考えたのでしょう。教育から食事の仕方まで西洋に学んだ日本と比べれば、近代化に対する認識にはそうとうな差があったといえそうです。
戸高 黄海海戦では、日本側軍艦の被弾数が多くても30発程度であったのに比べ、清国側はほとんどの艦艇が100発以上、あるいは数十発の命中弾を受けたといわれます。たしかにハードウェアの部分では、清国海軍は日本海軍より進んでいる面があった。しかし、カタログスペックに現れない制度や組織、人員の質に関する欠陥が、実戦において明らかになったといえるでしょう。
ちなみに当時の日本海軍は、戦術もイギリスあたりから先生を呼んで勉強していました。ネルソン提督の時代のような、複雑な艦隊運動を要求する戦術を教わっていたわけです。ところが、いざ訓練でやってみると、難しくてできない(笑)。実際の戦場でそんな複雑な戦術で戦ったらたいへんだということで、日本の連合艦隊がとったのが「単縦陣」です。
先頭の艦に後続艦が一本の棒のように連なって進む戦術で、先頭の艦が右に行けば右、左に行けば左と、単純な艦隊運動しか要求されない。それで黄海海戦に勝つことができた。
石 前に倣えと。じつに日本的な戦い方ですね(笑)。
戸高 現実的な戦い方がそれだったのです(笑)。
石 あるいは、日本の剣術にもありそうな、武士的な戦い方ともいえそうです。
戸高 そうですね。最後はとにかく踏み込んで戦うんだと。対する清国の北洋水師は、各艦が左右に展開する複雑な横陣を採用しました。しかし、各艦の速力に差があり、統一の艦隊行動を取ることができなかった。結果的に、シンプルな戦術を採用した日本の連合艦隊を利する要因となりました。
石 いまの対比は面白い話ですね。清国の北洋水師の将官は、科挙試験に合格したエリート。もとを辿れば学者で、簡単なものでも難しい言葉を駆使して作文にする術に長けた秀才たちだった。一方、日本の連合艦隊の将官たちは、江戸時代の武士教育を受けた人間たちで、死ぬべきときに死ねばいいという、ある意味でシンプルな哲学をもっていた。同じ西洋の技術を使っていても、日清戦争は日本の「武士」たちと、清国の「学者」たちの戦いだったということができますね。
戸高 そうですね。明治の海軍は「見敵必戦」の精神が見事なまでに徹底していました。武士上がりの将官や士官たちは戊辰戦争や西南戦争の生き残りでもあり、いわば戦い慣れしていたのです。
清国とは危機感が違った
石 以前、何かの本で読んだのですが、清国の北洋水師が日本に軍事力を見せつけるため、日本に来航したことがありましたね。しかし東郷平八郎(日清戦争時の巡洋艦「浪速」艦長。日露戦争時は連合艦隊司令長官)は招待された「定遠」の大砲に洗濯物が干してあるのを見て、「清国軍、恐るるに足らず」とした。
のちの東郷元帥の偉大さを強調するものとして、あまりに出来すぎの感もある逸話ですが、ほんとうの話なのですか。
戸髙 まるっきりの作り話ではないでしょう。軍艦は外国に自国の力を示すための大事なツールでもあり、人の目に触れるような場所はつねにきれいにしておく必要がある。大砲に洗濯物が干してあるのを見て、「清国海軍は士気が足りない」と東郷は判断したのです。
石 やはり、そんなことがあったのですね。中国の知識人は日清戦争でなぜ負けたのか、100年以上議論してきました。そして出た結論の一つが「清国王朝も北洋水師も腐敗しきっていた」というものです。たしかに当時の清国は、大金をつぎ込んで西洋から一流の武器を買っていた。しかし、それは外国との戦争に勝つためではなかった。政府から調達費をもらっても、弾薬を買わずに懐に入れた不届き者がいたことがわかっています。最初から日本と戦う態勢になっていなかった。おそらく東郷は、それを直感的に見抜いたのでしょう。
戸髙 清国海軍は強大だったので、軍艦を並べて威圧すれば、日本は引くと考えたのかもしれません。一方、自国が弱小であるという認識をはっきり抱いていた日本は、近代的な陸海軍の整備に必死になった。ある意味でプライドを捨てて、西欧文明の吸収に励んだのです。
石 清国とは危機感が違ったのですね。いまの話を中国の知識人に教えたら、彼らも少しは反省するかもしれない。「自国の文明こそ最高」と思う中国人の習性は、いまも抜けていないのですから。
中国近代化の発端となる
石 中国のほんとうの近代化の動きは、アヘン戦争の敗北ではなく、日清戦争の敗北から始まった、私はそう考えています。西洋のみならず、「東夷」と侮っていた日本との戦争に負けたことで、中華帝国のプライドは完全にズタズタになってしまう。しかし同時に清国の知識人たちは、明治日本の力の源泉がどこにあるかがわかったのですね。
要するに日本は、明治維新という「体制」の変革をやった。戸髙館長のいう近代化に対する姿勢の差をようやく認識したわけです。
清国では1898年に「変法運動」といわれる政治運動が起こります。千年にわたる中国の政治体制を根本から変えようとする運動で、代表的なものが科挙制度の廃止でした。伝統的な官僚制度の否定につながる改革で、官僚たちは自分がクビにならないかとビクビクした(笑)。この運動の先頭に立ったのが康有為という政治家です。彼が歴史の表舞台に登場するのは、じつに日清戦争の直後から。下関で結ばれた講和条約の内容が伝わったとき、ちょうど北京では科挙試験をやっていました。
戸髙 中国各地から何千人ものエリートが北京に集まっていた。
石 はい。康有為もその一人で、下関条約の内容を知ると、屈辱だとして憤激した。そして「公車上書」という有名な事件が起きます。康有為を中心とする未来のエリートたちは、当時の皇帝であった光緒帝に対して日清講和の拒否と、政治体制を近代化するための改革案を上奏したのです。その意味では、中国近代化の発端をつくったのは日本だったといえます。
戸髙 日清戦争後、清国から留学生が日本にたくさんやって来ましたね。これはある意味で意外というか、不思議な現象だったと思います。
石 じつは、清国から日本にいちばん留学生が来た時期は、日清戦争後に変法運動が起きてからで、すでに清国の滅亡(1912年)の足音が近づいていたときでした。もはや清国の財政は逼迫し、ヨーロッパに大量に人材を留学させるのは無理になっていた。
戸髙 それなら日本のほうが近いし、安い(笑)。
石 ええ(笑)。加えて当時の日本には、世界最先端の知識がすべて集まっていました。明治維新以来、日本人は西洋から大量の文献を持ち帰って、日本語に翻訳していましたからね。
戸髙 日本に行けば、いちおう揃っていると。
石 中国人にとって日本語を勉強するのは、それほど難しくありません。同じ漢字を使っていますからね。実際に当時の中国人は、日本語を通じて西洋の概念を学んだのです。たとえば、現在中国語で使用している「政治」という言葉は、もとは日本人がつくった言葉です。あるいは「経済」「社会」「哲学」などもそう。じつは「共産党」も日本人がつくった言葉です(笑)。
戸髙 ヨーロッパの文化や概念を日本語に直す際、日本人は大いに苦労しましたが、いまみてもオリジナルの思想とうまくフィットさせている例が多いですね。中国人がそれを取り入れたのは、効率的だったといえるかもしれません。戦争において重要なのは講和条約後、両国の交流をいかに進めるかである――いまの話を聞いていても、つくづくそう感じます。
石 日清戦争後、しばらくして清王朝は潰れてしまい、新しく中華民国ができましたが、誕生に際しては日本の力が大きかった。ご存じのとおり、孫文を支援したのは日本人です。その後、両国は新しい連携の時代に入る可能性もあったにもかかわらず、実際はそうならなかった。ボタンの掛け違いはどこにあったのでしょうか。
戸髙 それはほんとうに難しい問題です。日本側のまずさを指摘すれば、明治維新以来の謙虚さを失ったことに原因があったのではないか。日清戦争に続き、10年後の日露戦争にも勝ったことで、驕りの意識が生まれてしまった。中国人に対しても、どこか上からみるような目線があったのではないでしょうか。
石 ただし、日清戦争に勝たなければ、日露戦争にも勝てなかったわけですよね? だとすれば、やはり日清戦争は日本の独立を守った戦いだといえる。
戸髙 それはそうです。日清戦争の勝利というステップがなければ、10年後の日露戦争の勝利もなかったでしょう。即物的な話をすれば、清国からもらった莫大な賠償金によって、日本は国家のインフラなり、軍備なりを整備することができた。
もう1つ、重要な点を指摘すれば、日清戦争のときの現場指揮官、あるいは中堅指揮官を務めた人間たちが日露戦争を指導したことです。日清戦争でひととおり国家戦争というものを経験したのち、日本は日露戦争に臨むことができた。この経験は大きかったと思います。
石 逆にいえば、幕末維新以来の生き残りたちにとって、日露戦争が最後の舞台だったわけですね。
戸髙 日露戦争時は上の司令官クラスに就いていて、現場に「しっかりやれよ」という立場でした(笑)。
石 なるほど。日本は人材の面でも、日露戦争で一つの時代が終わったわけですね。
歴史に謙虚でなければ次代の道を誤る
石 戸髙館長のご著書を読んでいると、日清戦争にしても、日露戦争にしても、その勝利は敗北と隣り合わせというか、実際には「運」いう要素も大きかったという印象を受けます。
戸髙 ほんとうにそのとおり。まさに奇跡的な幸運で勝てたとみるべきです。
石 いろいろな要素が重なった。
戸髙 ですから、「ほんとうは危なかった」という事実を教訓として、日清、日露後の後世にきちんと伝えるべきだったのです。とくに日露戦争後の軍人は、成功体験から「俺は強い。誰とやっても負けない」という気持ちになってしまった。
石 そのままアメリカとの戦争に突き進んでしまったわけですね。
戸髙 国も人間も、歴史に対して謙虚でなければ、次代の道を誤ると考えるべきです。
石 それはいまの中国にとっても同じことです。一部のエリートたちは、日清戦争の屈辱をいまこそ晴らさなければいけない、という気持ちになっている。海軍力を増強して、日本を叩くべし、と。しかし、あの当時に中国(清国)が日本に負けたのは、歴史の必然であって、いまこそ仇をとるなどという低次元な発想で国家を運営すべきでありません。
戸髙 そもそも、大陸国が海軍をもってうまくいった例はありません。
石 ロシアがそうですね。日露戦争時、日本海海戦で日本の連合艦隊相手に文字どおり壊滅させられた。
戸髙 海洋国として大海軍をきちんと運用できたのは、イギリス、アメリカ、日本。世界広しといえども、この3カ国しかありません。ドイツやフランス、イタリアは本質的に大陸国であり、海軍をうまく運用できなかった。逆にいえば、本来、海洋国である日本が日露戦争後、大陸に出て行ったのが失敗の始まりでした。
石 まったく同感です。明治日本の興隆をもたらしたのは「脱亜入欧」の文明思考と戦略思想でしたが、日本人はこのような賢明な国策をあっさりと捨てて、正反対のアジア主義という幻想に飛びついてしまった。そして中国大陸への関与と進出を一直線に進めたことが、近代日本の破局を招いた最大の原因でしょう。
翻って、現在の中国は海軍力の強化に努めていますが、どうしてもシーレーン(海上輸送路)を確保したいというのなら、関係国と協議して「法的秩序」をつくればいい。それが中国にとっていちばんコストが安く、関係国と共存共栄できる道です。
戸髙 ヨーロッパから中国に至る沿岸諸国を全部、友好国にしてしまえばよい。
石 それがいちばん賢いやり方です。
戸髙 いまや大国となった中国にはそれにふさわしい振る舞いがあるはずで、世界から尊敬される道を選んでほしいと思います。よく中国は日本に対して「歴史を正しく認識せよ」といいますが、私にいわせれば、「一緒に正しく勉強しましょう」ということです。
石 それが今回の対談のいちばんのキーワードになりますね。
世界一の造船・鉄鋼王国になった根源
戸髙 最後に、日清戦争で日本側の勝因として触れておきたいのは、技術分野に優秀な人材が集まったことです。明治日本は早くから「軍艦の国産化をしたい」という願望が強かった。これには財政上の理由に加えて、もともと日本人はモノをみると、自分でつくりたくなる習性があるんですね。
石 まさにそうですね。私が日本史を勉強していちばん驚いたのは、16世紀半ばに種子島に鉄砲が伝来してから十数年も経たないうちに、西洋を凌ぐほどの量の鉄砲を国産化していたことです。
戸髙 1万挺や2万挺は、あっという間につくってしまう。ペリー来航時にも同じようなことがありました。ペリーは先端技術のサンプルとして蒸気機関車の模型などをもってきたのですが、それから1年も経たないうちに同じモノを日本人はつくってしまった。日本では職人の地位が伝統的に高く、サムライが偉いといっても、刀工が気に入らなければ、刀をつくらないこともあった。職人は支配階級の武士といわば互角の立場で仕事ができたわけです。だからこそ、優秀な人材が職人の世界に集まった。一方、中国では能力のある子供は学者や政治家になろうとする。モノづくりをする職人の地位は伝統的にそれほど高くないように思うのですが。
石 ご指摘のとおりです。中国における立身出世の近道は、科挙にパスして官僚になること。全員が東大法学部をめざすような制度です(笑)。おそらく朝鮮でも、事情はまったく同じだったでしょう。
戸髙 日本海軍が明治維新からわずか70数年で、史上最大の戦艦「大和」「武蔵」を建造する能力をもつに至った原点は、日本が早くから軍艦の「国産化」をめざし、この分野に優秀な人材が集まった点にあるというべきでしょう。第二次大戦後、日本が世界一の造船・鉄鋼王国になった根源もここにあるのです。
石 日本の若い世代にぜひ学んでもらいたい点ですね。実際、大和ミュージアムを見学して思ったのは、けっこう若い人が来ているんですね。
戸髙 おかげさまで、幅広い世代にご来館いただいています。開館してから9年になりますが、入場者数は日本の博物館のベストテンにつねに入っています。私が展示で気を付けているのは、史料に誤りがないこと。思想に偏りがなく、ニュートラルな立場であることです。正しい史料を提供して、自分なりの判断をしてもらう。この繰り返しが歴史を教える、あるいは学ぶということだと思います。
石 今後も、日本の若者たちに正しい歴史を伝えるようがんばってほしいと思います。
<掲載誌紹介>
2014年6月号
<読みどころ>今月号の総力特集は、「しのびよる中国・台湾、韓国の運命」と題し、中国の脅威を論じた。武貞秀士氏は、中韓による「反日・歴史共闘路線」で中国が朝鮮半島を呑み込もうとしていると警鐘を鳴らす。一方、宮崎正弘氏は、台湾の学生運動の意義を説き、中国経済の悪化でサービス貿易協定の妙味は薄れたという。また、上念司氏と倉山満氏は、中国の地方都市で不動産の値崩れが始まっており、経済崩壊が目前で、日本は干渉しないことが最善の策だと進言する。李登輝元台湾総統の特別寄稿『日台の絆は永遠に』も掲載。ぜひご一読いただきたい。
第二特集は、日清戦争から120年、日露戦争から110年という節目の今年に、「甦る戦争の記憶」との企画を組んだ。また、硫黄島での日米合同の戦没者慰霊式に弊誌が招待され、取材を許された。遺骨収集の現状を含め、報告したい。
さらに、世界的に著名なフランスの経済学者ジャック・アタリ氏とベストセラー『帝国以後』の作者エマニュエル・トッド氏へのインタビューが実現。単なる「右」「左」の思想分類ではおさまらない両者のオピニオンに、世界情勢を読む鋭い視点を感じる。一読をお薦めしたいインタビューである。
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