正しく知ろう、韓中歴史懸案問題
このような点から「東北工程」に対する全国民の関心と懸念が高まるや、政府も長期的な対応策をまとめ、中国政府に公式に問題提起を行った。2004年8月、韓中口頭了解事項の合意により、中国の高句麗史歪曲に対し是正を求めることのできる根拠が用意された。
ところが、韓中両国の合意にもかかわらず「東北工程」の結果物が発刊され、「東北工程」の論理が拡散していることが露見した。そのため2006年9月と10月、盧武鉉大統領が中国の温家宝総理と胡錦濤国家主席にこの問題を提起し、是正を求めた。中国の最高指導者は、口頭了解事項を尊重して履行すると回答した。そして2007年2月、5ヵ年計画で推進されていた「東北工程」が表面的には終了した。
韓中口頭了解事項
次の5つの項目に対して合意した。
① 中国政府は高句麗史問題が両国間の重大懸案問題として台頭していることを認識。
② 歴史問題による韓中友好協力関係の 悪化を防止し、全面的協力パートナー関係への発展に向けて努力。
③ 高句麗史問題の公正な解決を図り、必要な措置を講じて政治問題化することを防止。
④ 中国側は中央および地方政府レベルで高句麗史関連の記述に対する韓国側の関心に理解を示し、必要な措置を講じていくことで問題が複雑化することを防止。
⑤ 学術交流を速やかに開催して問題を解決。
しかし、中国最高指導層の口頭約束と5年間の「東北工程」研究事業が終了したからといってすべての問題が解決されたわけではない。歴史学では研究の成果が重要な資料として活用され、発刊された研究成果物は、その内容の妥当性の有無に関わらず相当期間存続して影響を与えるものだからである。
「東北工程」の研究成果は学術的な次元にとどまらず、高句麗・渤海遺跡の表示板や博物館の案内文、大学の教材、教養書などにまで収録されている。いまや「東北工程」は専門の学者にとどまらず、学生および一般の中国人らの常識を変えていく段階に至っている。
古朝鮮・高句麗・渤海の歴史を中国史であると思い込むことを広い意味での「東北工程」と表現するなら、「東北工程」は現在も依然として続いており、またいつ終わるかも 分からない状況にあるといえる。東アジアの歴史は遠い過去から互いにからみ合って展開してきており、今後もそうであるため、関連する国々は事実を基にした和解と協力の歴史を綴っていかねばならない。そのためにも我々は、歴史的事実について正確に知っていなくてはならない。そうしてこそ歴史の歪曲に対処し、自国の歴史を守り通すことができる。まさにそれが、我々が「東北工程」の目的と主な主張を分析して問題点を把握し、それに応じた対応策を講じなければならない理由である。
2.「東北工程」推進の意図と「東北工程」式歴史認識のこじつけ
「東北工程」は2002年2月から5年間、中国社会科学院傘下の中国辺疆史地研究中心と 東北三省が協力し合って推進した中国の国策研究事業である。中国が「東北工程」を推進した理由は、次のようにまとめることができる。
何よりも中国は、今後の朝鮮半島で予想される情勢の変化が中国東北地域に及ぼす政治的・社会的影響とそれによる衝撃を封じて東北地域を安定化させ、北東アジアの国際秩序の変化に積極的に対処する必要があると考えている。
そのために中国は、国家主義的歴史観、特に各民族の団結を強調する「統一的多民族国家論」を東北地域に適用し、中国の歴史的アイデンティティを完結しようとしている。と同時に、朝鮮族が中国の国民としてのアイデンティティを固め、動揺したり離脱することのないように前もって防止しようとしている。
そして中国は、「古朝鮮・夫余・高句麗・渤海イコール中国史」という論理を一般化し、「満州は韓民族の故郷」、「古朝鮮・夫余・高句麗・渤海イコール韓国史」という韓国の歴史認識に対抗して、朝鮮半島と中国東北地域間の歴史的関連性を否定しようとしている。
また、「古朝鮮・夫余・高句麗・渤海イコール韓国史」という論理が続いた場合、モンゴルが元史を、中央アジアの一部の国が西域史を、ベトナムが秦・漢時代の百越と南越の歴史を、それぞれ自国の歴史であると主張する状況も起こりうるだろう。そうなれば中国の歴史・民族・国家のあるべき姿が危機に瀕する恐れがあると思われる。したがって中国は、歴史・民族・国家のアイデンティティを確立するためにも、周辺の民族国家の歴史論理に積極的に対処せざるを得ないのだ。
「東北工程」は、「中国の高句麗史収奪」というような「学術問題」の次元を超えて、今後の朝鮮半島情勢の変化と直結した戦略問題である。したがって「東北工程」を単に「中国の高句麗史収奪プロジェクト」程度に理解するのは誤った認識であるといえよう。「東北工程」には、今後の朝鮮半島の情勢変化および北東アジア国際関係の変化に対する予測と対応策の整備という、中国政府の積極的な意志が反映されている。こうした点から「東北工程」は、我が民族の現在だけでなく未来とも直接につながっている。
「東北工程」は、「現在」の必要に迫られて過去のイメージを新しく創り上げ、中華民族国家の歴史的淵源を再設定して、国民的統合と領土的統合を完遂しようとする典型的な事例だといえる。さらに、「現在の中国領土内において各民族が成し遂げた歴史的活動はすべて中国史である」という現在の便に供するための歴史観、「現在の中国領土内で活動していたすべての民族は当然のごとく中華民族であり、中国民族である」という民族観、近代以降に形成された「領土」の概念や「国境」の概念を前近代の時期にまで溯及して、不明な領域を現在の視点から恣意的に画定する領土観など、そのすべてが「領土」を基準にしているという点から、「領土至上主義」的歴史認識の産物であるといえる。
それと共に朝貢・冊封関係を根拠に朝貢国を中国の「属国」と規定し、中国が支配した空間を実際のそれよりも広く見ている点、「東北工程」の推進背景である「愛国主義」、「中華民族形成論」などといった「国家主義(中華優越主義)」が強いという点、「統一的多民族国家論」を掲げて周辺民族国家の歴史・文化領域を蚕食する文化的覇権主義の様相を呈している点などを考えると、「東北工程」の論理の中には膨脹主義的中華民族主義が隠されている。
「東北工程」の歴史的論理は、周辺国との学術交流や関連する諸遺跡に対する共同調査などを基に導出された「歴史的事実」に即しているのではなく、現在の中国が処している諸問題を解消するための国家戦略的な目的から生まれたものである。したがって「東北工程」の歴史的論理は、関連する隣接民族国家からの同意を得られず、特に中国と朝鮮半島の間に文化的・政治的葛藤をもたらしている。
しかし箕子朝鮮の話は、文献史料の上でも考古学的にも認めることができない。中国側の主張の根拠となっている『尚書大伝』は漢の時代に編纂された史書であり、それ以前の中国の史書にはなかった箕子に関する記録が漢の時代に入ってにわかに登場しはじめたのは、その時代にそれが求められたためである。
仮に人々が集団で移住してきて国を建てたとしたら、物質的な跡が残っていなければならない。しかし、遼東と朝鮮半島地域の青銅器文化は中国とは異なる固有の特徴を持っており、性格の上でも断絶することなくつながっている。一方、殷・周時代の青銅礼器などは、この地域では発見されていない。
琵琶形銅剣・美松里式土器・支石墓のような独自の文化を築いたのは、韓国の歴史書に登場する檀君朝鮮である。後に燕から渡ってきた衛満が政権を奪取したが、これが衛満朝鮮である。しかしこの場合、古朝鮮支配層の一部が交替しただけであって国家のアイデンティティには変化がなかった。朝鮮という国号をそのまま使用し、右渠王한국민족문화대백과のときには、朝鮮相 路人한국민족문화대백과、歴谿卿한국민족문화대백과、尼谿相 参などといった朝鮮人と見られる人々が高位の職務にかなり多く配属されていたことが確認されている。つまり衛満朝鮮も古朝鮮に含まれるという意味だ。一然が著した『三国遺事』において、新しい朝鮮である衛満朝鮮に相対する概念として檀君王倹の朝鮮を古朝鮮と称したのもそのためだ。後日、李成桂が建てた国を朝鮮と称したのも、我々が古朝鮮を受け継いだのだという意味であることは言うまでもない。
夏商周断代工程
実際の年代が明らかでなかった西周共和元年(B.C. 841年)からそれ以前の夏王朝成立時期までの絶対年代を確定しようとする中国の国家研究プロジェクトで、中国古代王朝の時間的範囲を拡張させる事業である。2000年に夏商周断代工程の成果報告を通じて、夏(B.C. 2070~1600年)、商(B.C. 1600~1300年)、商後期(B.C. 1300~1046年)、西周(B.C. 1046~771年)の年代を確定し、中国が周辺のどの国や民族よりもかなり早い時期に国を形成し、文明を発展させたことを誇示した。それによって民族的な自信と自負心を鼓舞し、民族的求心力を高める効果を挙げたと自評したが、ずさんで客観性に欠ける研究方法のために、国内外からは否定的な評価が幅広く提起されている。
断代工程年表
王朝 | 王 | 在位年度(紀元前) |
夏王朝 | 2070~1600年 | |
商王朝 | 前期 | 1600~1300年 |
商王朝 | 盤庚 | 1300~?年 |
小辛 | ||
小乙 | ? ~1251年 | |
武丁 | 1250~1192年 | |
祖庚 | 119~?年 | |
祖甲 | ||
廩辛 | ||
康丁 | ? ~1148年 | |
武乙 | 1147~1113年 | |
文丁 | 1112~1102年 | |
帝乙 | 1101~1076年 | |
帝辛 | 1075~1046年 | |
西周王朝 | 武王 | 1046~1043年 |
成王 | 1042~1021年 | |
康王 | 1020~996年 | |
昭王 | 995~977年 | |
穆王 | 976~923年 | |
共王 | 922~900年 | |
懿王 | 899~892年 | |
孝王 | 891~886年 | |
夷王 | 885~878年 | |
厲王 | 877~841年 | |
共和 | 841~828年 | |
宣王 | 827~782年 | |
幽王 | 781~771年 |
夏商周断代工程の研究成果を継承してその研究範囲を時間的・空間的に拡大しようとする、中国古代史・考古学における国家的プロジェクトである。夏商周断代工程で確定した夏王朝時代より以前の文献によって伝わっているいわゆる「 五帝」時代における中国文明の系譜を構築しようとする研究である(紀元前3500∼2000年)。考古学的な証拠に基づいて夏王朝以前の伝説の時代を復元し、中国五千年の文明史を事実として立証しようとするもので、黄河沿辺に炎帝と黄帝に関連する大型の遺跡公園を整備するなど、虚構の歴史を「史実」であるかのように見せようとする試みが各地で展開されている。だが、五帝伝説は戦国時代に創作されたもので、事実とは切り離して理解されるべき神話の類に属する。
夏商周断代工程の研究成果を継承してその研究範囲を時間的・空間的に拡大しようとする、中国古代史・考古学における国家的プロジェクトである。夏商周断代工程で確定した夏王朝時代より以前の文献によって伝わっているいわゆる「 五帝」時代における中国文明の系譜を構築しようとする研究である(紀元前3500∼2000年)。考古学的な証拠に基づいて夏王朝以前の伝説の時代を復元し、中国五千年の文明史を事実として立証しようとするもので、黄河沿辺に炎帝と黄帝に関連する大型の遺跡公園を整備するなど、虚構の歴史を「史実」であるかのように見せようとする試みが各地で展開されている。だが、五帝伝説は戦国時代に創作されたもので、事実とは切り離して理解されるべき神話の類に属する。
遼河文明論
「遼河文明論」は、遼河地域に誕生した古代文明と文化の発展に関する議論である。そのスタートを飾る紅山文化は一種の新石器文化であり、石材を積み上げた大型の墓と「女神廟」と呼ばれる神殿建築などを相当数残しており、比較的発達した文化を誇っていた。中国の学界ではそれを根拠に、発達した権力と階層化された社会を持つ「文明」がすでにこの時期に登場していたと見なしている。また、この文化が黄河流域の仰韶文化などと交流しながら「中国文明」の原型を創造したと主張し、この文化は中国人が共通の先祖として祭っている黄帝の部族が築き上げた文明であると見ている。遼河流域の紅山文化から推定される発達した文化的要素に基づき、中国初の文明が黄河ではなく遼河流域で成立したことを立証しようとするこの試みは、「文明」の概念のこじつけ的な適用というべきで、多くの論議を呼びそうだ。
万里の長城の築造範囲
- ▶ 秦の始皇帝の長城は大同江まで続いていた。
- ▶ 長城が、遼河までしか築造されていなかったのは中国の文献や遺物を通じて明らかである。
中国では、春秋戦国時代の混乱を統一した 秦の始皇帝が造成した長城が北朝鮮の清川江、さらには大同江の河口にまで達していたと主張している。その結果、中国の歴史教科書や指導集には長城が大同江まで表示されている。
これは古朝鮮の歴史を中国史であるとする主張と軌を一にするもので、古朝鮮の領域範囲を縮小させる明白な歴史歪曲である。
秦の万里の長城に関する最も信頼すべき史料である 『史記』には、秦の長城の東端が遼東にまで及んだとされている。そして『史記正義』には、「遼東郡は遼河の東方にあり、秦の始皇帝が長城を築いて東方の遼河にまで及んだ」とあり、長城が事実上、遼河を越えていなかったことを断言している。それに関して注目すべきことは、長城の遺跡が遼河西側の阜新地域までは明確に現れているが、遼河の東側からは発見されていないという点である。その上、燕と秦が築造した長城であると中国が主張している大寧江一帯の長城は、最近の調査により高麗時代のものであることが明らかとなった。したがって、朝鮮半島西北部地域にまで長城を表示した中国の教科書は修正されてしかるべきである。
「万里の長城」の延長問題
2012年6月5日、中国の国家文物局は、中国の「歴代長城)」の総距離が21,196.18kmであると発表した。「歴代長城」および長城関連の遺跡は、東は黒竜江省から西は新疆ウイグル自治区にまで分布しており、長城遺跡は城壁、塹壕、付属する建物、関堡および関連施設を含めて合計43,721ヶ所に達するという。この発表は「長城保護工程」事業から出た結果であり、中国の国家文物局と国家測量局が主管するものであった。
中国の長城発表が物議をかもした理由は、その調査結果がこれまで知られていた長城に対する認識からかけ離れていたためである。当初、ユネスコのホームページには中国の長城について、河北省の山海関から甘粛省の嘉峪関に至る総延長6,000kmの軍事的構造物であると定義されていた。この6,000kmというのは約1万里を上回るため、「万里の長城」という名で呼び習わされている。
ところが、中国の発表はこの長城の長さを約4万里にまで引き伸ばしたもので、従来の常識とは大きく異なる。そのためか、中国はこの長城に「万里の長城」という名の代わりに「歴代長城」という新たな名称をつけた。しかしこの「歴代長城」には、漢族以外に前近代の東北アジアで活躍したすべての民族が築いた城が含まれていたため、論争がさらに深まった。
特に韓国の場合、長い歳月に渡って満州を支配していた高句麗・渤海の幾多の城郭まで「歴代長城」に含められることで、韓民族の先祖が残した遺跡が中国の遺跡に成り変ってしまう状況におかれることになった。これまで明らかになったところでは、高句麗が築いた吉林省にある老辺崗土 長城や渤海が築造した黒竜江省にある牧丹江辺牆などが「歴代長城」に含められている。高句麗の「千里長城」は、間近に迫った唐の侵略に対抗するために築造されたと史書は伝えている。その高句麗の長城が、いつの間にか高句麗人が立ち向かった唐の長城へと成り変っている。このような中国の「歴代長城」が歴史的事実と遺跡固有の性格を無視したものであることは言うまでもない。
それなら、中国の「歴代長城」とはどのような背景から出たものなのだろうか。国家文物局の「歴代長城の総長」発表に引き続き、中国のメディアが「歴代長城」という名称の代わりに「万里の長城」に言及していることから、その意図をうかがうことができる。中国人の象徴でありかつ誇りでもある「万里の長城」のイメージを被せながら、「歴代長城」を中華民族の象徴にしようとする試みなのだ。また、「歴代長城」が広がる広大な北方地域が元々中国の領土だったという点を確認させようとする企みがあると見られる。つまり、世界文化遺産の「万里の長城」がいつの間にか「統一的多民族国家論」に符合する象徴物へと変貌しているのである。
「長城保護工程」は「東北工程」とはいえないが、「統一的多民族国家論」という歴史認識が反映された事業であることは明らかである。そのような意味で、「東北工程」は今も引き続き進められているといえるだろう。
長城保護工程(2005~2014)
中国各地において深刻な破壊が進む長城遺跡を保護し、その利用を規範化しようとする目的から、現在残っている長城に対する正確な調査と判定を試みる事業である。 国家文物局と 国家測絵局が主管している。しかしながらその目的が遺跡の保護に留まるものではないという点は、すでに2009年に「明の長城」の長さを新たに確定した前例から確認されている。遺跡保護という大義名分を掲げて「歴代長城」という名を前面に押し出しているが、長城を中華民族の象徴として活用しようとする意図であると把握されている。
統一的多民族国家論
中国は漢族と55の少数民族で構成された多民族国家である。漢族が絶対多数を占めているが、55の少数民族もその規模に関わりなく、戦略的要衝であり資源の宝庫でもある地域に幅広く暮しているため、中国政府の立場からは少数民族の分離的傾向を未然に封じることが課題となっている。そのため中国は、「統一的多民族国家論」という新たなイデオロギーを創り出した。現在中国内に存在するすべての民族が中華民族を構成しており、この中華民族は最近になってはじめて形成されたのではなく、はるか遠い先史時代から現在に至るまでの歴史的経験を通じて自然に形成されてきた実体であると主張する。
中国は漢族と55の少数民族で構成された多民族国家である。漢族が絶対多数を占めているが、55の少数民族もその規模に関わりなく、戦略的要衝であり資源の宝庫でもある地域に幅広く暮しているため、中国政府の立場からは少数民族の分離的傾向を未然に封じることが課題となっている。そのため中国は、「統一的多民族国家論」という新たなイデオロギーを創り出した。現在中国内に存在するすべての民族が中華民族を構成しており、この中華民族は最近になってはじめて形成されたのではなく、はるか遠い先史時代から現在に至るまでの歴史的経験を通じて自然に形成されてきた実体であると主張する。
夫余族の源流
▶ 夫余族は韓民族とは何の関わりもない中国古代からの少数民族のひとつである。
▶ 夫余は古代韓民族の源流である濊貊族が建てた国である。
.中国は、夫余族が山東地域から発源し、早くから中国に隷属してきたために、中国の地方文化の一部または鮮卑族の文化であると主張している。これは夫余と韓国史との関係を断絶させるための「東北工程」式主張に過ぎない。
夫余は、古朝鮮・高句麗・沃沮・東濊などの主流を形成していた古代の韓民族である濊貊族が建てた国である。中国の史書である『三国志』にも、夫余が濊貊の地にあり、高句麗のことを貊人または濊貊と呼び習わし、言語や法則が夫余とほぼ同じ夫余別種であると記録している。また、咸鏡道一帯の東沃沮人のことを濊民、東海岸一帯の政治勢力のことを濊と呼び、遼東地域には高句麗に編入された梁貊がいたという点から、遼東と朝鮮半島北部地域には濊貊族が土着民として暮していたことがわかる。
この人々は種族として同一であるのみならず、同族としての意識も持っていた。高句麗と百済は互いに自分たちが夫余の正当な継承者であると主張した。高句麗では建国の祖である朱蒙が、自らが夫余の流れを汲むことを内外に宣言し、百済も427年に北魏に送った外交文書において、百済と高句麗がどちらも夫余から発源したことを明らかにしている。また、百済王族の姓は夫余氏・余氏・解氏で、聖王のときは国号を扶余に変えたりもした。
考古学的にも、夫余史は中国史ではないことが立証されている。夫余地域では中国文化とはまったく違う独自の文化が発展した。特に第2松花江中流流域において発展した 西団山文化は、遼東や朝鮮半島の青銅器文化と非常に類似している。
こういった点は、夫余国が韓国の古代国家であり、夫余族が古代の韓民族である濊貊族であって、明らかに韓国史であるということを示す事実である。
高句麗のルーツ
▶ 高句麗は中国の古代民族が建てた中国古代の地方政権である。
▶ 高句麗は種族の起源や歴史の継承意識すべてにわたって韓国史の一部であることを示している。
中国の学者らは、民族の起源というものが国家と歴史の帰属に最も重要な要素であると見なしている。このような見解に基づいて、中国の古代民族が高句麗を建国したのであるから高句麗史は中国史であると主張している。中国の学者らは、高句麗民族の起源を濊貊・夫余・高夷・ 商人・炎帝族に求めている。最近では、これらすべてと漢族が結合して高句麗を構成し、その中でも漢族が中心となっていたとの見解が力を得ている。すなわち濊貊を含む高句麗の構成員すべてが中国の古代民族であるので、高句麗は中国古代の地方政権であるとの主張である。
しかし、複数の歴史書に高句麗は中原から渡ってきた民族ではなく、遼東と朝鮮半島中北部一帯の土着族である濊貊族が建てた国であると記録されている。この濊貊は、中国の北方で活動していた貊族とは別の存在であり、三韓の韓族と同じ東夷族に属する。
そして、民族の起源よりもさらに重要なのは、高句麗人らが誰と歴史的経験を共にし、どの国からの継承意識を持っていたのかという点である。同じ種族であっても同族意識を持たず、後世の人々が先祖であると考えないのであれば、その歴史は継承されない。高句麗人は自らを中国人とは別の存在であると考えており、新羅人・百済人・東夫余人に対しては同属意識を持っていた。
高句麗・百済・新羅の三国は互いに闘争したり交流したりしながら歴史的経験を共有しており、それがついには統合の道へとつながっていった。新羅の統一意識、渤海、後三国、高麗の成立は、高句麗史が韓国史に属するということを示す明らかな証拠である。
高句麗は中国の地方政権かそれとも独立国か
▶ 高句麗は古代中国の領土内において成立・発展・滅亡したのであるから中国の地方政権である。
▶ 高句麗は中国の勢力を駆逐する過程で建国・発展した独立国である。
中国では、高句麗が漢四郡のひとつである玄菟郡の区域内に建国され、何回もの遷都にもかかわらず漢四郡の範囲を出ていないため、中国の地方政権であると主張している。
しかし、高句麗は玄菟郡の区域内に建国されたのではなく、玄菟郡を駆逐する過程で建国されたのであり、国を成立させた後には一度も中国の領土内に属したことはなかった。したがって、高句麗が中国の地方政権であるとの主張は重大な歴史の歪曲である。
高句麗が漢四郡とは別の独立国であったことを立証する史料
•『三国志』 : 玄菟郡の東側の境界に小城を築き、その中に朝服や衣幘を置いておくと、歳時に来訪して持って行く → 玄菟郡と高句麗の間に境界があったことを意味する。朝服と幘を置いておくと来訪して持って行ったというのは、政治的な支配関係ではなく、高句麗が中国の領土の外にある独立国であったことを示している。
•『三国史記』 : 高句麗と中国との戦争の諸記録 → 高句麗が漢四郡の領域外にあったことを示している。
高句麗史に登場する朝貢・冊封の意味
▶ 高句麗は中国と朝貢・冊封関係を結んだ地方政権である。
▶ 朝貢・冊封は古代の外交形式であって、それだけで高句麗を中国の地方政権だとすることはできない。
.中国の学者らは、高句麗が中国に朝貢を行い冊封を受けたのであるから、中国の地方政権であると主張している。
しかし、朝貢・冊封は前近代に東アジア諸国が中国と結んでいた外交の形式であり、朝貢を行い冊封を受けたという事実だけでは属国かどうかを判断する基準とはなりえない。
周辺の国々は、中国との交流を通じて得られるメリットのために積極的に中国と朝貢・冊封関係を結んだ。中国の学者らもその点を認識し、中国と他国との関係を見る際に、名分上・字句上の朝貢・冊封関係と実際の状況を区分して把握している。ところが、高句麗に対してだけは実像を歪曲している。
朝貢・冊封が定着した中国の南北朝時代には、高句麗はむしろ南朝・北朝と対等な関係を維持していた。高句麗は両王朝の双方とも朝貢・冊封関係を結んだが、自国の利害関係によって両王朝との関係を調整した。しかし、いずれの王朝も高句麗に制裁を加えたり政治的に干渉したりすることはできなかった。これは、朝貢・冊封が中国の地方政権であることを証明する根拠とはなり得ないことを示している。仮に、朝貢・冊封関係だけで中国の地方政権であると見なすのであれば、新羅・百済はもちろんのこと、日本・ベトナム・高麗・朝鮮などの地域や時代を異にするほぼすべての東アジア諸国までもがすべて中国の地方政権であると見なければならなくなる。
高句麗史に登場する朝貢・冊封
• 平壌遷都以前までは、高句麗と中国の間には平和な期間よりも戦争の期間の方が長く、冊封も行われていなかった。これは、高句麗が中国の地方政権ではなく、独立国であることを証明している。
• 高句麗は北魏との朝貢・冊封関係にもかかわらず北魏軍に対抗し、北燕王馮弘を迎え入れ、送還要求を拒絶した。北魏と敵対していた南朝の齊と使節団を交換し、越境外交を展開した。これは、朝貢・冊封関係の拘束力というものがどれほどの水準であったのかを示している。
高句麗と隋・唐間の戦争の性格
▶ 高句麗と隋・唐間の戦争は中国内部の統一戦争だった。
▶ 高句麗と隋・唐間の戦争は国家間で行われた国際戦争だった
「東北工程」の論理では、隋・唐の高句麗侵略は中国内部の統一戦争であり、地方政権の反乱を鎮圧した事件だったと主張している。また、隋の煬帝・唐の太宗が高句麗侵攻の大義名分として掲げた詔書の内容を何の批判もなくそのまま受容し、高句麗が隋・唐との臣属関係を破ったため、これに懲罰を与えるために高句麗を征伐したとして戦争の当為性を強調している。
しかし隋・唐の高句麗侵略は、中原統一後の東アジア一帯に中華社会を具現するにあたって障害となる高句麗を征服するために起こした侵略戦争である。隋・唐は自国中心の覇権主義を実現しようとし、高句麗は独自の勢力圏を保持しようとしたために、互いに妥協の余地がなくなってしまった。そして、新羅・百済・日本・ 突厥などの隣接諸勢力が自国の利害関係に従ってどちらか一方に加担するに至って、両勢力間の国際戦争へと発展したのである。
高句麗と隋・唐間の戦争が国際戦争であったことを証明する事実
• 隋は南北朝を統一した後、中原統一を果たしたと宣言 → これは高句麗が隋の地方政権ではなかったことを認めたもの。
• 『旧唐書』と『新唐書』に「唐の高祖が、高句麗と中国は別の国であるのに敢えて支配する必要があるのか」と発言した記録が残っている。
• 唐の力だけで高句麗征服が不可能となるや、新羅と連合して高句麗を滅亡させたのは、この戦争が国際戦争であることを示すものである。
高句麗の歴史は中国史かそれとも韓国史か
▶ 高句麗の遺民の多くが中国人となったのだから高句麗は中国史である。
▶ 歴史の継承は人数ではなく、継承意識と復興の意志で評価される。
「東北工程」では、高句麗の遺民の相当数が中国に流入して漢族に吸収されたのであるから高句麗史は中国史であると主張する。高句麗の遺民のうち2万8千戸余りの人々は唐によって中国内地に強制的に移住させられ、一部は高句麗の旧都に残留して大祚栄が渤海を建国するとその下についた。また、一部の遺民は唐の支配を避け突厥へと逃亡したり、日本に渡海したりもした。新羅へと移住する人々も多かった。中国では高句麗遺民の1/7だけが新羅に下って韓国人の先祖となり、それよりはるかに多くの人々が中国人になったとして、高句麗史は中国史であると主張している。
ところが、唐に連れて行かれた人々は自らの意志とは関わりなく強制連行されていったのであり、その後その存在は消え去ってしまった。しかし、新羅に移住した人々は三国間の交流を通じて培われた同類意識に基づいて新羅を選択したのであって、高句麗復興の意志と継承意識を持っていた。高句麗の遺民を受け入れる立場においても、唐と新羅の間には相違があった。唐は高句麗の復興を防止するために遺民らを強制的に集団移住させた。一方、新羅では遺民を受け入れて 報徳国を建てることを許し、三国を統一したことを強調した。これは、新羅が高句麗と百済の歴史も継承したということを宣言するものである。このような高句麗継承意識は、渤海、後三国、高麗を経て今日の我々にまで伝えられている。
高句麗史の韓国史帰属を立証する決定的な要素
• 高句麗復興軍の活動
• 高句麗の復興国である報徳国の存在
• 三国統一を強調した新羅の「一統三韓意識」
• 高句麗の継承国であることを宣言した渤海、後高句麗、高麗の存在
• 高句麗・百済・新羅を韓国史としてまとめた歴史書の存在
※ 『三国史記』、『三国遺史』、『帝王韻紀』、『東国李相国集』などは、高句麗史が韓国史に帰属し、韓国史として継承されたことを示す確実な証拠である。
高麗の高句麗継承論議
▶ 高麗は高句麗を継承する国ではない。
▶ 中国人も高麗が高句麗の継承国であると記録している。
中国の学界では、高句麗史と韓国史との継承関係を遮断するために、高朱蒙が建てた高句麗と王建が建てた高麗は名前が似ているだけで、互いに継承関係のない別の国の歴史であるとしている。高句麗は今日の中国人の先祖が建てた中国の歴史上の国だが、高麗は今日の韓国人の先祖である新羅の末裔が建てた国であるというのだ。そして、『宋史』の編纂者が高句麗を継承した国は高麗であると記録したこと自体、間違った認識から生まれた誤謬であると主張している。
しかし、高麗は高句麗を継承した国であることを国号で表し、建国初期から高句麗の首都であった西京(平壌)を重視して北進政策を推進した。高麗の人々は、高句麗の末裔であることを誇りにしていた。徐熙将軍が契丹の将軍・蕭遜寧と談判し、契丹が高麗の先祖である高句麗の地を占領していることをこと細かく批判して契丹軍を撤収させたという逸話は、高麗人の高句麗継承意識を示すものである。
高麗は、前王朝の歴史として、高句麗・百済・新羅の歴史をまとめた『三国史記』を編纂した。高麗人にとっては、高句麗史が高麗の先代の歴史であることが常識だったわけだ。このような常識は歴代中国の歴史学者らも持っており、1345年に編纂された『宋史』に高句麗-高麗への継承関係を記述し、その後の歴史書もそれに従っていた。そして、中国の正史では終始高句麗史を外国列伝として扱っていた。しかるに、今になってその末裔たちが政治的な目的から先祖が叙述した歴史書までも否定し、常識を変えようとしている。
韓国は高麗、すなわちコリアである。高麗が復興させて受け継いだ国号を今もその子孫が使用しているのだ。古今東西を問わず、関わりのない他国の国号を受け継ぐケースはない。高句麗史が韓国史に属するという事実は、コリアという国号だけを見ても充分に立証できるものである。
渤海のルーツ
▶ 渤海は靺鞨人の国であるから中国古代の少数民族が建てた地方政権である。
▶ 渤海は高句麗の遺民が建てた国で、高句麗を継承する独立国である。
.中国の学会は、建国者である大祚栄のみならず渤海の住民が靺鞨人であると主張している。『新唐書』において渤海はもともと粟末靺鞨であるとした記録を根拠にしている。また、渤海の住民は靺鞨人が多数を占めていたという。
靺鞨人が渤海の建国に力を貸し、渤海の住民に含まれていたのは事実である。だがしかし、靺鞨人はあくまでも被支配層であり、国を建国して国政を運営した支配層は高句麗の遺民たちであった。『旧唐書』には「渤海靺鞨の大祚栄は高麗別種」と記され、高句麗系であったことを明らかにしており、高句麗の遺民が中心的な役割を果たしていたことがわかる。
「渤海人とは何人なのか」という問題は、渤海人が自らの種族の系統をいかに認識していたのかを見れば明らかになる。渤海が日本に送った国書では、自らが高句麗の旧跡を取り戻し、夫余の伝統を持っていると述べ、「高麗国王」あるいは「天孫」であるとして、高句麗を継承したことを示す表現を使っている。渤海人自身が自らを高句麗の継承者であると認識していたことを示す明らかな証拠である。
高句麗の遺民が渤海を建国したことを証明する諸事実
• 『旧唐書』の「高麗別種」という言葉は、大祚栄とその建国の主体が高句麗の遺民であったことを意味していること。
• 日本に送った国書において夫余の伝統を持ち、「高麗国王」あるいは「天孫」と称していること。
• 渤海人の姓氏のみならず支配層の多数が高句麗系だったこと。
• 高麗時代の李承休による『帝王韻紀』の「東国郡王開国年代」において渤海を韓国史として記述していること。
「渤海人とは何人なのか」という問題は、渤海人が自らの種族の系統をいかに認識していたのかを見れば明らかになる。渤海が日本に送った国書では、自らが高句麗の旧跡を取り戻し、夫余の伝統を持っていると述べ、「高麗国王」あるいは「天孫」であるとして、高句麗を継承したことを示す表現を使っている。渤海人自身が自らを高句麗の継承者であると認識していたことを示す明らかな証拠である。
▶ 渤海国王が唐から冊封を受けていたのだから渤海は唐の地方政権である。
▶ 渤海は冊封とは関わりなく王位の継承が行われた独立国である。
.中国の学者らは、唐が渤海に忽汗州を置き、渤海国王を渤海郡王忽汗州都督に冊封したことを挙げて、渤海が唐に隷属していた地方政権であったとする。
渤海の国王が唐の冊封を受けたという事実は、渤海が唐の地方政権であることを立証する根拠とはなり得ない。渤海と同じく新羅や日本も唐の冊封を受け、使節を派遣して朝貢していた。中国の学会の論理によれば、新羅や日本も唐の地方政権であったと見なければならない。しかし、中国の学者らはこの件については口を閉ざしている。事実かどうかは別にして、論理的に矛盾があるということを認知しているためである。
渤海は国王のことを「皇上」と呼び、独自の年号を使用してその帝国ぶりを内外に示す独立国であった。また、唐に留学した渤海人は賓貢科(外国人のための科挙試験)を受けることができた。
徐熙と柳得恭
993年(高麗成宗12)に契丹の蕭遜寧が高麗に侵入するや、高麗の内史侍郎である徐熙が談判を通して逆に江東6州を取り戻す外交的成果を挙げた。その際、蕭遜寧は契丹が高句麗の旧跡を占領しているとし、高麗がその地の一部を占拠していると抗議した。これに対して徐熙は、国号を高麗として平壌に都を置いたという事実こそ高麗が高句麗を継承したという事実を立証していると反駁した。
柳得恭はその代表的な歴史書である『渤海考』において、百済が滅亡して高句麗も滅ぶや、新羅が南方を領有してその北方を渤海が領有したのだから、まさに南北国であるとした。したがって南北国史があってしかるべきなのに高麗がこれを編纂しないのは誤りであると指摘し、大氏(大祚栄)は高句麗人であり、その領有するところの土地は高句麗の地であるとして、渤海が高句麗を継承したことを強調した。
渤海は中国の地方政権かそれとも独立国か
▶ 渤海国王が唐から冊封を受けていたのだから渤海は唐の地方政権である。
▶ 渤海は冊封とは関わりなく王位の継承が行われた独立国である。
.中国の学者らは、唐が渤海に忽汗州を置き、渤海国王を渤海郡王忽汗州都督に冊封したことを挙げて、渤海が唐に隷属していた地方政権であったとする。
渤海の国王が唐の冊封を受けたという事実は、渤海が唐の地方政権であることを立証する根拠とはなり得ない。渤海と同じく新羅や日本も唐の冊封を受け、使節を派遣して朝貢していた。中国の学会の論理によれば、新羅や日本も唐の地方政権であったと見なければならない。しかし、中国の学者らはこの件については口を閉ざしている。事実かどうかは別にして、論理的に矛盾があるということを認知しているためである。
渤海は国王のことを「皇上」と呼び、独自の年号を使用してその帝国ぶりを内外に示す独立国であった。また、唐に留学した渤海人は賓貢科(外国人のための科挙試験)を受けることができた。
渤海文化の独自性
▶ 渤海と唐の文化的な相違は中央と地方との相違に過ぎない。
▶ 渤海は高句麗文化を継承した土台の上に唐の文物を受容した。
中国の学者らは渤海の文化を次のように説明する。靺鞨人の文化が渤海文化の基礎を形成し、建国後には唐の文化の強い影響のもとに渤海文化が発展した。渤海が唐に派遣した多くの使節を通じて唐文化の輸入に努めたという事実が、これを裏付けている。また渤海は唐の地方政権であるため、その文化も国家的な相違とはいえず、中央と地方との相違に過ぎない。
渤海の文化に靺鞨や唐文化に由来する要素が存在するのは事実である。だがしかし、より重要なのは高句麗文化の影響である。例えば、渤海の首都である上京城や日本との交通路にあった現在の沿海州クラスキノ土城は、現存する城壁、瓦、仏像の築造方法やオンドルなどから高句麗との関連性がはっきりと認められる。特に、中国吉林省和龍の龍海古墳群からは高句麗特有の冠帽である鳥羽冠に非常によく似た冠帽が発掘され、渤海と高句麗文化の類似性を再確認させてくれる。
渤海には唐との交通路以外に新羅道、日本道、契丹道があった。渤海は唐のみならず当時の東アジア諸国とも交流していた。このことから渤海文化は、固有のものに加えて唐の文化をはじめとする東アジア諸国の文化と互いに影響を与え合っていたと理解するのが合理的である。
渤海文化の独自性を示す諸事例
• 王は可毒夫、聖人、皇上と呼び、王妃は皇后と称した。
• 3省(宣詔省・中台省・政堂省)と6部(忠・仁・義・智・礼・信部)の名称や運営方式が唐とは異なり、渤海特有のものだった。
• 貞孝公主墓のように墓の上に塔を建てる墓制度は、周辺国では見られない渤海だけの独特な文化である。
渤海文化の独自性
▶ 渤海と唐の文化的な相違は中央と地方との相違に過ぎない。
▶ 渤海は高句麗文化を継承した土台の上に唐の文物を受容した。
中国の学者らは渤海の文化を次のように説明する。靺鞨人の文化が渤海文化の基礎を形成し、建国後には唐の文化の強い影響のもとに渤海文化が発展した。渤海が唐に派遣した多くの使節を通じて唐文化の輸入に努めたという事実が、これを裏付けている。また渤海は唐の地方政権であるため、その文化も国家的な相違とはいえず、中央と地方との相違に過ぎない。
渤海の文化に靺鞨や唐文化に由来する要素が存在するのは事実である。だがしかし、より重要なのは高句麗文化の影響である。例えば、渤海の首都である上京城や日本との交通路にあった現在の沿海州クラスキノ土城は、現存する城壁、瓦、仏像の築造方法やオンドルなどから高句麗との関連性がはっきりと認められる。特に、中国吉林省和龍の龍海古墳群からは高句麗特有の冠帽である鳥羽冠に非常によく似た冠帽が発掘され、渤海と高句麗文化の類似性を再確認させてくれる。
渤海には唐との交通路以外に新羅道、日本道、契丹道があった。渤海は唐のみならず当時の東アジア諸国とも交流していた。このことから渤海文化は、固有のものに加えて唐の文化をはじめとする東アジア諸国の文化と互いに影響を与え合っていたと理解するのが合理的である。
渤海文化の独自性を示す諸事例
• 王は可毒夫、聖人、皇上と呼び、王妃は皇后と称した。
• 3省(宣詔省・中台省・政堂省)と6部(忠・仁・義・智・礼・信部)の名称や運営方式が唐とは異なり、渤海特有のものだった。
• 貞孝公主墓のように墓の上に塔を建てる墓制度は、周辺国では見られない渤海だけの独特な文化である。
渤海の滅亡と復興運動
▶ 渤海は契丹の遼に滅ぼされたのだから渤海史は中国史である。
▶ 旧渤海領のあちこちで復興運動が相次ぎ、渤海遺民の高麗移住が200年間続いた。そればかりか、渤海の遺民を受容した高麗は渤海継承意識を示した。
.中国の学者らは、渤海が遼に滅ぼされた後、遺民の大多数が遼の百姓として生活を続け、高麗に移住した者は少数であったという点を挙げ、渤海史を中国史であると主張している。渤海が遼によって滅ぼされ、契丹の遼は現在の中華民族として融和しているのであるから、渤海史は中国史であるとの立場をとっている。
渤海最後の王である大諲譔は遼に降伏したものの、渤海人らは復興運動を起こして遼の支配に抵抗した。渤海遺民らの復興運動は、記録に残っているものだけを見ても後渤海・定安国・興遼国・大渤海などがあり、後渤海と定安国の存続期間は数十年にも及んでいる。渤海の遺民らが遼の支配に強く抗ったことを示す事例である。
また、渤海の皇太子である大光顕두산백과が数万戸の百姓らを率いて高麗に移住したという事実は、渤海人らが高麗のことをどう思っていたかを如実に知らしめる例であろう。『高麗史』の記録には、大光顕以外にも渤海遺民の高麗移住が睿宗11年(1116)まで続いている。少ないときは数十人から多い時には数万人の集団的な移住が継続的に続いていたのだ。
高麗の渤海遺民に対する処遇は、渤海と高麗の継承関係を如実に表している。渤海の滅亡後、高麗太祖は渤海を親戚の国と呼んでおり、大光顕には王の姓を授与し、先祖の祭祀を続けさせた。一方、遼が使節を遣わすや、渤海を滅ぼした無道の国として修交を断った。有名な萬夫橋事件はこのときに起こったものである。
高麗の渤海遺民に対する処遇は、渤海と高麗の継承関係を如実に表している。渤海の滅亡後、高麗太祖は渤海を親戚の国と呼んでおり、大光顕には王の姓を授与し、先祖の祭祀を続けさせた。一方、遼が使節を遣わすや、渤海を滅ぼした無道の国として修交を断った。有名な萬夫橋事件はこのときに起こったものである。
白頭山定界碑の位置
▶ 白頭山定界碑は元は小白山にあった。
▶ 白頭山定界碑が建てられた当初から1931年まで白頭山の麓にあった。
中国では、 白頭山定界碑を小白山から白頭山に移したという「定界碑移動説」を主張し、国境問題に新たな波紋を投げかけている。「定界碑移動説」によれば、当時の記録と地形、境界標示などを綿密に検討してみると豆満江の始まる支流は紅丹水であり、白頭山定界碑の本来の位置は小白山の頂上となる。定界碑を建てた直後に朝鮮側の官吏らが定界碑を白頭山の南側の麓に移し、定界碑と土門江の間に木柵・石を積み上げた山・土を盛り上げた塚のような境界標識を設置して境界をこしらえたのだという。19世紀以降、国境会談において白頭山定界碑を基準に境界を定めたことを考えると、この論理通りなら白頭山から南側に20kmほど下った小白山が正確な国境になるわけだ。
「定界碑移動説」はすでに日・清間での間島問題交渉の当時から提起されていた問題で、最近ではそれをさらに巧妙にして4回に渡る位置移動があったと主張したりもしている。しかし当時の記録や古地図を見ると、「定界碑移動説」がでっちあげであることが一目でわかる。白頭山定界碑の建立に参加した人々の記録や白頭山定界碑の建立後に白頭山に登る途中で白頭山定界碑を見た人々の記録を調べた結果、白頭山定界碑の位置はおおむね一致している。
当時の人々は白頭山に登るために三池淵、小白山、檎脂峰を経由しており、檎脂峰を過ぎて白頭山に登る途中で白頭山定界碑を見ていた。また、白頭山定界碑の建立当時に描かれた『白頭山定界碑図』とその後に白頭山一帯を描いた各種の古地図を調べてみても、白頭山定界碑の位置はおおむね一致している。古地図には白頭山と檎脂峰の間に白頭山定界碑が描かれており、その横に分水嶺と書かれている。
長白山文化
中国東北地域の経済建設過程において文化事業の重要性が浮上するにつれ、「長白山文化」という用語が新たに登場した。「長白山文化」は、白山市が白頭山地域文化事業を推進するために1994年に開催した「長白山文化学術会議」において提起された。その後2000年に吉林省の主管による「長白山文化研究会」が結成され、その活動の幅を広げることで「長白山文化」は東北文化の象徴として浮かび上がり、2008年に白頭山の長白山保護開発区管理委員会に長白山文化研究会の研究基地が設置されるに伴い、白頭山開発と文化研究が一体化した。
「長白山文化」の重要性が認識され、研究成果が蓄積していくにつれ、「長白山文化」の内容が体系化された。「長白山文化」を「長白山地域における粛慎族系と濊貊族系の文化を基に中華文化を主体として複数の民族が共同で作り上げた地域文化」と定義し、「長白山文化」の特徴として「①農耕、漁猟、遊牧が結合した物質文化 ②軍政合一、尚武崇実の政治文化 ③素朴で自然体で乗馬と弓術に長けた民族文化 ④アニミズム、多神崇拝のシャーマニズム文化」などが提示された。また、白頭山地域の旧石器文化と遼河流域の新石器文化を「長白山文化」の起源とすることで「長白山文化」の悠久性をクローズアップし、満州族系統の文化を重視しながらも、多民族文化の融合における中華文化の主導的位置づけを強調した。
「長白山文化」は朝鮮半島と満州地域に暮していた諸民族の文化的要素を「長白山文化」として包括し、「統一的多民族国家論」を適用して「長白山文化」を中華文化の起源かつ主要な構成要素に仕立て上げることで、幾多の問題点が露呈している。「東北を振興させるには東北人を目覚めさせよ」とのスローガンのごとく、「長白山文化」は中国東北地域の人々を経済開発の主体に変貌させると同時に、これが観光産業や文化産業の豊富な資源として活用されている。
4.「東北工程」が残したもの、そして我々のなすべきこと
「東北工程」は2007年初頭に5年間の事業期間を終了した。だが問題が解決したわけではない。「東北工程」の結果物が事業期間中に書籍にまとめられて発刊され、今後も発刊される予定にあるためだ。それらの書籍には「東北工程」式の歴史認識が盛り込まれている。一度世に出た歴史書は無くすことはできない。したがって「東北工程」は現在進行形であると同時に未来に続いていく問題でもある。また、「東北工程」は別の形で波及し続けている。「東北工程」に関する現況は次のとおりである。
中央の主導下にあった研究が地方の政府機関や大学に移され、「東北工程」式の歴史認識を盛り込んだ研究が続けられている。2002年以降、吉林省には「吉林省高句麗研究中心」、「高句麗研究基地」、「高句麗研究院」、「高句麗・東北民族研究中心」など複数の機関が設立され、遼寧省には「中国東北史研究中心」が設けられた。これらの研究機関では、古朝鮮史、高句麗史、渤海史など韓国の古代史に関する研究が中心的に進められている。
また「東北工程」の論理を補完・深化させる段階に突入している。これまで韓国の古代史を研究してきた中国の学者らは他国の研究成果にはほぼ目を通さず、韓国の『三国史記』はもちろん他の外国史書の記録も参考にしていなかった。ただひたすら自らの主張に符合する史料だけを選び、一方的な主張を掲げる傾向が強かった。しかし最近では、韓国をはじめとする他国の歴史書や研究成果も分析・批判しながら、自らの主張を展開している。
古朝鮮史、高句麗史、渤海史を研究する学者らが増えてきた。東北三省に限られていた過去とは違い、地域的に関連のない学者たちも研究に参加するようになった。新進の研究者らの活動も目に見えて増加した。例えば、「東北工程」を機に、高句麗史をはじめとする東北三省地域に対する研究成果物の量の増加と質の向上、研究者の拡大がなされた。そしてその過程で生産された研究成果物は、さまざまな学術雑誌を通じて中国全域に拡散している。
一方、中国の国民にも「東北工程」式の歴史認識が広まりつつある。高句麗・渤海遺跡地の案内板や博物館の展示説明文、大学の教材などにはすでに「東北工程」式の認識と論理が反映されている。2006年、中国共産党中央委員会と吉林省委員会が建議して採択された「吉林省の国民経済と社会発展第11次5カ年計画要綱」には、「中華名山長白山」、「世界文化遺産集安の高句麗遺跡」など吉林省の豊富な資源を活用して観光産業を積極的に発展させようとの計画が盛り込まれている。関連する遺跡を観光地として開発する過程で、「東北工程」式の認識はさらに深く、さらなる速度で拡散していくことだろう。
もちろん、いまだ韓中間の歴史問題についてよく知らない中国人が多いのも事実だが、「東北工程」以降、これに関心を持つ一般人やネットユーザーらの数が増加している。彼らのなかには嫌韓感情をあらわにする人も少なくない。彼らによって韓中間の歴史的葛藤がさらに深まることが懸念される。専門家にとどまらず一般人に拡散した「東北工程」は、非学問的、非常識的な方向へと流れていく恐れが高いといえよう。
では、このような状況に我々はどう対処すべきだろうか?
第一に、「東北工程」に関連してすでに発刊若しくは今後発刊される結果物を継続的に点検し、「東北工程」式の主張が拡散しないようにしなければならない。
第二に、世界の人々が古朝鮮・夫余・高句麗・渤海の歴史が韓国史に帰属するという厳然たる事実を納得できるよう、関連研究を深化させ、その論理をさらに開発していかなければならない。韓国の学会が研究をリードしながら、中国側の恣意的な歴史解釈に対して学問的な次元で誤謬を訂正する作業を続けていかねばならない。
第三に、高句麗史や古朝鮮、渤海史研究者の養成に注力しなければならない。表面的に見ると「東北工程」以降この分野の研究者が増加したように思えるが、意外に新進研究者の数はそれほど増えてはいない。中国の新進研究者数が増えているだけに、我々も新進研究者の養成に力を入れなければならない。
第四に、我々の研究成果を国際社会に広く知らしめる必要がある。韓国史について知識も関心もあまりない外国人の場合、中国側の一方的な主張をそのまま受け入れる可能性が高い。したがって、我々の研究成果を広く知らせ、正しい東アジアの歴史観を確立させなければならない。
第五に、若い世代が成長して世界の人々と交流するようになったとき、我々の歴史をしっかりと守れるよう歴史教育を強化しなければならない。アンデンティティの喪失は非常に短時間で進むが、それを立て直そうとするためには長い時間と努力が必要となるためだ。
第六に、歴史を守るためには外交的努力も加えられなければならない。歴史の歪曲は、学術見解の相違であると同時に国家における外交問題でもある。もとより「東北工程」そのものが学問に限られた事業ではないだけに、我々も政府レベルでの持続的で体系的な対応が必要であろう。歴史紛争は短期戦ではなく長期戦であるだけに、忍耐力と持久力が求められる。
そして最後に、韓国の国民すべてが自国の歴史に対して関心と愛情を持たねばならない。我々の歴史と文化について知識のないまま感情的に対処していくだけでは、自らの歴史を守ることはできない。
5.「東北工程」の事業内容と研究の結果物
⊙ 中国社会科学院傘下の中国辺彊史地研究中心ホームページの「東北工程紹介(東北工程簡介)」を見ると、東北工程の課題は「研究類」、「翻訳類」、「公文書資料類」に分類されている。
⊙ このうち研究類は、基礎研究と応用研究に細分される。基礎研究とは歴史上の学問的理論の研究を意味し、応用研究とは、基礎研究の結果を基に高句麗・渤海など特定の歴史と彊域の帰属問題、それによって提起されうる国境・領土紛争、外交関係、文化観光戦略など現実的に派生する諸問題が含まれる。
⊙ 翻訳類は、韓国・北朝鮮・ロシア・日本・西洋の研究成果の翻訳、ロシアの学者による極東地域の歴史・地理研究論著の要約、韓国と北朝鮮の学者による古朝鮮・高句麗・渤海の歴史・考古地理研究論著の要約、韓国と北朝鮮の学者による韓中関係史における論点の翻訳と評論を含む。
⊙ 公文書資料類は、東北辺彊に関連する公文書史料の整理、東北辺彊、韓・中、中・ロシア、中・モンゴルに関連する公文書目録の整理、東北辺彊の歴史地図の収集整理およびその研究、東北辺彊に関連する写真の収集整理およびその研究が含まれる。
⊙ 東北工程の課題を遂行するためのガイドラインを調べてみると、古代中国の彊域についての理論研究、東北地方史の研究、東北民族史の研究、古朝鮮・高句麗・渤海史の研究、韓中関係史の研究、中国東北辺彊とロシア極東地域の政治・経済関係史の研究、東北辺疆の社会安定に対する戦略的研究、朝鮮半島情勢の変化が中国東北辺疆の安定に及ぼす影響についての研究など、韓国の古代史から現在と未来に関連するあらゆる問題が網羅されていることがわかる。
⊙ このようなガイドラインに従って、2002年に27の課題、2003年に15の課題、2004年に6つの課題に対する基礎研究と、具体的な内容が伝えられていない応用研究をはじめとする翻訳類の14の課題、公文書整理類の4つの課題が全国的な公募によって選定された。東北工程のホームページである「中国辺疆在線」に公開されているさまざまな選定課題は、高句麗史のみならず渤海史、古朝鮮史をはじめとし、間島および韓中国境問題など我々の歴史と直接的・間接的に関わる問題が主軸をなしている
⊙ 東北工程課題の研究結果は、現在まで合計25種類が発刊されている。例えば、中国社会科学院の直営出版社である中国社会科学出版社から「東北辺彊研究叢書」シリーズとして『古代中国高句麗史続論』をはじめとする9巻が出版された。また、吉林人民出版社からは『簡明高句麗史』をはじめとする6種8冊が発刊された。その他、香港亜州出版社からは『唐代渤海国五京研究』、黒竜江人民出版社からは『二十世紀中国東北辺彊文化研究』が発刊された。このような例から、各地域の出版社からも続々と個人学者らの研究結果物が発刊されるものと予想される。
6.「東北工程」の主要日誌
年度
月
内容
2002年
1~2月
• 東北工程領導小組と専門家委員会を構成。
• 第1次専門家委員会開催(北京)。
• 東北工程が正式に旗揚げ。
4月
• 高句麗歴史研究学術座談会を開催(吉林省長春)。
• 第2次専門家委員会を開催(北京)、高句麗・渤海・古朝鮮・白頭山などの研究課題を選定。
7月
• 「第2期東北疆域の歴史と現状および高句麗学術シンポジウム」を開催(吉林省長春・通化)。
- 100名余りの専門家が参加し、約70編の論文を発表。
- 高句麗・渤海・古朝鮮・白頭山などの研究課題を選定。
- 広開土王大王碑など中国内の高句麗遺跡を世界文化遺産に登録申請。
2003年
8月
• 第3次専門家会議を開催(黒竜江省黒河) - 高句麗・渤海・古朝鮮・間島などの研究課題を選定。
• 「高句麗渤海問題学術シンポジウム」を開催(吉林省延吉)。25名の専門家が参加。
10月
• 「高句麗国内城遷都2000周年および第3次全国高句麗学術シンポジウム」を開催(集安)。
- 『古代中国高句麗歴史続論』 など東北辺彊叢書6巻を発刊。
- 高句麗・渤海・古朝鮮・間島などの研究課題を選定。
- 高句麗遺跡の整備、中国史の一部として博物館の展示改編および遺跡説明板の設置。
2004年
7月
• 中国と北朝鮮の高句麗遺跡が世界文化遺産に登録。
8月
• 「高句麗歴史問題研究シンポジウム」を開催(延吉) - 約50名の専門家が参加。
• 武大偉中国外交部副部長が来韓 – 韓国政府と5項目について口頭で合意。
12月
• 「高句麗文化の歴史的価値」韓中学術会議を開催(北京) - 高句麗研究財団と中国社会科学院が共同主催。
- 高句麗遺跡が世界文化遺産に登録。
- 渤海・高麗・間島・白頭山などの研究課題を選定。
2005年
8月
• 「高句麗歴史問題学術研究シンポジウム」を開催(延吉) - 約30名の専門家が参加。
10月
• 「高句麗文化の歴史的意義」韓中学術会議を開催(水原) - 高句麗研究財団と中国社会科学院が共同主催。
2006年
6月
• 「唐朝渤海国上京龍泉府遺址保護条例」が黒竜江省常務委員会の審議を通過、世界文化遺産登録を推進。
8~9月
• 『渤海国史』など東北辺彊叢書3巻を発刊。
• 「高句麗問題学術研究シンポジウム」を開催(延吉)。
10月
• 韓・中首脳会談を開催(北京) - 温家宝総理、2004年の口頭了解事項尊重の立場を表明 / 胡錦濤主席、2004年の口頭了解事項履行を約束。
11月
• 寧賦魁駐韓中国大使、白頭山のユネスコ自然文化遺産への登録推進は関連国家との協議を経て推進することに言及。
- 『渤海国史』など東北辺彊叢書3巻を発刊。
2007年
3月
• 中国社会科学院の中国辺彊史地研究中心、延辺大学に東北辺疆地区国情調研基地を設立。
4月
• 韓・中首脳会談を開催(ソウル) - 温家宝総理、「領土、歴史問題は、政治と学術、現実と学問を分けてアプローチすべき」との立場を再確認。
6月
• 中国、「高麗の太祖王建は朝鮮半島に土着した新羅人の子孫ではなく漢族の末裔だった」という論文を発表。
7月
• 「東北亜辺彊歴史研究」国際学術会議を開催(日本・福岡)。
- 日本の九州大学韓国研究センターとアメリカの韓国評議会が共同主催。
9月
• 中国、「高句麗28代の国王の王陵はすべて集安にある」と主張する論文を発表
10月
• 通化師範大学の高句麗文化研究基地と延辺大学の渤海文化研究基地が吉林省重点研究基地に確定。
11月
• 中国の神話研究者、「檀君神話は黄帝集団の熊トーテムに起源する」という主張を提起。
12月
• 渤海中京城の発掘報告書『西古城-渤海国中京顯德府故址田野考古報告』を 発刊。
• 韓・中総理会談を開催(北京) - 歴史問題が両国の関係発展を妨げないよう東北亜歴史財団と中国社会科学院との交流を積極的に推進することに合意。
• 「高句麗初期歴史研究」韓中学術会議を開催(北京)
- 東北亜歴史財団と中国社会科学院が共同主催。
• 『高句麗王陵通考』を発刊。
2008年
7月
• 『唐代渤海国五京研究』を発刊。
8月
• 「東北工程と高句麗」国際学術会議を開催(バンクーバー)
- 国際高麗学会主催。
9月
• 『簡明高句麗史』•『中国歷代朝貢制度硏究』•『中国古代治理東北辺疆思想硏究』など6種8冊を発刊。
11月
• 「卒本時期の高句麗歴史研究」韓中学術会議を開催(済州道)
- 東北亜歴史財団と中国社会科学院が共同主催。
2009年
5月
• 中国のポータルサイト百度、「離於島は中国の領土」と主張、波紋が広がるや記事を削除。
7月
• 「2009年東北辺彊の歴史と文化学術シンポジウム」を開催(長春)
- 60名の専門家が参加。
- 中国社会科学院、吉林省社会科学院主催。
12月
• 『東北辺疆歴史与文化研究』(吉林省社会科学院学術研究叢書、吉林人民出版社、2009.12)を発刊。
2010年
7月
• 「第6次長白山文化シンポジウム」を開催(長春)。
- 長白山管理委員会、吉林省長白山文化研究会、吉林省図書館が共同主催。
• 中国鳳凰衛星放送局、「飛躍する中国(騰飛中国)」という番組の「中国領海安全-中韓領海紛争」において離於島が中国の領海と200海里の排他的経済水域に含まれると主張。
• 長白山管理委員会、「吉林省長白山文化事業発展規画」の編成作業を開始。
- 吉林省社会科学院主管。
2011年
5月
• 第3期「中華文明探源工程」が開始。
- 中国社会科学院考古研究所と北京大学考古文博学院、中国国家博物館、敦煌研究院、秦始皇兵馬俑博物館など中国内約30の科学研究機構による連合プロジェクト。
6月
• 吉林大学、「吉林省高句麗研究センター2011年計画課題」を案内。
- 高句麗壁画、高句麗・渤海の文献資料の整理と研究、高句麗・渤海の考古研究、夫余の歴史と文化研究など。
• 中国国務院が発表した第3次国家級無形文化財リストに延辺州のアリラン、カヤグム(伽倻琴)芸術、朝鮮族回婚礼、鉄嶺市の朝鮮族パンソリが含まれる。
7月
• 『中国辺彊史地研究』雑誌社と 陝西師範大学西北民族研究中心の共同主催で「中国疆域理論学術研討会」を開催(西安)。
8月
• 長春師範学院主管、中国社会科学院辺彊史地研究中心協賛、「東北フォーラム: 東アジアの目から見た東北辺彊研究」学術研討会を開催(長春)。
- 約50名の専門家が参加、東北辺彊の档案文献の発掘と整理、辺彊の調査研究方法、資料蓄積などについて討論。
11月
• 中国CCTV、12日から17日まで「長白山ドキュメンタリー」6部作を放映。
- 渤海の帰属問題を集中的にクローズアップし、朝鮮族の農楽舞を長白山地域の伝統文化のひとつとして取り上げる。中国が選定した無形文化遺産であることを強調。
• 吉林大学東北亜研究院、北京大学亜太研究院の共同主催、北京大学韓国学研究センターの協賛により、北京大学・吉林大学東北亜フォーラム「朝鮮半島の平和発展と周辺大国の関係」研究シンポジウムを開催(北京)。
12月
• 吉林省社会科学院主管、「東北辺彊の歴史と文化」座談会を吉林省社会科学院にて開催(長春)。
6.「東北工程」の主要日誌
年度
月
内容
2002年
1~2月
• 東北工程領導小組と専門家委員会を構成。
• 第1次専門家委員会開催(北京)。
• 東北工程が正式に旗揚げ。
4月
• 高句麗歴史研究学術座談会を開催(吉林省長春)。
• 第2次専門家委員会を開催(北京)、高句麗・渤海・古朝鮮・白頭山などの研究課題を選定。
7月
• 「第2期東北疆域の歴史と現状および高句麗学術シンポジウム」を開催(吉林省長春・通化)。
- 100名余りの専門家が参加し、約70編の論文を発表。
- 高句麗・渤海・古朝鮮・白頭山などの研究課題を選定。
- 広開土王大王碑など中国内の高句麗遺跡を世界文化遺産に登録申請。
2003年
8月
• 第3次専門家会議を開催(黒竜江省黒河) - 高句麗・渤海・古朝鮮・間島などの研究課題を選定。
• 「高句麗渤海問題学術シンポジウム」を開催(吉林省延吉)。25名の専門家が参加。
10月
• 「高句麗国内城遷都2000周年および第3次全国高句麗学術シンポジウム」を開催(集安)。
- 『古代中国高句麗歴史続論』 など東北辺彊叢書6巻を発刊。
- 高句麗・渤海・古朝鮮・間島などの研究課題を選定。
- 高句麗遺跡の整備、中国史の一部として博物館の展示改編および遺跡説明板の設置。
2004年
7月
• 中国と北朝鮮の高句麗遺跡が世界文化遺産に登録。
8月
• 「高句麗歴史問題研究シンポジウム」を開催(延吉) - 約50名の専門家が参加。
• 武大偉中国外交部副部長が来韓 – 韓国政府と5項目について口頭で合意。
12月
• 「高句麗文化の歴史的価値」韓中学術会議を開催(北京) - 高句麗研究財団と中国社会科学院が共同主催。
- 高句麗遺跡が世界文化遺産に登録。
- 渤海・高麗・間島・白頭山などの研究課題を選定。
2005年
8月
• 「高句麗歴史問題学術研究シンポジウム」を開催(延吉) - 約30名の専門家が参加。
10月
• 「高句麗文化の歴史的意義」韓中学術会議を開催(水原) - 高句麗研究財団と中国社会科学院が共同主催。
2006年
6月
• 「唐朝渤海国上京龍泉府遺址保護条例」が黒竜江省常務委員会の審議を通過、世界文化遺産登録を推進。
8~9月
• 『渤海国史』など東北辺彊叢書3巻を発刊。
• 「高句麗問題学術研究シンポジウム」を開催(延吉)。
10月
• 韓・中首脳会談を開催(北京) - 温家宝総理、2004年の口頭了解事項尊重の立場を表明 / 胡錦濤主席、2004年の口頭了解事項履行を約束。
11月
• 寧賦魁駐韓中国大使、白頭山のユネスコ自然文化遺産への登録推進は関連国家との協議を経て推進することに言及。
- 『渤海国史』など東北辺彊叢書3巻を発刊。
2007年
3月
• 中国社会科学院の中国辺彊史地研究中心、延辺大学に東北辺疆地区国情調研基地を設立。
4月
• 韓・中首脳会談を開催(ソウル) - 温家宝総理、「領土、歴史問題は、政治と学術、現実と学問を分けてアプローチすべき」との立場を再確認。
6月
• 中国、「高麗の太祖王建は朝鮮半島に土着した新羅人の子孫ではなく漢族の末裔だった」という論文を発表。
7月
• 「東北亜辺彊歴史研究」国際学術会議を開催(日本・福岡)。
- 日本の九州大学韓国研究センターとアメリカの韓国評議会が共同主催。
9月
• 中国、「高句麗28代の国王の王陵はすべて集安にある」と主張する論文を発表。
10月
• 通化師範大学の高句麗文化研究基地と延辺大学の渤海文化研究基地が吉林省重点研究基地に確定。
11月
• 中国の神話研究者、「檀君神話は黄帝集団の熊トーテムに起源する」という主張を提起。
12月
• 渤海中京城の発掘報告書『西古城-渤海国中京顯德府故址田野考古報告』を 発刊。
• 韓・中総理会談を開催(北京) - 歴史問題が両国の関係発展を妨げないよう東北亜歴史財団と中国社会科学院との交流を積極的に推進することに合意。
• 「高句麗初期歴史研究」韓中学術会議を開催(北京)
- 東北亜歴史財団と中国社会科学院が共同主催。
• 『高句麗王陵通考』を発刊。
2008年
7月
• 『唐代渤海国五京研究』を発刊。
8月
• 「東北工程と高句麗」国際学術会議を開催(バンクーバー)
- 国際高麗学会主催。
9月
• 『簡明高句麗史』•『中国歷代朝貢制度硏究』•『中国古代治理東北辺疆思想硏究』など6種8冊を発刊。
11月
• 「卒本時期の高句麗歴史研究」韓中学術会議を開催(済州道)
- 東北亜歴史財団と中国社会科学院が共同主催。
2009年
5月
• 中国のポータルサイト百度、「離於島は中国の領土」と主張、波紋が広がるや記事を削除。
7月
• 「2009年東北辺彊の歴史と文化学術シンポジウム」を開催(長春)
- 60名の専門家が参加。
- 中国社会科学院、吉林省社会科学院主催。
12月
• 『東北辺疆歴史与文化研究』(吉林省社会科学院学術研究叢書、吉林人民出版社、2009.12)を発刊。
2010年
7月
• 「第6次長白山文化シンポジウム」を開催(長春)。
- 長白山管理委員会、吉林省長白山文化研究会、吉林省図書館が共同主催。
• 中国鳳凰衛星放送局、「飛躍する中国(騰飛中国)」という番組の「中国領海安全-中韓領海紛争」において離於島が中国の領海と200海里の排他的経済水域に含まれると主張。
• 長白山管理委員会、「吉林省長白山文化事業発展規画」の編成作業を開始。
- 吉林省社会科学院主管。
2011年
5月
• 第3期「中華文明探源工程」が開始。
- 中国社会科学院考古研究所と北京大学考古文博学院、中国国家博物館、敦煌研究院、秦始皇兵馬俑博物館など中国内約30の科学研究機構による連合プロジェクト。
6月
• 吉林大学、「吉林省高句麗研究センター2011年計画課題」を案内。
- 高句麗壁画、高句麗・渤海の文献資料の整理と研究、高句麗・渤海の考古研究、夫余の歴史と文化研究など。
• 中国国務院が発表した第3次国家級無形文化財リストに延辺州のアリラン、カヤグム(伽倻琴)芸術、朝鮮族回婚礼、鉄嶺市の朝鮮族パンソリが含まれる。
7月
• 『中国辺彊史地研究』雑誌社と 陝西師範大学西北民族研究中心の共同主催で「中国疆域理論学術研討会」を開催(西安)。
8月
• 長春師範学院主管、中国社会科学院辺彊史地研究中心協賛、「東北フォーラム: 東アジアの目から見た東北辺彊研究」学術研討会を開催(長春)。
- 約50名の専門家が参加、東北辺彊の档案文献の発掘と整理、辺彊の調査研究方法、資料蓄積などについて討論。
11月
• 中国CCTV、12日から17日まで「長白山ドキュメンタリー」6部作を放映。
- 渤海の帰属問題を集中的にクローズアップし、朝鮮族の農楽舞を長白山地域の伝統文化のひとつとして取り上げる。中国が選定した無形文化遺産であることを強調。
• 吉林大学東北亜研究院、北京大学亜太研究院の共同主催、北京大学韓国学研究センターの協賛により、北京大学・吉林大学東北亜フォーラム「朝鮮半島の平和発展と周辺大国の関係」研究シンポジウムを開催(北京)。
12月
• 吉林省社会科学院主管、「東北辺彊の歴史と文化」座談会を吉林省社会科学院にて開催(長春)。
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