安倍晋三元総理、急逝…その67年の生涯と政治家人生を振り返る
戦後最長の総理は何を遺したのか
週間現代
延べ9年にわたって2度内閣総理大臣を務めた、安倍晋三元総理が参院選投開票の2日前、7月8日午後に亡くなった。遊説中、奈良県奈良市の大和西大寺駅頭で、40代の男に銃のようなもので2発狙撃された。
周囲にはSPがいたが、銃弾は首などに命中。安倍元総理は応急手当てを受けたのち、ドクターヘリで緊急搬送されたものの、懸命の救命措置もむなしく息を引き取った。父の安倍晋太郎氏が亡くなったのと同い年の67歳だった。
安倍氏の冥福を祈るとともに、その政治家人生を振り返りたい。
政界きっての「サラブレッド」に生まれて
安倍元総理は1954年9月21日、安倍晋太郎氏と妻・洋子氏とのあいだに生まれた。安倍家は政治家の一族だ。
祖父の寛氏は山口県選出の衆議院議員で、父の晋太郎氏は福田赳夫内閣の官房長官、中曽根康弘内閣の外務大臣などを歴任した大物。また母の洋子氏は、第56・57代総理大臣を務めた岸信介氏の娘で、第61〜63代総理大臣を務めた佐藤栄作氏のめいにあたる。いわば政界のサラブレッドだった。
子ども時代の安倍氏は、渋谷区南平台の岸家の邸宅で過ごすことが多かった。幼少時は岸信介政権下で安保闘争の真っ最中。幼い安倍総理は「アンポ、ハンタイ!」とデモ隊のシュプレヒコールをまね、周囲の大人を笑わせていたという。
安倍氏は成蹊小・中・高校をへて成蹊大学法学部政治学科を卒業。高校時代には、当時東京大学に在学していた、元復興大臣の平沢勝栄氏が家庭教師を務めていた。
大学卒業後の1979年、安倍氏は神戸製鋼所に入社しサラリーマンとして働き始めた。サラリーマン時代は兵庫県加古川市の工場や東京・八重洲の本社などに勤務し、溶鉱炉の稼働する現場にも赴き、汗を流す日々を送った。
怒鳴られ続けた若手時代
28歳になった1982年、中曽根内閣で外務大臣を務めていた父・晋太郎氏の大臣秘書官に就いた。その後1991年に晋太郎氏が膵臓がんで他界すると、後を継ぐことを決意。1993年の衆議院総選挙で、山口1区から出馬しトップ当選を果たす。なお、広告会社の電通に勤めていた昭恵夫人と結婚したのは1987年のことである。
若手議員時代の安倍氏は、線の細い政治家だった。1999年に自民党政調会長を務めていた元運輸大臣の亀井静香氏は、当時自民党社会部会長を務めていた安倍氏について著書でこう語っている。
〈社会部会長のときの晋三は、俺に怒鳴られた思い出しかないだろう。宴会に来ても、同期の荒井広幸(元参議院議員)と一緒に、宴会芸ばかりやらされていた晋三が、父も成しえなかった一国の長に登りつめたのは感慨深い〉(亀井静香著『永田町動物園』講談社より)
師・小泉純一郎のもとで
安倍氏は当時、自民党清和政策研究会(現在の安倍派)会長だった小泉氏に抜擢され、内閣官房副長官に就任。さらに2002年9月、総理大臣となった小泉氏が歴代総理初の北朝鮮訪問を果たした際にも同行し、もっとも近くで金正日総書記(当時)との会談などに臨んだ。
2005年には、小泉内閣の官房長官に大抜擢される。50歳と若く、フレッシュな印象があり、実績も十分な安倍氏を国民は「ポスト小泉」として受け入れた。多くの海外メディアも、「注目の若手政治家」として安倍氏を紹介した。
しかし2006年9月、52歳で戦後最年少の自民党総裁に選出され、満を持して総理大臣となった安倍氏を待ち受けていたのは、猛烈な逆風だった。閣僚の事務所費不正などのスキャンダルが相次いで発覚し、熱狂が一転して批判に変わってしまったのだ。
「本日、総理の職を辞するべきと決意をいたしました」
スキャンダルまみれで迎えた2007年7月の参院選は、自民党の大敗だった。その後、安倍氏は潰瘍性大腸炎を患い、体調不良で外遊などの日程を次々にキャンセルしたのち、9月中旬に緊急入院。総理大臣就任から1年も経たない同月末、会見で辞意を表明した。
失意の時代にしていたこと
それから安倍氏は党の役職などにも就くことなく、療養生活に入る。体調がおおむね回復してからは台東区谷中の禅寺「全生庵」に通って座禅を組んだり、総理在任時には多忙で読めなかった本を読み耽ったりと、「充電」に努めたという。
中でも、安倍氏をたびたびリフレッシュに誘ったのが、のちに第二次安倍政権で総理補佐官・筆頭秘書官を務め「側用人」とまで呼ばれた、側近の経産省官僚・今井尚哉氏だった。当時を知る自民党関係者が言う。
「今井さんは安倍さんを高尾山登山に誘ったり、山梨県鳴沢村の安倍さんの別荘に足を運び話し相手をしていた。安倍さんは当時、少し歩くと肩で息をするほど体力が落ちていたため、とにかく外に連れ出し、日光を浴びさせようと努めたそうです」
またこの静養期間中、安倍氏は自宅が近い麻生太郎・現自民党副総裁のもとに通い、政策論と「次の政権構想」を議論していたという。このときすでに「再登板」を期していたということだ。
丸5年を充電に費やした安倍氏は、東日本大震災・福島第一原発事故を経た2012年9月、満を持して自民党総裁選に出馬。第一回投票では石破茂・元自民党幹事長に敗れたものの、決選投票で逆転し、自民党総裁に返り咲いた。永田町では、誰もが「安倍は終わった」と考えていた中での復活劇だった。
第二次安倍政権の功罪
以後2012年12月から、再び体調不良を理由として電撃辞任した2020年9月まで、安倍氏は8年近く、連続2822日の長期にわたって総理大臣に在任した。第一次安倍政権での在任期間を足し合わせれば、のべ3188日と、連続・合計ともに歴代最長となった。
安倍氏が注力し、看板として掲げた政策は、なんといっても「アベノミクス」だ。それまでの緊縮財政を転換し、量的緩和や公共投資の増加といった大胆な緩和政策を実行。第二次安倍政権下の8年弱で、日経平均株価は約8600円から約2万3000円とおよそ2・6倍まで上昇した。
また得意の外交では、2016年の米トランプ政権発足にあたり、いち早く祝意を示してトランプ前大統領に接近。親密な関係を築き、日米同盟の安定に寄与した。
第二次安倍政権下では、衆参合わせて6回の国政選挙が行われたが、そのすべてで自民党が安定して勝ち続けた。その間、野党勢力は離合集散を繰り返し、弱体化していった。
一方で、第二次安倍政権は毀誉褒貶も大きかった。国会においては、2013年12月の特定秘密保護法案、2015年9月の安全保障関連法案、2017年のテロ等準備罪新設など、強行採決を連発。国会前を埋め尽くすほどの大規模な抗議デモが行われた。
さらに2017年には、森友学園への国有地売却問題、さらに加計学園の獣医学部新設問題が発覚。国有地の払い下げや、大学新設の認可に安倍氏や昭恵夫人の意向が関与したとの疑惑が報じられ、1年以上にわたって紛糾した。
一連の疑惑をめぐって、事件当時に財務省理財局長を務めていた佐川宣寿国税庁長官や、国会で追及を受けた経済産業審議官の柳瀬唯夫氏が辞任するなど、政官界にも大きな影響が及んだ。結局、これらの疑惑の多くは真相が解明されていない。安倍氏は十分な説明をしないまま、世を去ってしまった。
今後の自民党はどうなる?
安倍氏は2020年の総理大臣辞職後も、後継となった菅義偉政権、さらに昨年秋に発足した岸田文雄政権で、自民党最大派閥・清和政策研究会(安倍派)の領袖として大きな力を振るい続けた。一方で、岸田政権では「安倍氏が推した人事案を岸田総理が蹴った」といった報道も多く、岸田総理との確執や影響力の低下が囁かれ始めたところだった。
安倍氏の政治家としての評価や業績については、これから時間をかけて検証が行われ、定まってゆくことだろう。しかし様々な意味で、安倍氏が日本の政治に大きな足跡を残したことは間違いない。今は「大宰相」の冥福を祈りたい。
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