木村盛世(厚生労働医系技官、医師)
バイリンガル&エリート教育の勘違い
(Voice Voice 2014年5月号掲載)
2014年4月14日(月)配信
多様性を認めない文科省の教育では世界レベルの人材など見果てぬ夢
日本人がいない
私は、日本の教育に関する話を聞くたびに「なんだかおかしい」という感情を抑えられずにいました。とくに、英語教育に関しては、明らかに違和感があるのです。その違和感が決定的な不信感へと変わったのは、双子の娘たちが、米国の私立大学に入学したときでした。彼女たちの入った大学は、世界最難関校の一つです。卒業生であるニューヨーク前市長マイケル・ブルームバーグが高額の寄付をしたことでも話題になりました。
彼女たちの入学に同行した私が最もショックを受けたのは、歴史的な建物でも、恵まれたカリキュラムでもありませんでした。「日本人がいない」のです。正しくは、「新入生のなかで、日本から来た日本人は娘たち二人だけ」という事実でした。他に何人かの、アメリカ育ちの日本人(永住権をもつ)はいますが、それでも5本の指に収まるほどです。新入生が1500人程度ですから、いかにマイノリティかがわかります。そして、その数限られた“日本人”たちは例外なく、非常に優秀です。他のアメリカの名門校でも状況はさほど変わらないと聞いて、驚きを新たにしました。
この大学には世界24カ国から学生が集まってきます。生徒の多くは東海岸のエリートアメリカ人たちですが、アジアからの学生も少なからずいます。ところが、群を抜いて日本人が少ないのが現実なのです。この現状に直面し、私はいままで胸のなかにあった「日本の教育はどこかおかしい」という思いが、誤りではなかったことを確認したのでした。
このように書くと、「海外、とくに北米に留学している日本人は多いと聞くし、実際、自分たちの周りにもそのような人たちがいる。筆者の書いていることは間違いではないか」という声も聞こえてきそうです。たしかに、アメリカに留学する日本人の数は増えています。
また、日米教育委員会のデータによれば、アメリカの大学の学部課程(undergraduate
schools)に在籍する日本人学生が、大学院生(post graduate
schools)より多いというのです。(http://www.fulbright.jp/study/res/t1-college03.html)
アメリカの大学には、いくつかの種類があります。大きく分けて4年制と2年制(いわゆるcommunity
colleges)があり、2年制の学校では学位を取ることはできません。日本でいうところの専門学校と短大の中間と考えるとイメージが湧きやすいかもしれません。また、4年制大学にも単科大学と総合大学(医学部と法学部をもつ)があり、一般的に総合大学が最高峰に位置します。もちろん医学部をもたないプリンストン大学や、MIT(マサチューセッツ工科大学)などの例外は存在しますが。
アメリカの大学の特色はその幅広い教育分野とともに、大学間のレベルの差が非常に大きいことにあります。上記のデータによれば、日本人が在籍する大学課程の上位5校には、いわゆる世界のトップスクールは入っていません。また、「語学留学」と称して短期間、英語を学ぶために訪れる人も多くいます。こうした現状が、難関校に大学入学をする日本人がきわめて少ない、という背景です。逆に大学院留学は難関校が多く、その数が少ないというのは、日本の留学生の特性を示しているといえます。
彼女たちのキャンパスを歩くと、日本人に遭遇します。しかし彼らは大学課程の学生ではありません。多くは日本の大学などから派遣されており、Post
doctoral
fellow(ポスドク)として、無給で1、2年滞在する人たちです。大学院課程には、上位のdegree(学位)を取るために勉強している人たちもいますが、彼らの多くは、後述のとおり“流出した頭脳”であり、大学課程よりは数は多いものの、マイノリティであることに変わりはありません。
文部科学省の宣言は“絵に描いた餅”
わが国は世界に通用する日本人を育てるために近年、国を挙げて教育のグローバル化に取り組んできました。とくに文部科学省は、平成25年12月「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/12/1342458.htm)を発表し、年少時期からの英語教育にさらなる力を注ぐことを宣言しています。
この文科省の求めるものは何なのでしょうか。それは“世界と渡り合える日本人を育成する”ことにほかならないと考えます。ところが現実を見れば、いままでのところそうはなっておらず、そして文科省の掲げる計画を見るかぎり“世界と渡り合える日本人を育成する”ことの達成は非常に難しく、“絵に描いた餅”であると思うのです。それには三つの大きな理由があると考えます。
第一に、すべての子供たちに同様のレベルを課すこと自体意味がない、ということです。そもそも、世界レベルで渡り合えるとはどういうことなのでしょうか。それは“エリートの育成”と言い換えることができるでしょう。それでは、そのエリートはどれくらいの人数が必要なのかといわれれば、できるだけ多くが輩出すれば結構ですが、これから育つ子供たち全員がそうなることは、現実的ではないと考えます。
“エリート”という言葉を使うと、一部の特権階級意識を振りかざすと思う方もいるかもしれません。しかし、国を動かすうえでは、エリート層は必ず必要です。彼らは最高学府で切磋琢磨し、実社会で大きな責任を与えられる代わりに、命を賭して仕事をするのです。その活動が国内だけではなく、国際的にますます重要になっていることは、現代社会を考えれば疑いのない事実です。
しかし、いまの教育を見るかぎり、日本がこの重要性を認識しているとは考えられないのです。文科省の掲げるとおり、世界レベルの日本人は存在します。しかし彼らは日本から離れていくのです。私がアメリカで仕事をしていたころ、何人かの非常にすぐれた日本人に会いました。ある人は研究職として論文を生み出し、そしてある人は国連の職員として世界中を駆け回っていました。彼らは仕事の途中でキャリアアップのため大学院で再び学び、次のステップに進んでいくのです。
こうしたエリート日本人のなかで日本に帰った人を私は寡聞にして知りません。彼らたちは日本を嫌いなわけではなく、祖国に帰りたい、という感情はあります。しかし、日本において働くということは、障害のほうが大きく、益が小さいと感じているからなのです。特筆すべきは“自分たちの基準外の日本人に対して、日本は受け入れない”ということで、優秀な頭脳の流出は国家としての大きな損失です。
日本を一言で表すとすれば、「国民の標準レベルは世界で群を抜いて高いが、特筆すべき人材が少ない」だと思います。識字率100%の国など、日本以外、どこに存在するでしょうか。この点に関してはもっと世界にアピールしてもよい、素晴らしいことです。その一方で、多くの点で標準偏差が小さく、同じような人たちの集まり、という印象を外国人は強くもつそうです。その原点は、「日本社会は多様性を認めない」というところにあるのでしょう。
親の希望は「日常会話ができる程度」
話を英語教育に戻しましょう。日本は多様性を認めない社会、と書きましたが、それは語学教育についても例外ではありません。文科省の推進する英語教育は、すべての子供たちが同じように目標を達成することにあります。しかし、いったいそれが必要なのでしょうか。
小学低学年の子供たちをもつ同僚たちに聞いてみると、おおむね、年少児からの英語教育導入は喜ばしいとの答えでした。それでは、彼らがどの程度の語学達成目標を考えているかといえば、「日常会話ができる程度」だということです。多くの親たちは「自分たちは英語を少しも話せないので、子供たちには、旅行して会話に困らない程度にはなってほしい」というのが、早期英語教育に賛成する理由のようです。
では、文科省の掲げる目標と、小学生の子をもつ親たちとのあいだに齟齬はないのでしょうか? ここには大きな開きがあるといわざるをえません。“グローバル化に対応できる”人材教育=日常会話ができるレベルが到達目標である、とはとうてい思えないからです。
教育の現場で最も重要なのは優れた教師です。英語教育カリキュラムに対応するために、英語教師のトレーニングを行なっていますが、「教師の教育プログラムに送る人材がいない」というのが現場の大きな問題となっています。これでは世界レベルの人材育成など、見果てぬ夢です。
第二に、バイリンガル教育は思うほど容易ではない、という事実です。一般的に、日本語と英語のバイリンガルは成立が難しいといわれます。その理由として、日本語と英語の周波数の違い、島国で単一民族であること、日本人特有の引っ込み思案さ、などが挙げられています。どれが最も影響しているかはわかりませんが、複数の要因が重なり合っているというのは、以下に述べるエピソードでもおわかりになると思います。
娘たちは、1歳になるかならないかで渡米しました。彼女たちに日本語で接するのは私一人という状況のなか、いつしか私自身が、言葉を発しない幼子に、日本語を話し続ける意欲を失っていきました。一人で集団と違う言語を話し続ける難しさは、体験した者でないと理解できないかもしれません。
2歳になる彼女たちの口から初めて出た言葉は英語であり、病躯を押して母がアメリカに来てくれるまで、娘たちは日本語を話しませんでした。
言葉はキャッチボールですから、私の機械的でぎこちない日本語では、会話が成り立たなかったのでしょう。しかし、自然に話しかける母のおかげで、3歳になるころには片言の日本語を話せるようになりました。
アメリカではほとんどの子供たちが3歳になると幼稚園に通います。娘たちはごく幼いころ、ユダヤ人の家庭で預かってもらいました。そして3歳になり、教会に付属する幼稚園に通い始めました。そこには日本人の子供たちが数人いたのですが、幼稚園の園長の話では、ほとんどの日本人の子供は、英語を話せないまま帰国する、ということでした。子供は大人と違って吸収が早いですから、何でもスポンジのように吸い上げる時期に、なぜ園長がいう状況になるのか、疑問に思いましたが、親の考え、すなわち教育の仕方が最も影響していると思われました。
私が仕事をしていた大学院には、日本人が多くいました。多くは医師で、家族を伴ってやって来ますが、1、2年で帰国します。大学から給料をもらっている人は稀で、多くは自費か日本サイドのスポンサーでやって来て、長年勤めたご褒美として来る人もいます。住んでいるアパートメントもだいたい同じです。子供を伴って来ている人も多いのですが、子供たちが学校での休み時間、話すのは日本人同士が多く、帰ってきてから遊ぶ友だちも日本人です。そして、週末には日本人の家でパーティを開いたり、日本人家族同士で旅行に出かけたりします。
夫が研究室で試験管を振っているあいだ(英語を話す機会を少なくするため、ほとんどの日本人医師がラボにいます)、妻たちは日本人同士で買い物をしたり、料理をしたりして過ごします。このような状況を餌に、日本人妻たちに英語を高額で教える、個人ビジネスも成り立っているほどです。
帰国したのち、子供たちは英語を忘れ、典型的な日本人として育っていくのが典型例です。日本人特有の村社会意識の強さと、対外的な消極性が、日本人の言語ハンディキャップを説明する一部であることは確かだと思います。
しかし、繰り返しになりますが、最も重要なのは親の教育方針であると、私は考えます。子供たちをどのような状況に置くかは、親次第なのですから。
当初、日本に戻るつもりはないと決心して祖国を離れた私ですが、母の介護などを考え、日本からのジョブオファーを受けることにしました。人生、決めたようには動かないものです。そして、娘たちはというと、これもさまざまな要因が重なって、一度も日本の教育システムに乗ることはありませんでした。
どちらの言語もまともに使えない
「インターナショナルスクールに通ったから英語ができる」という話を聞くことがありますが、必ずしもそうではありません。何度も繰り返すように、語学の習得=日常会話ができること、ではありません。日本語でも、国語が不得手な人がいるように、その他の言語においても、その国の「国語」が芳しくない人はいます。彼女たちの通った学校では、英語と数学(算数)は成績に応じてクラス分けされ、学期ごとに入れ替わります。それゆえ、中学後期にもなれば、上位のクラスではシェイクスピアを読みこなすことが求められます。
私たちは小さいころから日本語を学んできます。しかし、きちんとした日本語を話せることと、意味が通じることとはまったく違います。これが2カ国語になれば、両方を完璧に取得するのは、1カ国語に比べて難しいのは容易に想像できます。日本語と英語をちゃんぽんに使いながら話す光景を目にすることもあります。多くの場合、彼らは“どちらの言語もまともに使えない”のです。言い換えれば、一つの言語で会話のエピソードを終了させられないのです。
私が小さい子供たちに徹底させたことは、「二つの言語を交ぜて使わない」ことでした。彼女たちの友人には複数の言語を使う人も少なくありません。それらすべての言語を完璧に使いこなせる人たちもいる一方で、どの国の言葉も、母国語でさえ満足に話せない人たちが多く存在するのも事実なのです。
言語は文化です。その口から出る言葉は、その人のバックグラウンドを表します。日本語にため口が存在するのと同様、英語にも“スラング(俗語)”があります。たとえば国際会議に出席した人が、ため口で話し続けたらどうでしょうか。その人の品性を疑われると同時に、その国の信頼失墜にもつながることは間違いありません。それゆえ、豊富な語彙と表現力、正しい文法を使える力こそが、国際社会では求められるのです。
いったい、文科省はこれをすべての子供たちに課するつもりなのでしょうか。多くの人たちは、彼らの両親が期待するとおり、日常会話レベルの英語力を身に付けることに目標設定をすることでしょう。けれど、もっと高度の語学力を身に付け、国際舞台で活躍したいという人もいるはずです。そのような希望をもつ人たちに、国費を投じた高度な人材育成をすることは国として必要です。しかし、そうした人たちはごく一握りの集団にしかすぎません。
私が属している厚生労働省というところでは、世間一般にいう“エリート集団”と呼ばれる人たちが働いています。ところが、私が海外出張に関する決裁を取るとき、WHO(世界保健機関)や米国CDC(疾病管理予防センター)からの簡単な英語の招聘状ですら、日本語訳が求められましたし、ある局長には「ここは日本だ!」と怒られたことがあります。いわゆる高学歴集団と称する厚労官僚がこの程度なのですから、“国際レベルで活躍しようと思う”人たちが、大多数ではないことがおわかりいただけると思います。
母国語の確立が絶対条件
第三に、経済的な負担です。バイリンガルを育てることが大変だということは、いままでの話でおわかりになると思います。物理的な困難さは、経済面にも反映されます。
インターナショナルスクール、海外の難関校に送るには、重い経済負担がのしかかってきます。ところが、日本は、この経済負担を軽減する制度が非常に脆弱なのです。
たとえば、アメリカ・カナダはThe
College
BoardというところがSAT、APなどの共通テストを提供し、その成績、個人情報を把握しています。成績が優秀であれば、その生徒を獲得するために大学が奨学金の提供を申し出てきます(具体的には、学校のカタログとともに、手紙が送られてきます)。とくに中堅校は、優秀な生徒の獲得が大学のレベルアップになるわけですから、4年間のフルスカラーシップを出しても損ではないのです。
日本の奨学金制度は先進国のなかで立ち遅れています。企業が大学に寄付をするという例もきわめて限定的です。冒頭にも書いたように、ニューヨーク前市長やビル・ゲイツらは、狙いを定めた機関に多額の寄付をします。彼らは善意のみで寄付をしているのではなく、意味があるから行なうのです。日本でも、このような企業の寄付がもっと活発化してほしいと願います。それと同時に、「平等に」という名のもとに行なわれる「ばらまき」をやめ、能力と希望のある者に十分な奨学金が渡る制度を、早急に構築するべきだと思います。
いままでバイリンガル教育の問題点について論じてきましたが、最後に、異なる言語を話すためには、母国語の確立が絶対条件だということを強調したいと思います。前述したとおり、言語はその人のバックグラウンドを映し出すからで、それは日本語でも他国語でも変わりはありません。世界には、母国語ではない日本語を話す人たちがいます。彼らは発音に多少癖があっても、敬語を使いこなし、日本語での議論も日本人と遜色なくこなします。とくにトップレベルの会合などでは、彼らがいかに優れた日本語を駆使するかによって、その後の関係が大きく左右されます。これは、日本人についても同じことがいえます。
「この人は優れている」と評価される英語には、正確な日本語能力がその背景にあることを忘れないでほしいのです。こうした人たちこそが、「世界に通用する日本人」なのですから。
<掲載誌紹介>
2014年5月号
ロシアによるクリミア併合は、もう決着したのだろうか。NATOが東欧の同盟諸国に対して、防衛協力を強化したり、西側諸国の制裁もちらほら聞こえるが、どうも腰が引けている。今月号の総力特集は、「ウクライナ危機後」の世界を睨んで、「中露の暴走を止めよ」。中西輝政氏は「ついに世界秩序の本格的な大変動が始まった」とし、歴史の必然として「多極化」しつつあると説く。日高義樹氏は、オバマ大統領の事なかれ外交がプーチン大統領のクリミアへの侵略を招いたとし、ヒットラーの台頭を許したウィルソン大統領と比較してみせた。佐藤正久氏は「中国がロシアのクリミア併合を範として、尖閣諸島に漁民を送り込み、自国民保護を理由に占領を始める恐れがある」と警鐘を鳴らす。また、日本が問題にすべきは、サービス貿易協定がもとで台湾が中国に呑み込まれるのではないか、ということだ。矢板明夫氏は、「ロシアがクリミアを併合するよりも簡単に台湾が中国に吸収されてしまう」と、台湾の大学教授の談話を紹介した。渡部昇一氏と呉善花氏の対談では、いずれ中国は韓国を味方に置きつつ、北朝鮮を編入するのではないかと読む。拡張主義を貫く中露は、クリミア併合に対する国際社会の反応を見ながら虎視眈々と次の一手を考えている。
第二特集は「論争・安倍景気の行方」。「新・アベノミクス」を説く若田部昌澄氏は、「デフレ脱却」「構造改革」「所得再分配」などのキーワードを挙げ、「国としての誇り」を取り戻すために経済成長の必要性を強調する。また、内閣官房参与の藤井聡氏は、「財政政策の効果は小さい」というエコノミストに対して名指しで論争をしかける。一方で、企業経営の現場を知り尽くした野中郁次郎氏と旭岡叡峻氏は、対談で日本の産業界のイノベーションと未来について徹底討論した。
自民党の野田聖子総務会長と高市早苗政調会長に、篠原文也氏が斬り込んだ座談会も議論が白熱した。党三役のうちの二役が、女性活用から集団的自衛権、靖国参拝までを意見交換した。
歴史マンガ『テルマエ・ロマエ』でブレイクしたヤマザキマリさんは、「超変人」が認められて生きたローマへの愛情を語る。「若い女がいいという男は、自分はバカだといっているようなもの」「人間は狂っていて当たり前」……、日本人への刺激的なメッセージに思わず笑ってしまう。ぜひ、ご一読を。
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