日本, 韓.日 關係

抵抗は義務か? ゲオルク・エルザーと尹奉吉

이강기 2020. 3. 1. 22:15

抵抗は義務か? ゲオルク・エルザーと尹奉吉

三一独立運動から日韓の友好交流 へ



田村光彰 元北陸大学教員、尹奉吉義士共の会会長

 3月1日は、日本による朝鮮植民地支配に対する全民族的抵抗を示した三一独立運動の開始と大韓民国臨時政府樹立(上海)101周年にあたる。


 現在、日韓の国家間の関係が最悪の状態に陥っているが、その根源は日本が植民地支配を反省していない点にあると思われる。無数の諸問題から、ほんの一例を取り上げ、ドイツと比較したい。


堤岩里とオラドゥール 二つの虐殺事件

三一独立運動と堤岩里虐殺

拡大堤岩里教会での住民虐殺を描いたソウル・タプコル公園のレリーフ


 三一独立運動への弾圧の代表例は、水原郡の堤岩里(チェアムニ)虐殺事件(現在の京畿道華城市)である。


 日本政府自身が報告した「堤岩里騒擾事件」によれば、日本軍歩兵第79連隊有田俊夫中尉は、天道教徒とキリスト教徒が秩序を乱しているとして、両教徒の検挙威圧の目的で、部下11名を率いて、1919年4月15日、堤岩里に到着した。


 「両教徒20余名をキリスト教会に集め、射撃を命じ、ほとんど全員を射殺した」(注1)。さらに放火して30数名を虐殺した。だがこれだけでは終わらない。民家三一戸に放火、15部落三一7戸を焼き払い、死者39人を出した「采岩里の惨事」。水原郡狩川で銃と放火で教会と民家34戸を焼き払った「狩川の惨事」。会堂の十字架上に縛り付け、殴打し、死傷者を出した「ソウル十字架の惨殺」。少なくとも全国で13以上の惨事、虐殺が検挙威圧の目的で記録されている(注2)


(注1) 姜徳相『現代史資料26、朝鮮(2)』みすず書房、1967、P.316
(注2) 丁堯燮『韓国女性運動史』(高麗書林)1975、P.85~94


宇都宮太郎大将日記

拡大宇都宮太郎大将の日記。堤岩里事件の処理をめぐって「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」「虐殺、放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益と為り」とある


 三一独立運動の時に朝鮮軍司令官であった宇都宮太郎・陸軍大将は、膨大な日記を残した。彼は、堤岩里虐殺事件の後始末を側近らと共に相談、虐殺の事実は認めず、隠蔽することに決めた。事件3日後の日記を引用する。


 「(有田)中尉は同村の耶蘇教徒(キリスト教徒)、天道教徒30余名、耶蘇教会内に集め二、三の問答の末其の32名を殺し、同教会および民家20余戸を焼却せるの真相を承知す」「事実を事実として処分すれば最も簡単なれども、このような状態では(略)外国人等に虐殺放火を自認することとなり(略)帝国の立場は甚だしく不利益とな」る。したがって「抵抗したという理由で殺戮したるものとして、虐殺放火等は認めざることに決定し」た(1919.4.18 日記)(注3)


(注3) 宇都宮太郎関係資料研究会編、編集責任 吉良芳恵、斎藤聖二、桜井芳樹『日本陸軍  とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記3』岩波書店、2007.12.20、P.245


ナチスドイツのオラドゥール・シュル・グラン村での虐殺

 日本が戦略物資・資源を求めてアジア諸国を軍事力で支配し植民地にしたように、日本と同盟国のナチスドイツもヨーロッパを軍事占領した。


 1943年、日本が南太平洋で敗北を重ねるのと同じ頃、ナチスドイツは、ソ連戦線で敗戦に転じる。米、英、中国、オランダを中心とする連合軍は攻勢に転じ、44年6月6日、北フランスのノルマンジーに上陸し、ここから南に向かって、フランスを占領中のナチスドイツと対峙する。


 一方ナチスドイツは南下する連合軍を迎え撃つために、南からノルマンジーに向けて北上する。ナチス親衛隊からなる「第2SS装甲師団」は、北に向かう途中、フランスの村々で無抵抗の村民・市民の大虐殺を行った。オラドゥール村では、ナチス親衛隊は、爆発物や自動小銃、手投げ弾などで武装し、村の男性を納屋に閉じ込め、無差別機銃掃射で殺害。さらに、人質として集めた女性や子どもを教会に閉じ込め、火を放ち、焼き殺した。


 642人の村人が虐殺され、女性は254人、子供は207人を数えた。生存者はわずかに6人。虐殺の理由付けは、「村人が抵抗運動(レジスタンス)を匿い、武器を隠している」であった。しかし、フランス調査団の検証により、レジスタンスも武器も存在しないことが明らかになった。狙いは堤岩里と同様に、レジスタンスの弾圧、検挙威圧であった。


日独の戦後反省

 ここまでは、両国の植民地主義と残虐さはほぼ同じである。しかしこれ以降は、異なる。

 日本軍の有田俊夫中尉の行動は、宇都宮太郎の思惑に反し、外国人宣教師たちに知れわたり、日本の軍法会議で裁かれた。だが宣告(判決)は「無罪」。のみならず、その後、調査も一切行われず、「堤岩里の虐殺」は、今も記憶されないままである。

 一方、ドイツでは、1983年、東西ドイツの分裂時代の東ドイツで裁判が行われた。虐殺の生存者が出廷した。ハインツ・バールト元武装親衛隊中尉は、「戦争犯罪への加担」と「人道に対する罪」で終身刑が言い渡された。死刑のない東ドイツでは、最高刑である。

 西ドイツは1979年、国会決議で「謀殺罪」について時効を廃止した。ナチスによる犯罪は、永遠に逃さず、許さないという決意の表れである。ドルトムント市には、ナチス犯罪を専門的に追及する検事局の「中央センター」が設置された。東西ドイツの統一後、現在もなお、オラドゥール事件は、ここで捜査が行われている。


 センターは、2013年段階でナチス親衛隊の6人の名前をつきとめ、14年、元ナチス親衛隊員1名(88歳)を起訴。村民25人の殺害に関与したほか、数百人の殺害を手助けした疑いである。事件後75年以上が過ぎた現在でも、ドイツではナチス犯罪は裁かれ続けている。



抵抗者」尹奉吉とゲオルク・エルザー

三一独立運動と尹奉吉

 日本の朝鮮の植民地化は、日本の軍艦が、独立国朝鮮の砲台を砲撃した「江華島事件」(1875年)から始まる。


 日本は、韓国と満州の支配を求めてロシアと争った日露戦争の最中の1904年に、韓国での軍事行動の自由を獲得した(日韓議定書)。日本人顧問を韓国政府の財務、外交に据える「顧問政治」を押しつけ(第一次日韓協約)、協約にない軍事、警務、宮内府にも日本人顧問を就けた。

拡大天長節祝賀行事に爆弾を投げつけ、白川義則海軍大将ら2人を死亡させた尹奉吉。太極旗の前で手榴弾と拳銃を持ち、祖国の独立と日本人将校の殺害を誓った宣誓文を胸に貼り付けている

 1905年11月、伊藤博文特派大使らは、韓国王宮を武力包囲し、軍事的圧力下で「第二次日韓協約」の締結を強い、韓国から外交権を剥奪し、独自外交が不可能な「保護国」にした。


 「協約」で日本政府の代表者として「統監」を設置。統監は、批判や抵抗を押さえるために「兵力の使用を命ずる」ことができた。抵抗する義兵が各地で蜂起をすると、統監府は「兵力使用」の武力弾圧を常套手段とした。


 1907年の第三次日韓協約の「秘密覚書」では、韓国軍隊を解散、日本人を各省次官に据え、警察と司法を掌握した。こうして外交権、内政権、司法権を取り上げ、軍事力をも奪った。手足をもぎ取った上で、1910年、韓国を併合した。植民地化は既になされていた。


 日本は朝鮮に明治憲法すら施行せず、国会も開かせなかった。日本が設置した朝鮮総督の制令(命令)で植民地行政を行った。個人の自由を守るために国家権力を憲法によって制限するという、立憲主義のかけらすらも保障しなかった。


 1925年以降は批判、抗議、抵抗には治安維持法で取り締まった。治安維持法は、朝鮮で独立運動に適用され、日本では出されなかった死刑判決を生み出した。<憲法、国会なし、あるのは治安維持法>のみの体制に抗して、無数の抵抗・独立運動が闘われた。


 韓国の文在寅大統領は、2018年、三一独立運動99周年を記念し、男女16人の独立運動家を列挙した。その1人に、1908年6月21日生まれの尹奉吉(ユン・ボンギル)がいる。


 尹は厳格な身分秩序を説く儒教教育を受け、後にこれに疑問を抱く。農村の文盲退治と啓蒙・教育運動をめざし、自ら夜学を開く。とりわけ女子教育に熱意を注いだ。彼は三一独立運動に共感する。


 1932年、日本は、中国の上海を占領した(第1次上海事変)。尹奉吉は、32年4月29日、その占領記念式典の最中に、7名が居並ぶ壇上に向けて爆弾を投げた。白川義則陸軍大将ともう1人が死亡。その動機は尋問調書によれば、日本に対しては独立、朝鮮人に対しては祖国解放への「覚醒」を促し、世界に対しては「朝鮮の存在を明瞭に知らせるため」であった。


ヒトラー暗殺を謀ったエルザー

拡大ヒトラー暗殺を試みて失敗、銃殺されたゲオルク・エルザー


 2015年、映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』が日本で上映された。主人公ゲオルク・エルザーは、演壇の真後ろの柱に時限爆弾を設置した。爆弾は38年11月8日の設定時刻に精確に炸裂した。ヒトラーは予定より13分早く会場を去っていた。

 エルザーは、1903年1月4日、ウルムの北、ヘルマリンゲンという農村に生まれた。尹奉吉とは同時代人である。


 1933年1月30日にヒトラーは政権をとり、ドイツの東側の国境線の向こう側、即ち東欧・ロシア側に「生存圏」を設定した。38年、オーストリアを併合。ドイツとオーストリアの「自衛」のためにはズデーテン地方が、更にポーランド、ロシアが必要だという。日本の利益線と同様、侵略を限りなく合理化する強盗的論理である。今日、日独は利益線も生存圏もなく存在している。国民は欺されていたのだ。


 ヒトラー政府は、33年2月27日、国会議事堂を自らが放火し、「共産党による国家転覆の陰謀事件」と宣伝した。事件後、大勢の人々を逮捕し、共産党、社会民主党の新聞を発行停止にする。「大統領緊急令」により保護検束制度を定め、反対派を刑事手続きなし、身柄拘束の期間と場所も知らせずに強制収容した。集会・結社・意見表明の自由などの基本的人権は葬り去られ、個人は国家に無条件に忠誠が求められた。ファシズムの一特徴である。


 3月24日、野党議員の議席剥奪、逮捕・拘禁の後、立法権を政府に明け渡す「全権委任法」を国会で通過させた。この新法は、「ドイツの法律は憲法(ヴァイマル憲法)に背反することが許される」(第2条)と定めた。以降、日本の植民地朝鮮と同様、ナチス支配下のドイツでも憲法停止、国会なし、抵抗には強制収容所が待ち構えていた。エルザーの動機は、ヒトラーによる今以上の流血の惨事を阻止することであった。


 エルザーは他の抵抗グループとは何の関係もなく、一介の家具職人であり、政党や組織に属してはおらずまったくの個人としての行動であった。今以上の流血の惨事を避けるため、沈黙する大多数の々に代わって、責任を担い、自らの命の危険をも顧みず、最悪の状態でも抵抗ができることを示した。


「抵抗は権利であり義務でもある」

拡大映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』から ©2015 LUCKY BIRD PICTURES GMBH, DELPHIMEDIEN GMBH, PHILIPP FILMPRDUCTION GMBH & CO. KG ©Bernd Schuller


 エルザーはドイツ敗戦の直前、1945年4月9日、ダハウ強制収容所で銃殺刑となった。

 

 現在のドイツにおけるエルザーの評価にふれたい。高等学校歴史教科書が説く「勇気ある抵抗運動家」像がドイツ国民に定着している。左派、リベラルはもちろん、右派のW.ショイブレ現下院議長も「市民的勇気を示し、自由の基本価値や人権の守り手」であると評価する。元連邦憲法裁判所長官J.リンバッハは、エルザー記念式典で「抵抗とは本質的に通常の合法秩序の打破」と演説した。


 ドイツは16の州から成り立つ連邦国家であり、各州は州憲法を持つ。ブレーメンを含めた三州の憲法は、公権力が人権を侵害する場合には「抵抗は権利であり義務である」と謳う。

 一方、ドイツ憲法(基本法)は、「他の救済手段がない場合」抵抗権を認めている。ナチスドイツも日本の朝鮮植民地支配も、憲法、国会なく、強制収容所と治安維持法の弾圧体制であった。憲法に基づき、政党と議会を通した「他の救済手段」を認めなかった。この体制は、2人を合法秩序を打破し、為政者を取り替える方法に追い込んだ。エルザーも尹も「市民的勇気」を持ち、抵抗を義務ととらえた。



日韓の友好交流をめざして

 尹奉吉は、上海で逮捕され、1932年12月19日、金沢で処刑された。金沢には彼の墓がある。私たちは「尹奉吉義士共の会」を結成し、約20年弱にわたり、歴史認識を基礎とし、未来を求めて韓国との交流を続けている。両国でシンポジウムや討論会を開き、青少年の交流にもささやかながら力を注いでいる。


拡大金沢市の野田山墓地にある尹奉吉慰霊碑の前では、毎年命日の12月19日近くに日韓両国からの参列者を得て追悼法要が行われている


 昨年、占領記念式典の壇上で負傷した上海総領事・村井倉松の曾孫夫妻が韓国を訪れ、尹奉吉の甥にあたる尹洲(ユン・ジュ)氏と初めて対談した。曾孫の父・村井伯州は、村井倉松が着ていた軍服、チョッキ、ズボンを韓国独立記念館に、眼鏡を「梅件(尹奉吉)記念館」(ソウル)に寄贈していた。


 植民地支配の歴史に精通していた村井伯州は、遺品を生きた歴史とし、これを日韓双方が心に刻み、友好の架け橋になることを祈っていた。また、白川義則陸軍大将の生まれ故郷・松山市の愛媛大学のゼミ生と尹奉吉の生まれ故郷・礼山郡との相互交流が続いている。


 現在、とりわけ「徴用工」を巡り、国家と国家が険悪な関係にある。国際交流に代わる「民」際交流、市民間の交流は大切である。残念なのは市民間交流を本来促進すべき自治体が、姉妹都市間の交流を避けたり、中止している現状である。国家ができない関係を、市民の感覚に近い自治体こそが担うべきであろう。国家が右を向けという時、これに倣っては自治体の自律(立)は失われる。今こそ日韓共に市民交流を拡大すべきで時である。

拡大田村光彰著『抵抗者  ゲオルク・エルザーと尹奉吉』(三一書房)本体2200円