미디어, 인터넷, 情報

「言論の自由」という幻想:いま米国で起きていることに寄せて

이강기 2021. 1. 25. 15:45

「言論の自由」という幻想:いま米国で起きていることに寄せて

 

ソーシャルメディアによる「検閲」の線引きの困難さ

 

塩原俊彦 高知大学准教授

朝日新聞

2021年01月24日

 

 

 

 ロシア語雑誌『エクスペルト』に「言論の自由という幻想というタイトルの記事が掲載された。フランス人で、『ロシアの悪夢』というフランス語の本を書き、いまはロシアに住んでいるマチュー・ブージュが著したものである。これに触発されたので、率直な筆者の考えをまとめることにした。

 

 

民間企業による「言論封殺」

トランプ支持派による議事堂占拠=2021年1月6日、ワシントン lev radin / Shutterstock.com

 

 ドナルド・トランプ大統領(当時)の支持者が連邦議会議事堂に乱入した1月6日の事件を契機に、ツイッター社は8日、@realDonaldTrumpアカウントからの最近のツイートとその周辺の文脈(具体的には、ツイッター上とツイッター外でどのように受け取られ、解釈されているか)を精査した結果、暴力をさらに扇動する危険性があるため、アカウントを永久に停止した」と発表した。加えて、同社は、弁護士のシドニー・パウエルやトランプ大統領の元国家安全保障顧問のマイケル・フリンなど、陰謀論を広めるためにプラットフォームを利用した著名なトランプ支持者数人のアカウントを永久に禁止する。11日には、陰謀論を宣伝する極右集団「Qアノン」にかかわるアカウント7万件超を永久停止したと発表した。

 

 他方で、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)は、フェイスブックとインスタグラムのアカウントについて、「無期限に、少なくともつぎの2週間、権力の平和的な移行が完了するまで遮断することを延長中である」と表明した。グーグルの所有するユーチューブは12日にトランプのチャンネルを停止した後、13日になって、約280万人の加入者を持っていた彼のチャンネルを少なくとも7日間新たにアップロードできないようにすると、ユーチューブの公式ツイッターアカウントで発表するに至る。

 過去1年間に何百万人もの極右保守派を魅了してきたソーシャルネットワーク、パーラーについては、1月8日、アップルはそのアプリ上での会話の取り締まり強化をパーラー側に伝え、iPhone上からそのアプリを排除する。その数時間後、グーグルもプレイストアからパーラーのアプリを削除した。アマゾンも暴力や犯罪を扇動する投稿を十分に取り締まっていなかったとして、同社のコンピューティングサービスからパーラーを排除した。

 

 これに対して1月11日、ツイッターの措置について尋ねられたアンゲラ・メルケル首相の報道官は、「問題である」とし、「ソーシャル・メディア・プラットフォームの運営者は憎悪、嘘、暴力への煽動によって毒されない、政治的コミュニケーションのための大きな責任を負っている」と答えたという(AP通信2020年1月11日)。

 

 いわば、「言論の自由」と「国家規制」とのバランスが問題化していることになる。同時に、この問題は、筆者がこのサイトで何度も論じてきた「ディスインフォメーション」(意図的で不正確な情報)の脅威にどう対抗すべきかという問題につながっている。そう考えると、今回のトランプへの言論封殺事件についてじっくりと考察することが求められているように思う。

 

 

インターネット規制と米国

 

 拙稿「サイバー空間と国家主権」で論じたように、インターネット規制については欧州が先行した。米国の場合、性表現が青少年に与える悪影響に対処する目的で、1996年のコミュニケーション品位法(CDA)、1998年の児童オンライン保護法、2000年の児童インターネット保護法というかたちで、徐々にインターネット規制に舵が切られることになる。

 

 ジェームズ・エクソンという上院議員が1994年7月に提出したCDA案は、「性行為、排泄行為」などについて、18歳未満の者が利用できる方法で表示や配信を行うことを相手が自発的に始めたかどうかにかかわらず禁止する、つまりネットの運用者にそうした情報を削除することを義務づける内容であった。法案審議が不十分なまま議会が解散してしまったため、エクソンは1996年CDA案を再び提出し、これが制定されたのだが、その際、修正が加えられた。

 

 クリストファー・コックス(カリフォルニア州選出、共和党)とロン・ワイデン(オレンゴン州選出、民主党)の下院議員が、ネットワークの秩序維持に取り組んでいるウェブサイトを守らなければ、インターネット全体が訴訟と刑罰を恐れて麻痺状態になることに気づいたのである(その事情については前者の述懐に詳しい)。そのため、彼らは、「双方向のコンピューター・サービスの提供者ないし利用者を、出版業者ないし別の情報内容提供者によって供給された情報の話者とみなしてはならない」という条項を入れたのである。これによって、第三者である利用者が供給する情報を広めるだけの双方向のコンピューター・サービス提供者および利用者は、中身に関する法的責任を、出版業者などと異なり、免れることができたのだ。これが、合衆国法典第47編第230条、通称CDA230条と呼ばれるものである。

 

 わかりやすく言うと、CDA230条は、ソーシャルメディアをその内容に法的責任がある新聞としてではなく、印刷物を販売するニューススタンドとみなしていることになる。

 

 忘れてならないのは、CDA自体が成立直後の1997年6月、最高裁判所によって無効と判断されたことである。「レノ対アメリカ自由人権協会事件」の最高裁判決は、インターネット上での未成年者へのわいせつなコミュニケーションを禁止するCDAの反品位条項の違憲を宣言した。表現の自由を定めた憲法修正第1条に違反しているというのである。それでも、言論の自由を促進するとされた230条は存続した。

米連邦最高裁判所 Shutterstock.com

 

 

コンテンツ・モデレーション

 CDA230条が生き残ったことで、フェイスブックやユーチューブなどのソーシャルメディアが行ったのが「コンテンツ・モデレーション」(content moderation)だ。ネット上の書き込みをモニタリングする投稿監視業務を意味することが多い。簡単に言えば、ソーシャルメディアは自主的に自らが扱う情報をチェックしてサイトの「平穏」を守ろうとしたわけである。これは、いわゆるディスインフォメーションを見つけてサイトからブロックするといった政策であった。ソーシャルメディアはその提供する情報によって社会的な動揺を引き起こす危険性について知っていたからこそ、自ら「自主検閲」を行い、政府による規制に抵抗しようとしてきたことになる。

 

 ただし、基本的にはサイト上の閲覧に制限を加えるといっても、コンピューターによる自動的な規制を加えるだけだから、ある規制が当初の目論見からずれてしまい、問題を引き起こすことがある。たとえば、ユーチューブは2017年にファミリー向けのフィルターを発表し、アダルトコンテンツや不適切なコンテンツを子どもが視聴できないようにしたのだが、この結果、LGBT関連の一般向けコンテンツにまで閲覧規制がかかってしまうといった事態が起きた。

 

 それでも、ソーシャルメディア側は何万人もの人々をコンテンツ・モデレーションのために雇い、有毒な投稿をかき分け、利用規約に違反するものを削除している。選挙などの重大事にかかわる誤報の広がりを制限しようとしてきた。とくに、フェイスブックには、論争のあったモデレーションの決定に対する不服申し立てを審理するための半独立の監視機関がある。

 

 

AIを利用した「検閲」

 フェイスブックは2020年11月、従業員の求めに応じるかたちで、ニュースフィールドのニュースをランクづけする「ニュースエコシステムの品質」(News Ecosystem Quality, NEQ)と呼ばれるアルゴリズムを変更した(2020年11月24日付の「ニューヨーク・タイムズ電子版」を参照)。20億人以上の人々が毎日何を見るかを決定するのに役立つランキングにおいて、権威あるニュースがより目立つようにしたのである。こうすることで、誤報のランキングを下げたり、ランキング外に追いやったりしようとしたのである。ところが、数週間後、フェイスブックはこのランキングシステムを停止した。別の実験では、フェイスブックは「世界にとって悪い」投稿を特定するように機械学習アルゴリズムを訓練し、そうした投稿をユーザーのフィード内で降格させた。実際に有害な投稿は少なくなったが、Facebookへのユーザーのログインがやや減少した。

 

 このように、いまでは厖大な量の情報を監視するために、一定のアルゴリズムに基づく人工知能(AI)が利用されている。それでも、どこまで閲覧制限といった「検閲」を実際に行うかの線引きは簡単ではない。今回のように、トランプの「永久追放」といったツイッターの措置については「言論の自由」を盾に反発も生じかねない。

 

 

「インターネット警察」の事例

 他方で、ソーシャルメディアが自ら「インターネット警察」の役割を果たし、特定の人物・組織のアクセスを遮断する例は多い。たとえば、極右に人気とされるソーシャルメディア、「ギャブ」(Gab)は、2018年10月の反ユダヤ主義者の集団銃撃犯がこのサービスを使って憎悪に満ちたコンテンツを拡散していたことが明らかになった後、ドメイン名を登録しているGoDaddyによって削除された。

 

 ほかにも、2019年3月にニュージーランドのクライストチャーチで起きたモスクでの銃乱射事件で犯人が掲示板に投稿していた8chanについて、同年8月にテキサス州エルパソで起きた銃乱射事件後、この事件が8chanのフォーラムに触発されて起きたとの見方から、コンテンツ・デリバリー・ネットワーク(CDN)大手の米クラウドフレア(Cloudflare)は8chanを追い出した。

 

 

トランプの「オンライン検閲防止に関する行政命令」

txking / Shutterstock.com

 

 こうした事情もあって、トランプは2020年5月28日、「オンライン検閲防止に関する行政命令」を出した。直接的には、ツイッターが彼のツイートに警告ラベルを貼ったことに対する圧力とみられている。同命令はCDA230条を批判し、ソーシャルメディア企業は「受動的な掲示板としての機能を停止し、コンテンツの作成者としてみなされるべきであり、また、取り扱われるべきである」と指摘している。

 

 「我々は、オンライン・プラットフォームに透明性と説明責任を求めなければならず、米国の言説と表現の自由の完全性と開放性を保護し、維持するための基準とツールを奨励しなければならない」という記述はおそらく正しいだろう。そのうえで、同命令では、2019年5月からホワイトハウスがはじめた、「オンライン検閲」の事例を報告できるようにするツール、Tech Bias Reportingを通じてもたらされた1万6000件以上の苦情を司法省と連邦取引委員会(FTC)に提出すると書かれている。とくに、FTCは商取引における、または商取引に影響をあたえる不公正または欺瞞的な行動などを禁止するための措置をとることを検討するよう求めている。

 

 こうして、トランプやその支持勢力が「言論の自由」を錦の御旗にしてソーシャルメディアによる検閲に責任を問う構図が生まれたことになる。それを決定的に破壊したのがツイッターのよるトランプのツイート禁止であった。

 

 

怒るトランプ支持者

 2021年1月8日夜、トランプ支持の共和党員はこれに激怒し、ツイッターの動きはシリコンバレーの専制的な言論統制の一例だと主張した。トランプの息子、ドナルド・トランプ・ジュニアは9日、「我々はオーウェルの1984年を生きている。もはや米国には言論の自由は存在しない。それはビッグテックとともに死んだ。残されたのは少数の人たちだけだ」とツイートした。

トランプJr.のツイート

 1月12日には、トランプ大統領自身が記者団に対して、ソーシャルメディアが「壊滅的な過ち」を犯したと語った。トランプのツイッターのフォロワー数は約8800万人、フェイスブックのフォロワー数は約3500万人にのぼる。これらのフォロワーを失うことは、トランプの今後の出方にも大きな影響をおよぼすことから、彼はソーシャルメディアに怒りをぶつけたわけだ。

 

 さらに、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンなどのビッグテックの検閲からの安全な避難所であり、陰謀論を唱えたり、脅迫をしたり、禁止されることを気にすることなく暴力的な集会を計画したりすることさえできる場所だったパーラーというプラットフォームが風前の灯に陥ったこともトランプ支持者を怒らせている。一説には、パーラーのアプリはiPhoneとアンドロイド・デバイスで1000万回以上ダウンロードされており、そのうち80%以上が米国でダウンロードされているという。

 

 トランプとしては、パーラーが利用できなければ、自身のプラットフォームを立ち上げることも視野に入っている。だが、アップルやグーグルなどの理解がなければ、スマートフォンを通じた情報拡散は望めない。いまのところ、前述のGabや保守派で人気の「ミーウィ」(MeWe)などにトランプ支持者が利用をシフトさせている。

 

 トランプ陣営は「言論の自由」を旗頭にして、ソーシャルメディア攻撃に出ている。その格好の標的がCDA230条の廃止である。おそらくこの問題は、コンテンツ・モデレーションの精緻化で230条廃止を免れたいソーシャルメディアと、ジョー・バイデン新政権との駆け引きのなかで、今後、くすぶりつづけるだろう(民主党のなかには、ビッグテックを解体したい左派もいれば、ビッグテックに懐柔的な勢力もある)。

 

 続いて、こうした状況を受けて筆者なりの「言論の自由」をめぐる問題整理を提起してみたい。(この項続く)

 

 

 前回の記事でトランプをめぐってのSNSでの「検閲」の状況を見てきた。ここで、筆者なりの「言論の自由」をめぐる問題整理を提起してみよう。簡単に言えば、「言論の自由」も「学問の自由」も主権国家を前提とする近代システムにおける「理想」にすぎない(「学問の自由」については、拙稿「日本学術会議騒動にみるもう一つの違和感」を参照)。言論を支える言語は国家語というかたちで国家によって守られつつ、義務教育を通じて押しつけられている。そうであるならば、言論はそもそも自由ではない。学問も国家による研究支援が常態化しており、本来、自由とは言えない。

 

 憲法によってこれらの自由が保障されているとしても、憲法は一つの国家の定めた法にすぎず、憲法の規定自体を不可侵なものとして崇めてはならないのである。むしろ、めざすべき目標と解釈すべきなのだ。それは、中立性が存在するかのようにみなしてジャーナリズムや教育現場での中立性を説く主張が実はインチキなのとよく似ている。真の意味での中立性は、本当は達成・維持できないからだ。

 

 

「公共空間」の大切さ

 もう一つの論点としてあげたいのは、「公共空間」規制は当然ということである。「言論の自由」も「学問の自由」も公共空間との関係のなかで主張されてきた。二つの自由が公共性をもつからこそ、実は国家規制の対象でありつづけているのである。ゆえに、この二つの自由は国家によって規制されており、本来、自由ではない。

 

 あるいは、言論も学問も言語を介してなされる以上、言語による制約を受けており、決して自由ではない。もっと言えば、人間は「条件づけられた存在」(ハンナ・アーレント著『人間の条件』)であって、そもそも自由ではない。

 

 この点をよく理解しているのは欧州だ。いま、欧州委員会はデジタルサービス法(DSA)とデジタル市場法(DMA)という二つの法律を制定しようとしている。その根底に流れているのは、公共空間への規制は合理的とみなす欧州の「知」なのである。

 

 わかりやすく言えば、欧州の各都市の景観が美しいのは、彼らが公共空間規制を当然と受け入れてきた結果だ。これに対して、公共空間概念が育たなかったアジアでは、都市の混沌が生まれ、看板やネオンサインの乱立といった醜い世界が公然と広がっている。こうした歴史的蓄積の違いが「言論の自由」や「学問の自由」をめぐる問題に対する誤った対応につながりかねないのである。

 

 

「不自由」から出発せよ

 大切なのは、不自由に気づくことなのだ。はっきり言えば、本来、言論は不自由であり、学問も不自由なのである。自由は不自由に気づいてはじめてその価値が理解できる。ゆえに、言論の不自由や学問の不自由に気づいて、はじめてそれらの自由の価値がわかるはずなのだ。「言論の自由」とか「学問の自由」を居丈高に叫び、その侵害を批判するのは本質を理解していない人々の戯言でしかない。これらの自由は

たしかに重要だが、それはめざすべき目標であって、議論すべきなのは具体的な不自由の中身なのである。

 

 中国メディアはいま、世界のだれもが真に言論の自由を享受しているわけではないというメッセージを中国の人々に向けて強化している(「ニューヨーク・タイムズ電子版」の記事を参照)。それにより、中国共産党が中国の言論を取り締まる道徳的権限を正当化しているようにみえる。ここで気づいてほしいのは、議論の核心が言論の自由の有無にあるのではなく、具体的な不自由をどう克服すべきかという問題にあることなのである。

 

 筆者は、その昔、ソ連やその支配下にあった中東欧諸国の人々が言論弾圧に苦しみ、その不自由ゆえに自由を渇望していたことを知っている。かつてチェコのプラハ大学の教員でありながら、1977年に人権回復を求めて出された「憲章77」に署名したために大学を追われ、当時大工をしていた人物に、筆者は1981年にプラハで会ったことがある。彼の粗末な部屋で、そのころの写真を見せられたことを覚えている。バケットの切れ端にレバーペーストをつけて食べながら、言論弾圧の苦しみについて教えられたのであった。こんな経験からみると、いま世界でもっとも自由の大切さを痛感しているのは、北朝鮮にいる人々なのかもしれない。

 

 

「言論の自由」があると考えている人々の能天気さ

 最初に紹介したブージュは記事のなかで、「ソ連では台所でしか笑えなかったのが、欧州ではそこでも笑えなくなってしまった」という話を書いている。テロ攻撃や新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への防衛を名目に、欧州でも人々は不自由を強いられている。しかし、それに気づいていないと言いたいのである。

 

 もっとも怖いのは、言論の不自由に気づかないために、その不自由に抵抗したり対抗したりしないままどんどん不自由になってしまう事態である。たとえば、いま、世界中の言論の自由が急激に制限されつつあることに気づいている人はどれだけいるだろうか。テレビに出てくる感染症の「専門家」なる人物はそもそも怪しい。かつ、彼らが自分の考えをそのままテレビでのべているかどうかも疑わしい。

 

 ここで重大なのは、「だれが正しくてだれが間違っているか」ではない。大切なのは、「だれが発言権をもっているか」だ。テレビでの発言権はだれによって担保されているかまで考えなければ、テレビでの発言の不自由さには気づけないだろう。政府に批判的な言説を吐けば、政府からにらまれ、それがテレビ局への圧力になり、発言の場が失われるという構造があれば、テレビに登場する人物は不自由を強いられかねない。だが、多くの視聴者はこんなことまで考えずに言論の自由があると信じて疑わない。その結果、どんどん不自由さが増していくのである。

 

 少し頭を働かせれば、実は身の回りがどんどん不自由になっていることがわかる。最初に紹介した「言論の自由という幻想」という記事では、「バチカンを批判することが可能になったのは、ある段階からである」と書いている。これは、「天皇を批判できなくなったのは、ある段階からである」と言い換えることができるかもしれない。アライ・ヒロユキ著 『天皇アート論:その美、〝天〟に通ず』を読めば、戦後、天皇を批判するアートが公然と存在した時代があったことを遠い昔のように感じることができるだろう。

 

 いずれにしても、「消費社会における言論の自由とは、何よりもまず、大衆にまだ考える自由があるとは思わせないことだ」というブージュの結論はきわめて重い。多くの大衆は言論の自由を信じるだけで、不自由に気づかないままどんどん不自由になってゆく。

 

 ゆえに、必要なのはまず、不自由に気づくことなのだ。そのうえで、どんな不自由に苦しんでいるかという具体的な事例を列挙して、一つ一つの事例について、その自由を実現するにはどうすればいいかを議論することが求められているのである。たとえば、トランプは根拠のない陰暴論のようなでっち上げが伝播しにくくなるという不自由を感じているだけであり、そんな不自由に対する自由など、本来、議論の対象にもならないはずなのだ。その意味で、ソーシャルメディアは自身をもってトランプのような人物のアクセスを遮断すればいい。ただし、彼に不服申し立ての権利を与え、その当否を独立した委員会で判断するといった仕組みが不可欠だろう。

 

 中国の場合、政府と個別企業が一体となって検閲と情報遮断をセットとして行っている。その言論弾圧に抗議することも抵抗することも認められていない。そこに、大きな問題があるのである。

 

 民主国家、米国での騒動とは別に、ベラルーシ、スーダン、バングラデシュ、ブラジルなどですでに起きているソーシャル・メディア・プラットフォームへの政府による規制は2021年にはもっと多くの国々に広がるだろう。それは不自由を各国の国民に強いる。こうした不自由に対しては、当然、反発すべきだし、反対運動を展開すべきだろう。同時に、こうした不自由を回避するシステムが利用できるようにすることも課題となる。

ロシア政府によるインターネット規制に抗議するモスクワ市民=2019年3月10日 Elena Rostunova / Shutterstock.com

 

 

分散型テクノロジーの活用

 いわゆる「ブロックチェーン」などのテクノロジーを活用すれば、検閲のないコミュニケーションが可能であるという現実がある。ロシアの反政府的な報道で有名な「ノーヴァヤ・ガゼータ」に頻繁に寄稿しているセルゲイ・ゴルビツキーは、「もしトランプがフェイスブックやツイッターではなく、分散型ブロックチェーン上で運営されているソーシャルネットワークを利用していたとしたら、だれも彼のアカウントをブロックすることはできないだろう」(「ノーヴァヤ・ガゼータ」2021年1月9日)と指摘している。

 たとえば、Mindsはブロックチェーン技術を活用して、グループや友達と直接メッセージやビデオチャットを安全に行うことができる。検閲にも強いとされる(「Bitcoin.com」2021年1月9日)。

 

 

 ユーチューブに代わる、より自由で検閲に強い分散型ソーシャルメディアには、ユーチューブにそっくりのDtubeLbryなどがある。

 

 このように、不自由さをあまり感じなくてすむ分散型ソーシャルメディアがすでに存在することを忘れてはならない。より自由を求めるならば、こうしたソーシャルメディアを利用すればいいだけの話なのだ。

 

 何が不自由かを具体的に考察するなかで自由の実現を考えることこそ、ここで論じてきた問題を解くカギであると筆者は思う。ゆえに、「不自由」であると感じるところから議論をスタートしなければならないと強調しておきたい。居丈高に「言論の自由」とか「学問の自由」と叫んでみたところで、問題解決にはつながらないのである。