大野正美(朝日新聞
論說委員)
今年は日本とロシアの修交を開いた日露通好條約の締結から150年、また日露間の命運を決した對馬沖の日本海海戰が行われて100周年となる。
そんなおり、この海戰で壞滅的な敗北をきっしたロシアのバルト艦隊が、長いあいだ主力基地としてきたフィンランド灣上の都市クロンシュタットを先ごろ訪れる機會があったので、近況を紹介したい。
クロンシュタットは、ロシア西北のかつての首都サンクトペテルブルクの西方26キロのコトリン島上にある。いや、あったというべきか。
なぜなら、北側のペテルブルクの岸からコトリン島の間に飛び石狀に竝んでいた小さな15の要塞島を結ぶ形で堤防がつくられ、いまではその上の道路を通って自動車で行けるからだ。嚴密にはもう島とはいえない。
堤防は1975年から建設が始まった。ソ連のブレジネフ時代にあたる。
サンクトペテルブルクを流れるネバ川は、5年に一度ほどの割合で定期的に洪水を起こし、水位が時に4メ-トル近くも上がる。堤防には開閉式の堰がついており、これでフィンランド灣の水位を調節し、市民を腦ませてきたネバ川の氾濫を防ぐのだという。
しかし、堰を長期間閉じて灣の潮の流れが止まると、環境に惡い影響が出る恐れもある。こうした問題が出てきたほか、ソ連經濟の惡化による資金難もあって堤防の建設は1984年にいったん中?された。
工事が再開されたのはソ連崩?後だった。
とりわけ一昨年の秋、この地で生まれ育ったプチン大統領の强い後押しを受けて女性のマトビエンコ連邦政府副首相がペテルブルク市長に當選してからは、長さが15キロある堤防の上に環狀線の高速道路をのせる計劃も一緖に進められることになった。堤防とは反對の島の南側も、約4キロの海底トンネルで對岸と結ばれるそうだ。
實際に堤防の上の道路を走ってみると、鋪裝があちこちでとぎれ、さらに折れ曲がっている。行ったのが日曜日だったこともあってほとんど工事作業はしていない。のんびりと釣りを?しむ市民の姿が目立つ。
環狀線の高速道路も、高架の橋脚がとびとびにしかできていない。
ソ連時代には計劃經濟のもと、この堤防のような巨大事業が共産黨の一存で始まったり中止になったりした。いまは市場經濟の時代だが、地元のメディアなどからはマトビエンコ市長にも「財源的な裏付けが不十分なまま、人氣取りで高速道路の環?線のような大プロジェクトを進めている」といった批判が出ている。
いずれにせよ、30年ものあいだ國や地元の指導者らの都合しだいで曲折を繰り返してきた事業である。市民もすっかり關心を失ってしまった感じで、あまり話題にもあがらないようだ。
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堤防を渡り終わって車はコトリン島に入った。島は幅2キロ、長さ14キロの細長いものだ。ほとんど起伏がなく、まるでロ-ラ-でつぶしたように平らであることが、堤防から海を隔ててよく見てとれる。
ピョ-トル大帝の命令でペテルブルク防衛のための要塞として建設が始まったのが1703年だ。1920年代にはバルト艦隊の主要基地の座がペテルブルクから移ってきた。
冬に結氷する海の上へ岸から大きな石を運ぶ。それから氷をたたき割り、石を海中に落としてゆく工法で要塞は築かれた。
港にのぞんで、ロシア中の木を持ってきて植えた綠ゆたかな公園がある。ここにピョ-トル大帝の銅像が立っている。1841年の製作で、ロシアにはこれだけという帽子をかぶっていないピョ-トル像だ。
右手に握って地面をぐいと押す劍の先が曲がっている。「この地が大事だ」という意思を示すという。像の基座には「力の限り腹の底まで艦隊とこの地を守ろう」と書いてある。
實際、大帝時代に戰ったスウェ-デンに始まり、第2次世界大戰のナチス-ドイツまで、さまざまな國の艦隊がフィンランド灣の奧にあるペテルブルクを目指して要塞と對岸を結ぶ線の突破を試みたものの、守備隊とバルト艦隊の奮戰の前に撤退をよぎなくされてきた。
ただし、第2次大戰の後でバルト艦隊の司令部は、ソ連がドイツから獲得したかつてのケ-
ニヒスベルク、現在はリトアニアとポ - ランドにはさまれたロシアの飛び地であるカリ - ニングラ - ドに移った。
大帝像の立つ公園の先にあるクロンシュタットのいまの軍港を訪れてみても、わずかに海防鑑と海軍學校の練習鑑が數隻、係留されているのが見えたに過ぎない。
現在のクロンシュタットの人口は4万5000人、船舶修理が主な産業である。しかし、冷戰の終結で海軍の艦艇じたいが削減され、修理の發注も減った。景氣の落ち?みは否定しがたい。
町を步いても、水兵の姿はちらほら見えるくらいだ。自動車の數もごく少なく、通りの交差点にも信?がないほどである。
とはいっても、いまの軍港の隣にある古い港の周邊にはロシア海軍にまつわる戰史記念物が目白押しだ。やはり興味がつきない。
まず、1752年にできて現在も現役という造船用の「ピョ -
トルのドック」がある。これは、建造當時、ほかの國のドックでは水を拔くのに2~3カ月かかっていたのに、ドックの橫の穴に水を落とすといった特別な工夫によって2日か3日で水を拔くことを可能にした優れものだ。
またドックの近くには、1840年に定めたロシアの地圖づくりのための海面の高さのもととなる水準原点も置かれている。
さらに北極海のノバヤ - ゼムリャ島の調査で知られる探險家パフトゥソフの銅像や、第2次大戰でドイツ軍のUボ
-
トと激戰を演じた多くの潛水艦乘りを生み出した海軍の潛水艦學校が目を引く。宮殿から敎會、水兵用の兵舍まで、戰火で修理の手は加えられているものの帝政時代から引き續き使われている建物も數多い。
軍港からピョ - トル像のある公園を橫切ってしばらく步くと、トルコのイスタンブ -
ルに殘るビザンチン建築の傑作、聖ソフィア寺院を模して20世紀初頭に建てられた巨大なモルスコイ大聖堂がある。內部は軍事史博物館に使われており、ロシア史に殘したクロンシュタットの足跡が實に興味深いが、詳細は次の回で紹介したい。
ピョ -
トル大帝いらいの海軍の要塞とは別に、クロンシュタットが持つもうひとつの顔が、20世紀のロシアで革命運動の?点の一つとなったことである。
1905年の第一次革命では要塞兵士1500人、艦隊水兵3000人が反亂を起こした。1917年の十月革命ではクロンシュタット勞兵ソビエトが武裝部隊をペテルブルクに派遣して有力な推進勢力となり、內戰期にも多くのソビエト權力の組織者を生み出した。
1917年3月から1919年12月までクロンシュタット.ソビエトが置かれた建物は、今も海軍の將校會館として殘っている。
クロンシュタットの名をひときわ輝かしく歷史にとどめるのが、1921年に水兵たちが起こしたソビエト政府に對する反亂だ。
食料.燃料危機の打開を求める工場勞動者のストライキに同調した水兵たちは、秘密選擧、言論.集會の自由、政治犯の釋放、農業や家內工業の自由といった15項目の要求を揭げ、3月にはクロンシュタット.ソビエトの大會で共産黨幹部を逮捕し、臨時革命委員會をつくった。
だが、レ -
ニン率いるソビエト政府はこれを白衛軍や外國勢力に通じた反革命反亂と見なして徹底的に鎭壓した。6000人もの水兵が死亡した。
それでも十月革命の榮光を擔う水兵たちが反亂を起こした事實が持つ衝擊はすさまじかった。レ -
ニンは新經濟政策(NEP)で農民との妥協を迫られた。その後も蜂起は、ソ連の社會主義の實際のあり方を問ううえでの重要な契機を世界に提供し續けてゆくこととなる。
さて、クロンシュタット中心部の廣場にあるモルスコイ大聖堂の軍事史博物館では、町とここの要塞を舞台にしたバルト艦隊の步みが興味深いしかたで展示されている。
それをひとことで言えば、起きたことは起きたことと、事實としてすべてを認め、その事實の間に價値の優劣をつけないという態度だ。
展示の中の日本にもなじみ深い顔としては、日露戰爭の開戰直後に旅順で機雷に乘艦が觸れて杜絶な最後をとげた太平洋艦隊司令官、マカロフ提督がいる。
「ああよしさらば、我が友マカロフよ 詩人の淚あつきに君が名の さけびにこもる力に願わくは 君が名、我が詩、不滅の信とも なぐさみて、我この世にたたかはむ」という明治の歌人、石川啄木の詩が添えられているのが印象的だ。
日露戰錚に從軍していてマカロフ提督とともに命を落とし、幸德秋水ら日本の非戰論者に追悼された戰爭批判の畵家ベレシチャ - ギンの寫眞もある。
1825年、デカブリストの亂に參加した將校をクロンシュタットの軍艦上で處罰する展示や、この軍港から日本に向けて出發し、ちょうど150年前の1855年に日露通好條約を結んで修交を開いたプチャ-
チン提督の展示も興味深い。
ちなみに、プチャ -
チン提督の乘ったディアナ號は條約の交涉中に靜岡縣富士市の田子の浦沖で難破したものの、伊豆半島の戶田で日本側の協力も得て新しい船をつくり、歸國の途につくことができた。このことを記念する碑が今年の夏、クロンシュタットに日本の民間團體も加わって建てられるそうだ。
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博物館が20世紀のコ - ナ - に入ると、バルト艦隊の巡洋艦オ-
ロラの砲擊で火ぶたを切った十月革命の展示に、クロンシュタット反亂の展示が續いている。
さらには、1994年1月10付けでこの反亂に加わった水兵を「不法な、基本的人權に反する彈壓を受けた」として名譽回復し、犧牲者の記念碑をクロンシュタットに建設することを決めた當時のエリツィン大統領の大統領令の寫眞も添えられている。
クロンシュタットとしては、ピョ -
トル大帝に始まる帝政下の榮光も、第1次大戰でサンクトペテルブルクの名がペトログラ - ドとなり、さらに革命でレニングラ -
ドに變わった後も、一貫してその防衛に貢獻してきたソビエト政權下の榮光も忘れることはできないのだろう。
むしろ、軍が急速に權威を失ったうえ、經濟混亂で兵士の窮乏も進んだペレストロイカからソ連崩壞に續く歷史の方が、いま博物館で賣られているクロンシュタットの歷史案內書の中で、モスクワ大公のにせ皇子ドミトリ
- を軸に17世紀初頭のロシアで繰り擴げられた「スム- タ(大動亂)」にたとえられているように、地元のとらえ方は否定的なようだ。
事實に徹した展示は、そうした複雜で矛盾に滿ちたクロンシュタットの歷史を一カ所で同時に見せるうえでの知慧といえるかもしれない。
第2次大?時の潛水艦S-13の艦長アレクサンドル.マリネスコの展示もある。ちょうど60年前の1945年1月30日、バルト海でナチス.ドイツの誇る豪華客船ビルヘルム
-
グストロフ號をS-13から發射した魚雷で擊沈した。90年に當時のゴルバチョフ大統領は、マリネスコにソ連英雄の稱號を贈った。勤務したクロンシュタットには彼の記念像もできた。
だが、一方でグストロフ -
は、ナチス.ドイツの將兵のほか、迫りくる赤軍の進行から逃げだそうとする舊ドイツ領の一般市民も乘せており、攻擊で出た9000人以上の死者の多くもそうした人人だった。
日本で2003年に飜譯が出たドイツのノ - ベル賞作家ギュンタ-
,グラス氏の小說「蟹の橫步き」は、その攻擊の非人道的な側面を取り上げ、大きな反響を呼んだ。
マリネスコの記念像の寫眞展示を地元の母娘らしい二人が見ていた。果たしてどのくらい彼のことを知っているのだろう。
動亂と革命を果てしなく繰り返してきたロシアの歷史が實にとらえがたいように、クロンシュタットの歷史をあらためて整理し、だれもが納得できる評價を確立するまでには相當な時間がかかりそうに思える。
軍事史博物館を出て敎會の前の廣場に行くと、第1次大戰直前の1913年7月に除幕式が行われたマカロフ提督の巨大な記念碑が立っている。提督を日露戰爭で旅順港の太平洋艦隊に派遣し、後にソビエト政權に處刑された最後の皇帝ニコライ2世も、この除幕式に出席したと碑には書いてある。
ちょうどロシア海軍の水兵たちが記念碑の見物にきていた。みな、若若しい笑顔を見せて說明に聽き入っていたが、クロンシュタット300年の歷史をどうとらえているのか、その表情から推し量るのはむずかしかった。
(朝日新聞 05/01/26 10:08)
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