朝鮮戦争で軍事輸送船になった「太平洋の白鳥」日本丸
朝鮮戦争70年 日本の「戦争協力」① 平和憲法施行まもない日本で何が起きたのか
徳山喜雄 ジャーナリスト、立正大学教授(ジャーナリズム論、写真論)
朝日新聞
2020年06月29日
みなとみらい21地区に係留されている帆船日本丸=2018年6月13日、横浜市西区
朝鮮戦争が70年前の1950年6月25日に勃発した。
占領下の日本では、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、「太平洋の白鳥」と呼ばれた大型練習帆船の日本丸や海上保安庁所属の旧日本海軍掃海部隊、民間の船乗りらが動員され、朝鮮海域での人員や武器の輸送、掃海に携わった。朝鮮戦争の兵站(へいたん)基地となった日本国内では、旧国鉄がフル稼働して軍事輸送することとなった。
明らかになっていない「戦争協力」の全容
戦後の混乱期の日本は朝鮮特需によって活況を呈した。しかし、平和憲法を施行してまもない日本の「戦争協力」の実態はあまり知られておらず、全容はいまだに明らかになっていない。
調達庁(旧防衛施設庁の前身)が1956年に占領期の仕事をまとめた『占領軍調達史』(全5巻)は、数少ない日本側の公的資料で朝鮮戦争時に日本政府や民間船会社などの戦争協力が記されている。
そのなかの『占領軍調達史-占領軍調達の基調-』編に、朝鮮戦争に動員された日本人犠牲者についての記述がある。開戦から約半年後の51年1月までに56人が死亡したとされる。ただ、朝鮮戦争は53年7月まで続いており、この間に日本人が何人死亡したかについては不明だ。防衛省防衛研究所の調査では、確認できただけで約8000人の日本人が、海上輸送にかかわっていたとする。
現代日本は、安倍晋三政権下で憲法9条の解釈改憲を強行、専守防衛が棄てられ集団的自衛権が認められた。これによって、米軍のために戦争海域や戦場に日本人が派遣されることが現実的なこととなった。対象は自衛隊員だけではない。朝鮮戦争にみられるように、民間の船員や労働者らが戦争海域に派遣される可能性もあり得る。
民間人の戦争への動員は、占領という特殊な状況下でおこったことではないと考えるべきだ
「白鳥」から羽をもがれた「黒鳥」に
横浜市のみなとみらい21(MM21)地区。「太平洋の白鳥」と呼ばれた大型練習帆船の初代日本丸(2017年、国の重要文化財に指定)が展示されている。総トン数2278トン、全長97メートル、幅13メートル。同じく重文に指定されている旧横浜船渠(せんきょ)の石造ドックに浮かぶ。
日本丸は商船学校の船員養成の練習帆船として文部省が発注し、満州事変勃発の前年の1930年に神戸で進水、竣工した。半世紀以上にわたって活躍し、84年に引退。太平洋を訓練海域として延べ183万キロを航海し、約1万1500人の船員を養成した。
いまでは船内も一般公開され、29枚のすべての帆(セイル)をひろげる総帆展帆(そうはんてんぱん)と呼ばれるイベントが年10回程度、ボランティアらによっておこなわれる。海面から40㍍以上にもなる高いマストによじ登り、すべて手作業によってひろげられた真っ白な帆が空にはためく姿は、息をのむほど優雅で美しい。
29枚の帆を広げた「帆船日本丸」=2019年10月27日、横浜市西区
こんな日本丸だが、太平洋戦争が激化した43年には帆装が取り外され、エンジンだけで航海するようになった。優美な「白鳥」の羽をもがれ、船体も目立たないように黒っぽく塗装され、あたかも「黒鳥」のごとく、瀬戸内海で石炭輸送などに従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として、2万5000人以上の引揚者を中国・上海や韓国・釜山、シンガポール、台湾などから輸送。外地での遺骨収集にも携わった。
動員された日本丸と海王丸
日本丸はさらに数奇な運命をたどる。朝鮮戦争開戦に伴い、GHQの指示によって米兵や韓国兵、韓国人避難民らを輸送することとなったのだ。日本丸と同じ年に進水した姉妹船で、「海の貴婦人」と呼ばれる海王丸も同様に朝鮮戦争に動員され、輸送業務に携わっている。
初代海王丸は総トン数2238トン、全長97メートル、幅13メートルと、日本丸とほぼ同じ大きさ。今は立山連峰と富山湾をのぞむ富山県射水市海王町の海王丸パークに係留、一般公開されている。
『練習帆船日本丸・海王丸50年史』によると、日本丸と海王丸は日本から韓国に向けて、以下のように、それぞれ3航海、計6航海している。
日本丸
①1950年8月17日~同8月31日(佐世保→釜山→横浜→佐世保)、②1950年10月22日~同11月1日(佐世保→大分→仁川→佐世保)、③1950年12月15日~1951年1月7日(佐世保→仁川→釜山→済州島→仁川→済州島→佐世保)。
海王丸
①1950年8月15日~同8月31日(佐世保→門司→釜山→横浜→佐世保)、②1950年9月30日~同10月8日(佐世保→釜山→仁川→門司)、③1950年10月8日~同10月18日(門司→釜山→仁川→佐世保)。
当時、長崎県の佐世保港が拠点港だったため、通常は佐世保を出港して佐世保に帰港する。
日本で訓練した韓国兵を仁川に輸送
神戸市東灘区に住む戸澤又丰(とざわ・ゆうほう)さん(1924年11月10日生まれ)は朝鮮戦争の勃発後、日本丸と海王丸の両船に首席通信士として乗り込み、米兵や韓国人避難民を輸送した。筆者は2019年夏、神戸市の自宅で初めて会った。
日焼けした顔は血色もよく、おしゃれな海の男といった風情だ。当時94歳であったが、矍鑠(かくしゃく)とし元気そのものだった。これまでマスコミや研究者に朝鮮戦争での体験を話したことがなかったが、「記憶が定かなうちに話しておきたい」と、インタビューに応じてくれた。
朝鮮戦争の際、日本丸と海王丸に首席通信士として乗り込んだ戸澤又丰さん=2019年7月、神戸市東灘区(徳山撮影)
三重県津市出身の戸澤さんは、旧日本海軍の無線通信士として台湾・高雄での勤務を経て日本で終戦を迎えた。戦後は旧運輸省航海訓練所の教官になり、日本丸をはじめとする練習帆船で船員を養成していた。
朝鮮戦争当時、朝鮮海域には3回にわたり航海した。最初は海王丸で、1950年8月15日~同8月31日(佐世保→門司→釜山→横浜→佐世保)。2、3回目は日本丸で、50年10月22日~同11月1日(佐世保→大分→仁川→佐世保)と、50年12月15日~51年1月7日(佐世保→仁川→釜山→済州島→仁川→済州島→佐世保)だった。
「帆船だが帆は外され、エンジンで航海した。両船ともに目立たないように船体は黒く塗られ、船内は厳しい灯火管制が敷かれた」と戸澤さんは話す。
米兵と韓国人避難民を輸送するのが主な任務であったが、それ以外に日本での訓練を終えた韓国兵を大分から韓国・仁川に輸送したこともあった。「みんな、20歳前後と若く、作業服のようなものを着ていた。これから戦場にいくという悲壮感のようなものは漂っていなかった」
日本丸の航海日誌は現在、横浜みなと博物館が所蔵しており、「特別利用許可申請」をして閲覧した。「(大分で)1950年10月23日18時、米兵8人と韓国兵512人が乗船。目的地はCMMC(Civilian Merchant Marine Committee、民間商船委員会)の命令で仁川に変更された。出発は天候状態によって明朝に延長された」(原文、手書き英語)とある。仁川に到着した「韓国兵512人は10月29日6時に下船した」と記録されている(船長・木内文治と一等航海士・池田勲の署名)。米兵8人についての記述はない。
韓国兵の軍事訓練場になった日本
富山県射水市に係留されている初代海王丸=2018年7月6日
一方、海王丸の航海日誌は富山県射水市にある公益財団法人伏木富山港・海王丸財団が所蔵。それによると、8月21朝に釜山で韓国兵(Korean army)607人と韓国士官1人が乗船し、25日朝に横浜で米兵4人と韓国人(Korean)607人が下船したとある。また、次の航海では10月1日昼に釜山で韓国人(Korean)700人が乗船し、5日朝に仁川で韓国人警察官(Korean police)700人が下船。さらに10月9日午後、釜山で706人の韓国人警察官が乗船し、10月12日夕、仁川で706人の韓国人が下船したとある(船長・椎名薫と首席一等航海士・白沢高康の署名)。
海王丸の航海日誌には韓国兵(Korean army)、韓国人(Korean)、韓国人警察官(Korean police)との記載があり、一部混同されているものもある。また、10月14日早朝には30分間にわたって「北朝鮮機が仁川港と船舶を攻撃した」とする生々しい記述もあった。
朝鮮戦争当時、米軍が使用していた演習場は、宮城県の王城寺原や静岡県の東富士演習場、大分県の日出生台演習場、熊本県の大矢野原演習場など多数あった。日出生台演習場は朝鮮半島にもっとも近い演習場で、ここで最後の演習をおこなって米軍は出撃したと考えられる。大分で日本丸に乗船した韓国兵512人は、米兵とともに日出生台演習場で訓練を受けていたということか。
『鉄道終戦処理史』の「朝鮮動乱に伴う韓国軍軍事訓練輸送」などの一覧をみると、仁川上陸作戦(1950年9月15日)を控えた8月と9月上旬には、韓国から輸送した韓国兵を横浜港経由で東富士演習場などに運び、軍事訓練を実施した後、再び横浜港経由で韓国まで輸送している。
この『鉄道終戦処理史』の記録について、山崎静雄著『史実で語る朝鮮戦争協力の全容』は「(米英軍といった『国連軍』ばかりではなく)韓国軍の輸送にも国鉄が動員されました。……朝鮮全土が戦場になっていたために、日本が韓国軍の戦闘訓練場にされていたからです。この事実は一般国民にまったくといっていいほど知らされていませんでした。……連隊ですからおよそ三千人程度だったと思われます。いずれにしても、五日間で述べ九ヵ所から、使用客車七十三両で輸送されていますから相当な数の韓国軍が日本に上陸し演習したことはあきらかです」と解説している。
占領下とはいえ、憲法9条を掲げる平和憲法が施行されて3年後の日本で、米兵だけでなく韓国兵を軍事訓練し朝鮮半島の戦場に送り込んでいたという事実は、憲法違反を問われても仕方がない行為といえないか。
海王丸航海日誌(1950年8月21日)。「9時40分 韓国兵(607)が乗船」とある。=公益財団法人伏木富山港・海王丸財団所蔵
日本で訓練した韓国兵を仁川に輸送
神戸市東灘区に住む戸澤又丰(とざわ・ゆうほう)さん(1924年11月10日生まれ)は朝鮮戦争の勃発後、日本丸と海王丸の両船に首席通信士として乗り込み、米兵や韓国人避難民を輸送した。筆者は2019年夏、神戸市の自宅で初めて会った。
日焼けした顔は血色もよく、おしゃれな海の男といった風情だ。当時94歳であったが、矍鑠(かくしゃく)とし元気そのものだった。これまでマスコミや研究者に朝鮮戦争での体験を話したことがなかったが、「記憶が定かなうちに話しておきたい」と、インタビューに応じてくれた。
朝鮮戦争の際、日本丸と海王丸に首席通信士として乗り込んだ戸澤又丰さん=2019年7月、神戸市東灘区(徳山撮影)
三重県津市出身の戸澤さんは、旧日本海軍の無線通信士として台湾・高雄での勤務を経て日本で終戦を迎えた。戦後は旧運輸省航海訓練所の教官になり、日本丸をはじめとする練習帆船で船員を養成していた。
朝鮮戦争当時、朝鮮海域には3回にわたり航海した。最初は海王丸で、1950年8月15日~同8月31日(佐世保→門司→釜山→横浜→佐世保)。2、3回目は日本丸で、50年10月22日~同11月1日(佐世保→大分→仁川→佐世保)と、50年12月15日~51年1月7日(佐世保→仁川→釜山→済州島→仁川→済州島→佐世保)だった。
「帆船だが帆は外され、エンジンで航海した。両船ともに目立たないように船体は黒く塗られ、船内は厳しい灯火管制が敷かれた」と戸澤さんは話す。
米兵と韓国人避難民を輸送するのが主な任務であったが、それ以外に日本での訓練を終えた韓国兵を大分から韓国・仁川に輸送したこともあった。「みんな、20歳前後と若く、作業服のようなものを着ていた。これから戦場にいくという悲壮感のようなものは漂っていなかった」
日本丸の航海日誌は現在、横浜みなと博物館が所蔵しており、「特別利用許可申請」をして閲覧した。「(大分で)1950年10月23日18時、米兵8人と韓国兵512人が乗船。目的地はCMMC(Civilian Merchant Marine Committee、民間商船委員会)の命令で仁川に変更された。出発は天候状態によって明朝に延長された」(原文、手書き英語)とある。仁川に到着した「韓国兵512人は10月29日6時に下船した」と記録されている(船長・木内文治と一等航海士・池田勲の署名)。米兵8人についての記述はない。
韓国兵の軍事訓練場になった日本
富山県射水市に係留されている初代海王丸=2018年7月6日
一方、海王丸の航海日誌は富山県射水市にある公益財団法人伏木富山港・海王丸財団が所蔵。それによると、8月21朝に釜山で韓国兵(Korean army)607人と韓国士官1人が乗船し、25日朝に横浜で米兵4人と韓国人(Korean)607人が下船したとある。また、次の航海では10月1日昼に釜山で韓国人(Korean)700人が乗船し、5日朝に仁川で韓国人警察官(Korean police)700人が下船。さらに10月9日午後、釜山で706人の韓国人警察官が乗船し、10月12日夕、仁川で706人の韓国人が下船したとある(船長・椎名薫と首席一等航海士・白沢高康の署名)。
海王丸の航海日誌には韓国兵(Korean army)、韓国人(Korean)、韓国人警察官(Korean police)との記載があり、一部混同されているものもある。また、10月14日早朝には30分間にわたって「北朝鮮機が仁川港と船舶を攻撃した」とする生々しい記述もあった。
朝鮮戦争当時、米軍が使用していた演習場は、宮城県の王城寺原や静岡県の東富士演習場、大分県の日出生台演習場、熊本県の大矢野原演習場など多数あった。日出生台演習場は朝鮮半島にもっとも近い演習場で、ここで最後の演習をおこなって米軍は出撃したと考えられる。大分で日本丸に乗船した韓国兵512人は、米兵とともに日出生台演習場で訓練を受けていたということか。
『鉄道終戦処理史』の「朝鮮動乱に伴う韓国軍軍事訓練輸送」などの一覧をみると、仁川上陸作戦(1950年9月15日)を控えた8月と9月上旬には、韓国から輸送した韓国兵を横浜港経由で東富士演習場などに運び、軍事訓練を実施した後、再び横浜港経由で韓国まで輸送している。
この『鉄道終戦処理史』の記録について、山崎静雄著『史実で語る朝鮮戦争協力の全容』は「(米英軍といった『国連軍』ばかりではなく)韓国軍の輸送にも国鉄が動員されました。……朝鮮全土が戦場になっていたために、日本が韓国軍の戦闘訓練場にされていたからです。この事実は一般国民にまったくといっていいほど知らされていませんでした。……連隊ですからおよそ三千人程度だったと思われます。いずれにしても、五日間で述べ九ヵ所から、使用客車七十三両で輸送されていますから相当な数の韓国軍が日本に上陸し演習したことはあきらかです」と解説している。
占領下とはいえ、憲法9条を掲げる平和憲法が施行されて3年後の日本で、米兵だけでなく韓国兵を軍事訓練し朝鮮半島の戦場に送り込んでいたという事実は、憲法違反を問われても仕方がない行為といえないか。
海王丸航海日誌(1950年8月21日)。「9時40分 韓国兵(607)が乗船」とある。=公益財団法人伏木富山港・海王丸財団所蔵
※次回「朝鮮戦争70年 日本の『戦争協力』②」は30日夕に「公開」予定です。
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