旅路

流刑地から新婚旅行のメッカ、アートスポットへ、韓国・済州島の数奇な変遷

이강기 2022. 6. 12. 21:05

流刑地から新婚旅行のメッカ、アートスポットへ、韓国・済州島の数奇な変遷

 
ビザなしで入島可能、岡本太郎に倣って済州島に行ってみよう
 
 
平井 敏晴 (韓国・漢陽女子大学助教授)
JB Press, 2022.6.12(日)
 
 
 

 

                                                                        韓国・済州島の海岸(出所:Pixabay)

 

2000年前後の話だが、済州(さいしゅう、チェジュ)島は韓国で新婚旅行のメッカだった。その一方で、かつては苦難の歴史を歩んだという話は耳にしていた。

 

 でも、当時はなかなか興味が湧かなかった。ただ一つ挙げるとすれば、「沖縄に似ているのかな?」という程度だった。それだから、今は学習院大学教授で民俗学者の赤坂憲雄氏から「岡本太郎は済州島を訪ねたことがあるんだよ」と聞いた時は、「へぇ」と合点がいった。

 

 太郎は沖縄に入れ込んだ。それについてはここで細かく触れることはできないが、沖縄の久高島で「イザイホー」という祭礼を見て、神秘の場に立ち会った。それを記した「沖縄文化論」を発表した4年後の1964年、太郎は韓国取材の終わりに済州島を旅した。その足取りをたどっているうちに、私はいつしか済州島を沖縄と重ねるようになっていったのだ。

 
 

流刑の地だった済州島

 先日、筆者が勤める大学の同じ学科の同僚たちと、その済州島に行ってきた。

 

 五月晴れに広がる、深緑とスカイブルーの海の織り成す景色を眺めていると、穏やかな風が体を流れ過ぎていく。済州島はこの時期独特の爽快さに満ちていた。だがその一方で、荒れ狂えば容赦のない破壊力を発揮するような不気味さを感じさせもした。いや、正確に言えば、隠蔽された不気味さをにじませた風である。

 

 空港から東へ伸びる道を車でしばらく行くと、済州島ならではの石垣が目に飛び込んできた。すると、同僚の一人が「平井先生、済州島は今では観光地ですけど、この石垣は島の苦しい歴史を物語ってるんですよ」と切り出した。

 

 もちろん、私もそのことは知っている。今でこそ柑橘類の宝庫とされるが、100年ほど前まではこれといった産業がなかった。海があるので魚は獲れるが、済州島は火山島であり肥沃でない土地ゆえに農作物が育たない。石垣は、島を覆い尽くしている漢拏山(ハルラサン)の火山岩を利用したものだ。

 

 そのためにここは、朝鮮時代は流刑の地であった。当時の流刑地はいくつかあるが、済州島にはかなり知識と教養のある政治犯が送られた。

 それは日韓の歴史にも関わっている。19世紀末に流刑にされた金允植(キム・ユンシク)は日本の朝鮮統治に大きく関わったので、ご存じの読者もいるだろう。

 

 有名なところだと、ちょうど江戸幕府が成立した時期の1608年に王位に就いた光海君(クヮンヘグン)が筆頭だろう。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で荒廃した国土を立て直すのに腐心した功績もあり権力の座に就いた。だがその一方で朝鮮王朝でよくある、血で血を洗う権力争いを首謀し、1623年のクーデターで済州島に流され、島を離れることが許されないまま1641年に66歳で世を去った。

 

済州島送りとなった実学者・書芸家の金正喜

 李氏朝鮮後期の金正喜(キム・ジョンヒ)も忘れてはいけない。19世紀前半に活躍した実学者で秋史(チュサ)を号とする。朝鮮の「実学」は、国教とされた朱子学(儒学の一派)を踏襲し、それから派生した学問である。実学者は当初は宮廷内で重用されたが、その後、異端視されていった。その煽りを受けて1840~48年に済州島送りとなったのが、金正喜である。

 

 書家や絵師としても有名で、「秋史体」として知られる破格な書体は25歳での北京訪問の経験から編み出されたとされ、文字を絵として捉えることで詩情を巧みに描き込んだ。

 

 名だたる書には事欠かないが、ここでは「溪山無盡」を紹介しておこう。また、流刑中の1844年に描かれた「歳寒図」は金正喜本人の苦しみに耐える心情を読み込んだ意匠で、朝鮮絵画では稀有なまでの奇怪さが際立っている。

 

 私の専門は、綺想と言われるデザインの背景にある精神史である。デザインと言っても美術や落書きなど目に見えるものだけでなく、音楽や祈祷といった目に見えない表現も入る。日本では澁澤龍彦の系譜とか「マニエリスム」と言えばピンとくる読者もいることだろう。中央から爪弾(つまはじ)きにされたエキセントリックな人たちによる奇想天外な意匠を研究対象とする。

 

 金正喜もその典型である。そして一言付け加えておけば、K-POPのファンタスティックなプロモーション動画もその系譜にあると私は思っているが、それはまた別の機会に。

 

不気味さを孕むアートスポット

 さて、流刑地だった済州島は、開花期には政治犯が送り込まれ、日本統治を経た米軍政下の1948年には「済州島四・三事件」で島民が虐殺されるなど、暗いイメージが付きまとった。

 

 それが60年代半ばになると観光地化が進められる。岡本太郎が初めての韓国旅行で済州島に立ち寄ったのも、64年である。70年代に韓国が経済発展を遂げるなか、ハネムーンのメッカへとイメージチェンジに成功していく。

 

 現代の韓国人にとって済州島は、南国気分が味わえるお洒落で非日常的な島である。

 

 いまこの島は、エキセントリックなアートの発信地になりつつある。金正喜もそうだが、マニエリスムという綺想のデザインという観点から、ここでは2人のアーティストを挙げておく。

 

 まずは、日本でも多くの作品が所蔵されている、韓国を代表する現代美術家の金昌烈(キム・チャンヨル)である。朝鮮戦争当時住んだこの地を第2の故郷と呼び、220点の作品を済州市に寄贈。それらを展示する国立金昌烈美術館が2016年に開館した。

 

それともう1つ。済州島のすぐ東に牛島(ウド)という小さな島がある。そこで2022年3月、「HUNDERTWASSER PARK」(フンデルトヴァッサー・パーク)というテーマパークがオープンした。フリーデンスライヒ・フンデルトワッサー(1928~2000)は20世紀に活躍したユダヤ系のアーティストで、日本にマニエリスムを紹介した美術評論家の種村季弘氏が高く評価している。2番目の奥さんが日本人で、その縁もあり日本でも彼の作品が見られる。

 

 自然をコンセプトにした彼の思想は、自然界にない直線を嫌うため、ファンタスティックなデザインを特徴とする。その世界を再現したレクリエーション空間が小さな島に出現したのだ。

 

 ここで紹介した2つの場所は、楽しみを提供しつつも、済州島の苦難の歴史や厳しい自然が読み込まれており、どちらもある種の不気味さを孕んでいる。

 

 韓国へ旅行するには現在はビザが必要だ。だが、済州島であれば日本人はビザなしで入れる。韓国領事館の前には長蛇の列ができているらしいが、行き先を済州島にすればその行列から解放されて韓国が味わえる。

 そのときには、この島の歴史と自然に想いを馳せつつ、アート巡りというのも乙なものであろう。