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新首相の目指す理念が「〝自助、共助、公助〟、そして〝絆〟」という虚無

이강기 2020. 9. 16. 12:53

新首相の目指す理念が「〝自助、共助、公助〟、そして〝絆〟」という虚無

 

公助をもって国民の生活を守るのでなければ、もはや国はその存在意義を失う

 

赤木智弘 フリーライター

朝日新聞

2020年09月16日

 

 

 

 9月14日に自民党内での総裁選挙が行われ、菅義偉氏が選出された。この記事が出るころには、菅総理大臣が誕生しているのだろうから、以下菅総理大臣と記す。

 菅総理大臣は「安倍政権を継承する」と言っているので、菅政権の下ではこれまでどおり景気は上がらず、格差は拡大し、公文書は改竄や破棄が当たり前となり、公金は身内びいきで動いて、世界的にも日本の社会的地位は縮小していく。そんな安倍政権の暗部をそのまま引き継ぐこととなるだろう。要はまた「悪夢の自民党政権」が続くだけのことだ。

あなたが豊かなことは、自助の成果などではない

自民党総裁選に勝利して両手を広げる菅義偉氏=2020年9月14日、東京都港区

 

 さて、菅総理大臣は目指す社会像として「『自助、共助、公助』、そして『絆』」であると言っている。

 

 この「自助・共助・公助」という言葉、本来は災害の場面で使われる言葉である。まずは避難用具をそろえたり、津波などから自力で逃げて、避難所などの安全なところまで移動するのが自助、避難所などの集まりで、お互いに助け合うのが共助、そして最後に災害派遣や物資の支給などの消防や自衛隊などといった行政に頼るのが公助である。

 つまり、災害発生から行政が間に入るまでの数時間から数日間を生き延びるために行うのが「自助、共助」であり、それは最終的に公助につなぐための一時的な状況に過ぎないのである。

 一方で、緊急事態ではない日常では、我々は否応なく「公助」の状態に置かれるのが基本である。我々は行政が国民に対してさまざまなサービスを提供するということを前提に生活をしている。

 我々は民主主義国家に生まれた以上、権利をもって平等を敷くという、そうした約束の下に生活しているのであり、それを前提として民主主義国家というものは成り立っているのである。

 

 もし、あなたが「俺は財産をたくさん蓄えているから、政府の助けなど無くとも生活できる」と考えているなら、それは大きな間違いである。あなたは確実に政府の助けの下に生活をしているのであり、あなたが豊かなことは、自助の成果などではない。

 あなたのその「生活できる」という言葉の根拠である財産は、法律によって法的に、暴力装置によって物理的に守られている。だからこそ、あなたは財産を奪われる心配をさほどせずに生活できているのであって、それ自体がすでに公助の内なのである。

 結局のところ、福祉国家を目指そうが夜警国家を目指そうが、いずれにしても民主主義国家である以上は政府の行うことは一貫して公助であり、我々市民は公助を受けながら生きているのである。それが民主主義国家に暮らすことの大前提なのである。我々は誰一人として公助の傘から抜けることはできないのである。

 

 

公助とは国の役割そのものである

 ところが、菅総理大臣は公助を否定する。「公助を並べているから否定ではないだろう」と思う人もいるかもしれないが、国は公助をするために存在するのだから、公助以外の選択肢を並べ立てた時点で公助の否定と言っていい。

 一番わかりやすい例が、2016年に安倍総理(当時)の名前で内閣府から出された「日本の未来を担うみなさんへ」と題された文書である。この文書には「あなたが夢をかなえ、活躍することを応援しています。」と書いてあるものの、具体的な政策は一切書かれておらず、応援するその担い手として、周囲の人たちが示されているのである。

自民党総裁選討論会の冒頭、ボードを掲げて発言する菅義偉氏=2020年9月12日、東京都千代田区の日本記者クラブ

 

 特に「こども食堂でともにテーブルを囲んでくれる おじさん、おばさん」という一文は、再分配政策の失敗により発生し続けている子供の貧困を、できる範囲で救おうとしたこども食堂の人たちの努力を、政府が一方的に自分たちの成果であるかのように簒奪する行為であるとして、大きな批判を受けた。

 自助や共助が必要だという状況は、本来政府がすべき公助をしていない、足りないから発生しているのであり、それを「みんなが助けてくれている、素晴らしい」などと総理大臣が賞賛するというのは、総理大臣が自分自身の役割に無自覚であり、公助を否定していると言っていいのである。

 

 菅総理大臣は公助を否定するが、公助とは国の役割そのものである。国が公助をもって国民の生活を守るということをしないのであれば、もはや国はその存在意義を失うのである。

 政治家であるならば、国民に対して自助や共助という役割を負わせてしまっていることを恥であると考えなければならない。自助や共助をせざるを得ない現実があるところに、いかに公助を行き渡らせるか。それこそが政治家の本分であるはずだ。

 だからこそ、「自助、共助、公助」を目指すべき社会像などとする総理大臣など存在してはならないし、こうした人物を総理大臣の座に就けてしまった国民は、それを恥ずべきことであると考えなければならない。

 

 

「絆」には法の支配も及ばないから、いくらでもやりたい放題

 そして何より酷いのが「絆」である。

 政治的な指針として「絆」という言葉には何もない。メディアがもう少し真っ当であれば「絆とは、具体的に何を指すのでしょうか?」という質問も飛ぶのだろうが、安倍政権にすっかり懐いてしまったメディアには、もはやそのような疑問も浮かばないのだろう。もっとも聞いたところで「今申し上げたとおり」と、いつものように答えないだろうけど。

 なので僕が勝手に憶測すると、これまでの安倍政権と同じように、お友達には優遇して、批判する者は遠くへ飛ばすという意味合いの「絆」であろう。絆には法の支配も及ばないから、いくらでもやりたい放題である。

衆院予算委で、安倍晋三首相(当時)と言葉を交わす菅義偉官房長官(同)=2020年2月3日

 

 朝日新聞は3月から4月にかけて「次の首相に求める資質は」という調査を行っている。次の首相に最も必要なものを5択で聞いたところ、「公正さ・誠実さ」40%、「リーダーシップ」22%、「政策・理念」20%、「調整能力」11%、「発信力」4%という順位となった。

 残念ながら、菅総理大臣には、首相に求められている素質と合致する部分はほとんど感じられない。

 まず、「自助や共助では無く、公助を行き渡らせる」というリーダーシップは望めない。安倍政権での公文書の扱いや、黒川前検事長の扱いなどについても真っ当に対応しなかったことから、公正さ・誠実さも望めない。そして肝心の政策・理念が「『自助、共助、公助』、そして『絆』」という虚無である。

 

 ただ、総裁選で安倍政権に逆らった石破茂議員を3位にするために、岸田文雄政調会長に票を回したと見られることから、党内の調整能力はそれなりにありそうだ。発信力? パンケーキ好きということが発信力というのなら、まぁそれに釣られる日本人にふさわしいレベルの発信力だと思う。

 

 いずれにせよ、菅政権に期待することは「さっさと瓦解して欲しい」というだけである。次の菅総理大臣の次の総理大臣は、せめて公助を否定しない人であって欲しいと思う。