日本はなぜ戦争の記憶を恐れるのか
人民網日本語版 2014年06月24日10:08
シンガポールのリー・クアンユー元首相はかつて、次のように指摘した。戦後ドイツの実業家や資本家の履歴には、戦時中の経歴がすべて残っている。戦争に参加したことがあるか、捕虜になったことがあるかなど、包み隠さず記載されている。だが日本人の履歴は1937年から1945年までが空白で、まるでその日々がなかったかのように扱われている。(文:劉少華。人民日報海外版掲載)。
「まるでその日々がなかったかのように」扱われているのは、日本人の一部が自らに直面する勇気を持たないためだ。歴史教科書の強引な修正、歴史問題に対する歯切れの悪さ、被害を受けたアジアの国からの真っ当な要求への否認や回避は、すべてその表れである。
例えば菅義偉官房長官は最近、南京大虐殺資料の世界記憶遺産への申請を「日中関係の過去の一時期の負の遺産をいたずらに強調するもの」と退けた。この件に対する安倍首相の考えはわからないが、アジアの人々の思いを踏みにじって靖国神社参拝を強行した安倍首相を非難しているようにも聞こえる。
中国人が経験したこの重い歴史は、どの角度から言っても、全人類が共有すべき記憶の一部であるはずだ。世界は、アウシュヴィッツ収容所を記憶せねばならないように、南京大虐殺を覚えておかねばならない。世界は、「アンネの日記」を必要とするように、「程瑞芳日記」(南京大虐殺を記録した日記)を必要としている。世界は、ナチスの犯罪の証拠を永久に保存せねばならいように、旧日本軍の南京での暴行のフィルムや証言、判決書を永久に保存しておかねばならない。
ルース・ベネディクトは有名な著書「菊と刀」で、「恥の文化」を基調とした日本文化においては、間違いを認めたり懺悔したりすることで人は解放されることはない。逆に、間違った行為があからさまにならなければ悩むこともないと指摘した。
つまり一部の日本人の「1937年から1945年までの空白」は、彼らの記憶の空白を示しているのではなく、世界の記憶においてこの間が空白であってほしいという彼らの願いを示しているのである。こうした人々が恐れるのは、間違ったことをするということ自体ではなく、間違ったことをしたことを覚えている人がいるということなのである。
このような国民性には恐るべきものがある。ファシスト側にあって同じく敗戦国となったドイツでは、ナチスの犯罪の証拠を世界から集める専門の係が今でも置かれ、謝罪と補償の努力が尽くされている。かつての首相のウィリー・ブラントがユダヤ人犠牲者の記念碑の前で跪いたことは世界のニュースとなった。だが南京の犠牲者30万人は70年余りが過ぎた今も、日本の政治家の言い逃れを聞き続けなければならないのである。
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」。人類を襲った悲惨を前に、哲学者アドルノが語ったこの言葉は、この時期の苦難の歴史に対する西洋世界の眼差しを示す古典的反省として知られる。さらにノーベル賞作家のギュンター・グラスは、「アウシュヴィッツ以降の創作は、詩であれ散文であれ、歴史を覚えておくため、不幸の再演を防ぐため、歴史を終わらせるためというあり方でしかあり得ない」としている。
「南京大虐殺以降」はどうだろうか。詩を書くことは同様に野蛮である。中国人の心の中で受け止めきれない重さを持つからだ。だが記憶は伝えなければならない。私たちが伝えていくべき記憶は、観点でも主張でもない。一枚一枚の写真、一件一件の文書、一本一本の映像である。事実を前に観点は余計だ。
もしも世界にこうした記憶を残さなければ、未来の人々は、これら30万のこの地を生きた者たちを語るすべをなくすだろう。真実の記憶を残しておかなければ、こうした殺戮がこれからの世界を害することをいかに防ぐことができるだろうか。
日本の一部の人々が恐れるこの時期の記憶は、その記憶が存在しないことを示してはいない。日本がその国民性においてこの記憶を回避しようとすることは、私たちがこうした無理な要求に耳を傾けるほどの善良さを持ち合わせなければならないことを意味してはいない。(編集MA)
「人民網日本語版」2014年6月24日
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