中国・内モンゴル自治区の教科書問題
我らの舌は、いつの間にメスを入れられたのだろうか?
劉燕子 現代中国文学者・作家・日中翻訳家
朝日新聞
2020年10月05日
中国の内モンゴル自治区における教科書問題が内外から注目されている。
中国では9月1日から新学年が始まるが、8月26日、内モンゴル教育庁は民族小学校一年と民族中学校年の国語で国家統一の中国語(漢語)教科書を用い、さらに2年以内に政治と歴史の教科でも漢語の教科書にすると通達した。これはモンゴル語教育の削減と漢語教育の強化である。
それに対して、28日頃からモンゴル人の生徒や父母が登校拒否や授業ボイコットで抗議し、自治区の首都フフホトなどでは大規模なデモや集会が起きた。当局は参加者の逮捕、懸賞金つき写真入りビラの配布などで取締りを強めたが、注目すべきことにテレビ局の300名のモンゴル人スタッフが署名をもって抗議に賛同した。まさに勇気のあることであった。
また、モンゴル国でも言語問題として批判が高まり、この問題は内政の教育に止まらず、民族問題として対外関係にも及んだ。実際、東京、大阪、ワシントンなどで抗議活動を支援する輪が広がった。だが、中国当局は10月1日までに数千名を拘束し、生徒の退学や親の解雇を警告し、学校を再開させ、事態は表面的には沈静化した。
数世代にわたる歴史の古傷の痛み
縦書きのモンゴル文字と漢字が併記されたフフホト市内の商店の看板 RosnaniMusa / Shutterstock.com
このモンゴル語をめぐる問題に関する漢人の捉え方についてみると、河北省出身の留学生は正直に次のように語った。
内モンゴル自治区でモンゴル語教育削減への抗議が広がっていることをきっかけに、モンゴルは日本のように漢字文化圏に属していないことを知りました。モンゴルにはモンゴル文字がありますが、「蒙古」や「呼和浩特」と漢字で考えていました。でも、それは「モンゴル」や「フフホト」というモンゴル語の音を漢字にしたものです。またジョーオダ・アイマクが赤峰市に変えられたように、音を漢字で表記したのではなく、地名が漢語で変えられたものさえあります。好きな歌手の名前も実は漢語の名前だと分かりました。
これは留学生が不勉強というのではなく、モンゴル人の発言や情報発信が抑えられ、漢語が中国社会全体を覆っているためである。「自治区」といいながら、民族自治が形骸化している。言語でいえば、憲法第4条で「いずれの民族も自己の言語・文字を使用し、発展させる自由」を謳うが、第19条では「国家は全国に通用する共通語を普及させる」と記され、実際は共通語=漢語の「普及」が強力に押し進められてきた。
歴史を遡ると、中国共産党は結成以来、ソ連共産党に従い民族自決を標榜し、1945年の第七回全国代表大会でも「聯合政府」を提唱する中で民族の自決権を強調し、国民党との違いをアピールした。ところが、政権を獲得すると、自決権に基づく民族政府を大幅に変えて「区域自治」に限定した。
確かに、中華人民共和国よりも2年早く1947年に成立した内モンゴル自治区では民族語の使用がかなり尊重された。しかし1957年になると、内モンゴル自治区は中華人民共和国の分離し得ない一部であり、愛国主義を徹底し、先進民族の文化を吸収することで民族言語を豊かにするとの理由で全ての民族学校で漢語の授業が加えられた。漢人を先進と、モンゴル人を後進と見なす「大漢民族主義」による国家統合があからさまである。
さらに文革では民族教育機関が廃止され、民族語の授業どころか民族学校まで閉鎖され、民族語の出版さえ停止された。区都フフホトではモンゴル民族学校が10校あったが、全て廃校に追いこまれた(注1) 。
母語であるモンゴル語は「ロバの言葉」と差別された。さらに迫害の理由にされ、漢語が話せなければ民族分裂主義と決めつけられた。自治区最高指導者のウランフは1950年代にモンゴル文字の改革を試みたが、それが文革期に民族分裂主義の罪状の一つにされた。文革期、自治区では全人口1300万人のうちモンゴル人は150万人弱で、その34万人以上が冤罪で迫害された。そのうちの27,900人が殺害され、12万人が拷問により身体に障害が残った(注2) 。
(注1) 岡本雅享著『中国の少数民族教育と言語政策』増補改訂版、社会評論社、2008年、p.93。
(注2) 楊海英『墓標なき草原・正続』岩波書店、2009-11年など参照。以下同様。
民族的アイデンティティの抑圧は変わらない
文革後、民族政策は是正され、人民代表の選出、民族地区補助費の配分、計画出産(一人っ子政策)、進学などで特別措置が講じられてきた。しかし根本的矛盾は解決されず、「文化的ジェノサイド」と呼ばれるほど民族教育は滅亡の淵へと追いこまれた(矛盾には一部の漢人が逆差別されていることや入試で少数民族に加点があるため漢民族が少数民族に民族出自を変えることなどもある)。
これに対して、民族の言語・文化の復興などを背景に、78年5月、自治区高級人民法院の向かい側に大字報(壁新聞)が張り出され、民族学校は名目だけで実態は漢語学校で、母語と第二言語が転倒させられており、モンゴル語で授業を行う大学の設立が提起された。81年8月3日に漢人のモンゴル入植に関する「二八号文件」が公布されると、学生たちは反対し、「自治は名ばかり」と批判し、憲法の枠組みの中で民族政策を確実に実施し、民族の文化やアイデンティティを守る「真の自治権」を求めた。
これらは、1985年12月12日に新疆ウイグルのウルムチで起きた学生デモ、86年12月、安徽省合肥の中国科技大学の学生デモに端を発した第一波の全国規模の学生運動(八六学運)、88年5月4日、北京大学での民主サロンの発足、その翌月、学生の死亡事件への抗議から広がった学生運動、12月30日のチベット大学の学生デモ、そして89年の天安門民主運動へと展開した自由や民主を求める大きなうねりの嚆矢となった。
だが、天安門事件で民主運動は武力鎮圧された。その後、共産党政府は改革・開放を加速させ、政治的イデオロギー的統制に利益誘導を加え、少数民族に対しては従属的な開発独裁を押し進めた。しかも、それは「一帯一路」の大規模プロジェクトに連動し、ますます従属が強められている。共産党政府は民族問題を言論・言語の統制だけでなく、開発・利益でカバーしようとしているのである。表面では変わったように見えるが、民族的アイデンティティの抑圧という本質は変わらない。
このようにして、モンゴル人は文革の迫害による深刻なトラウマで内心の率直な気持ちを表明することを恐れ、自己監視・自主規制するだけでなく、漢人の経済力に圧倒されるようになった。
現在、内モンゴルの人口構成は漢人の大量流入で、モンゴル人など少数民族はわずか17%となっている。ただし、漢人は主に都市部で、広大な草原や山岳地帯は少数民族が伝統的な生活を営んでいるが、その自然環境が開発独裁により深刻に汚染されている。
フフホト市内の商業施設。内モンゴル自治区では交通標識などはモンゴル文字の併記が義務づけられているが、漢字だけの看板も多い。 Carlos Huang / Shutterstock.com
チベットの共通性――漢語教育の強化と抵抗
1988年12月30日、ラサのチベット大学生の抗議活動(旗は寮のカーテンで作成)。参加していたSonam Dorjee(当時、チベット語チベット文学部生)氏より提供。
内モンゴルの状況が特別ではなく、漢語教育の強化は2017年に新疆ウィグルで、翌18年にチベットで始められた。同様に抗議活動が起きたが、ここでチベットについて概観し、ウイグルに関しては紙数のため割愛する。
1988年12月30日、ラサのチベット大学生のビラ(ビラはカーボン紙で複写)。参加していたSonam Dorjee(当時、チベット語チベット文学部生)氏より提供
1988年12月18日、中央民族学院(大学)など北京のチベット学生が天安門広場や中南海(党・政府の本部や要人の居宅がある地区)の前にデモ行進し、チベットにおける弾圧に抗議し、自治区におけるチベット語の全面的使用を求めた。12月30日には、ラサのチベット大学でチベット語の使用、民族の文化・慣習の尊重、民衆の示威行動への弾圧の反対をスローガンに掲げた学生運動が起きた。翌年3月には学生だけでなく民衆の規模で抗議活動が広がった。それは制圧されたが、一進一退で、2008年3月に大規模な抗議活動が起きた(チベット蜂起/騒乱)。これも鎮圧されたが、その後は、個人の抗議焼身が相次いだ。2009年から2017年まで150名以上が我が身を炎にして抗議した。遺書には「チベット語の擁護」、「言語の自由」を訴えるものもあった。そこにはチベットの歴史、文化、アイデンティティが消え去るという危機意識が込められている。
2010年10月、青海省黄南チベット族自治州同仁県でチベット人高校生たち700人が漢語教育の強制に対して「チベット民族の言語や文化が衰退する」、「民族の平等、言語の自由」という横断幕を掲げ、市街をデモ行進した。数千キロ離れた中国民族学院のチベット学生も応援に加わった。
2014年10月29日、チベット東部ンガバ地域で幾つかのチベット遊牧民学校の生徒たちがチベット語から漢語への転換に強く抗議した。
根強い抵抗――支配者の漢語を抵抗の手段に転化
2007年、フフホト市内でモンゴル女子学生が宛名をモンゴル文字で書いた手紙を出そうとすると、漢人の局員は「読めないので、出せない」と断った(注3) 。彼女は「ここはモンゴル人の自治区です。モンゴル語は公用語で、モンゴル文字も政府公認の文字です。モンゴル人には自分たちの言葉と文字を使用する権利があります」と「静かに主張」した。
局員は「モンゴル人の自治区とはいえ、みんな中国人だから中国語を使いなさい」と「厳しい表情で譲ろうと」しなかった。彼女は「中国語を使う以前に、われわれには母国語のモンゴル語を使う権利があります」といい、結局、モンゴル文字のまま書留で出した。そうしないと、「漢人局員に勝手に捨て」られるリスクがあるためである。
楊海英・静岡大学教授
これを見聞した内モンゴル出身の文化人類学者・楊海英は自分がモンゴル文字ではなく漢語で宛名を書いたことを恥じたと率直に述べている。
彼にはモンゴル名(オーノス・チョクト)と日本名(大野旭)もあるが、著述では漢名の「楊海英」を用いている。それは彼自身が漢語教育の痛みを痛感することで、ルーツを完全に失いデラシネ(根なし草)になることに抵抗するためである(2014年、台湾の国立政治大学における『墓標なき草原』漢語版出版記念シンポジウムで、「何故、傷だらけの漢名で著述し、モンゴル名や日本名を使わないのか」と質問されたきの発言より)。彼は小学校で学んでいた1974年、突然、授業が漢語に変えられ、モンゴル語が禁止され、さらに担任教師から漢名をつけられ、それを使わなければならなくなったのである。
同様の痛苦、葛藤、抵抗はチベット人漢語作家のツェリン・オーセルでも同様である。彼女も子供時代からの漢語教育で母語のチベット語を奪われたが、逆に漢語を用いてチベット人の声を発している。
オーセルはラサで生まれたが、チベット語に親しんだのは4歳までで、家庭でも、小中学校でも言語は漢語が中心となった。彼女は1981年に四川省カンゼ・チベット族自治州の中学校を卒業すると、成都にある西南民族学院(2003年から西南民族大学)の予科(高校に相当)に入学し、本科に進むと漢語文を専攻した。だが、そこで掲げられている「民族」は名ばかりで、入試の手続きから出題まで漢語しか使われておらず、授業も全て漢語で、各民族の固有の歴史や民族的アイデンティティについてまったく教えなかった。そして彼女は1988年に卒業し、自治州の機関紙「甘孜報」の漢語版編集者兼記者となった(2004年から「甘孜日報」に改称)。
多感な青春時代に漢民族の習慣や考え方に染まり、チベットのそれと断絶させられた代償は極めて重大で、チベットに帰ると、再適応ではアイデンティティ・クライシスさえ引き起こされる。
支配のための言葉が反抗の手段に転化する
オーセルは2000年に転任でラサに戻ったが、「ラサ」さえ正確なチベット語で発音できず、親族に「舌にメスを入れられた」と言われた。彼女は「手術された舌はスラスラと成都の方言を語るしかなかった」が、しかし「あなたの母語は漢語ですか?」との問いに「絶対に違う」、「私が生まれて初めて食したのはバター茶をまぜた母乳です。私の故郷、民族的な出自、名前、母語、記憶の全てが置き換えられました。でもたとえ血が換えられても、私の心は置き換えられません」と答えた。痛いほどの喪失感とアイデンティティの混乱を経て、程文薩という漢語名から、母と父がつけたチベット名のツェリン・オーセル(永遠の輝き)に戻、それを著述の力にも転化したのである。
ラサ旧市街のジョカン寺前を巡回する武装警察部隊=2008年8月21日
漢語への「置き換え」は、言語による漢人支配のためだが、オーセルはその漢語を用い抵抗するのである。彼女は「チベット人の恐怖は手で触れるほど」どころか「本当の恐怖は既に空気中に溶けこんでいる」と指摘し、次のように述べる(注4) 。
私たちは自分の声を出すと、いつでも叱責されます。その叱責のなかで、最も筋が通って説得力があるように聞こえるものは、〝お前たちは、食べるものも飲むものもみんな、おれたちから提供されているのに、おれたちを攻撃する。お前たちの心はほんとうに陰険だ〟というものです。さらに甚だしい場合は、〝非常時になったら、さっさと逃げたらいいぞ。さもないと、やられるぞ〟と威嚇します。明らかに植民者の口ぶりで、典型的なディスクールの暴力です。
さらに、オーセルは「この論調は植民者に蠱惑(こわく)された民衆には効果的で」あるとも洞察する。恐怖と利益誘導、鞭と飴の国内植民主義(インターナル・コロニアリズム)支配が明らかにされている。
そして、カナダ・ブリティッシュ・コロンビア大学教授、ツェリン・シャキャ(茨仁・夏加、Tsering Shakya)は「共産党にとって、オーセルの著述は特に我慢ならないものである」と捉え、次のように論じている(注5) 。
何故なら、彼女は党が人民に語ってほしくないディスクールを語ってしまっただけでなく、それを統治者の言語(漢語)で著述するからである。中共は統治の初期に特別な目的をもって漢語で著述するチベット人を育成した。
それは「解放された農奴」の「喉」で、党のご恩に感謝し、それに報いようとする言葉を発するようにさせるためであった。(中略)中国語で著述する若い世代のチベット人作家は自分を党の代弁者と見なさず、統治者の言語で書いた作品を統治者への抵抗の道具としている。(中略)オーセルは漢語を自分のものとし、党のいう真理に抵抗し、反論するのである。だからこそ、中国政府にとってオーセルの著述はとりわけ面倒になる。彼女は中国で蔑視され、軽蔑される「蛮夷の原住民」の声を代表しているからである。
さらにシャキャは共産党政府がチベット人漢語作家を「恩義を忘れる原住民」と非難することについて、シェイクスピアの『テンペスト』第一幕第二場の場面を取りあげる(注6) 。そこでは、王から奴隷にされたキャリバンの反抗に対して、プロスペロー(大公)が「そのことばの罰」を加えようとする。ミランダ(プロスペローの娘)も「ことばを教えてやった」のに「善のひとかけらも」なく「汚らわしい」と非難する。これに対してキャリバンは「たしかにことばを教えてくれたな、おかげで悪口の言いかたは覚えたぜ」と反論する。
支配者は言葉を教えたことを恩賜とするが、被支配者はむしろ反感を募らせ、教えられた言葉で反抗する。支配のための言葉が反抗の手段に転化する。
ただし、言葉づかいでは、キャリバンとオーセルは異なり、彼女は温和な言葉で痛みの歴史を清冽に綴る。確かに、その言葉は微弱である。そもそも言葉は武力の前には無力になる。しかし加藤周一は「プラハの春」で「圧倒的に無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉」を認識した(注7)。そのとおり、ベルリンの壁の崩壊後、ビロード革命により民主化が達成された。
(注3) 前掲『墓標なき草原』上、pp.248-249。以下同様。
(注4) 共編著訳『チベットの秘密』集広舎、2012年、p.51、p.64。
(注5) 唯色『鼠年雪獅咆:2008年西蔵事件大事紀』允晨文化、台北、2009年、pp.7-8。
(注6) シェイクスピア著、小田島雄志訳『テンペスト』白水社、1983年、pp.37-40。
(注7) 加藤『言葉と戦車を見すえて』筑摩書房、2009年、p.233。
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