エリ・エリヤフ・コーヘン(元駐日イスラエル大使)
日露戦争とイスラエル建国の英雄
《『Voice』2014年6月号より/取材・翻訳・写真提供:青木偉作》
――真の愛国者として生きたトルンペルドールは、日本から何を学んだか
ロシアのために日本と戦ったユダヤ人
青木: 日本でも読み継がれている『アンネの日記』の破損事件があり、日本の政府も私たち国民も、これは非常に恥ずべき行為であり、許し難い行為だと思っています。この事件はイスラエルでも報道されているとお聞きしていますが、イスラエルの人はどのようにお感じでしょうか?
コーヘン: 私たちユダヤ民族には、世界中で迫害されてきた歴史がありますから、他民族から攻撃を受けるということには慣れております。つねに私たちを迫害する敵は存在します。このような事件が起きるとき、私たちはその敵が誰かを徹底的に追及します。しかし今回は日本政府がその事件に遺憾の意を表し、その犯人の取り調べをしているということですので、私たちにとってはそれで十分です。私たちは、日本人に罪を負わせようとは思っておりませんし、日本人がそのようなことをする民族だとは思っておりません。
青木: 日本とユダヤ社会の関係は非常に深いです。ユダヤ人にビザを発給してナチスから救った杉原千畝氏のことはとても有名です。でも今回のご著書『国のために死ぬことはよいことだ』で紹介しておられる、ヨセフ・トルンペルドールという人物は、ほとんどの日本人がいまだ知りません。
コーヘン: 日露戦争のころのユダヤ人の存在についてお話ししますと、ユダヤ人の銀行家でヤコブ・シフという人物は、日本がロシアに勝利することを願って多額の資金援助を日本にしました。その一方で、ロシアが勝つために日本と戦ったユダヤ人もいます。それがトルンペルドールだったんです。同じ戦いですが、ユダヤ人はどちらの側にも存在したのです。
青木: この本をお書きになられた動機を教えていただけますか?
コーヘン: ヨセフ・トルンペルドール(写真)という人物は、私の子供の時代からの憧れの人物です。
私は駐日イスラエル大使として、また武道やビジネスを通してなど、日本との繋がりが強い人間です。そして武道などを通じて日本の方から本当に多くのことを学びました。ですから私も何かイスラエルの良き精神を日本の方にお伝えしたいと思い、選んだのがトルンペルドールの生き様だったのです。
それと、これは私もイスラエル大使として日本に滞在しているあいだに知ったことですが、トルンペルドールは日本と深い関わりがあったんですね。もちろん日露戦争後に捕虜として日本にいたことは知っていました。でもトルンペルドールが日本人と戦った体験や捕虜として滞在した日本での生活が、彼をイスラエルの建国運動に駆り立てる大きなきっかけとなったとは知りませんでした。
青木: そのことはご著書にも書かれていますね。トルンペルドールは大阪の高石にあったロシア人捕虜収容所で捕虜として過ごし、そこでユダヤ人の祖国であるイスラエルを建国するビジョンが湧いたということですが、彼は日本でどのようにしてそのようなビジョンを培ったんでしょうか?
コーヘン: 当時のロシアでは、ユダヤ人が医者になることはできませんでした。でも歯医者にはなれたんです。それでトルンペルドールは歯医者になりました。ですから彼には教養がありました。それで彼は収容所でユダヤ人のみならず、そこにいたすべての兵士にロシア語の読み書きを教えました。兵士の多くは無学文盲だったんです。彼はユダヤ人でしたが、彼が片腕を失いながらも、戦いをやめず、拳銃だけを持って最後まで戦い抜いた、という武勇伝は広く知られていました。
人間は捕虜生活のような特殊な状況に置かれると、その人の原点に立ち返ろうとします。そしてトルンペルドールも「真のユダヤ人とは何か」という問いを持ち始めます。そのことを追求するために、当時捕虜のなかには900人ほどのユダヤ人がいましたが、その同胞たちとともにユダヤ教の伝統的な儀式やお祭りを行ない始めます。本書にも書きましたが、トルンペルドールはとくに信仰熱心な家庭に育ったわけではありませんし、いわゆる宗教家と呼ばれるユダヤの掟を厳格に守ってきた人間ではありません。
でも、その彼が中心になって、ユダヤの民の出エジプトを記念する「過ぎ越しの祭り」を捕虜たちと行ないました。その祭りに欠かすことのできない「マッツァ」と呼ばれる「種入れぬパン」を、当時神戸にあったユダヤ人コミュニティーからわざわざ取り寄せるんです。そのために彼は覚えたての日本語を駆使して収容所の担当者と交渉したといわれます。また、それを当時の日本の政府は許可するんですね。そのようにして他民族の習慣にも理解を示して協力した日本政府もすごいと思います。そのような日本という国の対応からも、トルンペルドールは国というものの良さを感じたんだと思うんです。そして、自分たちユダヤ人が自由に暮らせる日本のような国をもちたいと思ったのではないでしょうか。そして、そのトルンペルドールの活動にはユダヤ人捕虜が一致協力します。
ところが、トルンペルドールがシオニズム、つまりユダヤ民族の祖国を建国するためにイスラエルに帰ろうという声を上げたときには、多くのユダヤ人が、「自分たちの国だって? 2000年前になくなったものを再建するなんて狂気の沙汰だ」といって反対するんです。当時の多くのユダヤ人には自分たちの国をもてるなどという考えはまったくなかったんですね。
とくに捕虜にとっては、「自分たちはいま、極東の日本の捕虜になっているような状況だ。それに自分たちはロシア兵である。そのわれわれが2000年前に失った土地に還って、国を再建するなんてありえない」という気持ちだったんです。ですから、イスラエルの建国という点に関しては、ユダヤ人のなかにもトルンペルドールに反発する者が多くいました。
でも、トルンペルドールは戦士です、武道家です。自分の信じた道をまっしぐらに突き進んだんです。そしてユダヤ人捕虜たちに祖国の必要性を訴え続けました。その結果、祖国の再建という志を共にする同志250人とともに、日本の収容所におけるシオニズム(イスラエル建国運動)組織を立ち上げることに成功しました。そこから米国のユダヤ人たちに手紙を送ったりして、「自分たちと志を一つにして、ユダヤ人国家の建国のために協力してほしい」という呼びかけをしたりするんです。
ロシアではユダヤ人であるがゆえに散々差別されながらも、ロシア軍兵士として必死で戦いますが片腕を失い、挙げ句の果てには戦争に負けて日本の捕虜になってしまった。そのようなどん底の状態でしたが、トルンペルドールの胸の中には、「ユダヤ人の国を創ろう。そのことのために自分の身を捧げよう」という理想が燃え上がったんです。
日本に対する尊敬の念
青木: 国家に対するトルンペルドールの目覚めが日本で起きたということなんですね。
コーヘン: そうなんです。彼は日本という国から大きな影響を受けたと思います。彼は全身全霊を挙げて戦った戦いに敗れたんです。日本に負けたんです。そういう意味でも日本に対する尊敬の念があったと思います。日露戦争の様子を伝えた当時発行されたユダヤ人の新聞に、「旅順における日本兵は、第一陣が全滅すると第二陣が続き、それが全滅しても第三陣が駆けつける。
そのように屍を乗り越えて攻め続けた結果、ついに旅順は陥落した。日本人の戦いぶりは素晴らしい!」と報じています。
それを見てもわかりますように、トルンペルドールがいた旅順港における日本軍の戦いというものは凄まじいものでした。彼は勇者ですから、きっとそのような日本兵の戦いぶりには、敵であっても感銘を受けただろうと思います。
その一方で、日本は捕虜に非常に寛大だったんですね。収容所内では自由な活動が許されていましたし、ロシアのような宗教による差別もなく、信仰の自由が保障されていました。そして何よりも日本人は他では迫害しか味わってこなかった自分たちユダヤ人を、他のロシア人と分け隔てなく尊重してくれたんです。
おそらく日本人のなかにも、片腕を失ったにもかかわらず戦い続けていたトルンペルドールを尊敬する心というのがあったと思います。
青木:
ご著書のなかに、トルンペルドールが明治天皇に義手を賜ったという話が出てきます。
コーヘン: はい。それは数年前にロシアの新聞で紹介された、ツィンマンというユダヤ人の捕虜だった人の家族の証言を基にした話です。おそらくロシア人捕虜が読み書きを学ぶ学校をつくったり、図書館や職業訓練所のようなものを始めたトルンペルドールの活躍の噂が収容所の外にも聞こえたんだと思います。それが明治天皇のお耳に入り、そのような人物ならぜひ一度見てみたいということで、明治天皇への拝謁ということになり、義手を賜ったのではないでしょうか。その義手はイスラエル北部のテル・ハイ博物館に展示されています。その後、トルンペルドールはロシアに帰国しますが、そこではロシア皇帝からも義手をもらうんです。ですから彼は二つの義手をもっていたんです。
青木: コーヘン元大使は空手家として、武道に造詣が深いとお聞きしましたが、日本の武士道とトルンペルドールに共通する点はございますか?
コーヘン: 『葉隠』という本のなかに、「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉があります。
つまり武士道というのは、大いなるもののために生命を懸けるということだと思います。かつて日本人は自分よりも大いなるもののため、つまり祖国のため、天皇陛下のために生命を懸けて生き、死んでいきました。それはヨセフ・トルンペルドールの最期の言葉、「国のために死ぬことはよいことだ」という思いに通じると思います。
日本で捕虜になる前は、他の多くのユダヤ人と同様、トルンペルドールにはユダヤ民族の祖国という思いはありませんでした。彼にとっての国はロシアでした。ユダヤ人であるというだけで虐げられるロシア。それでも彼はユダヤ民族としての名誉に懸けて、ロシア兵として懸命に戦い続けました。片腕を失っても戦い続けました。
しかし、敗れて日本で捕虜になった。その日本で彼は国、祖国ということに目覚めたんです。それは事実です。実際、彼はユダヤ人の建国運動を日本で始めたからです。それが日本の武士道や日本という国の姿の影響であることは明らかです。なぜなら、それ以前のトルンペルドールにはそのような発想はありませんでしたから。彼はロシア兵ですから、捕虜の期間を終えたらロシアに帰国することはわかっていました。でもそこからイスラエルの地に帰還して、建国運動を始めるんだ、ということがハッキリしたのです。
生命を懸けて国のために戦う気概
青木: イスラエルの地で、アラブ人との戦いの末にトルンペルドールは戦死するんですね。
コーヘン: そうです。当時はトルンペルドールのようなイスラエル建国の理想をもった人びとが、まだ少数でしたが当時イスラエルの地を支配していたトルコ帝国から土地を買い、イスラエルに住み始めていました。ただその運動はまだバラバラで、それぞれが思い思いの場所に土地を買い、開拓に従事していました。多くの人は、イスラエル中部の比較的安全な場所に住むことを希望していました。誰も北の辺境の地に住もうなどとは思いませんでした。
しかし、トルンペルドールはあえてイスラエル北部のアラブの遊牧民等が多く住む、無法地帯と思われるような場所を選びました。当時は多くのユダヤ人がその場所を重要だとは思いませんでした。危険な場所で、身を危険に曝してまでそのような場所を守る必要はない、と考えていました。
ところが、イスラエルが建国されてみてわかったのですが、そのイスラエルの北部には、イスラエルには欠かすことのできない水源があるんです。その水があるから、私たちイスラエル人は生活できるんです。トルンペルドールたちが命懸けで守ってくれたおかげで、イスラエルは貴重な水源を確保することができ、いま私たちはイスラエルで生活することができるのです。あのときトルンペルドールがその地にこだわることもなく諦めていたら、貴重な水源はいまごろシリアやレバノンといった危険な国の支配下に置かれ、イスラエルは存在することができなかったでしょう。
当時、トルンペルドールがそこまで見通していたかどうかはわかりませんが、彼は異常なまでにその場所にこだわりました。そしてそこでアラブ人との激闘の末、戦死しました。
アラブ人がテル・ハイに侵入してきたとき、トルンペルドールは、「エッシュ(撃て)!」と叫びました。その言葉こそが、それまで各地で迫害され苛められ、まさに防戦一方だったユダヤ人の歴史から、国を守るための戦いに立ち上がるきっかけとなったんだと思います。
イスラエルは紀元70年、いまからおよそ2000年前にローマ帝国との戦争に敗れました。イスラエルのマッサダという要塞には、970人の者が立て籠もって、最期まで抵抗を続けました。3年間籠城しましたが、やがて力尽きて陥落します。いよいよローマ軍の侵入が不可避となった前夜、立て籠もっていたユダヤ人たちは、降伏してローマ人の奴隷になるよりも民族の誇りを守るために死を選ぼう、といって全員が自害します。
それ以来、ユダヤ民族は世界各地に離散し、国をもたない流浪の歴史を2000年間続けてきました。そのとき、ユダヤ人が失ったのは国だけではありませんでした。マッサダの兵士たちは民族の誇りを守るために自害していきましたが、ユダヤ人はその戦いに敗れたことで、民族のために戦おう、国を再興しようという気概まで失ってしまったのです。
しかし、20世紀の初頭に現れたトルンペルドールが「エッシュ!」といった瞬間、私たちユダヤ民族が2000年間忘れていた民族のために戦う気概が呼び覚まされたのです。彼が最期に、「国のために死ぬことはよいことだ」という言葉を残したことによって、ユダヤ人の中に「生命を懸けて自分たちの国を創り、その国のために戦うんだ」という思いが明確になったのです。
トルンペルドールがイメージした「国」というのは、明治のあの時代の日本のことだったかもしれません。彼は日本で捕虜になって、初めて「ユダヤ人の国を創りたい」と思ったんですから。それ以前の彼は、シオニスト(イスラエル再建を理想とする人びと)ではありませんでした。
もちろん、彼個人にはユダヤ民族の名誉と誇りのために戦うという気概はありました。反ユダヤ主義の強いロシア軍に志願して入隊し、片腕を失ってでも「ユダヤ人として笑われない生き方がしたい」と願って前線に戻って戦い続けたんですから。しかし、彼の中に「ユダヤの国を創りたい」という願いが湧き起こったのは、日本との戦争や捕虜時代を通じて、日本という国に触れてからです。
青木: 日本人も先の大戦に敗れて以来、戦う気概というものを失ってしまっているように感じます。いまの日本を見て、トルンペルドールはどのように感じられると思いますか?
コーヘン: それはわかりません。でも、私は駐日イスラエル大使時代に、忘れられない思い出があります。それは大阪の浜寺に行ったときのことです。そこにユダヤ人のお墓があると聞いて、私は参りました。そこで私が知ったのは驚くべき事実でした。それは第二次世界大戦後、誰のものかもわからない、荒れ果てていた外国人のお墓を、日本の方々が綺麗に整備してくださっていたんです。
ユダヤ人のお墓だけではありません。日露戦争後に捕虜になって収容所で亡くなったロシアの兵士たちの墓が、まるで彼らの遺族が墓参りをしたばかりのように、綺麗に整備され、花まで手向けられてあるんです。そのために地元の方は組合のようなものを組織して、それらのお墓を60年以上も守り続けてくださっているんですね。ですからその組合のなかには、90歳以上の方もおられました。
こんなことは世界中どこを探したってないと思います。ですから、私は会う人会う人にこの日本で見た信じられない光景をお話しします。すると皆さん一様に、「そのようなことができるのは日本人だけだ」といわれます。先日もロンドンでお会いした英国人のビジネスマンにその話をしましたら、「信じられないことだ。掃除ぐらいはするかもしれないけど、組合を組織してまではしない……」といって驚かれました。
(写真左:大阪の収容所にて、捕虜仲間と共に/右:日本にあるロシア兵士の墓)
真の愛国者とは鉄の塊のようなもの
青木: 現在の日本は隣国とのあいだに領土問題を抱えています。日本人がトルンペルドールの生き方から学ぶことがあるとすれば、どのようなことだと思われますか?
コーヘン: 日本には中国や韓国、そしてロシアとの領土問題があります。トルンペルドールが諦めなかったように、日本人は決してそれらの領土を諦めてはいけないと思います。結果的には第三者が仲介に入り、妥協点を見出すことになるかもしれませんが、決して日本人から放棄するようなことがあってはなりません。領土の交渉というのは格闘技のように、交渉相手からの大変な圧力があり、それに対してこちらも圧力をかけて対峙します。そのような睨み合いの状況を維持しつつ、妥当な妥協点を見出す努力をするのです。
ユダヤ教にはこのような言葉があります。「ある一つの物を挟んで二人の人がそれぞれに、『これは私の物だ』と主張したとします。そのときに、もしあなたが『これはすべて私の物だ』と主張し、相手が『この半分が自分の物だ』と主張するならば、あなたはすべてを得ることができる。しかし、もしお互いが『それはすべて私の物だ』と主張するならば、それは二つに分けなくてはならない」と。これは領土問題にも当てはまるのではないかと思います。
青木: トルンペルドールから日本人が学ぶことはたくさんあると思います。
コーヘン: ええ、私自身、トルンペルドールの人生、その生き様からたくさんのことを学びましたから。日本の方からよく、「どうやったら愛国心教育ができるのか」と聞かれます。トルンペルドールは愛国者としての模範的な生き方をしました。イスラエルではいまでも多くの小学生や中高生が、トルンペルドールが最期の戦いをしたテル・ハイにやって来ます。その場所に立ち、トルンペルドールの生き様に想いを馳せるとき、子供たちのなかから、自ずと国を思う心、愛国心というものが醸成されてくるんですね。
愛国心ということについてですが、本書にも書きましたが、トルンペルドールの盟友であるゼエヴ・ジャボティンスキーというイスラエル建国の志士が、「真の愛国者とはどのような人物か?」とトルンペルドールに問いかけたことがあります。その問いに対し、トルンペルドールは答えました。
「真の愛国者とは、鍛冶屋の手の中にある鉄の塊のようなものだ。その鉄は馬車の車輪に変わることもできるし、鍬にも成れる、刀剣にだって変わることができる。農作業の道具にも成れるし、戦いの武器に成ることもできる。そのように、真の愛国者は祖国が必要とするのならどんな形にだって成れるということだ。もし農夫が必要なら自分は農夫に成ろう。兵士が足りないなら兵士に、医者が必要なら医者にだって成ろう。そのような人が真の愛国者だ」
と言ったんです。
つまり、トルンペルドールは、真の愛国者とは自分よりも大いなる者のために、この身を捧げて生きることである、ということを言おうとしたんだと思います。きっと明治時代の日本人が自分の命も顧みずに、国のために、天皇陛下のために生きる姿から学んだのかもしれません。トルンペルドールは鉄の塊の例えをもって、祖国のために生きる自分の姿を表したのです。
実際、彼はもともと歯医者ですから医術の心得もありました。しかし、志願して兵隊に成り、国のために戦いました。また、イスラエルに帰還してからは、農夫として建国のために農地の開拓にも従事したのです。「愛国者とはこうあるべきだ」という以前に、自分自身で身をもって生き方を示したのです。ですから人びとは彼を信じ、彼に従っていった。そして彼のその志は引き継がれ、彼の死後30年がたって、ついにイスラエル国が誕生したのです。
(写真左:トルンペルドールがいたテル・ハイ/右:トルンペルドールたちの名が刻まれたテル・ハイにあるライオン像)
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