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織田家18代当主が綴る「『前衛芸術家』信長の作品、安土城」

이강기 2015. 9. 29. 09:26

織田家18代当主が綴る「『前衛芸術家』信長の作品、安土城」

週刊朝日 2015年10月2日号掲載) 2015年9月25日(金)配信     

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信長の美学の集大成が安土城に?(※イメージ) [拡大]

 戦国時代の武将・織田信長の子孫である織田家18代当主の織田信孝(のぶたか)さんは、信長の美学の集大成が安土城にあるという。

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 安土城跡には2、3回、足を運んだことがある。JR琵琶湖線の安土が最寄り駅だが、駅からはかなり距離があるので、以前は駅前でレンタサイクルを借りて行った記憶がある。

 安土城跡の印象は長くて広い石段である。上っていくと途中には信長廟、次男・信雄(のぶかつ)から4代(信雄、高長、長頼、信武)の墓などがあり、頂上には天守閣跡がある。天守閣跡には礎石だけが残り、麓(ふもと)を一望できる。麓一帯は農地だが、安土城があった頃は琵琶湖だったそうで、眼下に湖が広がるすばらしい景色だったに違いない。今、それがないのは昭和に入ってから干拓が進んだからである。

 滋賀県立安土城考古博物館へ行くと、当時の安土城付近の模型があって、安土山は琵琶湖に突き出した小さな岬であったことがよくわかる。琵琶湖のほとりというより岬の頂上にそびえる城だったのだ。いかにも信長らしい、シンボル的な立地だし、琵琶湖の水運を生かすことも想定して築城したのだろう。

 だが安土城は信長の死後、数日で焼失してしまう。原因は諸説あるが、土民の放火とも、信雄が明智光秀に利用されないよう火を放ったとも言われる。

 だから今日、私たちが模型や画像で見る安土城は、残された図面や資料を手がかりに研究者が復元したものである。

 

その第一人者であった故・内藤昌(あきら)先生(建築史家/名古屋工業大学教授などを歴任)は、我が家にも連絡をくださったことがあった。さまざまなツテをたどって資料を探しておられたようだ。安土城にはまだ謎も多く、復元された姿が正確とも言い切れないらしい。信長の美学の集大成とも言うべき城が焼失したのは実に残念である。 司馬遼太郎さんは三英傑を評して、信長を前衛芸術家、秀吉を商売で蓄財した後に政治家になるタイプ、家康を高級官僚にたとえた。私も信長には芸術家的資質を感じる。もっと正確に言えば、芸術家的な直観力で社会を変革しようとした人だと思っている。スティーブ・ジョブズのようなイメージだ。当時の前衛芸術だった茶の湯を広める、独創的な安土城を造り、さらにこの城をライトアップする、京都では馬揃えというイベントをやる。そうしたことから考えると、今日でいうデザイン思考やイノベーションに強い人だったのではないだろうか。

 おもしろいのは、信長の息子たちは、父の芸術家的資質を受け継いだらしいことである。いずれも芸能好きで、腕前もかなりのもの。信忠、信雄、信孝の3人で群衆を前に舞を披露したこともあったという。信忠など、能楽に入れ込み過ぎ、信長に叱責されている。

 まるでベンチャー企業の創業者の息子たちがバンド活動に夢中になり、オヤジに叱られているみたいでおかしい。安土城というと「天下に思いをはせ、天守閣から下界を睥睨(へいげい)する信長」といった絵が目に浮かぶ。しかしその信長が心中、「将来をあんな息子たちに任せて大丈夫だろうか」などと考えていたと想像すると、これまでとは違う信長像が見えてくる。

※週刊朝日  2015年10月2日号 

 

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