日朝・日露・日清
明治14年政変のあと、日本外交の主要課題は、条約改正と朝鮮問題でした。
日本は1876(明治9)年2月、「砲艦外交」によって日朝修好条規を結び、朝鮮を「開国」させました。日本は同条規に「朝鮮は自主の邦(国)」と明記することで、清国の朝鮮に対する影響力をそごうとしました。
日朝関係はその後、朝鮮側が同条規に規定された「開港」を大幅に遅らせたことなどからギクシャクしていました。
一方、日本とロシアとは75年5月、樺太・千島交換条約が結ばれ、同地域での係争は一段落しました。しかし、右大臣・岩倉具視は、同年2月の上奏書で、「ロシアは東亜(東アジア)に領土を拡大しようとしている」と強調しています。
岩倉は、「ロシアが他日、中国を併呑するにいたるならば、わが国は『唇亡て歯寒きの憂(唇が歯を守る働きをしているように、互助関係にある一方が亡びると、他の一方の存在も危うくなるという心配)』がある。それゆえに、わが国は、清国との友好関係の増進に努めるべきである」と述べました。(岡義武著『明治政治史I』)
しかし、日清両国は、これとは裏腹に日本の台湾出兵(1874年)や琉球処分(79年)、朝鮮問題などで鋭く対立し、71年に締結した日清修好条規でうたわれた両国の「相互援助」(第2条)規定とはほど遠い関係でした。
とくに朝鮮をめぐる日清の競合を背景に、80年11月、参謀本部長の山県有朋は、上奏文の中で清国の急速な軍備の充実ぶりを列挙し、清国の脅威を説きました。
実際、清国は、日本の台湾出兵などを契機に、北洋・南洋艦隊の建設を開始し、軍備増強に努めていたのです。
ロシアの南下策
清国は、朝鮮に対する宗主権を否認しようとする日本に反発する一方、不凍港を渇望するロシアの「南下」政策が朝鮮半島に及ぶことを、日本と同様、懸念していました。
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ロシアは、清国と英仏間のアロー(第2次アヘン)戦争(56~60年)後、仲介の見返りに清から沿海州を割譲させ、ウラジオストク(ロシア語で「東方を征服せよ」という意味)に海軍基地を建設して極東・太平洋進出の拠点としました。
イスラム教徒の反乱をきっかけに、中国西北部のイリ地方にも出兵して占領し(イリ事件)、81年のイリ条約では、イリ地方を返還する代わりに、新疆での通商権を獲得しました。また、中央アジア南部にも侵入し、三つのハン(汗)国を支配下に置いていました。
このロシアの南下は、アフガニスタンに勢力を広げていたイギリスを苛立たせます。85年4月、イギリスは、ロシアの朝鮮進出を恐れて、突然、朝鮮南岸の巨文島に軍艦を派遣して占領しました。
世界帝国であるイギリスとロシアの角逐が極東に及んだかたちで、本格的な帝国主義時代の到来を印象づけました。
清国は、日本やロシアをけん制するため、朝鮮に対して米国や西洋諸国と条約を結ぶよう促し、朝鮮側はこれを受け入れます。82年5月、朝鮮は朝米修好通商条約に正式調印しました。
朝鮮政府は、86年までにイギリス、ドイツ、イタリア、ロシア、フランスと、相次いで条約を結び、対外政策の転換を明確にします。ただ、これは朝鮮半島を帝国主義国による競合と対立の舞台へと変えることになります。
朝鮮から使節団

76年と80年、朝鮮政府は2次にわたって「修信使」を日本に派遣し、文明開化を進める日本の民情視察や各種調査にあたらせます。朝鮮使節の来日は、両国関係改善の兆しといえました。
第2次修信使として来日した開化派官僚の金弘集は、駐日清国公使・何如璋と会った際、『朝鮮策略』を手渡されました。公使館の参賛官・黄遵憲が書いたものでした。
同書には、朝鮮はロシアに対抗するため、「親中国(中国に親しみ)、結日本(日本と結び)、聯美(アメリカと連合する)」とあり、列強の勢力均衡を利用して「自強」を図るべきだと説かれていました。帰国後、金弘集はこれを国王の高宗に献上します。
『朝鮮策略』や使節団の訪日報告を受けて、朝鮮政府――高宗の妻、閔妃の一族からなる閔氏政権――は、若手開化派官僚の金玉均(1851~94年)らも登用して改革を進めます。
81年、最高官庁として「統理機務衙門」を設置。軍政では初の西洋式軍隊「別技軍」を創設し、その教官には日本公使館付武官の堀本礼造・工兵少尉を招きました。
同年6月には、六十余人の「朝士視察団」を日本に派遣し、各官庁や税関、陸軍などを視察させました。
こうした朝鮮の近代化をめざす開化派の台頭に、排外主義を唱えてきた国王の実父・大院君らが反発し、金弘集らを強く非難、大院君派と閔氏政権との対立が深まります。81年9月、大院君派は、閔氏政権打倒のクーデターを企てましたが、未発に終わりました。
壬午軍乱
82年の朝米修好通商条約締結の直後、閔氏政権の対日・開化政策に反対する「壬午軍乱」(または壬午事変)が発生しました。
きっかけは、別技軍の新設後、在来軍の兵士らの給与の遅配が長く続いたことでした。同年7月、ようやく支給されたコメが粗悪品のうえ、分量も不足していたことから、兵士たちは憤激し、漢城で反乱を起こしました。
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兵士らに都市の民衆が呼応し、7月23日、閔氏一族の高官宅に侵入、屋敷を破壊しました。さらに武装した兵士らは日本公使館も襲撃し、別技軍教官の堀本少尉らを殺害しました。
駐朝日本公使の花房義質らは公使館を放棄して24日、仁川に逃れます。同日、兵士らは王宮(昌徳宮)に乱入して政府高官らを殺害します。閔妃は女官に変装して王宮から脱出しました。
国王の高宗は、政権に敵対していた実父の大院君に事態収拾を委ねざるを得なくなり、大院君が宮中に入って政権の座につきます。行方不明の閔妃は「死亡した」と発表しました。
隣国の事変が日本に伝えられると、国内世論は沸き立ち、朝鮮との開戦論も叫ばれます。伊藤博文は憲法調査のため、渡欧中でした。井上馨外務卿が山県有朋・参事院議長らと協議し、7月31日、日本に引き揚げていた花房公使に対し、謝罪と賠償を朝鮮側に要求するよう訓令を与えます。
花房は、軍艦3隻と約1500人の陸海軍混成部隊とともに仁川に上陸、漢城入りしましたが、大院君は日本の要求を拒否します。
一方、清国は、日本の朝鮮出兵を阻止しようと、北洋海軍提督の丁汝昌が率いる軍艦3隻、呉長慶をトップとする約3000人の軍隊、李鴻章の外交秘書・馬建忠らを急ぎ朝鮮に派遣しました。
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馬建忠は、花房と会見して開戦の意図はないことを伝え、8月26日、大院君を、兵士らを煽動した事変の首謀者とみなして逮捕し、天津に連行します。露骨な内政干渉でした。呉長慶配下の清国軍によって反乱は平定されます。
この結果、閔氏一派が政権に復帰し、閔妃も王宮に戻ります。復活した閔氏政権は、これ以降、清国に強く依存するようになります。
82年9月に締結された「朝清商民水陸貿易章程」では、清国の宗主権が明記され、清国は、朝鮮の「属国化」を強めることになります。
軍乱後、日朝交渉が行われ、8月30日、朝鮮側による首謀者の処刑、日本人官吏の埋葬、被害者遺族と負傷者に補償金5万円、日本への賠償金50万円の支払いなどが約束されました。さらに日本は、公使館警護のため、守備隊を駐留させる権利を得ます。これか済物浦条約です。
こうして壬午軍乱は、清国だけでなく、日本の朝鮮への介入を許すことになりました。
甲申政変
壬午軍乱のあと、朝鮮の諸改革を唱える開化派も分裂します。
金玉均や朴泳孝ら「反清・親日」の急進開化派と、清国を敵視せずに改革を進めようとする金弘集、金允植、魚允中らの穏健開化派とに分かれました。
急進開化派は、清国への従属的な関係を清算し、独立を主張していたことから「独立党」と呼ばれました。そのメンバーは日本を訪問し、福沢諭吉らとの接触を通じて、明治維新・文明開化の日本をモデルに、朝鮮の抜本改革断行の決意を固めていきます。
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しかし、朝鮮国内には厚い壁がありました。
閔氏政権は、清国に傾斜し、保守色を強めていました。その一派は、事大主義(弱者が強者の言いなりになって仕える)的な姿勢から「事大党」と称されていました。彼らは独立党の急進的な改革を嫌って、金玉均や朴泳孝らを政府の要職から排除しました。
ところが、日本国内では、この急進開化派の改革志向と支援要請に応じて、朝鮮に、日本に有利な体制をつくろうとする動きが生まれます。
当時、清国はベトナムをめぐってフランスとの全面戦争に突入し、清の朝鮮駐屯軍は清仏戦争に割かれて半分に減りました。独立党は、これを好機とみて、朝鮮駐在の日本公使館と共謀のうえ、政権樹立のクーデターを計画します。
84年10月、一時帰国していた駐朝日本公使・竹添進一郎は、独立党を積極的に支援する意向を、にわかに表明します。
同年12月4日、壬午軍乱に続くクーデター、いわゆる甲申政変が勃発します。

その日、独立党は、郵征局(中央郵便局)開局記念の祝賀会に出席していた事大党幹部らを襲い、国王を昌徳宮(王宮)から景祐宮に移し、日本公使館警護の日本軍に出動を要請しました。
独立党の部隊によって、閔氏政権の中枢は次々に処断され、クーデターは成功します。5日、独立党は新内閣のメンバーを発表し、清国への従属外交の廃止、人民の平等権の確立などの改革方針を布告しました。
ところが、袁世凱(1859~1916年、後の中華民国大総統)が率いる約1500の清国駐屯部隊が、同月6日、王宮に攻め入り、約150人の日本軍と銃撃戦を展開。日本軍は撤退し、独立党の部隊も敗走します。
金玉均や朴泳孝らは日本に亡命し、クーデターは失敗に終わりました。
甲申政変を武力鎮圧した袁世凱は、武功を認められ、こののち、総理朝鮮交渉通商事宜として、朝鮮の対外交渉と通商問題を引き受け、時に国王以上の力をふるうことになります。
金玉均らの亡命劇では、こんなエピソードが残されています。
琴秉洞著『金玉均と日本』によりますと、金玉均の一行が、仁川の港に停泊中だった日本商船の「千歳丸」にようやく乗船できたところへ、朝鮮側の追っ手が駆け付けて引き渡しを要求、竹添公使はやむなく許諾します。
しかし、船長の辻勝三郎は、「この船は政府の御用船ではない。彼らを下船せしめたなら直ちに虐殺されるであろう。私はたとえ公使が命ぜられるとも、人道上、断じて下船させることはできない」と拒絶し、追っ手には「そんな者は断じて乗っていない」と抗弁しました。辻船長の義侠心にかられた言動によって、一行は命拾いをし、朝鮮からの脱出を果たしたのでした。
【主な参考・引用文献】
▽隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』(中公文庫)▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』中公文庫)▽坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)▽岡義武『明治政治史I』(岡義武著作集第一巻、岩波書店)▽木下康彦ほか『詳説 世界史研究』(山川出版社)▽大谷正『日清戦争―近代日本初の対外戦争の実像』(中公新書)▽姜在彦『増補新訂 朝鮮近代史』(平凡社ライブラリー)▽金重明『物語 朝鮮王朝の滅亡』(岩波新書)▽趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波新書)▽岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ―朝鮮出兵から日露戦争へ』(叢書 東アジアの近現代史第1巻 講談社)▽同『袁世凱-現代中国の出発』(岩波新書)▽菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』(講談社)▽岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』(平凡社ライブラリー)▽琴秉洞『増補新版 金玉均と日本-その滞日の軌跡』(緑蔭書房)
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