民主主義はいかにして崩れたか ワイマール憲法採択の地の証言
【28】ナショナリズム ドイツとは何か/ワイマール⑤ ホロコーストと市民
朝日新聞
2020年12月03日
ワイマール憲法が採択された国民劇場の前に建つ、当地ゆかりの文豪ゲーテとシラーの像=2月、ドイツ・ワイマール。藤田撮影。以下同じ
【連載】ナショナリズム ドイツとは何か
ナチスがドイツ中部に造ったブッヘンバルト強制収容所跡から、また路線バスに10数分揺られ、ワイマール市街に戻る。2月19日夕方に訪れた石畳の「劇場広場」に、この古都ゆかりの文豪ゲーテとシラーの像と、新古典主義風の劇場が建っていた。
像の前で見学の生徒たちが教師の話に聴き入る。劇場正面の石段で小学生ぐらいの女の子たちがペットボトルを蹴っ飛ばして遊ぶ。歴史豊かな地方都市といった風情だ。ドイツのナショナリズムを探る私の旅に欠かせない訪問先だった。
ワイマール憲法が採択された国民劇場と、ゲーテとシラーの像が建つ広場。見学の生徒たちが訪れていた
ふたりの文豪の像の台座には「祖国」と刻まれ、劇場の名も「ドイツ国民劇場」。ドイツ全体を背負うような気概がにじむ。1919年にこの劇場で国民議会が開かれ、ドイツ初の民主的な憲法であるワイマール憲法が採択された。
その憲法と民主主義をナチスが換骨奪胎し、独裁を実現した。この劇場もカギ十字の垂れ幕に覆われ、この古都は数キロ先のブッヘンバルト強制収容所と共存し、敗戦後もその歴史を背負う。つい先ほど強制収容所跡の史料館で見たばかりのいきさつだ。
劇場正面の白い石壁に近づくと、左右に一つずつ、金属板で文章がはめ込まれている。向かって左(写真上)には「この建物でドイツ国民はワイマール憲法を採択した。1919年」、右(写真下)には「ファシズムによって破壊され、多くの犠牲者を出しながら建て直され、ドイツ国民に引き渡された。真の人間存在の道へ。1948年」とあった。
国民劇場の壁にある、1919年にワイマール憲法がここで採択されたことを記す碑文
国民劇場の壁にある、「ファシズムによる破壊」から1848年に再建されたことを記す碑文
この二つの年の間に、一体何が起きたのか。
広場の方へ向き直ると、文豪たちの像の向こうに真新しい小ぶりな建物があった。「ワイマール共和国の家」とある。扉を押して入り、受付の女性に聞くと、憲法採択百周年の昨年に政府の支援も受けてできた史料館で、市民団体が運営しているという。
館内での短い映画と展示は、「ワイマール共和国 ドイツ初の民主主義」から「民主主義の終わり」へと転落する20世紀前半のドイツ史を語り、「たとえ素晴らしい憲法があっても、あらゆる民主主義社会は脆弱だ」という教訓を今にどう生かすかを考察していた。
国民劇場の向かいにある史料館「ワイマール共和国の家」
その問いかけを展示に沿って、日独の二人の歴史学者の知見も交えつつ紹介したい。
史料館「ワイマール共和国の家」
広い一部屋での展示に説明のパネルが並ぶ中、奥のガラスケースに義手が置かれていた。第一次大戦での負傷兵が社会に復帰するため、地元チューリンゲン州の企業が作ったものだ。「270万人のドイツ兵が心や体に傷を負って戦線から戻った。政府は彼らをできるだけ労働市場に再統合しようとした」とある。
第一次大戦での負傷兵が社会復帰するために作られた義手の展示
域内を統一したドイツ初の近代国家であるドイツ帝国は第一次大戦で敗れ、帝政が終わった。甚大な被害と敗北感の中で、ワイマールが憲法制定の地となった新国家に期待されたのは「華やかさとすばらしさだった。軍国主義と崇拝は過去の帝政のものとされ、市民による共和制が培われねばならなかった」。
1919年7月に国民議会で採択されたワイマール憲法は、ドイツで初めて女性にも参政権を認め、比例代表制の国会と直接選挙の大統領制を導入。表現や報道の自由、思想や良心の自由などの基本的人権を掲げ、国会は立法と行政監視を担う中心的存在とされた。
1919年に採択されたワイマール憲法の冊子と、作成に携わった人たちの展示
このワイマール体制の下で、ヒトラー率いるナチスがいかに台頭し、民主主義を壊していったのか。まず、どんな人々がナチスを支持したのだろう。
ナチスを受け入れた人々
ブッヘンバルト強制収容所跡の史料館の展示は、政権に就く前からナチスを受け入れた当時のワイマール市民を、「国家主義的で反民主的な中産階級や公務員が大半だった」と辛辣に評していた。それに重なる日本のドイツ政治研究者の指摘がある。野田宣雄・京都大学名誉教授の著書にこうある。
「ナチスは、階層的には、手工業者、小商人、中小の農民など、ひとくちに中間層と呼ばれるひとびとのあいだに、もっともよく浸透することができた。(中略)彼らを団結させる共通のイデオロギー、つまり、労働者の場合におけるマルクス主義のようなものもなかった。しかも、第一次大戦後のインフレーションや1920年代以降の恐慌によって、もっとも激しい没落感を味わっていたのも、この層だった」(「ヒトラーの時代」、1976年、講談社学術文庫)
1929年からの世界恐慌への対応で連立政権が混乱する中、野党だったナチスが急伸する。ヒトラーは演説でワイマール体制を批判し、第一次大戦の戦勝国がドイツに重い償いを課したベルサイユ体制も批判した。32年にヒトラーは大統領選で保守派の現職ヒンデンブルグに敗れながらも得票率37%、ナチスは国会の選挙で3割台の票を得て第一党となった。
1932年のナチスの躍進に関する展示。その先には今の民主主義について考えるコーナーがある
失業者は600万を数え、失業保険制度が破綻する社会不安の中、共産党も議席を伸ばしていた。1933年1月、保守派は政権維持のためナチスと連立を組み、ヒトラーはついに首相となる。
展示は、連立内閣発足時のヒトラーを中心とする写真の上下に、「1933」「民主主義の終わり」と記していた。
「民主主義の終わり」の展示。上には1933年にヒトラーが首相になった頃の写真がある
私はこの日の午前、ワイマールに住む歴史学者のクリストフ・シュトルツルさん(76)を訪ねていた。ベルリンにある国立ドイツ歴史博物館で館長も務めたシュトルツルさんは、ナチス政権の発足について「帝政が終わっても、封建主義的、つまり反民主主義的な保守勢力が残っていて、ナチスと結びついた」と語っていた。
「国会はついに排除された」
「1933」「民主主義の終わり」の展示は続く。有名な国会議事堂炎上の写真の上に、「ワイマール憲法 事実上無効に」の見出し。33年2月のベルリンの国会議事堂炎上を、ナチスは共産主義革命勢力の放火事件と決めつけ、ヒンデンブルグ大統領に緊急条令を出させた。
「ドイツ民族を守るため」という名の条令は、集会と報道の自由を制限し、「政治犯」の拘束を可能にした。説明には「中産階級の大臣たちはこの過激な手法を支持した。狙われているのはさしあたりマルクス主義者だと考えたからだが、新たな政府の思うつぼだった」とある。この「大統領の緊急条令」も、ワイマール憲法の盲点をナチスに突かれたものだった。
「民主主義の終わり」の展示。左には1933年の国会議事堂炎上の写真がある
ヒトラーが首相となる前の1930~32年から、世界恐慌への対応で混乱する政府はこの条令を多発していた。「通常の議会立法によるかわりに、ワイマル憲法に規定された大統領の緊急条令にたよって統治をすすめた」(前記の野田氏著書)。シュトルツルさんも「ワイマール憲法では国民に直接選ばれる大統領の権限が極めて強かったが、恐慌と失業という悪条件の下でそれが弱さになった」と語っていた。
展示に「国会はついに排除された」という見出しが現れる。1933年3月、形式的には民主主義の下で、ナチスは独裁を実現する。全権委任法の成立だ。「民族と帝国の窮状を除去するため」という名の法律は、国会の同意なしに政府、つまりヒトラーに立法を認めるもので、投票の場で反対は社会民主党のみ。弾圧された共産党の姿はなかった。
ナチスが独裁を実現した「全権委任法」の成立を説明する展示
憲法骨抜きで独裁達成
野田氏は著書で、ナチス以外で賛成した各党の「葛藤」をこう説明する。「もし議会がこの法律を拒否すれば、ヒトラーをますます恣意的な暴力支配に走らすことになるだろう。たとえヒトラーに強大な権限をあたえる悪法であっても、法律は、ないよりはましだ」と。
ヒトラーを首相とする連立政権発足からわずか二カ月、ナチスはワイマール憲法を骨抜きにして独裁を達成した。この1933年にダッハウなどに強制収容所ができ、まず「政治犯」が送り込まれる。35年にはニュルンベルクでのナチス党大会の最中に、ユダヤ人差別を合法化する「ニュルンベルク法」ができる。今回の旅ですでに訪ねたその二カ所で見た通りだ。
「SS(親衛隊)のような準軍事組織が憲法の外に生まれ、『一つの民族、一つの帝国、一人の指導者』を掲げ、暴力による壊滅的な独裁が始まった」(シュトルツルさん)。国民がまとまろうとする気持ちや動きとしてのナショナリズムは、近代国家ドイツが手にした民主主義を踏み台に暴走した。
史料館「ワイマールの家」を訪れる前に話を聞いた歴史学者のシュトルツルさん
ナチス政権は対外的には、第一大戦後に国際平和を目指し発足した国際連盟を「ドイツを恩着せがましく抑圧する」と批判し、1933年10月に脱退。35年に徴兵制を復活し軍備拡大を宣言、36年に非武装地帯とされていたドイツ西部ラインラントへ進駐――とベルサイユ条約を立て続けに破る。そこで「ワイマール共和国の家」の時系列の展示は終わっていた。
極東では1931年に日本が満州事変を起こし、33年に国際連盟を脱退。36年に日独防共協定を結び、37年から日中戦争に突入。そして、ドイツとともに第二次大戦へとなだれ込んでいく。
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筆者
藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)
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