岩倉使節団派遣
1871(明治4)年12月23日、いわゆる「岩倉使節団」が、巨大な
これまで徳川幕府も、6次にわたり米欧に使節団を派遣してきました。それらは条約批准や締結交渉を主な任務としていました。これに比べ、今回の使節団は、西洋文明の実地体験を通じて、明治国家建設に資する知恵やデータを得ることを大きな使命としていました。
出発前の12月15日、明治天皇は岩倉
明治国家の最大の課題は、「従前の条約を改正し、独立
しかし、条約を改めるためには、万国公法(国際法)に
要するに、使節団は、条約改正そのものを直接の任務としていませんでした。
2年近く12か国
政府使節団の特命全権大使には、右大臣・岩倉具視(数え年47歳)、副使には、参議・木戸
横浜出港時の使節団の全メンバーは46人、平均年齢は約32歳で、このほかに大使・副使の随行者や、留学をめざす華族・士族らが加わり、総勢は107人に達しました。
この中には、最年少で数え年8歳の津田梅(のち梅子)、山川
中江は、馬車で出勤する大久保を待ち構えて直訴に及び、留学がかないました。また、大久保の次男である牧野は、のちに文相・外相・内大臣などを歴任しますが、後年、回顧録の中で、「この欧米への使節派遣は、廃藩置県とともに、明治以後の我が国の基礎を作った最も重要な出来事」と書いています。
使節一行は当初、14か国を10か月半かけて回る予定でした。しかし、途中で帰国した大久保や木戸らを除いて、回覧の期間は足かけ1年10か月に及び、周遊した諸国は、米欧の12か国(アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイス)に上りました。
4人の副使の下の書記官の多くは、福地源一郎ら旧幕臣たちで、旧幕時代に外遊経験をもち、外国語も堪能でした。これに対して、5人の大使・副使のうち、外国生活を知っているのは伊藤だけで、他の4人の首脳はまったく「未知の国」への旅立ちでした。
太政大臣の三条は、彼らへの「送別の辞」で、「外国の交際は国の
フルベッキの建言
この使節団の派遣には、一人のお雇い外国人がかかわっていました。オランダに生まれ、アメリカの神学校で学んだ宣教師のフルベッキ(1830~98年)です。
フルベッキは幕末の1859年、長崎に上陸し、佐賀藩
69年から政府顧問に就いたフルベッキは、同年6月、日本による米欧使節団派遣を建言します。はじめ大隈に伝えたのですが、すぐには生かされず、71年12月、岩倉がフルベッキからその内容を尋ねた記録(ブリーフ・スケッチ)が残されています。
その中でフルベッキは、「西洋文明を完全に理解しようとすれば、直接に体験することが必要である」と強調し、選ばれる全権大使は「高い地位にある人で、天皇および国民が、その知性、活動力、高い人格に十分の信頼がおける人物でなければならない」と力説しています。
さらに歴訪各国で、日本側が「西欧諸国と完全な政治的平等を打ち立てるため、日本政府がとるべき基本的政策は何か」などと問いかければ、相手側からは「日本の法律を西欧規準に一層近づけること」や「西洋の宗教を禁止した古い布告の廃止」などを求められるだろう、と想定問答まで例示しています。
そして、使節団の中に憲法・法律、税財政、教育、陸海軍、宗教に関する各調査チーム(高官3人と書記1人)を作って分担して臨むよう提案し、「諸制度全体を十全に研究すべき国々は、フランス、イギリス、プロシア、オランダ、アメリカのみ」と断言していました。
フルベッキはまた、使節団の報告書作成のための手引も作っていました。これが使節団随行の旧佐賀藩士・
幻の大隈使節団
それにしても、明治政府の中核を占める政治家たちが、このように大挙して海外に出たことは驚きです。ジャーナリストの
大隈重信は、のちの回顧談で、使節団はもともと「
確かに71年10月、参議で条約改定掛だった大隈が、使節団の派遣を提議し、「大隈使節団」でほぼ内定したようです。が、これはひっくりかえされました。
大隈によりますと、はじめは小規模の計画だったものが、多人数の「外国視察隊」にふくらみました。それというのも、政府内の藩閥抗争や官吏の衝突により、諸改革が進まない状況を変えるために、この際、「なるべく速やかに、(口うるさい人々を)出来るだけ多数」、海外に派遣してしまい、そこで「鬼の留守に洗濯」とばかり、十分な改革を断行しよう――となった、というのです(『大隈伯
結局、トップは、以前から使節団派遣を唱え、その才気と弁舌で鳴る公家出身の岩倉に落着しました。
ともあれ、「大隈使節団」が実現せず、「岩倉使節団」になった背景には、幕末以来の岩倉と三条、木戸と大久保、そして西郷、さらには大隈ら権力者同士の確執や派閥対立、廃藩置県後の「文明開化」の進め方、人事、政局運営をめぐる各人の主導権争いがあったことは確かなようです。
西郷隆盛が、使節団を横浜に見送ったあと、一行の船が途中沈没してしまえばいい、と放言したとされるのも、使節派遣をめぐる複雑な事情をうかがわせるものです。
大礼服の制定
全権大使の岩倉、副使の木戸、大久保、伊藤、山口の計5人がサンフランシスコで、そろって記念撮影した有名な写真があります。
中央の岩倉だけが丁髷(ちょんまげ)で
岩倉大使は、常に羽織・
この結果、72年暮れになって「帽は舟形、衣は燕尾形、金線もしくは銀線をもって
その後、岩倉は、ワシントンに向かう途中のシカゴで断髪しています。アメリカ滞在中、全権大使たる自分に注目が集まるのは、日本独特の髪形や和服のせいであることにようやく気づいたため、といわれます。同行の元土佐藩士で司法大輔・
散切り頭をたたいてみれば…
使節団が出発する3か月前の71年9月23日、政府は、「散髪、制服、略服、脱刀とも、勝手為すべき事」とする布告(散髪脱刀令)を出しました。これまで男子の頭髪は丁髷でしたが、髪形、服装も「欧米並み」をめざすための措置でした。
木戸孝允の場合は、手回しよく、発令に先立って散髪したといわれます。しかし、世間では、断髪も廃刀も、すんなりとは進まなかったようです。
「御宿かわせみ」などの作品で知られる作家の平岩弓枝さんは、散髪脱刀令が、「お上のお触れとしては、どこか弱気というか、腰が引けている感じ」の、「勝手たるべし、という表現になったので、庶民は勝手でいいなら、ちょんまげでいいんだろうと居直った」と書いています。
また、日本
ちなみに、73年3月頃、東京府下の男性の7割は丁髷などの旧来の
他方、政府は、帯刀を「
<半髪頭をたたいてみれば、
<
こうしてザンギリ頭が文明開化の象徴として広まっていくことになります。
【主な参考・引用文献】
▽田中彰『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽田中彰『明治維新と西洋文明―岩倉使節団は何を見たか』(岩波新書)▽田中彰『明治維新』(講談社学術文庫)▽芳賀徹『明治維新と日本人』(同)▽牧野伸顕『回顧録』(中公文庫)▽泉三郎『岩倉使節団―誇り高き男たちの物語』(祥伝社黄金文庫)▽田中彰校注『日本近代思想体系1 開国』(岩波書店)▽松本健一『開国・維新』(中公文庫)▽圭室諦成『西郷隆盛』(岩波新書)▽勝田政治『<政事家>大久保利通』(講談社選書メチエ)▽平岩弓枝『私の履歴書』(日本経済新聞出版社)