長澤連治(元支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第二小隊第二分隊長)
聞き書き・構成/解説 江崎道朗(評論家)

いまなぜ「盧溝橋事件」か


靖国神社参拝を終え、本殿をあとにする小泉純一郎首相(中央)。現職首相として21年ぶりの終戦記念日参拝を果たした=2006年8月15日(古厩正樹撮影)
 首相(編注:小泉純一郎元首相)の靖国神社参拝をめぐる日中対立の背景には、言うまでもなく昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まる支那事変(日中戦争)がある。この日中間の戦争責任はすべて日本側にあるというのが一般的な見方だったが、アメリカ、旧ソ連、台湾などの機密文書の相次ぐ公開によって通説の見直しが始まっている。当然のことながら盧溝橋事件もまた見直しの対象に入るべきだ。

 そもそも中国大陸に日本軍がいたこと自体が問題だと批判する人もいる。確かに中国政府の了解なく日本軍が中国大陸に侵攻し駐留したならば、そうした非難も甘受すべきだが、少なくとも盧溝橋事件前の日本軍については、そうした批判は当たらない。

 日本軍駐留のきっかけとなったのは、1900年、宗教・政治結社である義和団が、外国人排斥を旗印に北京の外国公館を襲撃したことであった。時の清国政府は傍観した(裏では暴動を煽った)ため、やむなく日本、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアなど11カ国が共同出兵して暴動を鎮圧した。そして翌1901年、各国政府は清国政府と「北清事変に関する最終議定書」を結び、首都の北京に列国公使館区域を設定する(第7条)とともに、中国在住の自国民を守るため、外国軍隊の北京・天津地区における無期限の駐兵を認めさせた(第9条)のである。

 更に同議定書の「交換公文」において、各国軍隊には、鉄道沿線において犯罪捜査を行い、犯罪者に対して懲罰権を行使する権限や、清国政府に通告することなく実弾射撃以外の訓練や演習を行う権限も付与された、という解釈が確立されていた。

 このように中国政府との合意に基づいて各国は、北京・天津地域を守るため軍隊を駐留させていた。その規模は、盧溝橋事件当時(昭和12年)、イギリス軍1000名、アメリカ軍1220名、フランス軍1820名、イタリア軍300名であった。居留民が3万3000人に達していた日本の場合、約5600人が駐留していた。

 当時、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊は、北京郊外にある盧溝橋から北西約4キロに位置する豊台(ほうだい)に駐屯地(=基地)を置いていた。この第三大隊第八中隊の133名が7月7日深夜、盧溝橋周辺の永定(えいてい)河の河床地帯で実弾を使わない夜間演習を行っていたところ午後10時40分頃、突然実弾射撃を受けた。その後も午後10時50分頃に2回目の実弾射撃があり、翌日の午前3時25分頃、3回目の実弾射撃を受けた。

 3回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊(ひぞく)であるかを確かめるため、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると、午前5時30分、永定河左岸堤防に布陣していた第二十九軍が一斉猛射撃を開始し、日本側も前夜以来初めてそれに応射、ついに全面衝突となった。これが、いわゆる「盧溝橋事件」である。

 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、8日の午後3時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移し、北平(現在の北京)及び盧溝橋城(苑平県城)内で、停戦に向けた交渉が行われ、11日に北平で日本の支那駐屯軍と中国の第二十九軍との間で現地停戦協定が結ばれた。

 しかし、中国側は25日に北平東方の廊坊駅付近で、26日には北平の広安門で相次いで衝突事件を起こした。さらに29日に、北京郊外の通州で中国側の冀東防共自治政府(1935年12月、蒋介石政権から分離して成立した政府)の保安隊が、軍人及び女性を含む日本人居留民を多数殺害する「通州事件」を起こした。かくして日本政府は内地から三個師団を派遣し、全面的な日中対決となったのである。

 ところが、中国共産党政府の歴史教科書では、「最初の一発」にも、停戦協定後に中国側が「廊坊事件」や「通州事件」といった軍事的挑発や在留邦人に対する組織的大量殺害事件を起こしたことにも全く触れておらず、あたかも日本軍側が一方的に戦争を仕掛けたかのように描いている。

 一九三七年七月七日夜、日本侵略軍は北平西南の盧溝橋に進攻し、長い間もくろんでいた全面的な侵華戦争を開始した。(中略)

 七日夜、日本軍は盧溝橋北側で盧溝橋進攻を目標とした軍事演習を行った。彼らは一人の兵士の失踪を口実に、苑平県城に入って捜索することを理不尽に要求、中国守備軍に拒絶された。日本軍はすぐさま苑平県城に向けて攻撃を開始した。(中略)双方は盧溝橋で争奪を繰り返した。ほどなくして、日本軍は大量の援軍を集合させ、北平、天津に向けて大規模な進攻を開始した。


中国・北京郊外の「中国人民抗日戦争記念館」
 教科書だけではない。盧溝橋周辺には、中国共産党政府の「愛国主義教育基地」、すなわち「反日教育基地」の総本山「中国人民抗日戦争紀念館」があり、「南京大虐殺」「三光作戦」など、でっちあげられた日本軍の「蛮行」をモチーフとした巨大なモニュメントが無数に並ぶ公園も整備されている。いわば日本の「原罪の地」として位置づけられているのである。

 この中国共産党政府の歴史観の影響なのか、我が国の中学校の歴史教科書も、誰が「最初の一発」を撃ったのかを曖昧にしたまま、全体の文脈から日本軍が仕掛けたかのような印象を抱かせる記述となっている。

 満州を支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入し、一九三七年七月七日、北京郊外の盧溝橋でおこった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました。


 一九三七年七月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突する事件が起こりました。現地では停戦協定が結ばれたにもかかわらず、日本政府の方針がまとまらないこともあって戦火は上海にも広がり、宣戦布告のないままに全面的な日中戦争が始まりました。


 では、どちらが戦争を仕掛けたのか、言い換えれば、誰が「最初の一発」を撃ったのか。この問題について財団法人偕行社の協力を得て今回、盧溝橋事件に立ち会った長澤連治元伍長から新たな証言を得ることができた。夜間演習を行った第八中隊第二小隊の第二分隊長として盧溝橋事件に遭遇した長澤元伍長は、「日本軍が最初の一発を撃つことは有り得ない」として、次のように証言した([ ]内は聞き手の補足)。

中国軍との戦闘など全く予想していなかった


 いまから69年前の昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の盧溝橋近くで支那駐屯歩兵第一連隊の第三大隊第八中隊の133名が夜間演習を行った際に、私は第八中隊の第二小隊第二分隊長として演習に参加し、いわゆる盧溝橋事件に立ち会いました。

 当時、盧溝橋周辺には、宋哲元(そうてつげん)率いる第二十九軍のもと第三十七師(馮治安(ひょうちあん)師団長)が配置されていました。その第三十七師が6月下旬になって夜間の隠密作業で永定河左岸の堤防に散兵壕を構築したり、満州事変のときに作った盧溝橋付近のトーチカ十数個を掘り返して使えるようにしたりしていました。このため、上級の幹部たちは「どうもおかしい」と感じていたようですが、私たち兵隊は、まさか日中間で戦争が起きるなんて全く感じておりませんでした。本当に予想外でした。

 7月7日に盧溝橋付近で夜間演習をしたのは、来るべき検閲[司令部等が、各部隊の錬度などをチェックすること]に備えてのことでした。第八中隊に割り当てられた演習内容は、薄暮を利用して敵に接近し、「黎明攻撃」といって夜明けとともに戦闘を開始するという想定でして、そのための訓練を行ったわけです。

 盧溝橋周辺で演習中であった7日の夜10時40分頃、最初の銃撃の音がしました。私も聞きました。実弾を2、3発撃ってきましたね。実弾には、飛弾音(ひだんおん)といって弾が飛ぶ音がするんですよ。発射直後と、2、300メートルのところと、5、600メートルのところでは音が違います。私たちも射撃訓練のときに実弾を撃ちますけれど、飛弾音というのはなかなか判らないものですが、部隊には満州事変に参加した人もいて、中隊長はすぐに「これは実弾だ」とはっきり答えていましたね。

 では、誰が撃ったと思ったのか。盧溝橋(苑平県城)の城壁に近い方向から銃声がしたので、これは中国側だと、私たちはすぐに思いました。当時、中国の第三十七師は盧溝橋の散兵壕(堤防陣地)に夜、兵士を配置していましたから。

 演習中に実弾射撃を受けたのは初めてのことでしたが、ただの嫌がらせか、暴発で誤って撃ってしまったのではないか、というような感じを最初は持っていて、それほど深刻には受け止めていませんでした。というのも、狙い撃ちというよりも、「闇夜に鉄砲」で、私たちの頭上を飛んでいましたので、本気で私たちを狙ったものではないと感じたからです。それに、そもそも宋哲元率いる第二十九軍とは非常に友好的な交わりをしていたので、私たちは「友好的な軍隊」つまり「友軍」と呼んでいました。ですから友軍と同じように感じていた第二十九軍から最初に実弾を撃たれたときは、挑発的行為だと全く思いませんでしたね。恐らく事故か何かだろうと思っていました。

 この盧溝橋事件の背後に中国共産党の謀略があったと言われていますが、当時の私たちは全くそんなことを考えていませんでした。ただ当時、中国の学生たちが排日運動を煽っているという話は聞かされていました。それを聞いた私は、「日本側が友好的にやりましょうと思っているにもかかわらず、なぜ中国の学生たちは排日運動を煽ったりしているのか」といった感じで、さほど深刻には受け止めていませんでした。

 第二十九軍で最も排日的なのは第三十七師の馮治安師団長だということも当時から聞いていましたが、「中国側にも、反日的指揮官がいる」程度の受け止め方でしたね。馮治安師団長の背後に中国共産党の謀略があったなんて、上級の幹部は判っていたのかも知れませんが、私たちは全く知りませんでしたね。

一発も勝手に使うことはできなかった


 盧溝橋事件が「日本軍の謀略だった」という話を戦後聞かされて、非常に憤慨しましたね。私たちは当時、好き好んで彼らに戦(いくさ)を挑んだという考えは毛頭もっていませんでしたからね。それに、当時の日本軍の実態を知っていれば、日本側から実弾攻撃をすることなど有り得ないことが判るはずだからです。

 当時の日本軍はすべて官給品による生活でして、兵器、被服、消耗品等の管理はたいへん厳しいものがありました。特に弾薬の管理はことのほか厳しかったんです。何しろ私たち兵隊は、営内(駐屯地)で実弾を持たせてもらえませんでした。当時、北京郊外の豊台にいた日本軍において実弾を持てたのは、勤務中の風紀兼警備衛兵だけでした。

 その風紀兼警備衛兵にしても、小銃弾15発を薬盒(やくごう)[腰のベルトに通す革製の弾入れ]に入れ、歩哨(ほしょう)として警戒にあたる時のみ内五発を小銃の弾倉に装填することができました。そして、任務を終えた後は、衛兵司令の前で歩哨掛の号令により確実に実弾を抜いた後にようやく任務終了となるという厳しさでした。

 それでは、私たち兵隊はいつ実弾を持つことができたのか。実際の戦闘を除けば、射撃場での実弾訓練の時と、野外演習のために営外に出る時だけでした。

 実弾訓練に際しては、射撃場で弾薬が支給されましたが、その総数と発射使用弾の薬莢(やっきょう)[小銃で弾丸を発射した際に出る弾丸の抜け殻のようなもの]数とが一致しないと、たった一発であっても未使用の弾薬のありかを部隊全員で探しました。もし見つからないと、--そんなことは実際は有り得ませんが--その部隊の隊長と兵器掛は処分されます。具体的には始末書を取られ、成績評価は黒星となります。

厳重に包装されていた実弾


 野外演習に際しては、内地ではないことですが、大使館や居留民保護の任務を持つ部隊であるため、さすがに実弾を支給されましたが、その量は僅かでした。

 盧溝橋事件当日は演習出発直前に、規定によって警備用として小銃1挺につき30発の実弾と、軽機関銃1銃につき120発を渡されました。実弾を受け取る手続きもきちんと決まっていて、兵器掛の下士官が中隊長の命令により、中隊の人員と軽機関銃の数に応じて所要数を申請するなど所要の手続きを経て弾薬庫から受領してきたものです。

 しかも、支給された実弾はすぐに使用できないようになっていました。どういうことかと言えば、実弾は15発ずつ紙製ケースに入れられ、その上から縦横十文字に被服補修用糸でぐるぐる数回巻にした形にして渡されるため、簡単に取り出すことができないようになっていたのです。もし野外で緊急事態が発生したら、即座に実弾を装填し対応することができないため、実に危険極まりないと私たちは思っていましたが、それが当時の規則であったため、やむを得ませんでした。