【20世紀特派員】隣国への足跡(19)
(肩書き等は『産経新聞』掲載当時のもの)
黒田勝弘(産経新聞ソウル支局長)
戦前の韓国(朝鮮)で生まれ育った作家・梶山季之の贖罪意識が反映した小説「族譜」は「創氏改名」をテーマにしたものである。小説としての評価や韓国での映画化のできばえはよかったが、問題の「創氏改名」については誤解があるとして専門家の間では評判がよくない。この誤解は日本統治時代の「創氏改名」(昭和15年から実施)の悪名ぶりを強調するあまり、現在、日韓双方にある。
「皇軍兵士」に
映画「族譜」は「創氏改名」に抗議して自殺した人がいたという実話を素材にしている。自殺例は全羅北道高敞郡での一件だけが記録として残っているのだが、映画は「創氏改名」によって韓国人が先祖代々、自らの存在証明(アイデンティティー)として受け継いできた一族の系譜である「族譜」が断絶するかのように描いている。しかしこれは誤りだという。
まず「創氏改名」は戸籍に別途、日本式の「氏名」を新たに作るというものであって、個人が所持し維持してきた「族譜」はそのまま残ったし、韓国人が大事にしてきた金とか李とか朴といった「姓」も戸籍にはそのまま残された。つまり、実際は「創氏改名」と「族譜」は関係なかったのだ。
韓国(朝鮮)は昔から男系社会であるため妻は夫の家系に入ることができず夫婦別姓である。また子供は必ず夫の姓を受け継ぐ。したがって戸籍では夫と妻の姓が違い、夫や妻の母親もそれぞれ別姓で、同じ戸籍にいくつもの姓が混在している。しかも姓自体が二百数十しかないため三大姓の金・李・朴だけで何百万人もいる。
「創氏改名」は日本風の氏名、日本風の戸籍にすることで韓国人の家族観を変え、日本人にしようとしたものというわけだ。
日本が植民地の韓国(朝鮮)や台湾を含め、国家総動員体制で戦争に対処しなければならなくなった南次郎総督時代のいわゆる「内鮮一体」「皇民化」政策である。とくに「皇軍兵士」として韓国人を動員する必要性から日本人化が進められたともいえる。
韓国人にとって最も重要な家族-血縁に関する問題だけに当然、反発があったし、ごく一部だが自殺者も出た。「創氏改名」は法律による半ば強制、半ば自由意思という政策だったが、応じないと不利益をこうむるといわれ、さらに「時流」もあって韓国人の約8割が応じた。
進む一体化
著名な文学者だった李光洙は昭和15年2月、「香山光郎」と「創氏改名」した際、その理由を次のように説明している。
「内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。朝鮮人が内地人と差別がなくなる以外に、何を望むことがあろうか。したがって差別を除去するためにあらゆる努力をすることの他に、何の重大でかつ緊急なことがあるだろうか。(略)われわれの従来の姓名は、支那を崇拝した先祖の遺物である。地名や人名を支那式に統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。すでにわれわれは日本帝国の臣民である。支那人と混同される姓名を持つよりも日本人と混同される氏名を持つ方が、より自然だと信じる」
李光洙は「同じ日本人」として差別排除を願って日本人風の氏名を選択したというのだ。
たしかに日本軍では韓国(朝鮮)人の上官の下で日本人の兵が動くという、西欧の植民地国では考えられないような「平等」ぶりも見られたが、李光洙の「願い」は5年後の日本の敗戦、撤退もあり結局、実現はしなかった。
余談だが、前述のように「族譜」は韓国では「創氏改名」とは関係なく維持され、人びとは数百年、ときには千年以上もさかのぼって祖先を意識しながら血縁・同族社会に生きている。しかし北朝鮮では1945年の解放後、共産主義化によってあの「日帝」もやらなかった「族譜」の全面廃棄ということをやっている。
韓国の歴史教科書を見ると、日本統治時代の末期にあたる1940年あたりから解放の1945年までがきわめて簡単である。「われわれはよくがんばった」という抵抗史観からすれば、このころはもう目ぼしい抵抗の歴史が見当たらないということだろう。
戦時体制下でそれほど日本との一体化が進み、日本への協力が進んだ時代ということである。当時、少年だった韓国人は今、六十代だが、彼らの多くは「あの当時、ぼくらはもう日本人になりつつあった」という。先に紹介した学徒兵出身の作家・韓雲史氏も「あのままいってたら完全に日本人になっていただろうね」という。
99%日本人
ぼくは70年代の韓国留学時代、元日本軍出身だという行きつけの食堂のオヤジから「日本が戦争に負けていなければ自分は今ごろはアメリカのカリフォルニアの知事にでもなっているのに」と、まじめ半分、冗談半分の顔でいわれ驚いたことがある。
日本がアメリカを支配して自分も出世しているというわけだが、今回、日本統治時代に日韓同数の生徒で日韓共学をやっていたというソウルの名門高校・善隣商業を取材しようと、ある韓国人OBと会ったときもこんな話が出た。
あまりにも鮮やかな印象だったので紹介する。昭和19年(1944年)春、陸軍航空少年兵の募集があって、学校の上空に日の丸をつけた陸軍戦闘機「隼(はやぶさ)」3機が飛来して何回も低空旋回した。
生徒はみんな校庭に出て手を振った。その中の一機のパイロットが善隣商業出身の韓国人で、機上からしきりに手を振るのがはっきり見えた。この後、生徒たちはわれもわれもと少年航空兵に志願したが、実際に行けたのはわずかだった。この話の主は「あの時、ぼくらは99%日本人になっていたからねえ」といっていた。
日本の韓国併合は35年間続いた。これは一世代分である。1940年代の戦時中、壮年以下の韓国人は日本人化していた。
解放後の韓国で徹底した反日教育が行われたのもこうした背景がある。日本人になってしまったのを元の韓国人にするためには、日本を全否定する反日教育が必要だったのだ。いまなおマスコミや識者が一方で「日本に学べ」といいながら「反日」に熱心なのも、「日本人になってしまった」という過去の経験からくる不安のせいかもしれない。