日本, 韓.日 關係

산케이의 呉善花 띄우기

이강기 2015. 10. 9. 10:07

評論家・呉善花(57)(1)日韓理解は価値観の違い認識から

 

 

 

2014.8.4 03:05 話の肖像画

 

(三尾郁恵撮影)

(三尾郁恵撮影)

 

 

 〈1983(昭和58)年に27歳で来日して以来、韓国と日本、韓国人と日本人、似て非なるものに悩み苦しむ時期が続いた。そんな日韓のはざまで悩み、考えたことを本にしてみようと考えた〉

 

 姿かたちや文化の類似性からすると、日本人と韓国人はとても近いと思えます。でも、ちょっと中に入り込むと全然違うのです。日本と韓国の差異に強く悩んでいたころ、日本語学校で知り合ったフランス人と欧州に行き、欧州の空気を味わいながら日本を見直しました。欧州はやはり個人主義で階層間の差が激しい社会。日本は私にとっておかしな人たちが住んでいる国なのに、なぜ大多数の人たちの生活が豊かな社会をつくり上げられたのだろう。それで自分の価値観や心情をいったんカッコに入れて、できるだけとらわれない目で日本人を探っていこうと思ったのです。

 

 それまでは、いろんな激しい葛藤がたくさんあって、なかなかうまくいかなかった。親しい日本人との間でもうまくいかない。でも全てをあきらめるわけにはいかない、日本を探っていくしかないと思いました。日本人とは何か、なぜ韓国人の感覚と違うのか。悩みながら探っていこうと思いました。民族的なアイデンティティーの危機に陥り、悩んだ末のことです。

 

 〈日本を、日本人を深く探りたい-。そんな思いの輪郭を、韓国人ホステスらとの出会いがくっきりと浮き出させた。初出版の『スカートの風』(三交社)は日本と韓国の社会を素直に見つめたものだった。大きな反響を呼んだ〉

 

日本語学校の活動を通じて日本人との人間関係に悩む韓国人ホステスたちの話を聞いて、また日本人ビジネスマンとの勉強会で韓国とのビジネスの上で悩む話を聞いて、日韓の文化や習慣の違いを深く探ろうという気持ちが強くなりました。テレビ番組の依頼で新宿・歌舞伎町の韓国人ホステスを取材したことがきっかけで、出版の話が来ました。出版するまで大変時間がかかりましたが、いろいろな方々の協力があって本を出すことができました。

 

 出版してすぐに、読者からたくさんの手紙が来ました。いずれも目からウロコが落ちた、深く感動したという内容で、うれし涙がとまりませんでした。自分の考えを書いたものが、日本社会で共感され、受け入れられるという感動がありました。その一方で、韓国の留学生や韓国のマスコミからはものすごい批判を浴びました。批判は本の内容ではなく、「売国的言辞を弄した」ということで、私を個人攻撃するものがほとんどでした。残念でしたが、韓国はこんなにもレベルが低いのかと思いました。

 

 日韓関係がうまくいかないのは、文化・習慣・価値観などの違いが互いによく認識されていないことが出発点にあると私は指摘したかったのです。それを指摘しない限り、日韓はうまくいかないと考えました。本では文化・習慣・価値観の違いをたくさん書いています。日韓の相互理解を深めるとともに、日本社会が韓国に対して虚心坦懐(たんかい)に意見を言えるきっかけを作ったのではないか、と自負しています。(聞き手 是永桂一)

                   ◇

 

反日に染まりながら母の教え忘れず「日本人はすごく親切よ」 評論家・呉善花(57)(2)

 

2014.8.5 03:14 話の肖像画
 

 〈1956(昭和31)年、自然豊かで開放的な気風とされる韓国・済州島に生まれた。母の影響もあり、日本への憧れが育った〉

 

 済州島の東海岸側で生まれました。故郷はいつも日の出が美しくて、そういう景色をずっと見て育ち、海のかなたを思っていました。家族は両親と姉が2人、兄と弟と妹が1人ずつ。私は真ん中でした。母は日本の話をよくしてくれました。戦前、大阪に親類がいて、母は一時期、一緒に暮らしていました。母は父と結婚して一度韓国に戻り、そして鹿児島に行き、父とともに親類親子と一緒に終戦になるまで働きました。母からよく聞いたのは「日本人はすごく親切なのよ」「日本には泥棒がいないのよ」といった、思い出話でした。とにかく、日本人にどれだけ親切にされたかを具体的に話してくれました。母の話は鮮明に覚えています。

 

 小学校に上がると反日教育があり、私もどんどん反日に染まっていきました。来日した時は「悪い日本を変えてやらねばならない」という気持ちが人一倍強かったのですが、次第に日本人とは何かということを自分で探ろうと思うようになったのは、子供の頃に母から聞いた「よき日本の思い出話」が大きかったと思います。

 

 〈海のかなたに憧れる少女は高校、看護学校を経て1976年に軍隊に入る〉

 

 1970年代、西ドイツが韓国から看護師を受け入れていたので、看護師になって西ドイツに行こうと思い、看護学校に入りました。ところが入学直後に西ドイツが韓国からの看護師受け入れをストップしてしまいました。それで、1カ月で看護学校を退学しました。親には申し訳なかったですが、私はどこかで夢を追っていたんです。外への夢です。

 

1970年代は軍人の地位は今より高く、たまたま私のいとこが軍隊に幹部としていたんです。いとこに面会するため、陸軍本部に行ったら、陸軍で働く女性もかっこよく見えました。それまでは外国に行くことばかり考えていましたが、きびきびとした軍人の姿の美しさや、愛国心もあって軍隊に入ろうと決意しました。

 

 軍隊での生活は4年間続きました。すごく厳しかったのですが、私は前向きにできるだけ楽しむようにしました。新しいものに挑戦することも好きでしたし、挑戦が厳しいものであるほど楽しみでした。軍隊に入りながら臨床病理の学校にも通って、除隊後は病院に勤めたのですが、臨床病理を専門とするために米国留学を考えていました。当時の韓国では米国留学はかなり困難でしたので、ひとまず日本に行こう、そうすれば米国留学の道もひらかれるのではないか、と考えました。病院の近くに日本語教室がありましたので、私は昼ご飯の時間を利用して日本語を勉強しに通ったんです。幼い頃の日本への憧れが再び、頭をもたげてきたのです。(聞き手 是永桂一)

 

 

韓国との違いに苦しんだ日本での生活  評論家・呉善花(57)(3)

 

2014.8.6 03:36 話の肖像画
東京の日本語学校で

東京の日本語学校で

 

 〈1983(昭和58)年に来日し、日本での生活が始まる。日本との触れあいは驚きにあふれていた〉

 日本で初めての生活の場は、東京都北区十条の2階建てのアパートでした。6畳間とキッチンがある部屋でした。韓国よりずっと商品が豊富な商店街が魅力的で、買い物などもよくしました。日常的な日本人の方々との触れ合いがありました。商店街界隈(かいわい)では盛んに情緒が飛び交い、日本人をよく知ることができました。

 

 日本の第一印象は、人はみんな親切で、優しく、思いやりがあり、治安もとてもよい、というものでした。ある時、電話ボックスに財布を忘れてしまい数時間後に気づいたのですが、あるわけもないと行ってみると、なんと私の財布がそのまま置いてありました。あり得ないことだと思いました。ある時は、お店で小さな袋に入ったお米を買って炊いたらバサバサするんです。玄米系の米だったらしいのですが、買ったお店に持っていったら、そのまま新しいものに換えてくれました。信じられない思いでした。

 

 〈楽しいはずの日本での生活だったが、その風土に慣れるのに従って違和感が芽生えてくる。日韓の間で、壁に挟まれていった〉

 

 言葉がある程度できるようになると、だんだん日韓の違いに苦しむようにもなりました。楽しい日本生活がスタートしましたが、2、3年たって一歩踏み込んだ関係へと入っていく段階で、いろいろと問題が生じました。

 

美容院で、わざわざ「きれいにしてくださいね」と言って、美容師さんが気分を悪くするということもありました。韓国風の親しみを込めた言い方が、プロの職業人への嫌みに聞こえてしまうのですね。また、青果店で、キムチを作る白菜を買うときに「白菜をたくさん買うから良い白菜をくださいね」と言いながら、白菜を手で何度もひっくり返したのです。ものすごく気分を悪くさせてしまいました。

 

 そこで、深く悩み、苦しみました。日本人は差別的だから韓国人が日本で成功することは至難の業だと聞かされていました。やはりそうなんだと思いましたが、日本人にはどこか韓国人に対する特有な親和性があるとも感じられるのです。そこに接点を持てれば、うまくいくかもしれない。そう自分自身に言い聞かせて、行き違いや誤解を重ねながらも日本人とのつきあいを深めていこうと思いました。

 

 ある機会から、日本人ビジネスマンとの月1回の勉強会に参加しました。そこで真剣に議論したり、食事や飲み会を重ねたりしました。そうしていくうちに、自分の考え方や感じ方と日本人のそれとのズレがわかるようになり、次第に自分の方のよくない点に多々気づくことになりました。その体験が自分を変えていくきっかけになったと思います。(聞き手 是永桂一)

 

日本への傾倒、韓国とのギャップ 帰化、そして祖国 評論家・呉善花(57)(4)

 

2014.8.7 03:18 話の肖像画
 

 〈『スカートの風』(三交社)の出版をきっかけに本格的な評論活動に入り、1988年に日本に帰化する〉

 

 評論活動を続けていくうちに日本がさらに好きになりました。東京外語大の大学院では米国のことをずっと研究していたのですが、結局は日本にすごく魅力を感じるようになり、米国行きはやめました。仕事の依頼も多くなって、主に日韓比較論や日本人や日本文化について書くようになりました。日本人とは何かを探っているうちに、日本と自分が切り離せなくなったのです。日本人がずっと住んできた日本という国に強くひかれていったんです。

 

 おのずと物事への感じ方や考え方が日本的になっていきます。そういう自分が韓国人と会うと、ものすごいギャップが生じる。韓国というものを外から見ている自分を発見しました。客観的に見ると韓国の矛盾や問題点がすごく見えるようになったんです。韓国の悪いところ、日本人が気がつかない日本の良いところ、この2つを引っ張り出すのが私の仕事の役割だと思うようになりました。日本を愛するようになっているのは極めて自然な流れだと思いました。そこから日本に帰化するのが自然だと思うようになったのです。

 

 〈愛する日本と祖国・韓国、苦渋の帰化だった。そんな選択は思わぬ波紋も呼んだ〉

 

韓国からの攻撃はずっと続いていました。日本での著作活動を続けていると、韓国の治安当局からも「韓国を批判する本を書くな」と指弾されるようになりました。韓国のマスコミ、政府からも個人攻撃を受け続け、彼らの批判のあり方のレベルがあまりにも低いと絶望もするようになりました。私が帰化を決断したのは日韓の社会のレベル差を強く感じたからです。国籍を変えるということは、韓国の家族や故郷を捨てるということではありません。きょうだいたちにも納得してもらいました。

 

 韓国のマスコミ、政府から攻撃を受けていて、韓国人のままだと何をされるかも分からない、という気持ちもありました。自由な言論活動をしていく上で、帰化という選択は必須とも思えました。親日言論が韓国では抑圧されますが、決してそうされたくなかったのです。

 

 しかし、平成19年、当時の盧武鉉政権の下で、母の葬儀に出席するため韓国へ行ったのですが入国を拒否されました。理由を尋ねても、当局は「上からの命令だ」としか言わない。その時は、母の葬儀以外の活動に参加しないという条件付きでなんとか入国が認められました。しかし、昨年7月、親類の結婚式のために入国しようとしたら、また入国できませんでした。もっと開放的になるべき韓国が北朝鮮みたいになっている。過去に戻っているということに対して、心を非常に痛めています。(聞き手 是永桂一)

 

 

 

今の韓国なら「では結構」と距離置いた方がうまくいく 評論家・呉善花(57)(5)

 

2014.8.8 03:06 話の肖像画

(三尾郁恵撮影)

(三尾郁恵撮影)

 

 〈日韓関係が悪化する中、自問自答する日々が続いている。関係改善に必要なことは何か-。日韓の距離の取り方が再び問われている〉

 

 外交や政治問題があっても、民間交流や文化交流があれば日本と韓国はいつかは通じ合えるといわれ続けています。その甘い日韓の幻想を突いたのが『スカートの風』(三交社)でした。日本人の多くが話し合えば通じ合えるといわれますが、通じ合えません。政治的な駆け引きで勝つか負けるかしかありません。

 

 なぜ今、日韓関係が悪化しているかというと、基本的な考え方の違いやギャップへの深刻な認識のないまま、政治的交流や文化的交流をしているからです。大きな溝を互いに見つめ合わず、ただ関係を前に進めよう、話し合いをしようとするから副作用が噴出するのです。韓国は今、中国にべったりとひっつこうとしていますが、日本は無理に今のような韓国と付き合おうとせず、「それならば結構です」といったん、距離を置いた方がうまくいくと思います。

 

 関係改善のために韓国の方々に対して呼びかけたいことがたくさんあります。「これだけの違いが日韓にありますよね」ということです。私は日韓に横たわる問題を丹念に指摘して多くの本にしていますが、韓国では私の本は全く翻訳されていません。近刊の『なぜ「反日韓国」に未来はないのか』(小学館)を、私は韓国語に翻訳しましたが、韓国の出版社は「出せば売れるけれど会社がつぶれる」ということで、どこも受け入れてくれません。それで今、英語に翻訳しています。韓国ではことごとく私の本を読まないで批判してきますので、韓国や世界で少しでも読む人がいればと思っています。韓国語版を電子出版したいとも考えています。

 

〈幼少期の憧れから始まり、気がつくと韓国より日本で重ねた歳月の方が長くなった。今もわが国への愛情は日増しに募っている〉

 

 私が子供の頃に思っていた日本は、ほとんど今の日本そのままだと思います。やさしく親切な人が多く、世界で最も貧富の格差が少ない豊かな社会があって、世界で最も治安の良い平和な国です。日本の文化、精神性を今も探り続けています。世界が理想としながらつくり上げることができなかった社会、それを日本はつくり上げることができた。

 

 それはなぜか。日本人に特有な「和をもって尊しとする」調和の精神があるからこそです。日本人はことさら対立を嫌い、ことさらに融和を好む他に例を見ない平和な国民だと思います。世界の一部で誤解されていますが、今はそこに気づいている人たちが増え続けています。自身に誇りと愛情をもっていただきたいと思います。対立ではなく融和、それはこれからの世界をつくっていく人類的な課題にほかならないでしょう。(聞き手 是永桂一)=次回はシンクロナイズドスイミング日本代表コーチ、井村雅代さん

 

 

仙台「正論」懇話会 呉善花氏講演 慰安婦問題「韓国自身への侮辱」

2014.7.25 02:10
 

 「日本と韓国では根本的に価値観が異なる」。24日、仙台市青葉区の江陽グランドホテルで開かれた仙台「正論」懇話会の第37回講演会で、講師に招かれた拓殖大学国際学部教授の呉善花(オ・ソンファ)氏(57)は、日韓両国にまたがる価値観の隔たりを分かりやすく解説した。会場に詰めかけた約270人の参加者は、気鋭の評論家の意見に熱心に耳を傾けた。

 講演後の質疑応答でも挙手が相次いだ。「戦前の日本統治下で残した資産などについて、韓国内ではどのような認識なのか」という質問には、「日本統治下ではひどいことをされたと教わるが、人口も約30年間で約1千万人増加した。ハングルも教えているのに、日本語を教えたという事実だけを切り取っている」と紹介。「韓国は何が正しい歴史なのか分からなくなっている」と続けた。

 

 また、「ベトナム戦争で、韓国軍が現地で暴行をしたとされる問題をどう思うか」という質問も。呉氏は「(ほかにも)問題はたくさんある」と答え、国際社会では女性問題が注目されやすいことを指摘した。

 

その上で慰安婦問題に言及し、米国で慰安婦像を建てる動きが活発化していることについて、「例えばアメリカのコリアタウンに『慰安婦通り』と名付けたら、従業員は『私はそこで働いている』といえるだろうか」と疑問を投げかけ、慰安婦問題で日本をおとしめようと宣伝するほど、韓国女性に対する侮辱につながると主張した。

 ■講演要旨「話し合いをすればいい」は通じない

 

 韓国では60歳ぐらいから下の世代は強烈な反日教育を受けた。朴槿恵(パククネ)大統領は反日的発言を繰り返しているが、反日であればどんな悪口でも許されるのが韓国社会だ。

 

 韓国は慰安婦問題に力を入れている。歴史認識や竹島問題には、欧米人は関心がないからだ。女性問題や人権問題はいまの時代にぴったりだ。世界の人々は『日本人はひどい』という気持ちになる。

 

 韓国人は日本人の技術や文化を評価している。しかし、日本人の精神性を支える軸が分かりにくい。韓国は祖先を拝む儒教が基盤だ。韓国人からは多神教の日本人は未開人に見える。

 

これは地政学的、歴史的な問題が大きい。地政学的に日本は島国、朝鮮半島は大陸に接している。中国や韓国は異民族の絶え間ない侵略を受けた。山の神や海の神を信じていたのでは、いつ征服されるか分からない。信じられるものは絶対唯一なるものだ。それが韓国では偉い人が作った歴史だ。韓国では歴史は100%正しいという価値観を持っている。日本人がいろいろな歴史認識があると言っても理解してもらえない。

 

 日本は異民族から侵略(支配)されたことがない。和を大事にし、絶対唯一の神ではない。自分の考えだけが絶対ではなく、ほかの人の考え方も聞こうという価値観が残ったのは島国だからだ。

 

 韓国から日本を見ると分かりにくく、日本のことが不安でならない。あるときは平和ぼけしているように見えるが、ときには何か恐ろしい集団主義のようにも見える。だから、たたいておこうとなる。

 

 価値観や歴史背景などを踏まえて韓国人と向き合うべきだ。「ただ話し合いをすればいいんだ」というのは日本人だけの考えであって、韓国には通じない。

 

【プロフィル】呉善花

 オ・ソンファ 1956年、韓国・済州島生まれ。看護学校などを経て4年間、志願で女子軍隊生活を送る。83年に来日し、大東文化大を卒業後、東京外語大大学院の修士課程修了。90年から執筆活動を開始し、著書は『スカートの風』をはじめ、第5回山本七平賞を受賞した『攘夷の韓国、開国の日本』や『なぜ「反日韓国に未来はない」のか』など多数。拓殖大国際学部教授。