東南アジアの華僑・華人
― マレーシア、シンガポールにおける言語問題 ―
1.研究の目的
現代世界における「国家」とは、「国民国家」に他ならない。しかし、その多くが旧植民地の国であり、「国民」を定義するところから国家建設を始めなくてはならなかったことを見落としてはならない。この研究の目的は、第二次世界大戦後に独立した国家における「国民」形成の問題点を探ることにある。とくに、国民国家の重要な装置であると同時に、各民族のアイデンティティの根幹である「言語」に焦点をあててみたい。
具体的アプローチとしては、東南アジアの代表的マイノリティである華僑・華人をとりあげ、マレーシア、シンガポールにおける言語問題を検証することにした。この両国は地理的に隣接しているだけでなく、かつては同じイギリス統治下にあり、2年間だが一つの国家であった経験を持つ。そのため、独立後、両国の華人の意識や言語環境がどう変化したかを比較することで、「国民」形成における問題点のいくつかが明らかになることが期待される。
1975年 (万人)
1991年 (万人)
増減 (%)
全人口比 (%)
ヴェトナム 156
80
-51 1.2 カンボジア 36
30
-83 3.6 ラオス 1
17
+1700 3.9 ミャンマー 67
150
+226 3.5 計
259
277
+107 3.1 マレーシア 392 531 +136 29.9 シンガポール 169 215 +127 77.7 タイ 365 600 +164 10.5 インドネシア 361 732 +203 4.0 フィリピン 55 82 +160 1.3 ブルネイ 4 5 +111 17.8 計
1346 2165 +161 24 東南アジア各国における華僑・華人人口
2.マレー半島における中国人社会と言語
19世紀前半までのマレー半島における中国人社会は、マラッカを中心とする比較的小規模なコミュニティであった。これらのグループは何世代も経て混血が行われ、生活・文化の土着化も進んでいた。イギリスによる海峡植民地建設後はイギリス式学校で英語教育を受け、英国民としてのアイデンティティを持つ者も多かった。彼らは、ババ(海峡華人)、とよばれる独自のカテゴリーに分類される。
19世紀後半になると、人口過剰だった福建、広東両省から、大量の中国人移民が押しよせるようになる。彼らは植民地化が進むマレー半島で、錫鉱山やゴム園での肉体労働に従事し、その後は都市の下層民として現地に定着した。移民の波は第二次世界大戦まで続き、1940年の時点で英領マラヤの中国人の総数はマレー人を超えるまでになった。
この時代の移民は「錦衣環郷」「落葉帰根」の語が示すように、いつかは故郷に帰る出稼ぎ、すなわち「華僑」としての性格が強かった。彼らは方言(福建、客家、広東、潮州、海南など)ごとにコミュニティを形成し、中国式の小学校を建てて方言による教育を行った。
1947
1957
1970
福建 53.82(28.6)
74.06(31.7) 106.29(34.1) 客家 39.74(21.1)
50.85(21.8) 69.04(22.1)
広東 48.40(25.7) 50.52(21.7) 61.68(19.8)
潮州 20.70(11.0) 28.31(12.1) 38.86(12.5)
海南 10.55 (5.6) 12.30 (5.3) 14.61 (4.7)
その他 15.24 (8.0) 17.12 (7.4) 21.31 (6.8)
計
188.45 233.19 311.79 半島部マラヤ(マレーシア)の華人方言別人口
一方、20世紀前半中国本土で盛り上がった「中華ナショナリズム」は、清朝が「棄民」とした華僑を「在外同胞」と見なし、康有為のシンガポール訪問(1900年)、中国革命同盟会のシンガポール支部設立(1906年)など積極的な働きかけを行った。その結果、もともと自然な郷党意識しか持っていなかった華僑のあいだに、「中国人」としての新たなアイデンティティが植え付けられることになった。
中華民国成立後に推進された北京語(東南アジアでは「華語」とよばれる)による教育がその象徴であった。華語を話すことが「中国人」の証となり、中国の長い歴史や文化とつながっているという感覚をもたらした。また、方言集団相互のコミュニケーションを可能とし、「中国人」にまとめあげていく機能も、華語の重要な側面であった。
3.マレーシアにおける言語問題
第2次世界大戦後、東南アジアの華僑社会は、大きな歴史の変動に直面することになった。中華人民共和国成立により、華僑は現住地への永住を余儀なくされた。しかも、植民地の独立・国家建設にあたっては、もはや華僑は特別であることを許されず、現地社会へ同化することを求められ、少なくとも、「中国人であること」を強く意識しないようにしなければならなかった。多くの国で華語教育は厳しい制限を加えられ、ほとんど華語を話せない若者も増えた。こうして、「華僑」は「中国系住民」、つまり「華人」へと変容していった。
しかしマレーシアにおいては、華語の扱いは依然として大きな政治的・社会的問題となっている。この国では華人は総人口(1757万人、1991年)の3割(531万人)に達し、「少数派」というには大きすぎる存在である。にもかかわらず、人口の6割を占めるマレー人が多数派としてその優位を制度的に確立している点に、問題を先鋭化させる原因があると考えられる。
「マレー人の優位」は、イギリスが植民地統治の正当性を認めさせるために、その交換条件として付与したものに由来する。英領マラヤでは民族別の分割統治が行われ、華僑が自らのコミュニティで自治を行う一方、マレー人は下級官吏として登用され植民地支配の一端を担っていた。第二次世界大戦の直後イギリスが打ち出したマラヤ連合は、民族の別なく平等の市民権を与えたためにマレー人の強い抵抗を受け、1948年マレー人の特権を認めたマラヤ連邦に改編された。
1957年の独立にあたっては、華人コミュニティの抗議も実らず、マレー語(バハサ・マレーシア)が公用語と定められた。英語は10年の期限付きで第二公用語とされ、華語とタミル語は補助言語と規定された。
1963年、マラヤ連邦にシンガポール、サラワク、サバを加えてマレーシア連邦が発足したが、2年後にマレー人と華人の対立からシンガポールが脱退した。その後も民族対立は続き、1969年、クアラルンプールでマレー人と華人が衝突、数百人ともいわれる死者を出した(5.13事件)。暴動の背景には、華人との経済的な格差が改善しないことへのマレー人のいらだちがあったとされる。
事件後、非常事態宣言のもとで、マレーシアの経済発展と国家の安定をマレー人の主導下で行うとする「ブミプトラ政策」が打ち出された。1971年の憲法改正では、市民権、国語としてのマレー語、マレー人の特殊な地位などが「敏感問題」と位置づけられ、これに関する論議が禁止された。1973年には、公用語はマレー語(バハサ・マレーシア)に限定され、第二公用語が廃止された。以後、「国語」の使用を徹底させる方針のもと、華語は外国語と同様の扱いを受け、法的に使用を制限されることになった。
マレー人主導の政府が華語や華人文化をどうとらえているかは、1971年ラザク首相が提唱した「国家文化」に端的に示されている。これによると、国家文化とは、1.当地原住民の文化を国家文化の核心とする 2.それ以外の文化については、優れた部分を国家文化の一部として採用する 3.イスラム教が国家文化の重要部分を構成する、とされている。つまり、華語や華人文化はマレーシア文化の傍流と規定されたことになる。
教育制度においても、マレー語がすべての学校で国語として教育を義務づけられている一方で、華語の存在感は薄れつつある。
初等教育は、マレー語の国民学校(公立、無償)と、英語、華語、タミル語のいずれかが使われる国民型学校(公費補助、無償)の二本立てとなっており、華人の子供の8割が後者に通っている。しかし、中等教育はマレー語の国民中学(公立、無償)と、英語とマレー語の国民型中学(私立、公費補助)となっており、華語が役に立たない仕組みになっている。後者では、保護者15人以上の要請があれば華語、タミル語の授業が行えるとされているが、無視されることも多い。華語の中学校もあるが、大学入学資格のない各種学校としての扱いを受けている。したがって、華人の子供の9割がマレー語の中学校で学んでいるのが現状である。高等教育にいたっては、7つの大学すべてがマレー語を教育言語としている。このような教育制度のもとで育った華人の若い世代は、マレー語を使うのにさほど苦労を感じなくなっている。
にもかかわらず、華語に対する華人の執着は強い。その背景には、第一に、政府やマレー人社会によって排除されていることで、華人がマレー語の有用性を感じる機会が少ないことがある。華人の就職先は依然として華人経営の中・小企業であり、職業上の便益から華語が依然として必要である。
第二に、華語が華人のアイデンティティの象徴となっていることである。仮に華人が華語を捨て、イスラム教に改宗したとしても、「ブミプトラ」として認められるかどうかは定かではない。むしろ、そのような華人はマレー人と華人双方から軽蔑され、アイデンティティを喪失しかねない。多数派への同化が困難であれば少数派は独自の生き方を模索するしかないという現実が、華語離れを困難としているのである。
しかし、華語の使用範囲と利用価値は次第に縮小しつつある。テレビ番組放送時間における華語の割合はわずか5.8%であり(1983年)、華字新聞の売れ行きも落ちている。華人系企業も、ブミプトラ政策の影響で伸び悩んでいる。
こうした状況に、華人はいつか自分たちの言葉がなくなってしまうのではないかとの危惧を抱いている。1983年、中華大会堂と中華総商会が協力して編集・発行した『国家文化備忘録』は華人の危機意識を集約したもので、多元文化、民族平等を主張して先述の「国家文化」を批判し、マレーシア政府に対し華語を国民の一言語として公に認めることを求めている。
華語の将来に対する不安はしばしば、過剰防衛反応となってあらわれる。それをよく示しているのが、1987年秋にもちあがった華語小学校をめぐる問題である。政府が100人ほどの華語を話せない華人を華語小学校の上級管理職に昇進させたことに対し、華人コミュニティの指導者たちはこれを撤回しなければ授業をボイコットすると言いだし、全国的な抗議運動を引き起こしたのである。これに対し、マレー系政党「統一マレー人国民組織(Umno)」が反華人集会を呼びかけたために、マレー人と華人の間に緊張が高まり、5.13事件の再来かと思われた。政府が沈静化に乗り出したため、衝突は避けられたものの、言語問題を再認識させる事件となった。
マレーシア政府が現在の政策を続ける以上、華人は自分たちの言葉を守ろうとするだろうし、言語問題は文化摩擦の主要因であり続けるだろう。しかし、政府が華人の望むような多元文化を指向する可能性は少なく、華語社会の将来は厳しい。
4.シンガポールにおける言語問題
シンガポールは、東南アジアで唯一華人が多数を占める国(総人口304万人の78%)だが、みずからを多民族社会とみなし、英語、華語、マレー語、タミル語の4種を公用語としている。しかし現実の言語政策は、指導者側の政治的動機が色濃く反映されて複雑な経過をたどった。
シンガポールは、1963年にマレーシア連邦の一員として植民地からの独立を達成した。しかし、1964年に華人とマレー人の間で発生した暴動が引き金となって、連邦からなかば追い出される形で翌年分離し、マレーシアとの冷たい関係やインドネシアの敵対政策、共産化の脅威といった状況に放り出された形になった。
シンガポールを指導する人民行動党(PAP)は、国家による上からの統制を強化することで難局を乗り切ろうとし、PAP独裁、国家への献身、メリトクラシー(能力主義社会)を柱とする「生き残りのイデオロギー」を打ち出した。
この中で強調されたのが、「多文化主義」であった。その目的は、民族運動を封印して社会を安定させ、国民を国家建設に貢献させることにあった。国民は異なったエスニックグループの文化や言語を尊重することを求められ、特定グループへの優遇策は行われないことになった。
しかし、この政策は実質的な英語重視となってあらわれた。これには、PAPが英語系華人の政党であったことが影響していると考えられる。たとえば、最高指導者のリー・クワンユーは英語系ババの3世であり、「最高のイギリス式伝統に通用する専門職の紳士」にするため育てられ、ケンブリッジ留学も経験している。彼が華語と福建語を学び始めたのは政治家になってからであった。
もっとも、政府が強調したのは、英語が各民族にとって中立の言語であるということであった。シンガポールには「現地文化」の正当性を主張する先住民集団がないことも、この主張を説得力のあるものとした。
ただし、政府の真のねらいは、中華人民共和国に刺激された華人の左翼運動を抑えることにあった。リーは、「華人ショービニズムが前面にでないように英語をワーキング・ランゲージとすることが我々の最初の決断であった」と述べている。また彼らは、華語を強調すれば共産中国との関係を疑われ、マレー語国語化に向かっている隣国マレーシアとの関係も損ねる恐れがあると考えていた。
PAP政府が教育現場で行った言語政策は、国家を英語国語化の方向へ誘導するものであった。1966年から小学校では、英語校、華語校、マレー語校、タミル語のいずれでも英語が必修とされ、70年代後半からは理数系の教育言語はすべて英語となった。
1978年に行われた教育制度改革は英語化をさらに加速した。これは、小学3年終了時から中等教育終了時まで計4回の統一学力試験を実施、その都度成績別に進路を決定させるものである。優秀な生徒は「スーパースクール」へ進学でき、12年間(小学6年、中学4年、大学進学課程2年)で国立大学へ入学できるが、「学力」がない生徒は小学校卒業に8年を要し、中学へは進学できない。反復される進級試験で試される「学力」の基礎は英語のため、華語系華人にとっては不利となる。
華語校に学ぶ児童・生徒は年々減少し、1988年にはすべての小学校が英語校となった。第二次世界大戦前は華人の80%が華語で教育されていたことから考えると、劇的な変化である。実社会でも、「国際語であり科学の言語」として高い位置づけを与えられた英語を修得することが社会的・経済的上昇に直結し、英語のみを解する者の平均年収は、華語のみの者の2.3倍であったといわれている(1980年)。
華校 英校 マレー語校 タミル語校 全体 1958 129,155
45.0%
142,450
49.6%
14,213
4.9%
1,399
0.5%
287,217
1968
174,072
33.3%
310,635
59.4%
36,086
6.9%
1,818
0.3%
522,611
1978
110,170
22.9%
365,405
76.1%
4,306
0.9%
328
0.1%
480,209
1983
34,708
7.4%
435,909
92.5%
417
0.1%
38
0.0%
471,072
1988
459,813
100.0%
シンガポールにおける小学校の児童・生徒数(上段は実数、下段は%)
英語が「国語」化する一方で、華語は衰退に向かった。PAP政府は華語勢力を共産主義と同一視し、これを断固として排除しようとした。1953年に華人コミュニティの全面的バックアップで設立された南洋大学はたびたび弾圧され、1980年には廃校とされた。また、1971年には二つの中国語新聞が廃刊させられた。
政府が行った住宅政策も、華語の衰退に直結した。旧市街地の再開発、古い集落の移転、不法な土地占有者の一掃によって華人の地縁社会は解体された。立ち退いた人々が大規模公営住宅へ移転される際には、特定の民族や言語集団が1カ所に集中しないよう配慮された。1985年の時点で、総人口の84%がこのような団地の住人となっている。
異なる方言集団間の共通言語としての華語の地位も低下した。華人の大部分が家庭では依然として方言を話す一方で、共通語としての役割は英語が担うようになった。また、子供たちにとって華語の学習は、英語・方言に加えての三言語学習となるために大きな負担であり、華語能力の低下は著しかった。
華語は方言と英語の間に埋没し、自然消滅に向かうと思われた。リーの伝記作家で友人のアレックス・ジョージーは1974年、「リー・クワンユーは、10~15年以内に華語は重要性を失うと考えている」と語っている。
ところが、1979年になって、政府は「華人は華語を使おうキャンペーン」を大々的に開始した。「10年以内に、華語がコーヒーショップでも、露天市場でも、店頭でも使われるようにしなければならない。もちろん英語も併用される」というリーの言葉に、国民は少なからず困惑した。
キャンペーンはまず、方言追放運動となって現れた。広東語のドラマ、映画は禁止され、すべての中国語番組が華語に切り替えられた。その後、初等教育の学習指導要領から外されていた歴史科目の復活、儒教教育の推進といった一連の政策が続いた。
このキャンペーンの背景には、英語化にともない、とくに若者に欧米的価値観が広まってきたことに対するPAPの危機感がある。キャンペーンの契機となった教育相ゴー・ケンスイによる「ゴー・レポート」(1978年)は、「英語教育が大きな比重を占めるにつれて、脱文化化の危険が無視できなくなっている。脱文化化の危険を回避する方法は、華人児童・生徒には古代中国史から漢王朝という儒教国家建設までの歴史と儒教的規範を、インド人はインドの歴史やヒンドゥーの規範を、マレー人は島嶼部東南アジアの歴史とマレーの伝統を、それぞれの母語で教えることである」としている。
つまり、英語を共通語としていても、アジアの文化や道徳も受け継がれていくべきであり、それは母語教育を通して効果的になされるとしているのである。ただし、ここでいう母語とは華人にとっては方言ではなく華語、インド人にとっては出身地の言語ではなくタミル語であって、このキャンペーンが本質的に官製の民族文化保全運動であることは明らかである。
注目されるのが、ゴー・レポートにおいて、「華人児童・生徒が華語を通して学ぶものが儒教的規範である」としていることである。これは、政府が期待する規範が、従順・倹約・勤勉・孝養・愛国心などであることを示している。リーは1986年、「中道を求めんとする儒教的傾向を失ったら、そのとき我々はただの第三世界の国になってしまう」と語った。
管理国家シンガポールの政府にとっては、個人主義や民主主義といった好ましくない西洋化を生じないために、中国の伝統的価値の中から「国家思想」を見つけなければならないと考えている。しかし、このような政策を押し進めている指導者が、中国文化からもっとも遠い人たちであるのは皮肉である。
5.結論
マレーシア、シンガポールの例で明らかになった問題としては、第一に、第二次世界大戦後に植民地から独立した国家においては、政権担当グループが設定する「国民」像による「国民国家」建設が行われる傾向があるのではないか、という点である。たまたまそこにいた人々、あるいは連れてこられた人々の寄せ集めにすぎない旧植民地の国家では、支配層は政権の正統性を疑われればその座を追われるのではないかという危機感を抱いており、ときには強権を発動しながら国家統合の原理を政治的につくりあげる。マレーシアにおいてはブミプトラ政策に代表される「土着主義」が、シンガポールでは「生き残りのイデオロギー」が、その原理となっているわけである。
第二に、このような「国民」を形成する力に対抗してしばしば各民族が強調する「エスニック・アイデンティティ」なるものも、他の集団との関係によってはじめて意識され、形成されるものではないか、という点である。華語を失うとどの社会に帰属するか確認できないマレーシア華人と、「民族文化」とひきかえに社会的上昇が期待できたシンガポール華人とに、短期間で両国の華人の言語環境に大きな違いが生じたことを見れば、それは明らかである。
我々はとかく、東南アジアの華人を「華僑」とよび、中国の伝統を保持している、同郷の結束が堅い、商才を有する、といったステレオタイプでとらえがちである。しかし、英語を母語とし、キリスト教を信仰し、外資系企業に勤め、団地で西洋的生活を送るシンガポール華人と出会ったとき、「華人」とはなにか、「華人性」とはなにかについて、いやおうなしに再考を迫られるのではないか。
参考文献
太田勇 『華人社会研究の視点 マレーシア・シンガポールの社会地理』 古今書院 1998
リン・パン 片柳和子 訳 『華人の歴史』 みすず書房 1995
田村慶子 『シンガポールの国家建設 ナショナリズム、エスニシティ、ジェンダー』 明石書店 2000
可児弘明・游仲勲 編 『華僑・華人 ボーダーレスの世紀へ』 東方書店 1995
池端雪浦 編 『東南アジア史Ⅱ 島嶼部』 山川出版社 1999
川崎有三 『東南アジアの中国人社会』 山川出版社 1996
游仲勲 『華僑』 講談社 1990
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