日本を追い越していった台湾ファンドリーに5000億円近い巨額補助金
【10】TSMC進出で浮き彫りになる日本半導体の敗戦/2022年
朝日新聞, 2022年02月25日
日本政府は、台湾の半導体受託製造会社TSMCが熊本につくる工場に5000億円近い巨額補助金を交付する。米中対立のなか、台湾メーカーを熊本に引き込むのが「経済安保」だというのが、その大義名分である。TSMCは補助金を元手に初期投資だけで1兆円近い前代未聞の規模の半導体工場を新設する。
ゆえに熊本はいま、県庁を挙げて半導体エンジニアの育成や熊本空港と結ぶ鉄道延伸を検討し、突然舞い込んだ「国策」にまるで天孫降臨のような大騒ぎだ。しかし、政府や自治体が至れり尽くせりの支援策を講じて、あがめたてまつるTSMCは、この四半世紀のうちに、日本の大手半導体メーカーを軒並み駆逐して、のし上がった「下剋上」の企業なのである。巨額補助金の大盤振る舞いによるTSMC誘致は、日本の半導体「敗戦」の裏返しでもある。
阿蘇の裾野に舞い降りた「国家的プロジェクト」
熊本市のベッドタウンでもある熊本県菊陽町は、もともと阿蘇山の裾野にある広大な農業地帯だった。麦をはじめ、ニンジンやダイコンなどの野菜、さらに高原野菜のキャベツが特産品という近郊農業が盛んな地域だったが、2000年代に入ってソニーの半導体工場(現ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング熊本テクノロジーセンター)ができて様相が一変する。
同工場はCCDやCMOSイメージセンサーという画像用半導体の量産工場で、画像用半導体が「電子の目」としてレンズに置き換わるにつれ、監視カメラやデジタルカメラ、さらにはスマートフォンへと用途が広がってゆき、ソニーの半導体生産の一大拠点になっていった。近隣には大手半導体製造装置メーカーの東京エレクトロンの工場(合志市)も立地し、菊陽町・合志市は一躍、小さな「シリコンバレー」になったのである。キャベツ畑が広がる長閑な農村地帯の主産品は、いまやハイテクの塊の半導体である。
そのソニーの工場の隣接地にTSMCが進出することになった。
菊陽町役場は、TSMCの進出が決まった昨年11月に即座に「国家的プロジェクトに必要な施策を実施する」と位置づけ、全庁組織の「半導体産業企業誘致推進本部」を設けた。すぐに決まったのが、すでに交通渋滞に悩む道路の延伸と拡幅の計画だった。
同じように熊本県庁も同様の全庁組織を立ち上げ、傘下に5つのプロジェクトチームを設け、さまざまな支援策を立案しようとしている。進出工場の利便性を向上させようと、JR豊肥線と熊本空港をつなぐ鉄道延伸計画を、従来予定していた路線ではなく、TSMCの工場が立地する付近を通すよう練り直している。
従業員1500人のうち7割の地元雇用が見込まれることから、半導体エンジニアを養成しようと県立技術短期大学校に半導体エンジニア養成コースを新設し、さらに同短期大学校にTSMCで働く人向けの職業訓練コース(トレーニングセンター)を設けることも考えている。米国留学経験のある台湾人エリートが100人単位で赴任することから、「お子さんの教育問題が重要。インターナショナルスクールの創設ができないか検討している」と木村敬副知事は言う。
TSMCの初期投資9800億円(当初の8000億円からさらに上積みされた)は、初期投資額としては東芝(現キオクシア)やソニーなど国内の大手半導体メーカーでも見られないほど巨額だが、その投資額の約半分が補助金、つまり日本国民の税金が元手である。それに加えてアクセス道路や鉄道、就労者教育、子女の教育の面倒までに公費が投じられようとしている。
ところが、私が県庁や町役場の担当者に「TSMCってご存知でしたか?」と尋ねると、彼らは恥ずかしそうに言うのだった。「いやぁ、実は今回初めて知りまして……」と。
それもそのはず、TSMCはブランドを持たない会社だからである。漢字表記では「台湾積体電路製造」という。米国の大手半導体メーカー、テキサス・インスツルメンツ(TI)で長く働いたモリス・チャンが1987年、台湾で創業した後発の半導体メーカーだった。
TSMC創業当時の半導体業界は、先行していた米国勢を日本勢が激しく追い上げ、遂に86年に日米のシェアが逆転し、日本は世界最大の半導体生産国となった時代だった。「メイド・イン・ジャパン」が世界を席巻し、国内はバブル経済に浮かれ、強い円で米コロンビア映画やロックフェラーセンターを買い漁っていたころのことである。
世界最大誇った日本半導体、デジタル化時代に主導権失う
半導体は、家電製品やコンピューター、自動車、さらには戦闘機やミサイルなど様々な機器の「頭脳」の役割を果たしている。そんな半導体の分野で日本勢に追い越されたことに米国は強い危機感を抱き、レーガン政権は対日制裁をちらつかせて日米半導体摩擦が勃発した。結果的に日本政府(当時の通商産業省)は、米国の怒りを鎮めようと大幅に譲歩し、日米半導体協定という一種の「不平等条約」を呑んだのである。
協定の骨子の一つは、日本が米国など海外製半導体の輸入を増やし、日本市場において米国など海外製の半導体のシェアが20%以上になるよう数値目標を設けさせられたことである。
そしてもう一つが、日本の主力半導体(当時はメモリー用半導体のDRAM)の輸出に際して不当廉売がないかどうか、日本の生産コストを米国側に開示するよう義務づけられ、米国側がそれをもとに日本メーカーの販売価格(公正市場価格)を決めることになった、という点だった。
日本側には製品をいくらで売るか、自由な価格決定権がなくなったのである。
こうして日本は、米国製半導体の購入を強く促される一方、価格決定という生殺与奪の権を奪われた状態におかれた。日本勢のシェアがじりじり減少するなか、いわば漁夫の利を得るかのように躍進していったのが、日米摩擦の埒外にあった韓国のサムスン電子だった。そして、ちょうどそのころに産声をあげたのが、TSMCなど台湾の半導体メーカーだったのである。
日米半導体業界の角逐が繰り広げられる中、水面下で急速に進んでいたのは、業界の構造変化であった。
それまでの半導体メーカーは、設計から製造、テスト、組み立て、機器類への組み込みまですべての工程が自社内で完結した「垂直統合」モデルにあった。日立製作所も東芝も松下電器産業(現パナソニック)も、それぞれ自社内にテレビやVTR、ステレオなど家電部門を持ち、それらに組み込む半導体をつくることが、そもそも半導体生産の出発点になっている。
日本の半導体が、先行する米国を打ち負かすことができたのは、この当時の日本の家電製品(特に1980年代はVTRとウォークマンなどオーディオ機器)の強さにあった。性能が高く、しかも安価だったため、土砂降り的に欧米に輸出され、あちこちで貿易摩擦をひきおこした。いわば半導体を使う製品の競争力が高かったことが、日本の半導体産業そのものを隆盛させたと言える。
しかし、90年代半ば以降、家電にとって代わってパソコンの売れ行きが増していくと、パソコンのCPUを生産する米半導体メーカー、インテルの覇権が増し、日本勢は次第に精彩を欠いていった。組み込む機器の主要部品が、米国勢(マイクロソフトのOSとインテルのCPU)に牛耳られ、日本側は主導権を完全に失ってしまったのだ。
しかもパソコンは、パソコンメーカーがすべての部品を作り、完成品として組み立てるのではなかった。OSはマイクロソフト、CPUはインテルなど専業企業から寄せ集め、それをまるでプラモデルの「ガンプラ」のように組み立ててできるのだ。
「アナログ機器で勝ちすぎて、デジタルに乗り遅れた。技術面で圧倒的にリードしているつもりだったのに、むしろ欧米や韓国や台湾の方がデジタル化の波に乗っている。アナログ機器は阿吽の呼吸のすり合わせ技術がモノを言ったが、デジタル機器は分業化を進め、分業がポイントになった」。日立製作所の半導体部門トップを経て、後にソニーに転じた牧本次生専務は、そう言っていた。
構造変化に感度鈍く、分業化に決定的に乗り遅れた日本勢
半導体をつくるまでの複雑な工程もこのころから、それぞれの専門企業に分業されるようになっていた。設計だけに特化したのが英アームであり、製造だけに専念したのがTSMCやUMCなどの台湾メーカーだった。デザインや設計をしない「つくるだけ」の台湾メーカーは「ファンドリー」と呼ばれた。
この分業化の流れに決定的に乗り遅れたのが日本勢だった。分業化の進展に伴って業界の構造が大きく変化していることへの感度が鈍く、むしろアームやTSMCを「下請け」に使ってやるという意識が勝っていた。
シャープは2001年、台湾のファンドリー、UMCグループ資本・業務提携したが、そのとき担当役員だった米田照正専務はこう言っていた。「我が社がいつまでも、半導体と液晶で毎年2000億~3000億円もの設備投資を続けられない。先端開発は自社内で続けていくが、たくさんある工程の中からアウトソース(外注)できるところはアウトソースしないと」。
それを聞いて「そんなことをしていて、軒を貸して母屋を取られることにはなりませんか」と私が尋ねると、米田は「UMCはいずれ一貫工程をめざしてくるだろうが、設計やテスト、組み立ての技術はそう簡単ではない。簡単にキャッチアップできないだろう。まぁ、5~6年はかかるんじゃないか」と楽観視していた。
その3年前に、当時はまだ世界第2位の半導体メーカーだったNECの佐々木元・副社長に「韓国のサムスン電子が半導体生産で躍進していますが」と尋ねたとき、彼から返ってきたのは「規模の小さい会社(サムスンのこと)は、(生産品目など)範囲を狭めないとダメ。限られた力で全力を尽くすものだ」というもので、「技術力はこっちのほうが断然、上だから」という目で見られたことを覚えている。
だいぶ傾きかけてはいたが、日本勢は90年代終盤から2000年代初頭、まだまだ気位は高かった。シャープやソニーなど日本勢は2000年ごろから半導体の量産品の製造を積極的に台湾に下請けに出すようになり、それによって次第に躍進していったのがTSMCやUMCだった。
同じころ、ソフトバンクが無料で配った高速インターネット回線の通信モデムの製造を一手に引き受けて存在感を高めたのが、台湾の鴻海精密工業(ホンハイ)だった。ソフトバンクの三木雄信・元社長室長は「ホンハイのつくるモデムの耐久性に問題があって、すぐ発熱するんです。それで日本の電機メーカーの子会社の、品質管理ができるところを向こうの製造現場まで立ち入らせて品質管理の指導をしたんです。そうやってホンハイに生産の仕方まで指導したうえで量産してもらいました。ホンハイの製品の品質が向上するようになったのは、このときの経験が大きいと思います」と言っていた。
日本メーカーが彼らを育てたのだ。
経産省の業界対策、資金乏しくかけ声倒れに
経済産業省はITバブルが崩壊した2000年ごろから、日本の半導体メーカーの地盤沈下に危機感を抱き、業界横断的な最先端分野の開発プロジェクトに資金を投じることになる。国内の主要メーカーを集めて半導体の最先端の微細加工技術を共同開発する「MIRAI(みらい)」プロジェクトがその一つだった。茨城県つくば市にスーパークリーンルームという開発拠点を設け、産官学120人による研究が01年度からスタートした。
日本勢に追い込まれた米国が1987年、「セマテック」という産官学の共同プロジェクトを立ち上げて、政府資金によって技術開発を進めた事例に見習って、広島大の広瀬全孝教授をプロジェクトリーダーとし、NECや東芝など11社が加わった。
この当時、担当官僚だった福田秀敬IT産業室長(後に情報通信機器課長)は米国勤務から帰国したばかりで、当時の業界の行く末を彼なりに洞察していた。「日本の中で合従連衡を進めていかないとなりません。0.1ミクロン以下の微細化の設計を各社の共同研究で標準化させるとともに、各社の統一工場のような生産拠点をつくる。アイデアは海外からもらって、それを日本が設計し、量産する。勝負はデザインなので、台湾に負けないコストで量産できれば、まだまだ日本勢は勝てる。そうしているうちに、いずれアイデアも自分たちでできるかもしれない」。
半導体の生産の仕方は各社それぞれが独自のやり方だったのを、設計も製造もひとつの標準化された方法に統一し、それをてこにして業界再編を促そうとしていた。「これを進めていけば、再編するだろうと理解しています」と話していた。
福田の狙いは悪くはなかったものの、各社の足並みは簡単にはそろわなかった。最先端の微細化技術を共同開発するMIRAIプロジェクトに投じられた資金は01~07年度の間に400億円程度だったが、米国の産官学コンソーシアムのセマテックは毎年240億~250億円の資金が投じられ、この時点で資金規模は累計で「兆円」サイズとなっていた。
それと比べて日本政府の出す資金は、けた違いに少なかった。「経産省の持ってくる話はいつも100億とか200億とか、せいぜい500億とかそんなもんです。そんなんじゃ、半導体ではたかがしれているんですよ」。
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