(池田 信夫:経済学者、アゴラ研究所代表取締役所長)
安倍内閣は8月2日に、韓国に対する半導体材料の輸出優遇措置を解除する閣議決定を行った。これに対して韓国の政界では反発が強まり、日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を破棄しろという話や、日韓基本条約を見直せという話まで出てきた。
これは極論だが、ありえない話ではない。日本と韓国は1965年に根本的な歴史認識の違いを棚上げしたまま国交を結んだので、韓国がそれをリセットしたら、歴史論争が再燃する可能性がある。
軍の「強制連行」から企業の「強制動員」に延焼した
日本の輸出管理強化に韓国は反発しているが、この原因は2018年10月に韓国大法院が出した「徴用工」訴訟の判決である。この判決は形式上は元労働者の新日鉄住金に対する賠償請求権を認めたものだが、これを日本政府が認めると、日韓請求権協定は有名無実になり、際限なく訴訟が起こされるだろう。
この訴訟の原告は日本政府が徴用した労働者ではなく、戦時中に募集広告を見て日本に出稼ぎに来た朝鮮人労働者だが、大法院判決は彼らの請求権を認めた。これに対して日本の外務省は「徴用工の未払い賃金は請求権協定で解決した」と反論したが、それは大法院判決も織り込みずみだ。その根拠は請求権協定ではなく、次のような論理である。
原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権であるという点を明確にしておかなければならない。原告らは被告に対して未払賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような慰謝料を請求しているのである。
つまり問題は請求権協定に明記された未払い賃金ではなく「韓日合併条約の不法性」なのだ。日韓併合は反人道的な不法行為なので、その支配下で行われた労働はすべて不法な強制動員であり、政府が徴用しようが民間企業が募集しようが、すべての元労働者は日本企業に対して賠償請求権をもつという。
これは慰安婦問題で議論された軍による「強制連行」をめぐる論争を踏み超え、戦時中の日本企業の雇用まで不法な強制動員として断罪するものだ。この論理を認めると、1910年から1945年まで朝鮮半島で働いた人々の賠償請求は、すべて請求権協定の対象外になる。
現実に、すでに70社以上の日本企業が、韓国で同様の訴訟の被告になっている。戦時中に日本で働いた朝鮮人は延べ20万人以上なので、これは慰安婦問題をはるかに超える賠償問題に発展するおそれが強い。
問題の根源は韓国の「建国神話」にある
韓国の論理は、それなりに一貫している。従来から韓国政府の公式見解では、日韓併合は侵略戦争によって行われた不法行為だから、日本政府がその損害賠償をしないまま結んだ日韓基本条約も請求権協定も無効だということになる。大法院判決は無効とまでは言っていないが、元労働者への賠償を請求権協定の対象外として認め、日韓が「完全かつ最終的に解決」した賠償問題を白紙に戻すものだ。
だから本質的な論点は、日韓併合は侵略だったのかという歴史問題である。韓国政府は「日韓併合条約は武力で強制されたので無効だ」と主張しているが、常識的には日韓併合条約は大日本帝国と大韓帝国の正式な合意にもとづく条約であり、当時の世界各国もこれを承認したので、日本政府もそういう見解を取っている。
日清・日露戦争に勝った日本は朝鮮半島を軍事的に支配し、大韓帝国を保護国にした。戦略的にはロシアの南進を防ぐために朝鮮半島を支配下に置く意味はあったが、その主権を奪う必要があったかどうかは疑問である。初代の朝鮮統監だった伊藤博文は消極的だったが、彼が1909年に暗殺されて歯止めがなくなった。
韓国の主張も事実無根ではない。大韓帝国は抵抗しなかったが、「義兵闘争」と呼ばれるゲリラ戦が起こり、1万人余りの朝鮮人が死亡した(日本軍の死者は数百人)。これが韓国政府のいう「抗日戦争」の始まりである。
1919年の三・一事件のあと上海で「大韓民国臨時政府」が設立された。これは実態のない亡命政権であり、抗日戦争を行ったわけでもないが、韓国にとっては日本が朝鮮半島を侵略し、韓国臨時政府がそれと戦って1945年に勝利したという「建国神話」が民族の精神的支柱になっているのだ。
合意しないことに合意しよう
どこの国にも建国神話があり、それはすべて事実とは限らない。日本でも戦前には天孫降臨の建国神話があったのだから似たようなものだが、韓国の建国神話は憲法に書かれ、国定教科書などで今まで継承されてきた。
サンフランシスコ条約にも韓国は「戦勝国」として参加しようとし、アメリカに拒否されたが、日本に対しては戦勝国として賠償を求めた。自民党政権はこれを拒否したため、1960年代まで日韓の国交は正常化しなかったが、朴正熙大統領が賠償を棚上げする政治決着を求め、アメリカの要請もあって佐藤栄作首相が日韓条約を結んだ。
このとき日本が払った5億ドルの「経済協力」は、当時の韓国の国家予算を上回る大金だったが、朴大統領はこれを元労働者への賠償に使わず身内に分配し、インフラ投資などに使ってしまった。それは当時は韓国でも問題にならなかったが、1990年代に「慰安婦の強制連行」を日本側から持ち出したため、歴史問題が再燃した。
最初は「慰安婦は請求権協定の対象外だから新たに賠償が必要だ」という話で、これに対して日本政府は譲歩し、1990年代のアジア女性基金で決着したはずだったが、2005年に盧武鉉政権は「人類の普遍的な倫理」にもとづいて(強制連行ではない)慰安婦への賠償を求めた。
これがまた紛争の原因になったが、2015年の慰安婦合意で決着した。ところが2018年の大法院判決はこの合意をくつがえし、時計を2010年に戻して戦時中の労働をすべて「強制動員」だと規定し、文在寅政権もこれを追認した。それを日本政府が認めたら、日韓基本条約や請求権協定の見直しに波及するおそれがある。
日韓が国交を断絶することは不可能だが、この歴史問題の大きな違いを放置したまま、日韓が真に和解することはできない。朝鮮半島の歴史についてどう考えているのか、日韓両国の首脳が会談して、率直に意見を交換してはどうだろうか。
もちろん安倍首相と文大統領が歴史認識で合意することはありえないが、合意しないことに合意することも隣国としては必要だ。同じ歴史観をもたなくても、それを何度も蒸し返すことはやめるべきだ。日韓が長期的な友好関係を結ぶ上では、一度は徹底的に歴史論争することも避けて通れない道かもしれない。