今日の外交は、本来の機能を果たせないでいる。協議もせずに問題を解決しようとすればするほど、問題はより一層もつれてしまう。最近、イラクやシリア等で起こっている、これに対する挑戦は、あまりにも深刻な状況に至ってしまった。我々は、根本的なところで間違ってしまっているのではないかと、あらためて考えてみる必要があるだろう。
世界が一体化していく時代に、深刻な外交的緊張や、時には残酷な衝突までもが起っているというのは、決して尋常なことではない。問題の一部は、17世紀以降、国際戦略を支配してきた欧米の外交的伝統の根本的な前提に由来する。国際関係に影響を及ぼす欧米式思考の枠組みは、競争を核心的な原則とする考えが根底にある。欧米外交史の展開において、当然視されてきた不文律がある。それは覇権を握ろうとする国は、勝者があらゆるものを独占する状況にあって、競争で他の国にうち勝たなければならないということである。しかし、そのような掟は、気候変化等、関心事を共有せなばならないグローバルな共同体時代に果たして相応しいものであろうか。いかなる国際的交換関係も、「万人の万人に対する闘争」といったトマス・ホッブズ的な世界のみによって成り立たなければならないのであろうか。
私の外交経験から言えば、道教、ヒンズー教、そして、何よりも仏教のような東洋哲学の伝統が、外交における代案的なアプローチを提示するものであると思う。仏教は、競争ではなく調和を強調する。また、仏教は、相互が結び付いた世界の外交的挑戦に対応するための助けとなる具体的な関与(engagement)戦略を示している。
仏教的アプローチは、人間はいつも協力ばかりする存在だとはそのまま前提としていない。仏教は、どのような状況においても、真っ当な進歩を達成する潜在力をもつ、洞察力を与えている。そのような可能性は、関係の二重性や複合性を探ればこそみえてくる。我々は、至る所で善悪の構図によって単純化された感想を伝えるメディアの報道に接している。これらの報道が描写する世界では、暗黙的にユダヤ・キリスト教的伝統の解釈の枠組みが適応されている。しかし、人間関係の深層パターンは、そのような善悪の構図の枠組みには収まりきれないものである。
多くの人々にとって外交とは、容赦なき覇権ゲームである。彼らにとっては調和は、国家の行為を戦略的に正当化するために必要な「心にもないお世辞」に過ぎないのである。しかし、現実に、調和が外交の目標になりえないのであろうか。
明確なのは、国家間の調和という概念が、欧米の外交的伝統でも全く見慣れないものではないということである。歴史的に見れば、「ヨーロッパ協調体制(Concert of Europe)」を達成するための外交的目標は、国家が互いに協力する平和的な秩序という念願に訴えるものであったと見ることができる。しかし、このような隠喩的な訴えがあったのではあるが、「協調」は、婉曲した表現に過ぎなかったと理解するほうがよさそうだ。「協調」は、国家利益を追求する強大国たちが弱小国問題に下す処分につけた奇妙な用語であった。ある歴史家の言葉を借りると、「ヨーロッパ協調体制」が意味する調和とは、「実際には、強大国同士が合意したことを強圧的に弱小国に強要することを意味した」。
仏教は、国際関係におけるそのような覇権的アプローチが、簡潔明快な尊厳性や調和による献身よりは効果的ではないと見なしている。目に見えるものの奥には、もっと深い秩序が潜んでいる。調和に対する我々の理解を象徴的な一歩としてとらえつつ前進し、実践していけば、国際政治に対する論議の本質そのものを肯定的な方向に変化させることができると思うのである。
欧米の伝統であるチェスは、外交を象徴している。チェスと同様に、欧米の戦略家たちは、国際政治はゼロサムの枠で動くと見ている。相手の馬を一つずつ持ってきては、最後にキングを「チェックメイト」する。英単語の「checkmate」の根元的な由来は、「王が死んだ」というペルシア語の表現だということは示唆するところが大きい。
国際関係がゲームなら、東洋のアプローチは、もっと品位あるものだ。それは共存と共栄の可能性に根ざしているからである。中国ではビンイン(圍棋)、日本では碁と呼ばれる囲碁は、西洋のチェスとは根本的に異なっている。囲碁は、競争という状況下でも敵を容赦なく除去するのではなく、相互の調和を追求している。
覇権を前提とする西洋のチェスでは、勝利に至る手段は、たった一つしかない。キングを攻略し、キングを取った瞬間、ゲームは終わるのである。しかし、囲碁で勝つ方法は、数えきれないほどたくさんある。半目で勝ったり、何百もの目差で勝つこともある。囲碁でも勝者はいるが、囲碁は、無数のゲームの形態がまるで踊りを踊る時のように無数に展開される。完全な支配を仮定していない。囲碁での成功は、調和と均衡の産物なのである。
調和と同様に均衡という隠喩は、欧米の外交的伝統において長い間、外交の一手段としての位置を占めてきた。18世紀から20世紀初期までの間、「勢力均衡(balance of power)」の概念は、ヨーロッパの強大国の間で国際関係における指針となってきた。勢力均衡の原則にしたがって外交は、離合集散を繰り返す同盟関係や国際問題において暗黙の合意を導き出してきた。一国やブロックの覇権浮上を阻止するためであった。しかし、外交が追求した均衡の本質は、奇妙な限界があった。このアプローチは、もっぱら従来の強大国クラブの目標や利益を助けるのみだったのである。ヨーロッパ内の覇権争いや植民地の争奪戦において他の国家と国民は、将棋の駒や賭博の掛け金の役割をするのみであった。その上、均衡の原則自体を望ましい目標や指針と考える国はないという、まさに、その事実のせいで、均衡は崩れてしまった。均衡が崩れた場合、均衡を元に戻すことが常に必要であった。
均衡は、ゲームに参加する競争者や敵が追求する目標を達成できないようにする予防手段であった。ここでの目標は、相対的地位・権力の序列において頂点に立ち、他の競争国の問題について決定的な影響力を行使するためのものであった。このような観点から見ると、ヨーロッパの国際関係体制において維持される均衡は、不安定な均衡であった。そのような均衡は、一方が自国に有利な方向に均衡を覆すことができない状況の下においてのみ維持された。均衡や均衡による利益それ自体は追求するに値する目標として見なされていなかったので、誰も守ろうとする意思がなかった。このような不安定な均衡に内在している危険は、いくら誇張してもすぎることはない。百年前、第一次世界大戦の勃発により、危険は現実化した。
均衡は、仏教の根本的な価値である。均衡を重視する人間社会の出来事に対する仏教のアプローチは、北朝鮮にも直ちに適用することができる。欧米の多くの戦略家たちは、覇権的思考法によって平壌問題に接近している。彼らは、北朝鮮をただ「圧迫」さえすればよいと考えている。北朝鮮体制を変化させる勝利や最高首脳を退陣させることだけを考えている。しかし、今までの経験を通して分かったように、そのようなアプローチが必ずしも成功するとは限らない。アメリカは、何十年もの間、ラテンアメリカや中東問題に介入してきたが、一方的に介入するたびに、それは後になって「逆流(blowback)」を伴うものであることを確認させられた。紛争を混乱させ、また、戦乱を悪化させるという予想もつかなかった余波が押し寄せたのである。短期的な目標を達成したとしても、調和を崩してしまえば、新たな問題、特に一般の人々が犠牲になるという問題が発生する。当然、北朝鮮による核兵器を除去することは重要である。しかし、その過程で狂いが生じれば、また、より大きな問題が生まれことになる。
駐米大使として在職中、私は、いつも仏教の智慧を頼りにしていた。仏教の、瞑想を通して平穏を求めながら平静の中で正しい道を探るという意味の「気づき(mindfulness)」、「中道的均衡(balance)」、「瞬間瞬間の自覚(awareness)」は、国際関係のいかなる側面においても適用できることが分かった。外交的状況によって重圧感を感じる場合や状況から希望が望めない場合は、休みを取りながら内面の自我に戻ることが必ず必要である。時間を取って瞑想をし、自己と平穏な関係を保ちながら平常心を取り戻せば、世の中を見る目に驚くべき変化が生まれてくることに私は気づいた。バランスをとる前には、深刻な決定を下してはならない。
誰と一緒に仕事をしようとも、私は、ウインウイン(win-win)の状況を思い描いている。ライバルを破滅させようと思う幻想は抱いていない。調和の追求自体を目標にすれば、以前には想像もつかなかった解決策を見出すことができる。相互がつながり合っている今日の世界では、危険な対決を避ける、バランスのとれた解決策を思索すること以外に選択の余地はない。
価値のある仏教の概念の一つが、「無心」である。私の個人的な修行において無心は、重要な部分を占めている。無心は、「心が無い」というより、正確には、「執着(とらわれ)が無い」ということを意味している。無心は、全てのことにおいて心を開いており、心がいかなる考えや感情にも占領されていない状態のことである。そのような状態になれば、人はいつも中立的で、落ち着いていられる。自我の外部から入ってくる観点と一つになれる。そういう状態になれば、偏見を越えて、相手をありのままに見ることができる。
最初の段階は、外交において感情を取り除くことである。相手の発言や行動のために興奮する理由はない。彼らは、我々の一部分ではない。我々は、彼らの言行を映す鏡にならなければならない。鏡は、自分が反射するイメージのため、いら立つことはない。イメージは、頻繁に変わるものである。もちろん、イメージに対する自覚は必要である。即ち、イメージに込められたメッセージや方向の変化のことである。そして、自身の感情的な反応に対しても自覚しなければならない。そうすることによって、無心に対象との距離が維持され、どんなことが起るのかを察することができ、自分の感情的な反応がわかるようになった人は、無心の境地に到達したと言えるのである。
心を大洋に喩えることも役に立つ。我々の心は、一日中、波に揺さぶられる大洋と同じである。衝撃や罵倒は、我々の思考をくもらせてしまう。しかし、ほとんど混乱のない平常心の状態が保てれば、大洋は天を完璧に照らしだすことができる。同様に、感情に振り回されない心は、世の中を驚くほど正確に照らしだすことができる。物事は、往っては来、来てはまた往くものである。物事の往来を心にとめなくなれば、本質をつかむことができる。自分自身そして相手に対しても、より客観的な観察者でいることができる。対話しているうちに我々のエゴ(ego)が無くなるからである。
我々が犯す最もありがちな過ちは、事件やイメージに対して執着し、魅せられてしまうことを正念と混同することである。
仏教によれば、瞑想は、いかなる職業にも役に立つ。泥棒でさえも瞑想をすれば、さらに上手くものを盗むことができる。言い換えれば、瞑想は、価値判断とは何の関係もない。瞑想は、焦点を定めたり自覚することと関連しているのである。かような理由で、仏教の修行は、いかなる特定宗教とも衝突しない。心の修行は、キリスト教やイスラム教ともよく調和する。
とにかく、道徳的な判断は、観点の問題である。何千年単位で歴史を考察すれば、事件や行為者に対して公平な評価をすることができる。我々は、実際の瞬間からは遠く離れたところに身を置くことになるだろう。しかし、もし我々が瞬間にのみ集中した状態で価値判断をすれば、我々が正しいと思ったその考えが実はそうではないということが、一ヶ月後、一年後、または、十年後に明らかになるであろう。
以前、北朝鮮の政権に対して、このように話すアメリカ人に会ったことがある。「我々は、北朝鮮を信頼することができない。大量破壊兵器がある場所を攻撃して、体制の変化を圧迫しなければならない」
私は、まず一般的な意味で、北朝鮮の変化や核兵器の除去という目標について彼の言葉に同意するということを表明した。その次に、彼の論理の先にあるものを考えてみるために質問をした。我々の行動は、北朝鮮の一般住民たちにどのような結果をもたらすであろうか。私は、「北朝鮮の変化の究極的な目標は何なのか」というテーマで、何度も後戻りしながらも彼と意見を交した。いかなる形態であっても、共栄と共存が目標という私の意見を示した。私は、また、一度にすべてのことが可能ではないにしても、ウインウインの可能性がどこかにあるという意見を彼に伝えた。私は、彼が述べた立場の妥当性自体を否認したことはない。私は、ただ、徹底して検討する価値かある、他のアプローチがあるということを彼に思わせただけである。
私は、彼が一つの目標にだけ執着しているように感じられた。その目標を達成できる他のいくつかの方法を全く考慮もせずに。私は、彼が目標に至る過程、そして、韓国、北朝鮮と周辺国の国民たちが直面している問題により大きな関心を持たせるための努力をした。
盧武鉉政権時代に在米大使として在任中、私は、韓国が北朝鮮の人権問題についてあまり憂慮していないという趣旨の言葉を多く耳にした。私は、このように答えた。私は、大きな意味で、人権問題についてとても憂慮している。私は、北朝鮮の人々が味わっている悲劇を十分に理解している。
その次に、私は、もし我々がマスコミが報道するイメージに執着し、北朝鮮の人々が甘受している不当なものの裏に潜んでいるさらに大きな制度的、文化的な問題を理解できなければ、我々は、衝動的な対応により、意図とは異なって人権問題を中短期的に悪化させてしまいかねないと説明した。
このような脈絡で、 気づき(mindfulness)とは、人権に対する真正な意識を意味している。我々が考える人権とは、単純に選挙権であったり、任意で逮捕されない自由を越えるものでなければならない。我々は、栄養が不足したり、餓死の危険がある何百万人もの人々のことを考えなければならない。彼らが人権を享受できるようにするために、我々は何をしなければならないのか。これが我々が答えなければならない核心的な問いである。
仏教は、いかなる関係においても長期的で、バランスの取れた視点を外交に提示してくれる。国際関係において進歩は、達成可能である。しかし、そのために我々は、釈迦の中道(middle way)を想わなければならない。国際関係というゲームに参加するすべての人々に「ウインウイン」の可能性を創出し、極端な選択を避ける時にこそ、我々は意味のある方式により前に進むことができる。一つの見方だけを堅持して問題を無理やり解決しようとし、また、空襲だけに頼ろうとすれば、我々は、一時的なもの以上の結果は得がたいであろう。その結果も長くもたないで、覆るであろう。このような心構えで敢行した行動は、何もしないより、さらに悪い結果を生みやすい。
衝動的な反応、勝者による独占という見方、一貫性のない政策目標は、人類の共同目標に対する我々のより深い貢献の基盤を弱化させてしまう。我々は、そのことをいつも認識しなければならない。そうすることによって、我々は、勢力均衡ではなく、観点の均衡を樹立することができるのである。そして、その過程において国家間の真の調和が期待できるであろう。