昨年12月、中朝国境にまたがる白頭山の麓・三池淵郡を訪れ、同地で進められていた開発事業の完工式に出席したと報じた金正恩委員長(提供:KCNA/新華社/アフロ)

(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)



 北朝鮮の金正恩委員長の健康状態について、さまざまな情報が乱れ飛んでいる。


 4月20日(米国時間)、米国のニュースチャネルCNNが、米政府当局者からの情報として、金正恩委員長が手術を受け重体になっている、と報じた。


 これに先立つ20日(韓国時間)、韓国のデイリーNKは北朝鮮内部の消息筋の話として、金正恩氏が最近、心血管系の手術を受け、現在も地方の金氏の別荘または一家の専用病院で治療を受けていると伝えている。


 この米国の報道を受けて、21日、韓国のメディアは、青瓦台の姜ミン碩(カン・ミンソク)報道官のメッセージとして、「現在までに北の内部に特異な動向は確認されていない」と、CNNの報道を否定して見せた。


 さらにこのJBpressは、ソウルのジャーナリスト・朴承珉氏の記事の中で、「金正恩委員長は足首の治療中」と伝えている。


(参考)太陽節に参拝しなかった金正恩、今は足首の治療中
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60240


米韓情報機関で分かれる分析結果

 金正恩氏については、祖父の故金日成主席や父の故金正日総書記が心臓病で死去しており、金正恩氏自身の肥満体質から、心臓病、糖尿病など様々な疾患があるのではないかと言われてきた。金日成主席、金正日総書記も度々重病説が出ては消えたりしていたので、金正恩委員長にまつわる重病説は慎重に見極める必要がある。


 ただ、金委員長が11日の朝鮮労働党政治局会議に出席して以来、12日の最高人民会議を欠席し、さらに重要なことは15日の国の最大の祝日の金日成生誕日「太陽節」に金日成主席の遺体を安置している錦繍山太陽宮殿に金正恩氏が参拝しなかったことはこれまでの北朝鮮では考えられないことである。このような重要行事に金正恩氏の動向が途絶えていることから健康上異変があったのではないかとの見方が浮上していた。


 どの国にとっても、国の指導者の健康情報はトップシークレットである。特に独裁国家で、トップが全て決める国、ナンバー2の存在しない国においては、その動向に最も敏感にならざるを得ない。当然、米韓の情報機関にとって最も重要視している情報である。


 今回、CIA筋からCNNに流れたとみられる情報(それがCIAとしての公式見解でないにせよ衝撃的な情報)を青瓦台の報道官が打ち消したのは、両者の見方に開きがあるという意味で、非常に興味深い動きとして世界の注目を浴びることとなった。



韓国の北朝鮮情報の大きな限界

 私が、外交官として、そして最後は大使として韓国に駐在していた時、韓国が持つ北朝鮮情報の収集は私の最も重要な任務の一つであった。それは日本政府にとって北朝鮮の状況を判断するうえで、非常に重要な情報だからである。しかし、韓国が持つ北朝鮮の情報には大きな限界があると感じてきた。


 確かに、韓国が持つ北朝鮮情報は豊富である。しかし、韓国の北朝鮮情報の多くは、脱北者に対するインタビューをまとめた蓄積情報、または中朝国境周辺で集めた聞き込み情報であり、北朝鮮の政権中枢部の近くから得た情報は非常に少ないのではないかということである。


 北朝鮮の党組織や政府組織、あるいは政治、経済、社会制度がどういう仕組みであり、どう動いているかについては情報の蓄積でかなり正確に判断できる。核施設や核開発に関する情報についても、日米韓の協力で衛星写真や人的情報をもとにかなりの程度、状況を把握していると判断していいであろう。だが、政権中枢の動きや人的関係、指導者の健康状態についての情報は非常に少ないという印象だった。


 こうした見方は私が実際に韓国で勤務していた経験に裏打ちされている。


 北朝鮮の創設者・金日成主席が没した1994年当時、私はソウルで大使館の政治部長をしていた。


 まさに金日成主席の死去が公表された日の7月9日、私はソウル駐在の日本人記者団と懇親ゴルフの最中だった。そこに突然、大使館から「北朝鮮から葬送曲が流れて来た」という情報が伝えられてきた。これは、通常の幹部の異変ではありえないことであり、最重要人物が亡くなった、すなわち金日成主席が亡くなったとしか考えられないと感じた。私はすぐにソウルの大使館に飛んで帰った。北朝鮮が公式に発表したところによると、その前日未明に金日成が亡くなったということだった。


 これは後から聞いた話だが、韓国の情報筋は「金日成の別荘から夜間にヘリコプターが飛び立った」という情報は得ていた。ただ、それが何のためか、どういう意味を持つのかについては全く分かっていなかったようである。北朝鮮に葬送曲が流される事態を受け、初めてその意味が分かったという状況だった。「夜間にヘリコプターが飛び立った」というのは明らかに通常はありえないことだろう。しかし、金日成主席の死去を想定できていなかったことは、いかに中枢部の状況に疎いか示すものであろう。


金正日死亡の翌日に京都で日韓首脳会談

 金正日総書記が亡くなった2011年12月の時はどうだったか。当時、私は駐韓日本大使という立場にあった。この年の12月18日、当時の野田佳彦総理と李明博大統領とによる日韓首脳会談が京都で開かれており、私も当然ながら京都に出張し、会談に同席した。


 首脳会談が終了し、大統領を見送ったのち私は休暇を取って東京に戻っていた。会談の翌日、親しくしていた元駐日韓国大使の崔相龍(チェ・サンヨン)氏と六本木のアークヒルズで昼食をともにし、帰ろうとして乗ったエレベーターの中で、モニターに「金正日死去」というテロップが流れた。金正日総書記が12月17日に死亡していたというのだ。


 私は急いで外務省に駆けつけ、幹部と相談し、「すぐ韓国に戻る」と決め、そのまま羽田空港に向かった。ただパスポートを携行していなかったので、それだけは外務省の職員が、私の自宅に取りに行って羽田空港まで届けてくれた。その間に外務省の幹部と善後策をいろいろ打ち合わせして、すぐにソウルに戻った。要するに、金正日が死去した翌日に韓国の大統領は知らずに日本で総理と会談していたのである。


 これまで金正恩氏の祖父、父の死去について韓国政府は情報を取れていなかったのである。


 今回の金正恩氏の動向について韓国の大統領府は、CNNの報道を否定し、金正恩氏は地方で活動しているのではないかとの見方を示している。金正恩氏が地方で活動しているということであれば、あるいは情報はとれるのかも知れない。


 韓国の北朝鮮情報は南北の関係が良好なときには人的情報もある程度入っていると考えられる。しかし、現在の南北関係を見れば、韓国が一方的にラブコールを行っているだけであり、金正恩氏は文在寅大統領を相手にしていない。加えて、文在寅政権は北朝鮮に寄り添っているため、脱北者を締め付けている。そのため、身に危険を感じる脱北者は韓国ではなく米国に移住している。現在の韓国における北朝鮮情報はかなり弱くなっているのではないか。むしろ米国が北朝鮮情報の集積地になっていると考えた方がいいかもしれない。


北朝鮮政権の人事は何を急でいるのか

 金正恩の異変説のもう一つの根拠は、最近北朝鮮において金正日氏時代から続く古い幹部がしきりに交代させられ、世代交代が進んでいることである。12日に行われた最高人民会議では、新しく外相に任命された李善権(リ・ソングォン)氏や金正官(キム・ジョングァン)人民武力相などが国務委員会委員に選出された。他方、李容浩(イ・ヨンホ)前外相や李洙墉(リ・スヨン)等副委員長は解任された。


金一族の体制固め

 また、金正恩委員長の後継者として、妹の金与正氏が選ばれるのではないかという見方が出ている。金与正氏は党の最も強力な組織指導部第一副部長に任命され、労働党中央委員会政治局員候補にもなった。ちなみに、組織指導部長の李万建(リ・マンゴン)氏は2月の労働党政治局拡大会議で解任されており、金与正氏が事実上のトップになっており、金正恩氏に代わって公式なコメントを発表するようになったりしている。


 金与正がいきなり後継者になるのも容易ではないであろう。ただ、金正恩氏が粛正した張成沢氏の妻で、叔母の金敬姫(キム・ギョンヒ)氏が姿を見せたことや、金正日氏の弟で長年ハンガリーなど欧州の大使に31年間追いやられていた金平一氏が帰国したような動きは金日成の系統をまとめようという動きかも知れない。いずれにせよ北朝鮮政権の中枢部でこれまでになかった動きが頻発しているのも事実である。それがどういう意味を持つのか、韓国KCIA国家情報院でも、ほとんど把握できていないのではないかと想像される。


 これまでも、「粛清された」と言われた、北朝鮮のナンバー2、ナンバー3がある日突然復活したり姿を消したりすることがままあったことから、金日成の系統以外からは後継者を立てないのが北朝鮮の政権であるとすれば、最近の動きは金日成王朝をさらに固めようという動きともとれる。ただ、これまで述べてきたように、北朝鮮の政権中枢にかかわる動きが何を意味するのかは、ほとんど掴むことはできない、という前提であらゆる可能性に対応する必要があるということだろう。


 こうした北朝鮮に関する情報の乏しさから、金正恩重病説が出てきているとすれば、今回これがフェイクニュースだとしてもこれからもこうした情報に振り回されていくだろう。


北朝鮮危機の文在寅政権にとっての意味

 文在寅政権は15日の総選挙で大勝した。新型コロナウイルスに打ち勝ったことを武器にこれまでの政治、経済、外交の失敗を国民から問われることのないまま、禊を得たことになる。今後はやりたいことをやっていこうとするだろう。その際、政権にとって不安定要素となるのが北朝鮮における新型コロナウイルスの蔓延、北朝鮮政権の不安定化と韓国経済の混乱である。そうした意味で、金正恩氏が重病であることは文在寅氏にとっても極めて不都合であり、そうであって欲しくはないとの気持ちが強いだろう。しかし誰もわからない。


 結論として言えることは、北朝鮮のいかなる状況にも対応できるように準備しておかなければならい。その一点だけ、ということになるだろう。



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