ドイツ統一30年、ベルリンの「壁」を歩く ナチズムから冷戦へ、激変の跡
【10】ナショナリズム ドイツとは何か/ベルリン① 現代史凝縮の地
朝日新聞
2020年07月23日
ベルリンの一角に広がる「虐殺された欧州のユダヤ人のための記念碑」=2月。藤田撮影
「翔んで埼玉」並みのフィクションに、しばしおつきあいいただきたい。
日本の首都、東京は数奇な運命をたどってきた。
薄赤の部分が冷戦期の東ドイツ。真ん中にベルリンがあり、白い部分が西ドイツの飛び地となった西ベルリン=© 2013 by Berlin Story Verlag
敗戦後の日本は、世界が東西に分かれ対立を始めたあおりで東日本と西日本に分裂。東京は東日本にあったが、西日本にとっても大事な都市だったのでこれも東西に分かれた。西東京は西日本に属し、東日本の中で離れ小島のようになった。
東日本と西日本の関係が険悪になると、東日本は西東京の周りを壁で囲ってしまった。「東京の壁」だ。
だが、世界での東西の対立が緩んでくると、西東京に行きたい東東京の人たちが壁を突破。これを機に東日本と西日本は再び一つになった。
あえてこんな作り話をしたのは、国民がまとまろうとする動きや気持ちとしてのナショナリズムをドイツについて考えるこの連載で、ドイツの現代史が凝縮されたベルリンの話を始めるにあたり、より多くの読者にこの都市を身近に感じていただきたかったからだ。
戦後のベルリンをごくごく簡単に紹介すれば、この作り話の「日本」を「ドイツ」に、「東京」を「ベルリン」に置き換えた形になる。今年の2月12日、私は取材の旅でドイツ鉄道の特急に乗り、ミュンヘンからニュルンベルク経由でベルリンへ向かっていた。
ニュルンベルクからベルリンへ向かうドイツ鉄道特急から見た夕日=2月。藤田撮影
日本もドイツも第二次大戦の敗戦国だが、最終局面の展開によって、連合国による戦後の占領が日本では米国中心、ドイツでは米英仏とソ連による分割という形になった。その状態が米ソ冷戦で固定し、日本は米国を中心とする西側に含まれ、ドイツは東西に分断された。
日本がもしドイツのようになっていたら、東京はどうなっただろう。実際ベルリンはどんな街なのだろう。ナチス・ドイツの首都、戦後の分断、そして壁の崩壊を機にドイツが再統一してから30年になる。
1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊後初めての日曜、西側から壁とブランデンブルク門を見ようと集まった東側の市民たち=朝日新聞社
冷戦期の1987年の東西ドイツの様子=朝日新聞社
ベルリンはいまドイツの重要都市として16州の一つをなし、人口361万人、面積892平方キロ。戦後ドイツが冷戦により1949年に東西に分かれてそれぞれ独立した時、東ドイツ側にあったベルリンも東西に分断された。
西ドイツの飛び地になった西ベルリンを東ドイツは1961年に壁で包囲。全長160キロもあり、うち東ベルリンとの国境は45キロ、隣のブランデンブルク州との国境は115キロだった……。
と言ってもイメージがわかないかもしれない。鉄道でベルリンに向かう私の移動に沿って言えばこんな感じだ。
特急は西から東へ、つまり旧西ドイツから旧東ドイツの地域へと進んだ。ブランデンブルク州からかつてベルリンの壁があった線を越えてベルリン州に入ると、しばらくは旧西ベルリン、つまり旧西ドイツの飛び地だったところだ。特急を降りたベルリン中央駅はぎりぎりまだ旧西ドイツ側。そこからさらに東にある泊まり先へローカル線でひと駅進むと、またベルリンの壁があった線を越えて旧東ベルリン、つまり旧東ドイツの地域に戻る。
ベルリンに着いた翌日の2月13日午前、壁があったあたりを2時間ほど歩いた。
57年前に訪れた小林秀雄
フリードリッヒ通り駅近くのホテルから、ベルリン市街を縦に貫くこの通りを南へ。1.5キロほど行った交差点の少し先の中央分離帯に、土囊を正面に積んだ小屋があった。冷戦期にチェックポイント・チャーリーと呼ばれた、米軍の検問所を復元したものだ。
ここで交差する東西のツィマー通りが、戦後に連合国がベルリンを分割占領した際の米ソの境の一部となり、その後東西に分かれたまま独立した両ドイツ間の国境になった。両国に駐留を続けた米ソ両軍の戦車がこの交差点で対峙する事件も起きたほど緊張が高まった1961年、ベルリンの壁ができた。
その2年後の1963年、批評家の小林秀雄が壁の近くを訪ねていた。西側から見た様子をエッセーに書いている。貴重なタイムスリップとして引用する。
(東側から壁を越えようとして)逃げそこなつた人々は、哨舎の銃眼に狙はれて死ぬ。
批評家の小林秀雄=1963年10月。朝日新聞社かつ
死んだ場所には、花輪を掛けた十字架が立ち、供物の類が集まってゐる。向こうの煉瓦塀にペンキで何やら字が書いてある。何と書いてあるのか、と同行の従弟に訊ねたら「東西ドイツは一つだ」と書いてあると言った。その横の大きな字は何かと聞いたら、「人殺し!」だと答えた。
街角に中年のドイツ婦人が二人、寄添ふやうに立ってゐる。一人はハンケチを目に當てて泣いてゐる。一人は望遠鏡で、遠くのアパートの窓を見て手を振ってゐる。私には見えないが、アパートの窓にはお袋さんの顔でも見えてゐるのであらう。二人は、代わり番こに望遠鏡を覗いて泣くのであらうか。(「考へるヒント」 1964年、文芸春秋新社)
エッセーではこの後、小林は旅行者として「東ベルリンへの関門を通過」しているので、私がいる場所に近かったのかもしれない。半世紀を経た今、この一角には星条旗が高く掲げられ、マクドナルドやケンタッキー・フライドチキンが軒を連ねる。壁の崩壊と冷戦終焉から30年が過ぎたが、なおも米国の勝利を誇示するかのようだ。
かつて東西に分断されていたベルリンの境界にあった米軍の検問所の復元=2月。藤田撮影(以下同じ)
交差点を右に折れ、ツィマー通りを壁跡沿いに西へ歩いていく。右手がドイツの旧東側、左手が旧西側だ。アスファルトの道路に四角い石が点々と埋め込まれ、かつて壁があった場所を示していた。その二列の点線が路上駐車の下をくぐったり、交差点で車や自転車に次々と踏まれたりと、すっかり街に溶け込んでいる。
一部残っている壁は工場跡のようにくすみ、穴もあった。かつて西側へ壁を越えようとした人々が東側で射撃されるなどし、百数十の命が奪われた緊迫感は、ここにはない。
ベルリン市街の交差点。自転車の後輪が掛かっているのが、ベルリンの壁の跡を示す線
ベルリン中心部を時計回りに歩いてホテルへ戻ろうと、また右に折れて北へ向かう。少し行くとポツダム広場の高層ビル街だ。第二次大戦末期のソ連軍侵攻で焼け、真ん中に壁が通って荒廃したままとなった一帯が、冷戦後の再開発でめざましい発展を遂げた。
そこに朝鮮王朝宮殿の一角のような小さな建物があった。韓国政府が設けた「再統一の展示」だ。残る壁に掲げられた説明板には「ドイツは1990年に再統一されたが、朝鮮半島は1945年から分断が続く。統一ドイツの首都ベルリンに置かれたこの展示場は、朝鮮の人々の平和的な再統一への願いを表している」とあった。
ベルリンのポツダム広場にある、韓国政府による「再統一の展示」
国民がまとまろうとする気持ちや動きであるナショナリズムは、そのまとまりの理念を共有する国家同士で連帯を生むことがある。かつてのソ連を中心に生産と所有の共同化を目指す共産主義圏がそうであり、米国を中心に自由と競争による経済発展を目指す資本主義圏がそうだった。
だが、その対立が最前線で国家そのものを分断する倒錯を朝鮮半島やドイツにもたらしたのが、冷戦だった。ベルリンでは首都までも分断され、住む人々が引き裂かれた。先ほどの小林のエッセーの通りだ。
そんな冷戦の凄まじさを思いつつ壁跡をたどっていて、ある一角でぐっと引き戻された。
現代にではない。その分断の遠因となる米ソとの戦争にドイツが突き進んで敗れた、ナチス政権期にだ。
ユダヤ人慰霊碑とヒトラー最期の地
ポツダム広場からさらに北へエバート通りを行くと、右手に、縦横に並ぶ石碑のような塊で埋め尽くされた一帯があった。約2700柱の高さは一つ一つ違い、見渡すと棺の群れが波を打つかのようだ。2005年にできた「虐殺された欧州のユダヤ人のための記念碑」だ。
ベルリンの一角に広がる「虐殺された欧州のユダヤ人のための記念碑」
地下に広がる「情報センター」には、ナチスのホロコースト(大量虐殺)に関する展示とデータベースがある。石碑が並ぶ地上から階段を降り、照明を抑えた室内に入ると、強制収容所で書かれた日記や手紙の中身が床に示されたり、一人一人の名の朗読が壁のスピーカーから聞こえてきたり。犠牲者を個人として銘記する努力が尽くされていた。
それでも大量虐殺の犠牲者は540~600万人にのぼる。その説明のそばで、600万人を象徴する老若男女6人の大きな写真パネルが来館者たちを見つめていた。
ベルリンの「虐殺された欧州のユダヤ人のための記念碑」の地下にある情報センター。犠牲者の写真が展示されている
地上に戻ると、そばにある団地の方へ向かう路地に、ガイドに導かれた人の流れがちらほらあった。歩いて1分。集合住宅の前に駐車場が広がっていた。
このヒトラー最期の地には、「総統の地下壕」という説明板がぽつんとあるだけだった。
1945年4月30日、ナチス・ドイツの首都ベルリンにソ連軍が迫る中、ヒトラーはここにあった総統官邸の地下壕の一室にいた。説明板には淡々とこうあった。「午後、この地下壕で結婚したばかりのヒトラーとエバは自殺した。遺体は地下壕入り口前の庭で焼かれた。5500万人が死んだ欧州での第二次大戦は終わった」
ヒトラー最期の地で「総統の地下壕」という説明板を見る人たち
路地からエバート通りに戻り、再び北へ。少し歩くとブランデンブルク門だ。今のドイツとポーランドの北部にまたがっていたプロイセン王国でベルリンが首都だった18世紀後半に築かれ、冷戦期はベルリンの壁のぎりぎり東側になり、再統一で再びドイツ全体の象徴となった。ドイツのナショナリズムのアイコンと言える。
それだけに、私はナチス時代をも想起せざるを得なかった。夜のブランデンブルク門をトーチを掲げた人々が通り抜ける光の列の行進は、1930年代に独裁政権を握ったヒトラーに捧げられたのだった。
ベルリンのブランデンブルク門。左は2月、藤田撮影。右は1936年にナチス政権発足3年を祝うトーチ行進の様子
右へ折れブラデンブルク門をくぐる。目抜き通りのウンター・デン・リンデンを東へ歩き、ホテルに戻った。
埋め込まれた「躓きの石」
冷戦の最前線だった頃のエピソードが語られることの多いベルリンにも、ナチズムの記憶は根を張り続けていた。この日の午後にホテルからローカル線で数駅東へ足を伸ばした時にも、同じことを感じた。
旧東ベルリン当時には中心的な駅だった東中央駅で降り、壁をキャンバスにしたポップアートが延々と続くイースト・サイド・ギャラリーへ。かつての共産主義陣営の盟友、ソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー議長の「熱いキス」の辺りは、観光の若者たちで賑わっていた。
ベルリンの壁をキャンバスにしたイースト・サイド・ギャラリーにある「熱いキス」の前に集まる若者たち=2月。藤田撮影
そこからシュプレー川を渡ると旧西ベルリン側に戻る。コーヒー店やスーパーマーケットがある下町のコトブッサー通りを歩いていて、住宅の玄関先に光るものがあった。
小さく四角い金属の板が四個、歩道に埋め込まれていた。それぞれに氏名と生年が記されているが、四個とも「1943年2月26日に移送され、アウシュビッツで死去」とあった。享年およそ45歳、38歳、16歳、12歳、ということになる。
ベルリンのコトブッサー通りの歩道に埋め込まれていた四個の「躓きの石」
ホロコーストの犠牲者たちがかつて住んでいた場所を記憶するための「躓きの石」だ。ベルリン出身の芸術家ギュンター・デミングが1996年に地元で始めたこの活動は、犠牲者に関する情報提供と寄付の輪が広がって、「躓きの石」は欧州各国で計7万5千個を超えるまでになった。
「ベルリンの躓きの石」の場所が地図で一覧できるサイトがある。夕方、ホテルに戻ってパソコンを開き、自分が歩いた通りを確かめつつ、見つけた四個と同じ場所をクリックした。同じ四人の氏名が画面にポップアップされた。
パソコンの地図をベルリン全域へ広げてみる。「躓きの石」を示す小さく黄色い四角が数え切れないほど画面に現れ、全部で8258個と記されていた。
ナチズムから冷戦へと折り重なって連なる現代史が、隙あらば語りかけてくる。そんな街歩きだった。
※次回は7月30日に公開予定です。
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