韓国の「半地下」で暮らした私と『パラサイト』
朝日新聞, 2020年02月11日
*韓国映画『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督)が、アメリカ・アカデミー賞で英語以外の外国語映画で初の作品賞を受賞、さらに国際映画賞(旧・外国語映画賞)、脚本賞、監督賞も獲得しました。韓国の「半地下生活」、格差社会をリポートした記事(2020年1月17日配信)をあらためて配信します。(編集部)
韓国映画『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督、ソン・ガンホ主演)が世界中で話題になっている。日本でも先日、公開されたようで、早速あちこちから「見たよー」という知らせがくる。「知らせ」というより、時候の挨拶のような感じだ。「お世話になっております。『パラサイト……』見ました」みたいな。そういえば、2019年は「『82年生まれ……』読みました」だったっけ。
私自身は昨年、韓国で公開と同時にこの映画を見た。その時から人に話したくてウズウズしていたが、韓国での公開中も「絶対ネタバレは無しで」という注意が出回っていたので我慢していた。
確かに、この映画はあらかじめ内容を知らない方が絶対に面白い。なので内容にはふれないが、私には書きたいことがある。おそらく映画評論家の皆さんには書けないだろうこと。それは韓国の「半地下暮らし」のことだ。この映画で「半地下」という居住環境は「貧困の象徴」となっているが、私は「半地下」はもちろん、「全地下」で暮らした経験もある。しかもそこは、映画に出てくる家よりさらに悲惨なことになった。
不動産階級社会の最下層
私がソウル市内の半地下で暮らしたのは1990年秋、全地下で暮らしたのは1992年春のことだ。多くの日本人と同じく、私はそれまで地下室で暮らしたことなどなかった。だから「半地下」と聞いた時は少し「ときめいた」。『地下室の手記』とか『地下水道』とか、なにか文学的なイメージが想起された。私はそこで暮らしはじめて、早速「地下室の酒気」というエッセイの執筆を始めた(原稿紛失中)。
この映画『パラサイト』が2019年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した時に、前年度の『万引き家族』(是枝裕和監督)とその前々年度の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)と合わせて、「格差3部作」みたいな言い方もされていた。
イギリス、日本、韓国、それぞれの格差社会の厳しい現実。それを象徴するのがイギリスの場合は「フードチケット」(福祉)であり、韓国の場合は「半地下」(住居)というのは実にわかりやすい。というのは、韓国は「不動産階級社会」と言われるほど、住居において階層差が顕在化する社会だからだ(日本の場合は何だろう? もっとも、この3作を「格差」で読み解くのは、映画鑑賞の方法としてはつまらないかもしれない)。
韓国で『不動産階級社会』という本が出版されたのは2008年のことだ。人々が薄々気づいていたことが活字になった衝撃は大きかった。そこには住居によって6つの階級が区分されていた。
1、多住宅所有世帯
2、住宅所有世帯
3、所有住宅はあるがローン等のために賃貸に住む世帯
4、保証金5000万w(約500万円)以上の賃貸で暮らす世帯
5、保証金5000万w以下の賃貸で暮らす世帯
6、地下室、ビニールハウス等で暮らす最貧困層
これが出された10年前と現在とでは韓国社会の変化ははげしく、さらに日本と韓国は賃貸システムが違うために、これだけで現在の韓国社会を理解するには無理がある。とはいえ、第1階級が複数の不動産を所有する人々であり、最下層である第6階級に「地下室」があるのは現在も同じだ。
映画『パラサイト 半地下の家族』=公式サイトより
映画の中の階段
映画『パラサイト』の中には「階段」が頻繁に登場する。それは何かを結ぶものとしてのメタファーなのだろうが、思い出すのは私自身がその前に立たされた時のことだ。
あれは1996年、韓国で暮らしてから5回目の引っ越しの時だった。不動産屋さんに連れられていったワンルーム住宅、その入口に階段があった。地上4階+半地下1階という、当時の新築ワンルームとしては典型的な構造だった。地上と地下では家賃に2倍ほどの開きがあった。すでに2回の地下生活を経験し、浸水の被害にもあった私だったが、2分の1の家賃に心は揺れた。それを察知した不動産屋さんは言った。
「あなた、この階段を上る人と下る人のことを考えたことありますか? 毎日、仕事から疲れて帰ってきて、これを上がるか下がるか。よく、考えてみてください。毎日ですよ。悪いことは言いません。選択する余地があるなら、上にしなさい。下に行ったら、そのまま上って来られなくなるかもしれない」
40代半ばの不動産屋さんの真剣な言い方にほだされて、私は地上の部屋を選択した。家賃的には少々無理をしたと思ったが、その後にとんでもないことが起きて、私の家賃は値下がりした。アジア通貨危機(韓国では「IMF危機」という言い方もする)で不動産価格が暴落したのだ。
この時の韓国はどれだけ大変だったか。それも映画になっている(『国家が破産する日』/チェ・グクヒ監督)。その後、韓国経済は表面的には素晴らしい回復を遂げたが、社会の亀裂は埋まることなく、人々の心の傷も癒やされずにいた。それが映画『パラサイト』の伏線にもなっている。
映画のリアリティ
映画は韓国での評判も大変よかった。そもそもポン・ジュノ監督とソン・ガンホは韓国映画界では必勝コンビなのだが、今回もその期待に違わず、観客動員も1000万人突破を突破した。さらに、有名なネイバーの映画評価でも、観客と専門家の双方が平均で9点以上(10点満点)をつけている。実はこれは非常に珍しいことで、人気タレントや政治的問題で動員が伸びる映画などの場合は、観客に比べて専門家の評価点が下がったりもする。たとえば日本でも翻訳書が話題になった『82年生まれ、キム・ジヨン』(キム・ドヨン監督)は観客評価が9.15に比べて専門家評価は6.79しかない。
またカンヌでの受賞やアカデミー賞のノミネートも韓国の人々には好意的に受け止められている。日本では『万引き家族』に対して「苦言」もあったようだが、韓国では表立って語られることはない。もちろん、陰ではいろいろ言う人はいる。たとえば「暗いから嫌だ」という人もいるし、「極端だ」という人もいる。あるいは、「現実にあんな暮らしをしている人はいるんでしょうか?」とも。
大統領も困っている
1月14日、文在寅大統領の新年記者会見があった。テレビで実況中継があったので見ていたが、やはり韓国記者からの質問には「不動産問題」があった。
文大統領の願いは「公平で公正な社会」を作ることであり、支持層もそれを期待している。ところが就任から今まで、格差是正のための政策はなかなかうまくいかず、さらにそれに反することばかりが起きて苦労している。自ら指名した法務部長官の娘の不正入試疑惑は日本でも話題になっているが、それと同じくらい困っているのは不動産価格の高騰だ。
大統領としては不動産価格を抑えたいのだが、市場原理は冷酷だ。投機を防ぐために融資を制限すると、実際に必要な人々が困ってしまうことにもなる。
今、韓国に行くと、ソウルでも釜山でも豪華なタワーマンションがあちこちにそびえている。そのすさまじさは日本以上であり、観光客もみんな驚く。
「まるで未来都市ですね」
特に釜山の海雲台などで感嘆の声を上げる人は多い。
確かに経済発展にともなう全体的な底上げで、大多数の人々の居住環境はよくなったと実感する。私自身も韓国経済の恩恵を受けて、30年前の地下生活とは比べられない、快適な居住環境に暮らすことができた。あの時、階段の前で下を選ばずに上を選んだこと、その家賃を払うために頑張ってよかったと思っている。でも、それは単に運が良かっただけかもしれない。
今もあの階段の前を通ると、つい下を覗き込んでしまう。道に半分埋もれた窓、そこからかすかに光が漏れる。光が点滅している。
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