エコノミスト誌8月15-21日号は、東アジアではかつての日本に代わって中国が「破壊的な」非民主主義国家として台頭、その中国が歴史を歪曲して己の野心を正当化しようとしている、と中国を牽制する記事を掲載しています。
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すなわち、今の中国の論法は、「中国は日本の帝国主義打破で重要な役割を果たした。従って、過去の中国の勇気と苦しみは正当に評価されるべきであり、現在のアジアのあり方についても大きな発言権を有してしかるべきだ。それに、日本は今も危険な国だ。だからこそ中国の学校、博物館や記念館、テレビ番組、党機関紙は絶えず日本の侵略性を警告し、中国は日本の脅威に立ち向かっている」というものだ。
しかし、この主張は、歴史を歪曲しなければ成立しない。第一に、日本軍と戦ったのは中国共産党ではなく、宿敵の国民党だった。第二に、今日の日本は、南京市民を虐殺し、中国や朝鮮の女性を慰安婦にし、民間人に生物兵器を試した、戦争当時の日本とは全く異なる。
確かに、日本はドイツほど明白に謝罪していない。日本の極右は日本の戦争犯罪すら否定する。しかし、日本が今も好戦的な国だと言うのは馬鹿げている。日本は1945年以降、怒って銃弾を発射したことは一度もない。民主主義は深く根を下ろし、人権を尊重している。大多数の日本人は戦争犯罪を認めており、歴代の政府は謝罪してきた。今の日本は人口減少と高齢化が進む平和主義の国で、広島と長崎のトラウマから核兵器を持つ可能性もほとんどない。
日本に関する中国の主張は不当であるだけでなく、危険でもある。政府が煽った民族主義的な憎悪は、政府にも制御できなくなる可能性がある。また、これまでは、日本の尖閣支配に対する中国の挑戦は威嚇の範囲内に留まっているが、誤算によって事態がエスカレートする危険性は常にある。
東アジアでは戦争の古傷はまだ癒えていない。台湾海峡と南北朝鮮の国境は今も一触即発の危険を秘めている。そして、これらが暴力的事態に発展するかどうかはほぼ中国次第で、米国が常に紛争の勃発を抑えられると思うのは甘い。
それどころか、アジアでは、中国はその野心によっていずれ米国や米国傘下の諸国と衝突することになるだろうと懸念されている。中国が日本に喧嘩を売る、あるいは、南シナ海の岩礁に滑走路を作ることは、こうした恐れを増大させ、さらには、米国を領土争いに巻き込んで、紛争が起きる可能性を高める。
西欧と違い、東アジアにはかつての敵国同士を結ぶNATOやEUのような仕組みがない。東アジアは、富裕国と貧困国、民主国家と専制国家が混在し、共通の価値観を欠き、不安定で分裂し易い。一党独裁の大国、中国が、歴史的被害者を標榜してその是正を求めれば、アジア諸国が動揺するのは当然である。
中国が過去ではなく、現在の建設的行動に基づいて地域の主導権を主張してくれたら、どれほど良いことか。習が地域に安定をもたらすべく多国間主義をとるのなら、彼は真に歴史の教訓を学んだことになる。歴史は繰り返すのではなく、学ぶべきものだ、と論じています。
出典:‘Xi’s history lessons’(Economist, August 15-21,
2015)
http://www.economist.com/news/leaders/21660977-communist-party-plundering-history-justify-its-present-day-ambitions-xis-history
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これは、日本人から見ると全く納得できる議論です。これに対し、中国人の歴史に対する見方はどうでしょうか。例えば『中国の歴史認識はどう作られたのか』(ワン・ジョン著)は、共産党の統治の正当化の必要のために、歴史が大きく塗り替えられることを指摘しています。中国共産党の歴史の記述は、毛沢東の「勝者の物語」から、天安門事件を経て「被害者としての物語」に大きく変わりました。そして「中華の復興」がもう一つの柱として加わり、愛国主義教育の形をとって、被害者の側面が強調されました。イデオロギーとしての共産主義が消え、ナショナリズムがそれに取って代わりました。胡錦濤もこの路線を全面的に推し進めました。
ナショナリズムは対外強硬姿勢を生み出し、対日強硬論を助長します。ところが、対外強硬姿勢は、中国外交と中国経済の運営をさらに難しくしました。反日は結局、反政府の動きとなり、習近平は徐々に制限を加え、反日デモは原則、禁じられました。習近平は、もう一度、新たな「勝者の物語」への動きを始めた可能性があります。それは、新たなイデオロギーに向けての模索であり、それには歴史の「物語」が変わる必要があります。第三国の識者による公正な歴史認識の注入が、中国の国内的議論に積極的な影響を与える可能性が出てきたのかもしれません。日本の対外世論工作も、このような第三者の声を強化することに重点を置く必要が高まっていると言えるかもしれません。