週刊現代, 2023.01.27
「環境調査船」に偽装したスパイ船
朝鮮労働党機関紙『労働新聞』(1月21日付)は、「55年前の米帝武装スパイ船『プエブロ号』拿捕事件を顧みて」と題する記事を掲載した。「プエブロ号」とは、1968年1月23日に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)によって拿捕された米国海軍の武装情報収集艦のことだ。
筆者はこの艦船を、平壌(ピョンヤン)市内で何度も取材している。高層ビルが目立つようになってきた北朝鮮の首都の川に、米国の軍艦が浮かんでいる……。軍人だけでなく職場や学校などから集団でやって来たさまざまな年代の人たちが、見学している光景がいつもある。
プエブロ号が拿捕されたことに対して米国は、大兵力を朝鮮半島へ集結。第2の朝鮮戦争に発展する可能性があるほどの、軍事的緊張状態に置かれた。またその時、米国は核兵器の使用を検討していたことも明らかになっている。
『労働新聞』の記事では、「朝鮮は今では核強国となっており、米朝が対決戦をしたならば、敗北は米国の宿命だ」とする。そしてこの長文の記事には、長らく謎とされてきたプエブロ号船体の移動についても、その答えを明記している。
世界を震撼させた「プエブロ号事件」とは、何であったのか? 米朝の深刻な軍事的対決が続いている現在、この大事件を改めて振り返る意義は大きいだろう。
プエブロ号は、1944年に米国陸軍の沿岸輸送船として建造され、1966年に海軍へ移管されたという。全長53.9メートル・全幅9.7メートル。艦長はロイド・M・ブッチャー中佐。表向きは米国海軍の「一般環境調査艦(AGER)」となっていた。艦首にはそれを表す「GER2」との大きな表示がある。「2」という数字は2号艦という意味。
しかしこれは偽りだった。乗員は83人で、将校6人・兵士75人、そして民間人である海洋学者が乗船していた。「環境調査船」であるにもかかわらず海洋学者はわずか2人だったが、通信技術者が28人もいたという。実はこの船の任務は、諜報活動だったのである。そのため甲板などに、たくさんのアンテナが立ち並んでいる。誰が見ても、電波傍受が目的の船舶だと思うだろう。
プエブロ号は、「米国国家安全保障局(NSA)」の諜報活動として通信傍受を行なっていた。「米国中央情報局(CIA)」は人間を使って諜報活動をするが、NSAは電子機器を使った活動をする。組織の存在自体が長年にわたって秘匿されてきたが、プエブロ号事件によってその存在が明らかになったという。
プエブロ号の「極秘任務」
当時の米国の情報収集は、まだ偵察衛星の開発初期だったために対象国の近くまで行って無線やレーダーを傍受していた。1968年1月5日に横須賀港を出港したプエブロ号は、北上してソ連のカムチャッカ半島と沿海州へ。9日に佐世保港へ入り、11日午前6時に出港して北朝鮮へ向かう。
米国人の軍事ジャーナリストであるトレバー・アンブリスター氏はプエブロ号事件について、この船の乗組員など関係者300人以上にインタビューしている。
「プエブロ号の最大の任務は、北朝鮮の沿岸警備について、アメリカの基礎データをアップ・デートすることであった。どこにレーダー・ステーションが位置しているか? その用途は通常の航海または飛行用か早期対空警戒用か、あるいは射撃指揮用か? どんな周波数を使っているか?(中略)第2の任務は、北朝鮮の暗号通信を傍受し、記録することであった」(『情報収集艦プエブロ号―日本海のミステリー』トレバー・アンブリスター)
こうしたデータを、北朝鮮の主要な軍港の沖合で精密に測定しようとしたのだ。
プエブロ号は北朝鮮の領海12カイリのすぐ外側を航行し、16日には清津(チョンジン)港の沖合へ。ここでブッチャー艦長は、プエブロ号が北朝鮮のレーダーに捕捉されたことを知ったという。だがそのまま城津(ソンジン、現在の金策)港、そして元山(ウォンサン)港の沖合へと移動を続ける。
「米国議会の調査報告書によると、プエブロ号の任務には『北朝鮮近辺で公然と活動し、ソ連海軍に対する活発な監視活動を行う情報収集艦に、北朝鮮とソ連がそれぞれどう反応するのかを確認する』ということが含まれていた。そのため、プエブロ号の航跡は挑発的であり、これが北朝鮮を刺激した可能性がある」(『ハンギョレ』2021年9月28日)
プエブロ号は諜報活動だけでなく、米軍の挑発行動への北朝鮮の軍事的対応を調べようという極めて危険な任務もしていたのではないかというのだ。米国海軍の艦船が、北朝鮮の領海ギリギリを北から南まで移動したのである。しかもプエブロ号の前にも、同じ動きをした米艦船があった。
「(NSAの)第1号艦のバナー号は1965年10月17日に日本に到着し、プエブロ号が1967年12月に日本に到着するまでに、15回の情報収集活動を行っていた。主として、ソ連と共産中国の情報収集であったが、3回は北朝鮮に対してであった。1967年2月にはバナー号は元山から20マイルに接近して情報収集をした際に、北朝鮮のパトロール艇が200メートルまで接近した」(「プエブロ号事件―米国の情報活動と危機」黒川修司)
繰り返される米国の挑発的な諜報活動を、北朝鮮は見逃さなかった。トレバー・アンブリスター氏によれば、平壌のラジオ放送は11日、「米帝国主義者の侵略軍がスパイ船を送って偵察を行なう限り、わが海軍艦艇は引き続き断固たる対策を取るであろう」と放送したという。これは、きわどい諜報活動をする米国に対する警告だった。
朝鮮人民軍に拿捕されるまで
1月21日17時20分、朝鮮人民軍の小型快速の軍艦であるSO-1(駆潜艇)が、プエブロ号から300ヤード(約274メートル)を通過した。翌22日正午には、漁網を積んだ北朝鮮のトロール船2隻が接近。1隻がプエブロ号を1周し、しばらく漂泊してから去って行った。
プエブロ号を強く警戒している、という意思表示を北朝鮮がしてきたのだ。プエブロ号は諜報活動を秘匿するため無線連絡を止められていたが、ブッチャー艦長は連絡をすることを決めた。しかしプエブロ号は、その海域から離れることなく留まり続けた。
そして運命の23日。正午少し前、1隻のSO-1がプエブロ号に接近。
「駆潜艇はすでに総員配置についており、戦闘用ヘルメットを着けた兵たちが、3インチ砲及び2基の37ミリ砲架のそばに立っていた。艦橋からは北朝鮮の士官たちがブッチャーを睨み返していた」(『情報収集艦プエブロ号』)
SO-1が国籍を問うてきたので、プエブロ号は軍艦旗を掲げた。米国海軍の艦船であることを明らかにしたのだ。
すぐに人民軍のP-4(魚雷艇)4隻も到着。さらにミグ21戦闘機2機が飛来し、低空で旋回した。戦ったら、撃沈されるのは明らかだ。もはや、絶体絶命である。
ブッチャー艦長は、その場所から脱出するために艦を動かした。しかし、この船の最高速度は12.5ノット。それに対して駆潜艇は29ノット、魚雷艇は50ノットだった。
13時30分、ついに駆潜艇SO-1と魚雷艇P-4が一斉に射撃を開始。それは何度も繰り返された。ミグ21からは、ロケット弾が発射。艦内では拿捕に備え、機密書類の焼却が始まった。
13時37分、ブッチャー艦長は脱出を断念。プエブロ号は、SO-1の後に従って元山港へ向かう。しかし、到着前に機器の破壊や大量の機密書類の処分を終えるために低速で航行。そして、さらに時間稼ぎをするために停船した。だがそれに対し、SO-1が砲撃を行なったのである。この時に8人が負傷。重傷を負った3人のうちの1人が死亡した。
14時37分、プエブロ号へSO-1から人民軍将兵が乗り移る。ブッチャー艦長は米軍機による救出を待っていたが、やって来なかった。在日米海軍司令部は、プエブロ号の元山到着までに戦闘機が間に合わないとの判断で断念したのだ。また機密保持のために、元山港に着いたプエブロ号を空爆することを検討したものの実施できなかった。
このようして、プエブロ号の将兵82人が捕虜となり、1人が死亡するという結果になった。
領海侵犯は本当にあったのか
28日に開かれた「国連安全保障理事会」で米国のゴールドバーグ大使は、プエブロ号が北朝鮮によって臨検された位置は北緯39度25分・東経127度56分の公海上だったと主張。
それに対してソ連のモロゾフ大使は、北朝鮮領海へのスパイ船の派遣は主権侵害であり国際法違反だと反論した。北朝鮮が韓国と同時に国連加盟したのは1991年になってから。そのためソ連が代弁したのだ。
北朝鮮は自国の領海を、12カイリ(22.224キロメートル)としていた。米国は、プエブロ号が北朝鮮の領海を侵犯していたかどうか確信が持てなかった。
プエブロ号が人民軍艦艇から逃れようとしていた際、米軍が定めた13カイリを越えていた場合のために、艦内では艦の位置を記した記録紙を破棄している。
「(艦長は)もう1度艦の位置を確認するよう付け加えた。レーダーの1走査で、正午の位置が確認された。ウング島から15.8マイル。スコープ内の地形は、明瞭に海図と一致していた」(『情報収集艦プエブロ号』)
筆者はその「ウング島」の位置をいくつもの地図で調べたものの、特定できなかった。元山湾の入り口にある「ウン島」のことではないかと思われる。
米国は領海侵犯をしていない“証拠”として、何と北朝鮮の無線交信を傍受した内容を明らかにした。ゴールドバーグ国連大使が述べた「北緯39度25分・東経127度56分」という数字はそれによるものだった。
「北朝鮮側の交信が示しているところでは、SO-1は事件当日少なくとも12回にわたり、その位置を司令部に報告していた。正午直前、プエブロ号を発見したときのSO-1の位置は北緯39度25分、東経127度56分で、これはウング島から15.3マイル、元山から25マイルの地点であった」(前掲)
だがこれはプエブロ号の位置ではなく、SO-1のものでしかない。米国は国連安保理に対しても、信憑性に乏しい “証拠”しか出せなかったのである。
Wikipedia掲載の地図「アメリカ海軍の報告によるプエブロ号の位置」によると、プエブロ号は領海侵犯していない。だが北朝鮮の無線傍受内容を頼りにしていたような米国が、どのようなデータに基づいて作成したのか不明である。
「第2の朝鮮戦争」の危機に発展
事件翌日の24日、板門店(パンムンジョム)で「軍事停戦委員会」第261回会議が行なわれた。
そこで「在韓国連軍司令部」首席代表のジョン・スミス海軍少将は、プエブロ号の乗員・船体の返還と、事件への謝罪を要求。北朝鮮のパク・ジュングク人民軍少将は、米国が領海侵犯を認めて謝罪し、2度と北朝鮮に侵入しないことへの保証を求めた。
こうした緊迫した状況の中で、米国のリンドン・ジョンソン大統領は攻撃の準備を着々と進めた。
ベトナム戦争でも控えていた予備役1万4787人の召集を決める。佐世保から北ベトナムへ向かう途中だった原子力空母「エンタープライズ」と原子力フリゲート艦「トラクストン」を直ちに北朝鮮へ向かわせた。他に5隻の空母や、駆逐艦18隻、巡洋艦3隻をこの事件に対する作戦に投入したのである。
これは1962年のキューバ危機以来、最大の態勢だった。事態は、“第2の朝鮮戦争”へと発展する可能性が極めて高かった。
2月2日から、米朝2国間交渉が板門店で始まった。しかしそれは一進一退を繰り返す。
周辺国も活発に動いていた。韓国の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は2月5日、ジョンソン大統領に書簡を送って軍事攻撃を強く求めた。またソ連は北朝鮮に、米国へ乗員と船体を返還するよう、裏ではさまざまな圧力を加えたという。事態をエスカレートさせようとしたり、収拾しようとしたり、さまざまだった。
2014年1月、米国「国防総省」のプエブロ号事件に関する文書が機密解除で公開された。それによると、ジョンソン大統領の指示で検討された北朝鮮への報復措置の中には“核攻撃”もあった。
事件から4ヵ月後の5月、戦闘機・爆撃機と地上軍まで投入し、韓国空軍と共同で北朝鮮を攻撃し、海上封鎖も行なうという内容だった。しかもその計画には、B-52爆撃機からの70キロトンの原爆投下もあった。米軍が長崎へ落とした原爆(21キロトン)の3倍以上の破壊力である。まさしく、北朝鮮と全面戦争をしようとしたのだ。
しかし、板門店での北朝鮮との交渉が進展しつつあった。そのためジョンソン大統領は、兵力を集めたままで圧力をかけ続けることにしたため、この作戦は実行されなかった。
北朝鮮に全面謝罪をした米国
米国は、ベトナム戦争が泥沼化している状況で、新たな戦争を始めるのかどうか決断を迫られた。北朝鮮を攻撃すれば、ソ連の参戦があり得るだろう。もはや米国には、北朝鮮への軍事攻撃を断念するという選択肢しかなかった。
米朝は板門店で11ヵ月間にわたり、軍事停戦委員会や非公式な形で会談を重ねた。そして12月23日の第26回軍事停戦委員会で、米国政府代表のギルバート・H ・ウッドワード少将は奇妙な声明を読み上げた。プエブロ号は領海侵犯をしておらず謝罪することは出来ないが、乗員を自由にするために謝罪文に署名するというのだ。
そして、北朝鮮が作成した文書に署名をした。
「米艦プエブロ号が朝鮮民主主義人民共和国の領海を侵犯した後の重大なスパイ行動について、全責任を負って厳粛に謝罪し、今後、米艦艇が領海を侵犯しないと固く保証する」
北朝鮮が事件直後から要求していた通りの内容だった。米国の完全な敗北である。
署名後すぐの11時30分、プエブロ号の乗組員82人と遺体1体が、板門店共同警備区域内の「帰らざる橋」を渡って韓国へ入った。
米国海軍史上で最大の“屈辱”となったプエブロ号事件。これは米国にとって、朝鮮戦争で勝てなかったことと共に大きなトラウマとなった。
返還されなかった船体
米国は事件後、何度か船体の返還を要求した。だが北朝鮮が、このすばらしい“戦利品”を手放すはずもなかった。
プエブロ号の船体は現在、平壌にある「祖国解放戦争勝利記念館」の普通江(ポトンガン)に面した川岸に係留されている。
この記念館は、朝鮮戦争を中心とした米国との戦いの歴史を展示する博物館。金正恩体制になって全面的に建て直され、21013年7月に大同江から運ばれたプエブロ号と共に公開された。
戦車や戦闘機など、米軍から鹵獲(ろかく)した数多くの兵器が並ぶ。その中でプエブロ号の船体は他のものとは桁違いに存在感がある。
プエブロ号の船体には、実に興味深いものがたくさんある。
見学者はまず、入ってすぐの食堂で椅子に座り、北朝鮮が制作したプエブロ号のドキュメンタリー映画を見ることになる。朝鮮語だけでなく、外国人訪問者に合わせ英語や日本語でも上映される。その映画を収めたDVDは、艦内で購入することが出来る。
次に艦内を見て回る。いつまでも観察していたいと思うのは、限られた将兵しか入ることが出来なかったという最重要の「調査区画」だ。諜報活動のためのさまざまな機器が、びっしりと並ぶ。
艦内のさまざまな箇所に銃撃や砲撃を受けた跡があり、そこが赤で印されている。それで死亡した兵士もいるので、実に生々しい。
そして操舵室に入る。人民軍の艦船との攻防で修羅場となっていた時のようすが思い浮かぶ。時には、プエブロ号拿捕に参加した人民軍兵士からその時のようすを直接聞くことが出来る。
船体移動にまつわる謎
プエブロ号の船体は、長らく元山に係留されていた。そこは、日本海(東海)側である。その船体が1999年、平壌市内の大同江(テドンガン)に出現したのである。係留されたのは、北朝鮮にとって米国との戦いの“原点”ともいうべき場所だった。
1866年7月。米国の武装した商船「ジェネラル・シャーマン号」が、朝鮮王朝(1392年~1910年)との交易を求めて大同江の河口に停泊。そして、川を遡ることを拒否する旨を伝えるために送られた朝鮮の官吏を拘束。船は平壌の羊角島(ヤンガクド)まで侵入した。
シャーマン号の船長は朝鮮に、金・銀・朝鮮人参と米150トンを要求。それが拒否されると川岸を砲撃したため、住民約10人が死亡した。これに対して住民たちは、夜中に船を攻撃して焼き払ったのである。
米国のアジア艦隊は事件への謝罪と通商を求め、1871年5月に「コロラド号」などの軍艦5隻を江華島(カンファド)へ送った。激しい戦闘によって朝鮮軍240人以上、米軍は15人の死者を出した。
北朝鮮はこの「シャーマン号事件」を、米国による朝鮮侵略との最初の戦いと位置付けている。事件から100年にあたる1966年には、事件現場近くの大同江右岸に「ジェネラル・シャーマン号撃沈記念碑」を建立した。
プエブロ号の元山から大同江、そして普通江への船体の移動方法には謎がある。北朝鮮は今まで、公式にその方法を明らかにしたことがなかった。
元山から大同江へは、鉄道などの陸路を使ったのではないかとの憶測が主流だった。筆者は政府関係者たちに、その方法を聞いてみたことがある。「いくつかに分割して、陸路で運んだのではないか」と答えた人もいた。ところが、である。
「まんまと朝鮮の東海、南海、西海をぐるっと回って大同江に移ったプエブロ号の航行に、もっとも驚愕したのは米国だった」
このように21日の『労働新聞』の記事には、その方法が明記されているのだ。つまり元山から南下して韓国の南側を回り込み、大同江を河口から遡上して平壌へと運んだというのである。もちろんこれは物理的には可能なのだが、米国に知られると間違いなく奪還されてしまう。
「北朝鮮との交渉に深く関与してきた元職の重鎮は、北朝鮮が陸路ではなく海路、すなわち『東海→済州(チェジュ)海峡の外側→西海(黄海)→大同江』経路でプエブロ号を移動したことをほのめかした」(『ハンギョレ』2021年9月28日)
韓国で流れていた情報は正しかったのだ。それにしても、何としてでも船体の奪還をしたい米国や韓国の監視の目をかい潜って航行するのは、並大抵のことではなかっただろう。
大同江から普通江へ
プエブロ号の移動には、もう一つの謎がある。どのようにして、大同江から普通江へ移したのかである。
普通江は大同江へと流れ込む川なので、流れは繋がっている。現在、プエブロ号があるのは、普通江が大同江と合流する「普通江橋」から約6キロメートル上流。だがプエブロ号を川に浮かべたままで普通江へ移動させることは困難なのである。先の『労働新聞』の記事には次のような記載がある。
「戦勝記念館(筆者注:祖国解放戦争勝利記念館)建設を現地指導した敬愛する金正恩(キム・ジョンウン)同志はこうおっしゃった。『鹵獲(ろかく)武器などを展示しているそばの普通江にプエブロ号を展示しなければなりません』。
世の中を今一度ひっくり返すような驚異的な着想に皆が驚きを禁じ得なかった。重さが1000余トン級の船を水深が浅い普通江に移す方法に苦心する職員たちに敬愛する総書記同志は、プエブロ号を移すのは別に難しい問題でないと言われ、その解決方法を即席で教えてくださった」
最高指導者の指示によって、船体の普通江への移動は決まった。金正恩総書記が教えたという運搬方法については記事にない。それを推測してみよう。
水路で移動させるにはいくつもの難関がある。まず、記事にあるように普通江の水深は浅い。普通江橋から約1キロメートルの区間と、朝鮮料理の有名店・清流館付近では、堆砂によって川底が露出している。
そもそもこの普通江流域は、整備事業が行なわれた1946年以前は、毎年のように洪水に見舞われていた。今でも流域には、池がいくつもある。普通江は“川”というより、低湿地に造られた“排水路”といった方が正確だろう。
今でも洪水が起きることがある。2007年8月に1週間ほど集中豪雨に見舞われた時には、普通江の水を大同江へ排水することが出来なかった。内水氾濫が起きたのだ。そのため水位が大きく上昇し、普通江から100メートルも離れていない「普通江ホテル」は1階が浸水した。
その時、このホテルには何人もの日本人がいた。私が繰り返し取材した、このホテルで長年にわたって働いた統一教会の日本人信者A氏。周囲が水没したために“島”のようになったホテルから、1週間ほど出ることが出来なかったと語った。
(筆者が現代ビジネスに寄稿した『北朝鮮で見た「統一教会日本人信者」の実態と、“疑惑の船”取材から繋がった「ある衆議院議員と教団の意外な関係」』参照)
話を戻すと、普通江の流れは普通江橋から直線距離で約5キロメートル上流の地点で二つに分かれる。プエブロ号が繋がれているのは東側の方だが、船体より下流には幅約50メートルもの水門があるのだ。この上には道路があり、街路樹が立ち並ぶ。
ここが水上移動での最大の難関である。船がこの下を潜り抜けたり、水門を撤去することなどほぼ不可能なのだ。全長53.9メートルのプエブロ号の船体は、大同江から陸路で普通江へ運ばれたのは間違いない。
今も続く「プエブロ号事件」
55年前の「プエブロ号」事件は、実はまだ終結していない。今も続いているのだ。
「プエブロ号」の名前は、米国コロラド州にある「プエブロ市」から名付けられている。コロラド州議会は2020年、北朝鮮にプエブロ号の返還を求める決議案を全会一致で採択。同じ決議は2016年にも行なわれた。
そして2021年2月、ワシントンの連邦裁判所は、プエブロ号事件に関係する判決を下した。プエブロ号の多くの乗組員が、激しい拷問を受けたことで「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」などの身体的被害を受けたとして、北朝鮮に対して元乗組員と遺族に23億ドル(約2400億円)の支払いを命じた。2008年12月にも同裁判所は、約6600万ドルの支払いを言い渡している。
このように、北朝鮮だけでなく米国にとっても「プエブロ号事件」はいまだに尾を引いているのだ。
米国は朝鮮戦争で勝利することが出来ず、プエブロ号事件では全面敗北をした。このことは共和党政権だけなく民主党政権であっても、米国の北朝鮮政策を大きく規定することとなった。北朝鮮への「戦略的忍耐」を続けたオバマ元大統領や現在のバイデン大統領のように、民主党政権であっても北朝鮮への関与を避けようとする。
北朝鮮が昨年11月に発射実験をした大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星(ファソン)17」は、余裕をもって米国全土を射程に収め、複数の核弾頭搭載が可能と推察される。もはや開発段階は終ったようだ。
米国が置かれている状況は大きく変わったのであり、米国は制裁緩和をしながら北朝鮮との現実的な交渉をするしかないだろう。ところが就任から2年を迎えたバイデン大統領は、ウクライナ戦争や自身の機密文書保管問題への対応に追われ、残り2年の間に大胆な北朝鮮政策を打ち出すことは困難な状況だ。
2007年4月、米国ニューメキシコ州のリチャードソン知事が米軍機で平壌を訪問している。一行には、米国政府「国家安全保障会議(NSC)」アジア部長のビクター・チャ氏も含まれていた。目的は、朝鮮戦争で行方不明になった米兵の遺骨返還についての協議だった。その結果、6人の遺骨返還が決まる。
知事の平壌滞在中に、北朝鮮はプエブロ号の見学を設定。そのことに、知事は不快感を表した。だがその際に北朝鮮は、米朝関係正常化への意欲を強調し、プエブロ号船体を返還することも可能との考えを表明したのである。
米国と厳しく対峙している今は、“反米政策の象徴”となっている「プエブロ号」。もし米朝関係が大きく改善したならば、この船は不必要になる。その時には、“友好関係の証”として返還されるのは確かだろう。
ただ、それがいつになるのかは、まったく見通しが立たない。
(Wikipedia以外の写真は筆者撮影)
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